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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2023年10月06日

「アプリシエイト」し合える場をつくる


『冒険の書 AI時代のアンラーニング』(孫泰蔵 日経BP)

さっき書いたばかりなのですけど、読み進めていたら、どうしてもメモしたくなっちゃったので書きます。

P186 デール・カーネギーの言葉
Give honest,sincere appreciation.
「誠実に、心を込めて、相手の良さを認める」

~~~
彼はこの「アプリシエーション」というキーワードを繰り返し使っています。これは「ある人や物をきちんと理解する」という意味ですが、そこには相手の良いところを理解してほめるというあたたかいまなざしがあります。

動詞の「アプリシエイト appreciate」には「鑑賞する」と「感謝する」という、2つの意味があると書かれています。この言葉は、2つの意味の間に切っても切り離せない密接な関係があることを教えてくれます。

「アプリシエーション」とは、なにかにふれて、わきあがった感情とその感情が生まれるプロセスすべてを指し示す言葉であり、ただそれが「ある(在る)」ということがいかに「ありがたい(在り難い)」ことかという点に意識を向けた態度だと言えるでしょう。

僕は、このアプリシエーションこそが学びを楽しく豊かにするものになるのではないか、そして結果的に学ぶ人にとって最大の励みになるのではないかと思うのです。

人は誰しも、アプリシエイトされるとうれしくなって、ますますがんばろうという気持ちになります。そしてアプリシエイトした人も、相手を「在り難い」存在だと感じ、ますます親愛と感謝の気持ちを持つようになるでしょう。もし自分がそのような気持ちで相手に接することができれば、きっと相手も自分をアプリシエイトしてくれるはずです。

良い「つくり手」は良い「つかい手」であり、良い「わかり手」であることが多いのは偶然ではありません。多様な存在である人間がお互いに尊敬しあい、高めあい、愛情によって支え合うことによって、私たちの創造はどんどん素晴らしいものになっていくのです。

僕が新しい学びの場をつくるなら、アプリシエーションにあふれた場にしたいと思います。評価という冷たいメスで切り刻み、子どもたちに弱点を意識させて自信を失わせるかわりに、アプリシエーションという尊敬と愛情と感謝を注ぎ、ただみんなの持つ可能性を開花させてあげたい。
~~~

いいですね。
そしてこの章のラストはこう締めくくられる。

~~~
ひとつの基準で結果を評価するかわりに、発想そのものや創造のプロセス全体を愛でるアプリシエーションがあればいい。その姿勢は、成果に対する尊敬はもちろん、それを行った人への愛情と感謝を生む。

アプリシエーションが励みとなって生まれた新たな挑戦がさらなるアプリシエーションを生む。そして、その先に多様な良さを認め合う社会が生まれる。

学びの場は、評価をして自信を失わせる場ではなくお互いが多様なアプリシエーションによって、勇気づけられる場であればいいと僕は心から思った。
~~~

いいですね。
「ともにつくる」の土台には、「アプリシエーション」を位置づけたいなと思いました。  

Posted by ニシダタクジ at 05:57Comments(0)日記

2023年10月05日

「能力」という信仰


『冒険の書 AI時代のアンラーニング』(孫泰蔵 日経BP)

これ、いい本ですねえ。
中学生の授業で1コマ1年間通してみたい内容です。

「遊び」と「学び」や「仕事」はなぜ区別されるようになったのか?が前回。
その前には「子ども」と「大人」が切り離されてしまったことがある。
その根本的な原因には社会の産業化が起こったからであるという。

~~~
産業社会は人々がなにかの専門家になることを求め、なんでもどんどん細分化していきます。そうした性質がこのような線引きをしていくのです。あらゆるものが分業化されるようになると、人々は労働者として専門的な知識や技能を伸ばすこと求められるようになります。

人生のすべてに生産性や効率を求める考えにとらわれた私たちは、お金をかせぎ続けるためにおもしろくもない仕事をして人生の大半を過ごし、将来に不安を感じながら生きています。その厳しい実力主義は当然、学校にも伝わり、ますます「学び」から「遊び」が取り除かれるようになっていったのです。
~~~

おそらくは産業社会への適応とか子どもたちを児童労働から守るとか、そういった大義の中で教育というシステムができていったのだろうけど、近代社会的な産業構造が変わって、「教育」という枠組みそのものをアンラーニングしなきゃいけないのだなと。

さて、第3章に進んで、今日は「能力」の話を。
やっぱりキーワードは「分業」です。

~~~
産業社会の最大の特徴は「分業」です。効率を高めるために仕事をこま切れにし、専門をとことん追求します。実際、工業生産は分業と機械化によってめざましく成長しました。そこで、工場で働く人間も、専門的な知識や技能を伸ばすことが求められるようになりました。そして、人々は「優秀な能力を持つ人は高い給料をもらうことができ、そうでない人は給料が安くて当然だ」と考えるようになったのです。

こうして「能力」は万能な「通貨」のようにみなされるようになり、人々は「能力さえあればなんでもできる」と考えるようになりました。

「なんのために勉強するの?とか言われてもよくわからないし、考えるのもめんどくさいから、とにかく目先の勉強に集中しよう」というのは、思考停止以外のなにものでもありません。

思考停止はかならず「手段の目的化」を生み出します。大学に行く理由は本来、自分が探究したい学問を研究するためであり、大学に入ることは単なる「手段」にすぎないにもかかわらず、今では「いい大学に入ること」そのものが勉強の目的になっています。これを「自己目的化」といいます。

「能力」というのはあくまで「結果論」であり、同じようなことをしている他の人との比較でしかないのです。結果が良ければ「あの人は能力がある」、悪ければ「能力がない」他人と比較して優れていれば「能力の高い優秀な人」劣っていれば「能力の低いイマイチな人」と言っているだけなのです。

人は必ず
行動してみた⇒だから良い結果が出た⇒だから「あの人は能力が高い」と評価される
という順番で評価を組み立てていて、「能力」の有り無しは、結果論と比較論によって生まれた「フィクション(つくりごと)」でしかないにもかかわらず、多くの人々はそのフィクションを実態として存在するものだと信じてしまっているのです。

行動してみた⇒だから良い結果が出た⇒だから「あの人は能力が高い」と評価される
ということは
良い結果が出そうなら行動してみよう←良い結果が出る可能性が高まるだろう←能力を高めれば(信仰)

これは「循環論法」であり、理屈として成立していない。

にもかかわらず、多くの人はそれが理屈としてちゃんと成り立つと考え、「勉強して学力を高めれば、きっといつか報われる」「能力を高めることが幸せになるための唯一の道だ」とかたく信じている。これが、能力信仰の正体なのです。

現代人はまさに「能力教の信者」です。「能力教」は、ひょっとしたらいまや世界最大級の信仰かもしれません。

人間は機械が発達してきたこの200年、工場の生産システムや管理システムの一部に組み込まれて働くうちに自分たちを機械のようなものだと考えるようになった。つまり、これまでは「人間の機械化」が進んだ200年だったんだ。

「機械化した人間」も「成果」で評価されるようになった。だから人間は性能が良くて、壊れなくて、使い勝手が良い存在として、「能力」をアップデートし続けなければならなくなったのか。「リスキニング」なんてまさにそうだ。
~~~

「能力」という信仰。
まさに「信仰」としか言いようがない。

結果論であり、比較でしか位置づけられない「能力」を、実体のあるものとして認識するっていうのは、どう考えてもおかしいのだけどね。

そのスタート地点が「分業」にあるっていうのも、今回あらためて分かったところです。

佐々木俊尚さんは
「レイヤー化する世界」の中で国民国家の神髄は、
「ウチとソトを分ける」ところにあると説きました。
http://hero.niiblo.jp/e483303.html
(参考:自分を「多層化」して生きる 16.12.20)

「分業」と「効率化」
そこから「能力」という信仰も始まっている。

そうだとしたら。「能力」の呪縛から解き放たれるためには、
「分業」と「効率化」というところから、始めなければならないのだと思う。

だから伊藤洋志さんの言う「ナリワイ」の概念や
http://hero.niiblo.jp/e441317.html
(参考:50年間だけの成功モデル 14.6.29)

内山節さんの「共同体」の概念が必要となってくる。
http://hero.niiblo.jp/e490602.html
(参考:豊臣秀吉はなぜ検地、刀狩りを行ったのか? 20.4.26)

そのひとつの方法論として、高校の寮を運営し、
「循環する時間の中にある偶然性を見つけ、ともにつくる、という創造性につなげていく」
っていうことがあるのだと僕は思っています。

阿賀黎明高校の越境入学する生徒たちの寮「緑泉寮」は令和6年度からのスタッフを募集しています。
https://shigoto100.com/2023/09/kawaminato.html  

Posted by ニシダタクジ at 09:38Comments(0)日記

2023年10月03日

「遊び」と「学び」はいつ分かれたのか

いつもの3冊同時読書


『行動経済学が最強の学問である』(相良奈美香 SBクリエイティブ)


『コモンの「自治」論』(齋藤幸平・松本卓也 集英社シリーズ・コモン)


『冒険の書-AI時代のアンラーニング』(孫泰蔵 日経BP)

なんか、今の僕っぽい感じで面白い。
1章ずつ、3冊をまわり読んでいます。

今日は『冒険の書』からの一節を。

~~~P104より
遊びと学びはもともとシームレスにつながっているのに、近代以降、「遊び」と「学び」はまったく別のものとして区別されてしまいました。そして、それが「学び」を貧しいものにしてしまったという気がしてなりません。逆に言えば、「遊び」が持つ素晴らしい可能性がしぼんでしまったとも言えます。

本来、「遊び」と「学び」と「働き」はひとつのものだったのに、それらがまったく別のものとして分けられてしまった結果、すべてがつまらなくなってしまったと言えます。

佐伯胖『「わかり方」の研究』(2004)によると
1 社会における「遊び」と「働き」の区別
2 学校における「遊び」と「学び」の区別
3 「自らすすんでする遊び」と「受け身の遊び」の区別

「その休み時間には遊んでよい、というきまりをつくってしまったことに端を発している。それ以来学ぶ(勉強する)ときは遊ばないし、遊ぶときは勉強から解放される、ということで、遊びと学びは真っ二つに分かれてしまった。(前掲書)

「遊びは、新しい学びや創造、発見などをするための本質的な活動であったにもかかわらず、ただの『エンターテイメント消費』になってしまった。」(前掲書)
~~~

いやあ、まさに。
「本気で遊ぶ」ってなんだろう?って思った。
むしろ、「本気で遊びたい人、求む」だよ、と。

さらに、P110暴かれた秘密から。

~~~
「近代以前には『子ども』は存在しなかったということだ。つまり、『子ども』という概念は『発明された』のだよ」

「子ども」の発明とは、大人と子どもの間に線を引かれたことを意味する。同じような分割線は『仕事』と『遊び』の間や、『公』と『私』の間にも引かれていった。そしてこの区別こそが人間の生活を貧しくしたのだ。
~~~

うわー、まさかの。ここで『コモンの自治論』にもつながってきます。
これが読書の面白さですね。

「遊び」と「学び」そして「遊び」と「働き(仕事)」

それがいつ分かれたのか?
近代の最大の発明は、「分ける」ということだったのかもしれない。

だからこそ、僕たちは、学びを再定義すると共に、
「遊び」を再定義していかないといけない。
はたして本当に「遊び」と「学び」の区別に意味があるのか?

むしろ「受動的な遊び」によって、
自分達の疎外、アイデンティティの危機は
拍車がかかっているのではないのか。

そんな問いが生まれてきます。
ひとまず佐伯先生の本を読んでみます。

「遊び」の中に「学び」や「働き」があって、それこそがもっともパワフルな原動力だったはずなのに、近代社会はそれを明確に分けてしまった。

言ってみれば、それは「目的に向かう」「目的に向かわない(向かっているかどうかは事後的に分かる)」
の区別だったのかもしれない。

そういう意味では「受動的な消費」というのは、ある意味「目的に向かっている」ことなのかもしれません。

その中にあるささやかな「予測不可能性」を楽しみに、エンターテイメントを消費している。その枠組みこそが、「生きてる感」というか「存在」を失わせているような気もする。

「本気の遊び」を取り戻すこと。それを大人がこのフィールドでまず始めること。そこからしか始まらないなあと。

「本気で遊ぶ」大人を待っています。

※緑泉寮「ハウスマスター」(R6.4~)募集しています。
https://shigoto100.com/2023/09/kawaminato.html  

Posted by ニシダタクジ at 08:34Comments(0)日記

2023年09月22日

「贈与」に気づく「ふりかえり」


「世界は贈与でできている」(近内悠太 ニューズピックスパブリッシング)

読み直しました。
タイムリーな1冊をありがとうございます。

この本の主題は
「贈与」とは何か?
なんですけど、
「学び」とは何か?「本屋」とは何か?について考えさせられます。

冒頭の
「従うべきマニュアルの存在しないこの現代社会を生きるためには、哲学というテクノロジーが必要なのです。」
ってところがまさに!
って思いました。

交換の原理によって覆われた社会で、僕たちはいかに生きるのか?
学ぶとは何か? なんのために「学ぶ」のか?
地域で行うプロジェクトの意味は?
「ふりかえり」で得るものは?

そんな問いに直面します。
キーワードはやっぱり「責任」と「存在」のような気がします。

~~~以下メモ
「自分ができること(CAN)」「自分がやりたいこと(WANT)」「自分が求められていること(社会が求めていること)NEED」の3つ目は、「自分がやらなければならない、と気づくこと(使命感)」から始まっていく。Responsibility(応答可能性⇒責任)っていうのはそこから始まる。

贈与は宛先に届かないかもしれない。あるいは受取人が受け取っていることに気づいてくれないかもしれない。
~~~

いっぱいメモあったのだけど、ひとまずは。

総合的な探究の時間のコンセプトで、「達成と成長」から「発見と変容」へって言っているけど「発見」されるのは「贈与」なのだろうね。それが「学ぶ」ということの意味なのだ、と。言葉を補うなら「贈与」を発見し、贈与する主体へと「変容」すること

たぶんそれが「ふりかえり」や「学び」の意味なのだろう。「機会」という不当に受け取ってしまった「贈与」に気づくこと。

「地域に貢献する人材」を育てる。
その「貢献する」っていうエネルギーはどこから駆動するのか?

それはやはり、「地域の良さを知る」なんかじゃなくて、被贈与者になること。「不当に受け取ってしまった」という自覚を持つことから始まるのだろうと思った。

それに気づく地域学習を設計できるだろうか。  

Posted by ニシダタクジ at 10:03Comments(0)日記

2023年09月16日

「責任」と「生きる」こと


「都市と地方をかきまぜる」(高橋博之 光文社新書 2016年刊)

明日からの「定住じゃない農業」に向けて、読み直し。
先日の只見高校での生徒会との対話で出た「責任」というキーワードにも通じるところがあり、書き留めておきます。

まずキーワードとして出てきたのは、
都市住民たちの「リアリティ(生きる実感)と関係性(つながり)の喪失」
「無常観」:この世に永遠のものなど何一つない。「限り」があるからこそ、「生」は自ら光り輝く。
「共感と参加」:その物の背景にある価値観に「共感」したり、その物の価値を高める物語づくりに「参加」したりすることを求めている

いいですね。これは「都市の20代」や「高校生」に言い換えても同じでしょうね。
そして、ガツンとくるラストの一節を引用。
~~~
消費者は文句を言っているだけで、その問題を解決する側に回ろうとしない。どこまでも他人事である。当事者とは、責任を引き受ける人のことを言う。つまりリスクを負う人のことだ。消費社会では誰もがリスクを背負うことをしないので、問題解決は遠のいていく。

それだけではない。当事者であることを避け続ける私たちは、リアリティを失った。生きるということは常に死ぬリスクを抱えているということに他ならない。だからリスクに目を向けないことは、生きることに向き合わないことに等しい。

リスクを直視すれば、それを回避しようと私たちは考え、行動し、ときに助け合う。それが生きるということだ。つまり私たちは今、「生きているけど生きていない」。だからリアリティを感じられない。そして退屈している。

退屈から逃れるには、リアリティを回復するしかない。つまり自分をとりまく環境や社会に関心を持ち、リスクを知り、それを当事者として引き受ける側に回ることだ。そうすることで私たちは生きるスイッチをオンに切り替えることができる。リアリティを回復する人たちが増えるほど、社会は今より確実によくなる。
~~~

「生きる」ことは無常であり、変化し続けることだ。「コントロール(予測)できる」という前提で構築されたシステム(都市や教育・・・)の中で、僕たちは「生きている」というリアリティを失った。

農村から人が流失し、まずは農村が疲弊したのち、都市はその人たちの購買力を原動力に、ひたすらに「消費社会」と化し、経済が上がっている時はよかったが、その勢いが無くなった今、多くの人が疲弊している。「疲弊している」ばかりではない。文字通り「リアリティ(生きる実感)」を失ったのだ。

その「生きる実感」の喪失と当事者性がリンクしているのではないか?と高橋さんは問いかける。

高校生が当事者性を言葉にすれば「責任」という言葉になるのかもしれない。
高校生も、都市生活者も、多くの若者も、「生きる実感」と「関係性」を必要としている。
だから、「東北食べる通信」のような取り組みに人が集まってくるのではないか、と。

それをデザインできるか。

たぶんそれが、僕の目の前でいま、起こっていることなのだろうと思う。  

Posted by ニシダタクジ at 09:24Comments(0)日記

2023年09月14日

「所属の欲求」が満たされない社会で「ともにつくる」こと



ニッパー型爪切りで知られる三条市・諏訪田製作所にいってきました。
https://www.suwada.co.jp/

OPEN FACTORYというテーマの元、2011年から工場見学を可能に。
2020年からは新社屋を建て、1Fが工場、2Fがショップとレストラン・カフェになっていて、社員はランチ無料なのだそう。
驚いたのは、日中もフリーで工場見学が可能で、ほぼすべての工程をガラス張りで見ることができること。
さらに驚いたのは全体的に若い職人さんが多いのと女性比率が50%を超えていること。


NO FLASHの文字が。

見られていることを前提にすることで、たくさんいいことが起こるな、と。
「OPEN FACTORY(開かれた工場)」というコンセプトは
学校にも、その他組織にも、若い人が働くうえで、かなり重要な条件な気がする。
プロセスをオープンにする、ブラックボックス化しない、ということ。

そんなわけで本日の1冊は、

「学校にプレイフルを取り戻す」(学事出版)

1年ぐらい寝かせてしまいまして、ようやく巻頭対談を読みました。
師匠、上田信行先生の今に会いたかったので。

~~~以下メモ
PDCAからFIDSへ
F feel
I imagine
D do
S share

感じる、考える、つくる、伝えるのスパイラル

自由と制約のバランスにより、創造性の発揮しやすさが変わると考えているからです。人はある程度の制約があったほうが考え始めやすいですが、制約が強すぎては自由な発想は生まれません。

コロナ禍で求められたことは
・世界中の人と協働し正解のない問いを解決する力
・新しい生活に適応し楽しむ姿勢
・試行錯誤しながらも挑戦する心
・新しい社会を創造する力

プログラミングが面白いのは、できるーできないというよりもどうやればできるのか、Howで考えることだと思っています。プログラミングは最初からうまくいくはずがない、というのが気に入ったんです。

予想外の解決策というのは、色々な人たちが試行錯誤していく中に生まれるものなんですね。
~~~
最後のプログラミングの話は、まさにIT業界で起こってきたことですね。
オープンソースでみんなで開発していくほうが解決策が見つかる、ってやつ。

あとは自由と制約のバランスっていうのはまさに、高校の総合的な探究の時間の授業におけるワークシートづくりの観点からもとても大切だなあと。

もう1冊紹介します。


「千年の読書」(三砂慶明 誠文堂新光社)より

~~~以下メモ
私たちはよく「偶然」本と出会います。しかしそれは本当に「偶然」なのでしょうか。

本屋の本棚は、世界にただ一つ、たった一人、その時、その場所をおとずれたあなただけへの招待状です。

「遊ぶように学ぶことは、人生で最高の喜び」(橋本武)

書物はもちろん読まれるたびに変容します。それは我々が経験していく出来事と同じです。偉大な書物はいつまでも生きていて、成長し、我々とともに年を取りますが、決して死にません。時とともに作品は肥沃になり、変容し、そのいっぽうで、面白みのない作品は歴史の傍らを滑りぬけ、消えてゆきます。
~~~

「本屋の本棚という招待状」とてもすてきな表現だなあと。

書物は読まれるたびに変容する。この「書物」と「人」の関係を「プロジェクト」と「人」に置き換えても同じだろうと。

「プロジェクト」と「人」は、相互作用を受けて、それぞれが変容する、変容し続ける。だからこそ、「チューニング」が必要だし「場のチカラ」を活かして、アウトプットには「魔法をかける編集」が必要なのだ。

そして、それこそが「遊び」と「学び」の境界線を溶かした「プレイフル」の源なのではないか、ということ。

この2冊とSUWADAの「OPEN FACTORY」から考えたこと。

「ともにつくる」という阿賀黎明高校魅力化プロジェクトのコンセプト。

それは、言葉を補えば、後ろには、「ともにつくられる」が入るのかもしれない。
そして、「ともにつくる」の前には「プロセス(過程)を」が入るのかもしれない。

いや、それは僕にとっての補う言葉で、「ともにつくる」という言葉は問いになっていて。「何を(ともにつくり)」「(結果)どうなるのか}というのをそれぞれの人が考え続けていくこと、なのかもしれない。

そして、「ともにつくる」が起こっているときに、人は「存在」を感じられるのかもしれないという仮説を僕は持っている。

マズローの欲求5段階説である「生理的欲求」「安全の欲求」「社会的欲求」「承認欲求」「自己実現の欲求」のうちの3段階目「社会的欲求(集団への帰属や愛情を求める欲求)」がごそっと抜け落ちてしまった社会を僕たちは生きていて。SNSや自己啓発本、教育商材ビジネスによって、「承認欲求」と「自己実現の欲求」が肥大化してしまっている。

そのピラミッドは安定が悪いから、倒れてしまう。

しかしながら、その解決策として、「帰属や愛情を求める欲求を満たす」という方向に行ける人は少数派だろうと思う。僕たちはひとりひとりもう浮遊しちゃっているから。たとえば「家族みたいな会社」に入れる人は少なく、またその環境に適応できる人ばかりでもないだろう。

僕の仮説は「ともにつくる」ことによるアイデンティティ形成だ。
場にフォーカスし、場のチカラを高め、場を主語にして、何かを生み出していく(つくる)。

そのときに大切なのが「構想」と「実行」を分離させないこと。意志決定、プロトタイプ(試作)づくりといった、プロセスに参加・参画していくこと。

その「つくっている」プロセスの瞬間瞬間に、ひとりひとりが「存在」を感じられるし、生み出した成果(つくったもの)に自分も参加(貢献)できたという自覚が、自分自身の「存在」を許すのではないかと思っている。

「緑泉寮ハウスマスター」は、高校生の暮らしを支える3年間限定の仕事。

暮らしにはゴールが無い。
夜が来れば朝が来る。冬が終われば春が来る。
そんな「循環する時間」を「ともにつくる」3年間。

ゴールが無ければ、唯一の答えがない。
ひとりひとりの様子を見て、関係性を感じて、その場がつくっていく時間。

「所属の欲求」が満たされない社会で「ともにつくる」こと。
「暮らしをつくる」とともに「自分自身をつくる」こと。
そんな場を育んでいきたいと思っています。

令和6年度から緑泉寮を「ともにつくる」仲間を募集しています。
https://shigoto100.com/2023/09/kawaminato.html

  

Posted by ニシダタクジ at 06:15Comments(0)日記

2023年08月31日

「アンケート」と「インタビュー」


「フィールドワーク増訂版 書を持って街へ出よう」(佐藤郁哉 新曜社)

プロジェクト学習を進める上での違和感として、「アンケート」と「インタビュー」の手法の違いが挙げられて、調査=アンケートみたいな方法論に対して、そこにどんな意味があるのか?と思った。

すでに問いに対する仮説があって、検証する方法としてのアンケートはいいのかもしれないけど、その仮説や問いを見つけ出すためのアンケートなど存在するのだろうか?

仮説が分かっていない段階で、行うべきはインタビューだと思う。そこで出た言葉や表情に違和感をキャッチして、問いをつかむ。問いにまでいかなあくてもキーワードを掴み、さらに文献を調べたりインタビューをしたりする。そうして問いにたどりつく、の繰り返しだろうと思う。

僕自身が本屋をやっていたときに、「やりたいことがわからない」「自分に自信がない」という大学生が多数来店し、その悩みを話していった。それは、僕の中での大きな違和感だったのだけど、「孤独と不安のレッスン」(鴻上尚史 だいわ文庫)をはじめとする読書を通して、そのメカニズムを自分なりに解釈していった。それは僕的に言えば(自分が出ていったわけではないけど)フィールドワークと呼べるだろうし、その後実際に大学職員となって国立大学へ潜入(?)し、大学のメカニズムを解き明かそうともした。

それを人類学的なアプローチだと思っていたのだけど、そのフィールドワークとはそもそも何か?を解説したのがこの本の第1章

~~~以下引用

「フィールドワーク・ルネッサンス」

量的調査=科学的研究法の時代を経て、質的(定性的)研究法と呼ばれるアプローチ全体に対する再評価が起こってきたのが1970年代。

・「科学」的な思考法と研究法、特に「実証主義」と呼ばれるアプローチに対する異議申し立て
・西洋中心の思考方式や世界観あるいは「近代」や「合理性」「理性」についての真剣な問いかけ、および、その問いかけの根拠として人類学的な異文化研究がもつ重要性の再評価
・「ドラマ」「テクスト」「レトリック」といった人文系の学問で使われる発想の社会科学系の学問分野への応用と、それに伴う「分析」から「解釈」への力点のシフト
・「感じられる世界」「生きられる世界」と身体性に関する関心の増大
~~~

ここで出てくる

定性的調査(質的調査)と定量的調査(量的調査)について

フィールドワーク=質的調査の代表

質的調査:深く狭く調べるアプローチ
量的調査:浅く広く調べるアプローチ
P79にその対比が書かれているけど、なかなか面白いなと。

じゃあ今日、「地域の(自分が共感しうる)課題を発見するために、取るべきアプロ―チとしては、圧倒的に質的調査なのだろうと思う。

今の自分だけの問いに出会うこと。それが出発点だと思う。

だからこそ、高校生は数十件の「アンケート」をとるよりも、数件のインタビューをしてほしいと思う。インタビューからキャッチした違和感を問いにつなげる、問いから仮説をつくる、仮説から実践を行う。

そのようなプロセスを踏んでいくこと、その出発点にフィールドワークとしてのインタビューがあり、現場体験があると思う。

この
フィールドワーク(たとえばインタビュー)⇒違和感のキャッチ⇒言語化⇒問い

この3つの矢印をどう進めるか、がすごく課題なんだよね。  

Posted by ニシダタクジ at 07:35Comments(0)日記

2023年08月30日

「余白」と「委ねる」と「ともにつくる」


「今こそ名著 茶の本 日本の覚醒 矜持の深奥」(岡倉天心 道添進編訳 日本能率マネジメントセンター)

茨城大学で岡倉天心先生に出会い、2016年には国際岡倉天心シンポジウムにおいて、サザコーヒー×学生プロジェクトを担当しました西田卓司です。


プロジェクトメンバーとの1枚

まずは「茶の本」の第4章 茶室より
~~~
茶室=「すきや」と呼ばれ、「好き家」という漢字が当てられていた。のちになって、宗匠たちが、茶室についてそれぞれ思うところをもとに、いろいろな感じに置き換えた。たとえば「空き家」、つまりからっぽの家とした。また「数寄屋」、すなわち非対称の小屋という意味に取ることできるものもある。

「空き屋」という名称には、空虚であるからこそすべてのものを内包できるという意味に取ることができる。

「数寄屋」は、完成したらいったいどんな姿になるんだろうという想像力をかきたてるために、わざと未完成な部分を残すという精神を象徴している。

「数寄屋」とは、非対称の家ということだ。この呼び方は日本における装飾の原理のもう一つの特性を物語っている。

道教と禅の哲学は、ダイナミックな性格を持っている。両者にとっては、完全そのものよりも、完全を求める過程を重視した。真の美とは、不完全なものを完全にしようとする精神の動きの中に見られるものだ。人生にせよ、芸術にせよ、まだまだ完成に向けてのびしろがあればこそ、それは生き生きとしてくるものなのだ。

全体の中でおのおのどういう役割を演じれば、すべてが効果的に仕上がるのか。茶室では、それが客人ひとりひとりの想像力に委ねられるのである。

対称性というのは、完全の表現であるだけではない。そこには繰り返しの表現も現れる。こうした意匠の画一性は、生き生きと想像力を働かせるうえで、致命的と見なされたのだ。
~~~

「永久の未完成、これ完成である」っていうのは宮沢賢治が約100年前に言っていたけど、それはそもそも道教や禅といったところから来ているのか。

そしてそれが建物の「非対称性」にも関連してくるとは。
さらに言えば、まさに茶室に置いては主人と客人が「ともにつくる」場となっていたのだった。
これはすごい。

さらに第5章 芸術を愛でる心 より

~~~
「琴は弾くのではなく、琴に歌わせる」

道教徒の「琴馴らし」の寓話

仙人が真の森の王ともいうべき桐から琴をつくったが、どんな名人でも鳴らすことができなかった。琴はどんな名人も拒絶したのだった。

そこに現れたのが琴の王子、伯牙だった。彼は荒馬をなだめるように優しく琴をなでると、そっと弦に触れた。そしておもむろに、歌を歌いはじめた。すると、桐の木の記憶が一気に目覚め、音を鳴らしたのだという。

皇帝は伯牙に尋ねた。「いったい、この素晴らしい演奏の秘儀はどういうものか」

伯牙は答えた。
「陛下、ほかの方々は自分のことばかり歌おうとなさいました。だから失敗したのです。私はそうではなく、何を歌うかは琴に任せました。そうこうするうちに、琴が伯牙か、伯牙が琴か、自分でもわからなくなってしまいました。」

「傑作は私たち自身の中にある」

この逸話は、芸術鑑賞の神秘を解き明かしてくれる。傑作というものは、私たちのうちに潜む最も美しいものに感応する、いわば交響楽なのである。

すなわち本当の芸術とは伯牙のことであり、鑑賞者である私たちは琴だ。魔力を帯びた美の手並みに触れられると、私たちの心の中にある隠れた琴線は目覚める。そして、呼びかけに応じていくにつれ、うち震え、感動する。

心は心に語りかける。私たちは声なき声に耳を傾け、目に見えないものを見つめる。すると、名手の手によって、私たち自身さえ知らなかった奥深い調べが呼び覚まされるのである。
~~~

なんとなんと。
これ、「ともにつくる」場のチカラの解説になっている気がする。

プロジェクトによる「まなび」ってこういうことなのではないか。

自分たちの中の、あるいは地域に眠る奥深い調べが呼び覚まされる。

そんな経験ができたら、川喜田二郎先生のいう「ふるさと」が創出されていくのではないか、と思う。

「余白」「委ねる」「ともにつくる」
それはプロジェクトによるまなびによって実現できるのではないか、そして、それこそがアートなのでは、と感じた1冊でした。  

Posted by ニシダタクジ at 08:29Comments(0)日記

2023年08月28日

知性は集団に宿る


「解像度を上げる」(馬田隆明 英知出版)

第4章 課題の解像度を上げる「深さ」よりメモ

~~~
課題以上の価値は生まれない

良い課題の3条件
1 大きな課題である
2 合理的なコストで、現在解決しうる課題である。
3 実績をつくれる小さな課題に分けられる

課題の大きさ=課題の強度×課題の頻度

症状ではなく病因に注目する
内化(読む、聞く)と外化(書く、話す、発表する)を繰り返すことで深めていく

「内化」
・サーベイをする
・インタビューをする
・現場に没入する
・個に迫る

書くことで私たちは考えることができる。

インタビュー:相手の物語を綴る
アンケート<インタビュー
~~~

なるほど~。
これは探究とかプロジェクトでも同じですね。
アンケートじゃなくインタビューしないとね。

第5章 課題の解像度を上げる「広さ」「構造」「時間」より

~~~
「広さ」の視点で解像度を上げる
・前提を疑う
・視座を変える(視座を高くする、相手の視座に立つ、未来の視座に立つ、レンズを使い分ける、視座を激しく行き来する)
・体験する(競合製品を使い倒す、旅で新たなキーワードに出会う)
・人と話す
・あらためて深める場所を決める

「構造」の視点で、課題の解像度を上げる
・分ける(切り口を工夫する、具体的な行動や解決策が見えるまで分ける)
・比べる(抽象度を合わせる、大きさを比べる、重みを比べる、視覚化して比べやすくする、分け方を見直す)
・関係づける(グループ化する、並べる、つながりを見る、システムを把握するシステムのどこに介入すべきか見極める、より大きなシステムの影響を意識する、図にすると関係性が見えてくる、アナロジーで新しい関係性を見つける)
~~~

なるほど~アナロジーね。
「進化思考」とか、まさにそれですよね。

思考を構造化している本。
おもしろいなと。
どう応用できるか。  

Posted by ニシダタクジ at 12:06Comments(0)日記

2023年08月27日

偶然から始まる「物語」を生きる

昨日は地域みらい留学合同説明会でした。最近は合同説明会の参加者がまったく集まらなくて、昨日も10名くらいは入ってきたけど、最終的には5名くらいになっていたようです。

合同説明会から高校別説明会にはつながらないので、ほぼ、自分の話をしていました。テーマは「挑戦するな、実験しよう」で、寮、風舟、公営塾を「実験室」と呼びました。ラストメッセージは、人生の転機となる「偶然」をキャッチできるできるように「実験しよう」でした。

他の高校を見ていて思ったのは、合同説明会で話すべきは、寮や町のスペック、高校生のリアルな声などではないのではないか。6分間で自分は何者でどこに向かっているのか、を話したほうがいいのでは、ということです。
「ヒト」を基準にしているから、首都圏じゃなくて、地域みらい留学するとしたら、その「ヒト」をまずは知ってもらうこと。それが高校探しのフックになっている、ということではないでしょうか。せめて1枚演者の自己紹介スライドを入れてほしいなと思います。

ということで、読書日記。


「偶然を生きる」(冲方丁 角川新書)
昨日の「偶然」つながりでこの本を。


~~~
経験の分類
1 直接的な経験:五感と時間感覚です。
2 間接的な経験:これは社会的な経験とも言えます
3 神話的な経験:超越的な経験であり、実証不能なものがほとんどです。
4 人工的な経験:物語を生み出す力の源です。

第四の経験(人工的な経験)はどのように生まれたのでしょうか。

ものごとを理解する手法として、人間はまず因果関係というものを認識しました。ものごとの順序の認識です。そしてそれと並行するように数字というものを発明していきました。さらには、文字を発明して、文章、段落というものをつくり上げていきました。

数の概念と段落の概念が組み合わさって別の技術が生まれました。それが「組み換え」です。複数の文章を並べて何番目と何番目を組み替えたとき、それによって違う意味が生まれることを知ったのです。

あるモノや考えが生まれて広まるとき、そこには必ず、それまでにはなかった架空の物語が存在し、その物語の力によってモノや考えが広まっていくのです。

人間に物語の力をもたらす第四の人工的な経験は、文章と密接な関係があります。そして文章を用いる限り、常に未来に向かってベクトルを放っているのです。
~~~

なるほど。まずは文章(物語)の力について。
文章を世界を変え得る。というより、世界を変えてきたのは物語の力だったのですね。

つぎに「報酬」について

~~~
報酬が動機付けとなり、人と社会を動かすのです。報酬は、偶然と必然というものを補強するための道具だとも言えます。これだけ働けばこれだけの報酬を得られるという保証(必然)のもと、個人の時間を第二の経験である社会の目盛りに捧げさせるのです。

社会を発達させていくためには第二の経験に自分を捧げなければならない。個人の経験を追求したいにもかかわらず、社会や他者のため、違う要求に応じて働かなければならなくなります。それがルーティンワークであったり重労働であればだれでも拒絶したいのですが、それを続けさせるのが報酬です。

労働の対価として報酬があり、その使い道を社会が用意します。ひと昔前の日本でいえば、マイホームには夢があるといって巨大な投資先を与え、ローンを組ませてしまう。そうなるともう報酬を得ていなければ成り立たなくなる状態になる。そのような国家的な施策はさまざまなかたちで繰り返されてきました。
~~~

なるほど。
それが「報酬」か。システムがどのように出来上がっていったのかよくわかります。

そして。ようやく来たサイコロとRPGの話を
~~~
RPG(ロールプレイングゲーム)は、サイコロが果たす要素を複雑化させていき、一定の確率で必ずクリアできるように調整しています。どのように調整しているかといえば、ある偶然性を何度も経験するたび、その偶然性が無視できる状態になるのです。つまりレベルが上がっていけば、弱い敵はどんどん倒せるようになっていきます。遭遇する困難と戦っていくうちに、困難が困難ではなくなっていくシステムが導入されたのです。

人間は、サイコロにリアリティを感じます。それを振ることによって、本当に起きているかのような感覚を抱きます。それは人間の原始的な認識の様式なのだと思います。偶然起こったものごとを自分自身の一部であると認識して受け入れる。

神秘体験に接するのと同じで、それが必然なのだと考えてしまう。シンクロニシティの中に自分はいるのだという世界との一体感に関わることです。
~~~

なるほど。
RPG(ロールプレイングゲーム)でいう「レベルが上がる」とは、弱い敵との勝負の偶然性が無視できる状態になる(必ず勝てる)ということ、か。

目の前に来たものを運命(偶然)だと感じること。
まさに自分自身の一部であると認識すること。
こういうことってあるだろうなと。

「挑戦」と「実験」をいったり来たりすること。

いや、本当は「挑戦」だって大きな「実験」の一部なのだと思います。「挑戦」に対して、単に「成功」や「失敗」で終わらせるのではなく、ふりかえりをして機会(偶然)に変えていくこと。

そういうことなのだろうなと。そして、高校生と一緒につくりたいものは、そういう「偶然」という機会からともに学ぶ、もっと言えば「ともにつくる」ことなのだろうと思います。

中学生たちへ、挑戦するな、実験しよう。  

Posted by ニシダタクジ at 08:38Comments(0)日記

2023年08月24日

ニーズの奥にインサイトがある


「THINK EDIT」(野口孝仁 日経BP)

サラッと読めそうな編集思考の本。
メモします。

雑誌編集者ならではの「いま」の切り取り方が面白いなと。

~~~
編集思考(特集タイトルを決める)
1 ネタを持ち寄る=キーワード
2 たくさん語り合う=エピソード
3 共感ポイント=ニーズ
4 新しい価値=インサイト
⇒特集タイトル
~~~

このニーズからインサイトっていうところがポイントなんでしょうね。
そのためには2のエピソードをたくさん出すっていうのも大切になってきます。

そのニーズ⇒インサイトにも5つの方法があると著者は言います。
1 人物編み 人物にフォーカスしてインサイトを想像する
2 場所編み 所在地や席の配置など空間にフォーカスして想像する
3 時間編み 時代をさかのぼったり、深夜の、など時間を変えたりして想像する
4 対比編み 対になるものにフォーカスして想像する 喫茶店⇒居酒屋
5 異素材編み 関係のない視点から想像する
~~~

なるほど。
ニーズからのインサイトの発見。
これがカギですね。
  

Posted by ニシダタクジ at 14:27Comments(0)日記

2023年08月18日

「創発」を生みやすい土づくり

昨日に引き続きこの本から。


「ひとりの妄想で未来は変わる VISION DRIVEN INNOVATION」(佐宗 邦威  日経BP)

P70 創発を生みやすい土づくり

~~~
「創発」とは、複雑系の理論に使われる言葉で、1+1>2というよぅに、多様な要素が集まることでそれ以上の結果を生むことを指す。外との交差点に多様な生き物が交差する場と間をつくることに成功したら、次は継続的に新たなものが生まれてくる文化をつくる段階だ。この創造文化づくりは、農業における土づくりにたとえるとわかりやすい。有機農業において、土の中にいる多様な菌の栄養素がその後、何年間も収穫量に影響するように、場に創造のための栄養を蓄えておくことは、創発の起こりやすさや持続性を左右する。
~~~

イノベーションの現場における「土づくり」で押さえておくポイント
1 関係性をいかにデザインするか
2 創発したくなる環境をいかにデザインするか
3 コミュニティをデザインするリーダーシップをどう発揮するか

~~~
1 関係性をいかにデザインするか
ダニエル・キム「組織の成功循環モデル」:関係の質⇒思考の質⇒行動の質⇒結果の質
★個人の偏愛を開示する。
好きなものをつくってもいい+心理的安全性
⇒とりあえず話してみる、仮説をつくってみる。
⇒誰かに会ってみようとかプロトタイプをつくるとかの行動が起こる
⇒行動が成果につながるというサイクルをつくる
★誰かが話したことに「乗っかる」マインドセット
★チェックイン・チェックアウトが有効

2 創発したくなる環境をいかにデザインするか
★リラックスした環境をつくるために:五感を刺激する環境(音楽・オブジェクト・お菓子)
★その場の即興の会話を知的生産に変えるために:ホワイトボードや付箋など
★フラットな会話を生み出すために:イスやテーブルの並べ方
★一人ひとりが本音で話しやすくするために:グループサイズは3~4人程度を基本単位とする

3 コミュニティをデザインするリーダーシップをどう発揮するか
★ゆるいノリのリーダーシップ:あえて決めすぎない。しっかりしすぎず、少し抜けているくらいのほうが、周囲が助けてくれるため、結果として場自体が活性化する。
★人と人をつなぐことを楽しそうにしていること:外部からやってきたゲストが気持ちよく過ごせるようにつなぐ。

自分は答えをもっていないが、答えは正しい人が正しいプロセスを議論をすることで生まれてくると信じて、自分もチームも答えを知らない「探求型の問いかけ」により、チームの思考の質を上げていける人
~~~

「土づくり」。
まさに、という感じですね。
高校魅力化文脈でも「まなびの土壌づくり」って言ってましたもんね。

ビジネスの分野だけじゃなく、イノベーションを必要とするすべての仕事(これは多くの現場が当てはまる)に、この土づくりが必要なのだと思う。まず変えていくのはミーティングなのだろうなと。
  

Posted by ニシダタクジ at 08:57Comments(0)日記

2023年08月15日

自分を「定位」する地図


「つくるひとになるために~若き建築家と思想家の往復書簡」(光嶋裕介 青木真平 灯光舎)

読み始めました。
LETTER#1「自分の地図をつくる」から。

~~~
自分を確かな存在として確認する、もしくは今どこにいるのかを定位するためにコツコツとつくってきたはずの「自分の地図」の効力に疑問を感じています。

自分の思考の痕跡として、また生きる哲学として、自分のバラバラな認識や価値観を柔軟でしなやかなものとしてきちんと動きの中で確認するための地図を更新していきたい。今の生きづらさから逃れるためには自分なりの地図が必要なのです。

この地図は目に見えません。いや、見えないからこそ、考えて、書き換えていくことができる。ずっと不完全なんだと思います。そして地図をちゃんと手入れすることで、自分が今どこにいるのかということと、これからどこへ向かえばいいのかが、おぼろげながらも見えてくることが大事なんだと思います。

さらには、この地図は「完成しない」ということが何より重要だと僕は思っています。世界が動き続けていて、自分も変化していくためには、何事も「途上」であるという感覚を毎日の生活の中で大切にしたい。だって世界は動き続けていて、僕たちの道しるべとしての地図もまた常に揺らぎの中から書き換えられることで、生成されていくのですから。

そうした常識にとらわれない自由というものを他者との偶然性に身を委ねることで発見したいと思っています。

僕たちは日々の生活の中にわかりやすい意味を見つけ、ついそこに執着して因果関係をはっきりさせることでさらに思考する可能性を逆に排除してしまっていないでしょうか。一意的なもののとらえ方からすると、余白は単なる無駄なものでしかない。世界のわからなさをもっと謙虚に受け入れて、むしろ、そのわからなさにどっぷり身を浸して楽しむくらいのゆとり、それこそ遊び(余白)をもって世界と関わりたい。言い換えると、充分に頭で考えたあとは、因果関係による理由など手放して、直感的に偶然性を志向するのどうでしょうか。

自分の中の多くの他者を発見しながら、しなやかに変容し続ける世界といかに混ざり合うか。大きく豊かな生態系の一部であることを存分に味わう視点を見つけなくてはいけないように思えてならないのです。
~~~

「地図」「途上」「偶然性」「余白」
キーワードひとつひとつが、なんかしっくりきます。
そしてなによりも「自分を定位する」地図というキーワード。

新型コロナウイルスが全世界を覆った(ように見えた)3年間で僕たちが失ったもの。
それは「(予測可能な)未来」であった。
もっと言えば「未来が明治以来のフィクション」だと知った。
「目標」の意味や価値が劇的に減少していることを実感した。

だから、僕たちは「漂流している」(ように感じる)
それは、「自分を定位する」ための地図の時間的なタテ軸を失ったからではないのか。

「目的・目標という未来というフィクション」に替わるフィクションを必要としてるのではないか。

「麒麟山米づくり大学」
https://komeuniv.jp/
https://www.instagram.com/komeuniv_kirinzan/
https://note.com/komeuniv/

の取り組みは、受講生・参加者にとって
地元産米100%でつくる酒造りを「接いでいく」というヨコ軸と
180年の伝統ある酒蔵を「継いでいく」というタテ軸という
タテヨコの軸に「自分を定位する」試みであるとも言えると思う。

予測不可能な未来へ向かうベクトルとしての自分と、
他者との関係の中で浮かび上がっていく関係性としての自分。

そこにある偶然性に「身を委ねる」こと。
そんな曖昧な地図を更新し続けること。
変容する世界としなやかに対峙していくこと。

そんな目に見えない地図を、地図づくりを、ひとりひとりが必要としているのだろう。  

Posted by ニシダタクジ at 06:55Comments(0)日記

2023年08月05日

「名詞」という固定概念を破る


「コンセプトの教科書」(細田高広 ダイヤモンド社)

エッセンスに詰まった1冊です。

第2章 コンセプトを導く「問い」のつくり方
~~~ここから引用

名詞で発想を始めた瞬間に、固定観念に縛られることを自覚するべきでしょう。というのも名前こそが固定観念の正体だからです。

「名詞ではなく動詞」をデザインするべきだ」

行動に焦点を当てることで、既存のパラダイムから解放されるというのです。

名詞の問い:新しいコップをデザインするのは?
動詞の問い:水を運ぶ新しい方法をデザインするなら?

コップを「水を運ぶ」へ。スクールバスを「通学する」へ。問いを名詞から動詞へと置き換えると、自ずと問いの中心がモノからヒトにスライドします。21世紀以降、人間を中心としたデザインの大切さが語られてきましたが、それを叶えるための具体的な方法のひとつが動詞を問うということなのです。

自動車会社が「モビリティカンパニー」を名乗るのも自動車というモノではなく人類が「移動する」ことの可能性を問うこと

★アップルコンピュータ―は2007年にアップルへの社名変更
★ナイキ:ランニングシューズをつくっている⇒「ランニング」そのものの未来を問う⇒Nike+
★タニタ:体重計⇒「健康的にやせる」には?

つくろうとするものごとの名詞を動詞に置き換える。その動詞の持つ意味の未来を問う。それが固定観念に縛られない発想のつくり方なんです。
~~~ここまで引用

名詞から動詞へ。
これ、高校生の授業でも入口づくりとしていいなと思った。

「わたしのすきなもの」を名詞で出してもらって、
それをグループで動詞化していく。

たとえば、音楽が好き
⇒演奏するのが好きなのか?運動しながら聞くのが好きなのか?
そのシーンを具体的にしていくことで、その人自身が見えてくるし、動詞にすることで、その人自身がメタ認知される。
「アイデンティティ」ってそうやって解像度が上がっていくのかもしれない。

「わたしのすきなもの」からニックネームをつくるときも、
〇〇する△△っていう定型にするのもいいかもしれない。

結局、アイデンティティってコンセプトなんだよね。
コンセプトは、スピノザ的に言えば「コナトゥス」だし、いわゆる「あり方」っていうかBeの肩書きというか。

就活生にも、高校3年生にもおすすめの1冊です。  

Posted by ニシダタクジ at 08:01Comments(0)日記

2023年07月19日

「地図」を渡す


「THE FORMAT~文章力ゼロでも書ける究極の型」(石倉秀明 サンマーク出版)

ほぼスキル向上のための読書日記。

~~~以下メモ
・仕事の文章は同じ目的へと導く地図である。
・わかりやすい地図に必要なのは
  今いるところ⇒現状報告
  行き先⇒目的
  かかる時間⇒締め切り
  目印⇒論点、気をつけること
  予想される注意点⇒メリット、デメリット

・確実に伝わる万能フォーマット
この文章を何のために書くのか
この文章を誰が読むのか
今日、相談したいこと
現状はこうなっています
問題はこれです
こういう対策をしようと思ってます
判断してほしいこと
いつまでに返事が欲しいか

アイデアを出すための会議資料
・今日の会議のゴール
 販促イベントの目的とゴールの決定
 イベントイメージ
 達成の十分条件
 イベントの内容と方針
 タイムスケジュール
 予算
 担当決め
 次回打ち合わせ日程
~~~

なるほど。
会議は小さな舟旅、なのかもしれない。  

Posted by ニシダタクジ at 16:22Comments(0)

2023年07月15日

「水平的多様化(アイデンティティ形成)」を阻害する学校システム


「教育は何を評価してきたのか」(本田由紀 岩波新書)

「学級の歴史学」と合わせて読みたい1冊。すごい怖い本です。ホラーです。

そもそもメリトクラシー=日本語訳で「能力主義」という言葉に込められた呪いみたいなものの出発点からしてヤバいなと。メリトとは「能力」なのか?という問いから。

~~~以下引用
英語のメリト(merit)の意味は英和辞典で調べると、(称賛に値する)価値、長所、取りえ、美点、手柄、勲功、功績、功労、(請求の)実態、本案といった訳語が並んでいる。ここには「能力」は含まれていない。

つまり、「メリト」は、一般的な語義としても、本来「能力」とイコールではない言葉なのだ。それにもかかわらず、日本では「メリトクラシー」に「能力主義」という言葉が当てはめられている。
~~~

P41にメリトクラシー意識の国際比較が載っていて、興味深い。
「努力:努力する人は報われる」
「能力:知的能力や技能のある人が報われる」
「教育:給与を決めるときに重視されるべきこと:教育や研修を受けた年数の長さ」

ほとんどの国では
「教育」⇒「能力」⇒「努力」というように肯定度が推移しているが日本の場合だけ「教育」が極端に低く、最下位となっている。日本では「教育」よりも「能力」が重視されているという認識なのだ。これはつまり、職場で言えば「業績」よりも「(もともとの)能力」によって給与は変わるべきだ、ということである。

このような状況の中で、日本の学校現場における「能力」「資質」「態度」という言葉の使われ方から、本田さんは現在の閉塞感を読み解く。

~~~終章から引用
日本における人間の「望ましさ」に関する考え方は「垂直的序列化」と「水平的画一化」の独特な組み合わせを特徴とするシステム構造となっている

垂直的序列化は、相対的で一元的な「能力」に基づく選抜・選別・格づけを意味している。

「学力」=従来から存在する知的で汎用的な学校的な「能力」=日本型メリトクラシー
「生きる力」「人間力」=コミュニケーション力など、新たに重要とされた知的側面以外の「能力」=ハイパーメリトクラシー

水平的画一化は、特定のふるまい方や考え方を全体に要請する圧力を意味している。これは具体的には、顕在的、潜在的な「教化」の形をとる。水平的画一化と不可分な言葉は、「態度」および「資質」である。現在の現場で起こっている水平的画一化を「ハイパー教化」と呼ぶ。

垂直的序列化は、その逆説的帰結として、「能力」の絶対水準の高度化と上位への圧縮をもたらす。なぜなら、連続変数としての性格を持つ垂直的序列化は、その縦の目盛り上でできるだけ高い位置につこうとする行為を人々の中に生み出すからである。ただし、どれほど絶対水準が上昇しようとも、相対的な差異に基づく垂直的序列化は、下位として位置づけられる層を、必ず生み出す。

水平的画一化もまた、その逆説的帰結として一定層の排除をもたらす。なぜなら、イチかゼロかの二値の性質を持つ水平的画一化は、マジョリティにイチであることを要請するが、少しでもイチでない存在をゼロとみなし否定的に扱う力学を含むからである。

これら垂直的序列化と水平的画一化の支配のもとで、過少になっているのが水平的多様化である。

垂直的序列化と水平的画一化の過剰、水平的多様化の過少という、人間の「望ましさ」に関する日本の特徴的な構造は、変化に対する社会と個人の柔軟な適応を阻害する。なぜなら過剰になっている垂直的序列化および水平的画一化という二つの力学は、いずれも「他の可能性」を排除するように機能する傾向があるからである。
~~~

いやあ。
こわい。

「答えのない社会」「VUCAの時代に適応できる人を育てる」みたいなことを言っておきながら、一方で学校環境は、日本型メリトクラシー(能力主義)とハイパーメリトクラシー(非認知能力)という2つの垂直的序列化と、道徳の教科化に代表される水平的画一化を迫られている。

こんな救いのないダブルバインドがあるだろうか。

ラストに、本田さんが語っている、この本を書いた動機が使命感に満ちていて心揺さぶられるので引用する。
P234
~~~
筆者が本書を書きたいと思ったそもそもの動機は、「能力」や「資質」「態度」という言葉が、人間を形容する言葉としてあまりにも日本社会に普及して頻繁に使われ、自明視され、政策や制度にも反映されることにより、人間を縦の序列で比較したり、あるいは特定のふるまい方の基準を満たしていない場合に排除したりするような事態が広く起こっているのではないか、と考えたためである。

(中略)

「能力」「資質」「態度」といった言葉がもちうる弊害を考慮し、使うときにはごく注意して使うこと、あるいはできる限り使わないこと、が、一つの方策となるだろう。あるいは、他者から言われたときには、「それはどんな意味?」「それは本当にあるの?」と問い返したり自問したりするのも有益かもしれない。

そして、「あなたは、私は、誰なのか」を語る別の言葉が必要だろう。

それをここでまだ提案することができない。個々人が、様々な独特の生き方で生きられるようになったときに、それに即して、その人が「誰」なのかを表す多彩な言葉が社会に広がることを望む。
~~~

いいですね、アツいラストですね。
アイデンティティってなんだろう、って問いかけられる。

「多様性」が大切だ。と言っておきながら、(学校/教師/為政者にとって)都合の良い考え方・感じ方を「道徳」の教科化を初めとする「水平的画一化」の手法でまずは一律化し、そこに入れないものは異質として排除する。

その上で、「日本型メリトクラシー」である学力成績と、「ハイパーメリトクラシー」である学力以外の「能力」による垂直的序列化による上下関係で自らを表現させようと仕向ける。

「多様性」、あるいは「存在の承認」を最初から得られないようなシステムになっているのである。

これでは他者からの評価(それもひとりひとりの特徴などでなく、2つの指標で数値的上位にあること)を求めてしまう子どもが量産されてしまうのは無理はない。

なぜ、わが国にイノベーションが起こらないのか?に対する、ひとつの仮説がここに成立している。

「垂直的序列化と水平的画一化の過剰、水平的多様化の過少という、人間の「望ましさ」に関する日本の特徴的な構造は、変化に対する社会と個人の柔軟な適応を阻害する。なぜなら過剰になっている垂直的序列化および水平的画一化という二つの力学は、いずれも「他の可能性」を排除するように機能する傾向があるからである。」

「他の可能性」の排除。

社会そのものが大きく「変化」している時代に、他の可能性を排除し、現時点で確認されている「価値」のみを信じて、あるいは属しているコミュニティ内における「価値」のみを信じて、そこに効率化していくことは、生物的には、全滅するリスクのある危険な行為だと思う。

学校からの逃亡の意味は、ここにあるのではないか。このままでは全滅しちゃう。だから脱走(脱藩?)しなければならない。

これは水平的多様化、つまり個人のアイデンティティ形成にとっても大きな話だと思う。

自らの存在自体が「他の可能性」であること。
たぶんそれを伝えたくて、「場のチカラ」や「機会から学ぶ」と言ってきたんだろうな、と。

本田さんのラストのメッセージ

~~~
そして、「あなたは、私は、誰なのか」を語る別の言葉が必要だろう。

それをここでまだ提案することができない。個々人が、様々な独特の生き方で生きられるようになったときに、それに即して、その人が「誰」なのかを表す多彩な言葉が社会に広がることを望む。
~~~

これについては、2001年に「感性の哲学」で桑子先生が話している
http://hero.niiblo.jp/e493149.html
(「まなび」と「身体性」 23.6.30)
人間を「履歴を持つ空間における身体の配置」だととらえること。

キーワードは「身体性」と「関係性」なのだろうと僕は思う。もっと身体(≒感じること)を発揮させなければ、個人は個人としてそこに存在することができない。そしてその個人が相互に影響し合う「場」をつくり、その関係性の中で自分を位置づけること。そうやってアイデンティティとは形成されていくのではないだろうか。

垂直的な序列に位置づけられたり、誰かの役に立ってほめられたりすることではなく、そもそもそれ以前に、その場に存在としてあるだけで、その存在こそが「可能性」であると思えること。

そんな場を出発点にしたいと思う。  

Posted by ニシダタクジ at 05:26Comments(0)日記

2023年07月07日

身体的思考


「コンセプトのつくり方」(山田壮夫 朝日新聞出版)

コンセプトって大切ですよね。高校の探究の授業でもコンセプトづくりって大事だなと。
それをどのやってかみ砕いで、実践的に伝えられるかっていうのがテーマでもあります。

この本のキーワードは「身体性の復権」。
まさに、そんなタイムリーなときに来てくれる本たちです。感謝。
一箱古本市@風舟の「きょうはなんにち書店」で買いました。
次回は7月23日(日)。まだ出店受け付けております。
https://kazafune.fun/news/300/

ということで、この本。

~~~以下メモ
イノベーション:
「ひとの行動・習慣・価値観にもう元に戻れないような変化をもたらすモノ・コト」

そもそも「正解」とは、「いまの常識」に従っているだけのこと。いまの常識で一番トクをするのは業界トップなのに、二位の企業も10位も100位もトップと同じ「正しい」戦いをしていたら、いつまでたっても大きな成果など上がるはずもありません。

タテ(マネジメント軸):ビジョンで論理的に管理する
ビジョン‐課題‐コンセプト‐具体策(現実)

ヨコ(コミュニケーション軸):ターゲットの気持ちを動かす
ターゲット‐(課題‐コンセプト)-商品・サービス

参考:SECIモデル
https://www.dodadsj.com/content/230427_seci-model/

「ぐるぐる思考」
1 感じる
2 散らかす
3 発見!
4 磨く

その前に古いサーチライト(常識)を確認する。

1 感じる⇒資料集め:自分のからだの中に「こびとの世界」をつくる

タテ:時代・社会-(課題・解決)-広く競合の商品・サービス
ヨコ:生活者-(課題・解決)-自社の商品・サービス

(課題・解決)に関する資料:一般的資料
それ以外に関する資料:特殊資料
⇒これらをとにかく集める

2 散らかす
4つの軸でこびとをいったりきたりさせる

3 発見!
身体的に取り組んできたコミュニケーション軸が「課題‐コンセプト」でしっかり結びつき、脳みそ(マネジメント軸)でチェックしてもビジョンときちんと符号するものこそが本物のコンセプトです。

課題はコンセプトの発見と同時に確定される

コンセプトはメタファーをつかうと感覚的に分かる。空飛ぶバス、とか。

4 磨くモード
「理解の谷」「習慣の谷」「根気の谷」を越えていく。
~~~

僕がワークショップで目指しているのも、きっとそういう感じの「発見」の瞬間なのだろうと。

・意見に対して拍手をするよりも観察・傾聴してあらたな意見をかぶせたいのは人間はいまこの瞬間に変わり得るからだろう。
・出した付箋をすぐに整理してほしくないのは、脳で考える⇒心で感じるにシフトさせたいからだろう。

もっと身体的に、もっと心で、感じてほしい。
そこから新しい発見と変容を生みたいからだろう。

コロナ禍のオンライン会議やオンラインでのインタビューで、身体性がないからこそ、脳だけで取り出せることができることが分かった。
同時に、ベクトル感のないオンラインイベント(オンライン飲み会とか)が難しいことが分かった。

本屋というのが身体的な場であることもよくわかった。
授業づくりのコンセプトにしてきた「発見と変容」(⇔達成と成長)と「場のチカラ」(個人のチカラ」の解像度が増した。

もっと真剣に「つくる」にフォーカスすること。
ワークショップの瞬間瞬間が、人生における大きな変容である可能性があるのだ。

5日、只見高校「総合的な探究の時間」でアドリブで口から出た言葉。

「世界の変え方が2通りある。ひとつは発明家になること。iPhoneを発明すれば世界は変えられる。もうひとつは、プロジェクトをやること。世界の見え方が変わる。POPづくりのプロジェクトをやれば、これまで素通りしていた道の駅のお土産ものコーナーのPOPを見るようになる。それって世界変わってませんか?」

って。
あ、「政治家になる。っていうのも入れて3つにしておこうかな。」
要するに、環境を変えるか、認知を変えるかっていう話なんですけどね。

「認知を変える」:世界の見え方を変え、身体的に思考し、創造に向かい、発見と変容を繰り返す。

たぶん、僕の手法はそういう感じ。  

Posted by ニシダタクジ at 07:37Comments(0)日記

2023年07月02日

変化のプロセスをともにつくる

福島・楢葉町「結のはじまり」を舞台にした
余白をデザインする新スナック学講座のメモです。

1日目
13:00
〇昼ごはんを食べながらチューニングの時間
・呼ばれたい名前
・出身/住んでいるところ
・昨日の晩御飯
・スナック学でやりたいこと

参加動機はさまざまで、
スナックを開業(副業)したい人や
高校生向けの場づくりをしたい人など。

13:50
〇インタビューワーク
ワークシート「思いの源泉」⇒「やりたいスナック」

この導入ワーク:
「人生の転機」のふせん出しがよかった。
ランダムに転機を出していくっていうの。

「ライフチャート」への違和感の正体が見えた。
・時系列で振り返ることで、毎回同じようなエピソードを書いてしまう。
・エピソードにプラスとマイナスの評価を伴って記載するので、過去の出来事が固定されてしまう。

コネクティング・ドットってそういうことかな、と。
「転機」を編集することで、大切にしたいことが見えてくる気がします。

17:00
〇インタビューワークを終えた後は交代でスナックママ体験。
1ターム25分×2
中間ターム:お客さんからのアドバイス
・自分の定番の自己紹介があるとよい
・話せる人が安心感。そのために来てる
・ここはこういう場所(スタイル)というのを出す
・ハブとなるお客様をいかにひきこめるのか
後半25分×2
終了⇒お風呂⇒飲み会

2日目
8:30
〇昨日のふりかえり⇒ホームチームシェア
「印象に残ったこと、言葉、シーン」

ここで出てきたのが
「スナックママ」という役割と「自分らしさ」のグラデーションについて

~~~以下メモ
・自分ブランディング=わかりやすいキャラ設定・自己紹介ができたらいい
・お客さんが自己紹介するなど「自己開示をする瞬間」があった。
⇒「心に飛び込む自己紹介」を持つこと

・キャラクター設定(衣装でも工夫できる:エプロンの個性&バンダナ巻くとか)
⇒衣装によるキャラクター設定:視覚情報による自己開示=情報量が多いので安心する

一方で
・枠にあてはめちゃう自分でいいのか

・カウンターに入ると別の人になる(外から見ていた感想)

・「結のはじまり」は、20㎝ほどカウンター内が低くなっているので、お客さんと目線が合う
・カウンター内から全体が見渡せるサイズ感
・ライティングの影響もあるかも

・中が見えない重い扉を開ける=中は別世界だし、守られている空間。
⇒社会のルールではないルールの適用
~~~

なるほど。スナックという空間と「自分らしさ」まさに、僕もそういうのを考えたかったのです。

・「役を演じる」と「自分(らしさ)を出す」のグラデーション、というかそういう感じ。
・パブリックとプライベートを行き来するというか。

・スナック=ママがつくる空間=場に合わせる必要がある。
⇒「結のはじまり」という店の名前に込められている空間への祈り

「こういう感じ」みたいな作法がある。
⇒初々しさを失う=今日みたいな素人が入ることで空気が変わる=アマチュアリズム

スナック=誰でもできるビジネス:「素人」と「プロ」の境目があいまい。
⇒参加できる

・自分が不安定になれる場所:「場」「お客」「ママ(マスター)」という3要素を揺さぶること。
・自分から出していく「キャラクター」と周りから求められる「役割」の違いというかあいだというか。
⇒「役割」をいったんリセットできる空間としての「スナック」的空間

~~~
「個」と「場」の往還というか。参加のデザインというか。
「キャラクター」というアウトプット。場から与えられる「役割」の心地よさとリセット
それを揺さぶる不安定さ。

9:20
〇企画書作成タイム
・フォーマットに基づいてあらたに記入

10:00
〇企画書発表とふりかえり(印象に残ったこと)
・ゆらぐこと、不完全さを大切にしたい
・お客さんを見送るシーンが印象に残った。
・変わることと変わらないことのゆらぎを楽しめる場所
・変わり続ける=ゆらぎ(不安・孤独)⇔安心を行き来する「場」
・ありのままの自分とこうありたいと思う自分を場とお客の力を借りて行き来すること=スナックママ
・食材の生産者を含めて、ひとりひとりの人生にスポットライトが当たる「いま」をつくる場所
・安心感とアップデートの瞬間をつくる場、この場でしか話せないけど自分が変化していることを話せる場

10:40
〇終了、写真撮影
11:00
・完全撤収

~~~
なかなかすごい講座を作っちゃったなと。
コミュニケーションを重視した「場づくり」の講座、
っていうのが「余白をデザインする新スナック学講座」だったんですね。

スケジュールもゆったり目でよかったなあと。

コンテンツとしては
・「思いの源泉」を探るインタビューワーク
・スナックママ体験
・ふりかえりと企画書作成
の3つ。
それぞれに細かい進行上の改善点はあるけど、ひとまずは参加者満足度の高いものができた気がします。

僕自身の発見として、僕がつくりたい「場」は、「変化のプロセスをともにつくる」場なんだなあと。変化のプロセスを楽しみたいし、それがあれば、「場」は、常連さんの空気感に飲み込まれずに、変化し続けるのかもしれないなと。

そして、さらに言うと。最大の発見はスティーブジョブズの「コネクティング・ドット」(人生に打った点と点がつながる)というワークショップ手法を手に入れたこと。

「思いの源泉」探し
1 心理的な安全が確保された上で、「人生の転機」をランダムにふせんに記載する
2 そのうちのひとつを全体の場で読み上げる
3 2人ペアになり、メモの解像度を上げ、「思いの源泉」を探るインタビューワークを行う
4 インタビューワークを元に力を合わせて「思いの源泉」を言語化する
これは、チューニングの方法としてもかなり有効だなあと。

時系列で人生をチャート化すると、「評価(プラスとマイナス)」を前提に点を打たないといけない。そして、その評価は、何度やってもマイナスな出来事はマイナスになってしまう。それにどんな効果が、いや意味があるのだろうか。ふせんを出すタイミングによって、打った点の価値や意味は当然変わってくるはずだ。

人生という物語を編集し、今、自分はここに立っているし、たとえばスナックという舞台に合わせ、自分が演じたいキャラクターと求められる役割のグラデーションを演じている。

「場」も「人」も変化し続ける。たぶん、その連続性がありながらも一回性の高い空間。
そういうのが「場」のチカラなのだろうとあらためて思った。

それを1回1回のワークショップや授業で応用したら、「気づいたこと、学んだこと」という結果や目的達成度を測るのではなく。「印象に残ったこと、言葉、シーン」という点をまずは打ち、それを感情と共に編集して言語化し、振り返ることなのだろうと。

それをひとりではなく場のチカラを借りながらやる、というのが僕のワークショップ手法なんだなと。、

なので、僕がつくりたい場(スナック)は、「変化のプロセスをともにつくる」、そんな場なのだなあと言語化された、私にとっても貴重な講座となりました。  

Posted by ニシダタクジ at 07:22Comments(0)日記

2023年06月30日

「まなび」と「身体性」


「感性の哲学」(桑子敏雄 NHK出版)

途中、難解で飛ばしてしまいましたが、最終章にグッと来たので書き残しておきます。
キーワードは「身体の配置」と「空間の履歴」です。

第9章 感性を取り戻すこと より
~~~以下メモ・引用

朱子学:人間を「身体の配置」として理解しようとした。
西洋:身体である以前に精神として人間を捉える(デカルト的)
朱子学:人間は精神である以前に身体であると捉え、しかも身体の基礎は「気」という非固体的なもの。

人間は世界の一部として、その他の部分と特有の配置でむすばれていることになる。人間は世界に対立するものでも、世界を支配するものでもありえない。また、人間のあり方と世界の変化とは不可分の関係にある。

わたしたちが生きているのは、人間と環境が常に相関している世界である。「世界のなかでモノや人々が相関している」というべきではなく、「モノやひとびとと人間が相関しているということ、そのことによって世界が成り立っている」ということである。その相関の空間的な表現が「配置」である。

「配置」は、自己とモノやひととの相関の構造を表す概念である。ひとの身体とはその身体と他のモノやひとびととの相関的な配置の関係にある。この配置こそ、ひとりひとりの固有性を決定する要因である。だから、どんな人間もすでに個性的な存在である。

中国的な時間軸では、時間は「四時」と呼ばれ「春夏秋冬」を意味する。農耕民族である中国人は、時間をつねに四季の変動とともに把握した。「春秋」は四季であると同時に歴史でもある。四季の循環が同時に、歴史の変動循環とも連動するところに、中国の歴史意識の根本がある。歴史そのものが循環するという思想である。

人間を「履歴をもつ空間での身体の配置」と捉えることで、つぎのようなことが可能になった。

1 人間のかけがえのなさ自明の事実として把握できるようになった。配置の個性が人間の個性の根幹にある。人間は生まれつき個性的な存在であり、「個性を伸ばす教育」にとってもっとも大切な一歩は、この固有の配置をこどもたちに自覚させることである。

2 履歴を蓄積するひとりひとりの人間にとって、その履歴形成の舞台となる空間のかけがえのなさを示すことができた。ひとりひとりの人間がかけがえのない存在であるように、そのかけがえのなさの根拠である空間もまたかけがえのない存在である。

3 空間の履歴は人間の履歴に組み込まれると考えることで、二つの履歴の不可分であることを示すことができた。このことによって空間の価値がそこに生き、そこに住むひとびとの履歴の価値と不可分であること、自分を愛することは、履歴を積んだ空間を愛することであることを論じ、また、このことによって、ひとびとの空間への愛着の根拠を示せた。

4 空間の価値は、そこに存在する希少生物やモノの価値で測ることはできず、その空間のもつ固有の歴史にもとづいているということ、したがって、希少生物が存在しない空間であろうと、単純に開発の論理に載せることができないということを示せた

5 「ローカル」と「グローバル」の区別を空間と身体の相関によって捉えることができるようになった。「ローカル」とは、ひとが履歴を積む身体空間を指し、「グローバル」とは地球全体を志向によって捉えた表現である。
~~~

うう。これはすごい。
長年探究してきた「場のチカラ」と「アイデンティティ」の関係をズバリ言い表している。

次にこの本に引用されている 大森荘蔵の「ことだま論」について

~~~
ことばが力をもってひとの心を動かし、ひとの身体を動かし、世界の出来事を生じさせるのはどうしてなのか。それを説明するために、人間と世界から独立したことばの意味を考える必要があるのか。

声になったことばは、じっさいは、身体の外にあってのみ、はたらくことができる。声は出されていないときには存在せず、声として身体の外の出されてはじめて存在するからである。すると、声は皮膚の外で身体の生きることに「参加」しているのである。そこでこそ、声は、身体と親密な関係を持つ。

「聞き手は話し手の身振り、すなわち話し手の体振り、視振り、声振りによって(広い意味で)触れられる。それによって聞き手は身体的、精神的に動かされるのである。多くの場合、人は対面して話す。その対面の場面では、声振りは体振りと視振りと一体となって働き、その一体となった身振りから声振りだけを引きはがして分離することはできない」

触れられ、動かされることが、ことばの意味を知ることであり、だからこそことばとは行為である。行為としてのことばがひとの心を動かし、ひとの身体を動かし、行動を引き起こす。行動が世界に変化をもたらす。
~~~

「ことだま」という現象がどのように起こるのか、を捉えているなあと思います。

もうひとつ「空間の履歴」と「普遍性」について
~~~
わたしが「空間の履歴」ということばを考えたのは、世界を動かす身体的配置という人間の把握に、時間を組み込んだ表現をつくりたいという思いからであった。

わたしが「空間の歴史」といわないで、「履歴」というのは、履歴がつねに現在において存在するものだからである。履歴書を書くひとは、つねに現在の履歴を書かなければならない。

履歴は過去の歴史に言及はするけれども、その記述はつねに現在に属している。履歴を語ることは現在において過去を語ることであり、また現在に属するものとして過去を語ることである。過去はすべて現在に埋め込まれている。

普遍性のことばとは、どこでもないどこかで、いつでもないいつか、だれでもないだれかの語ることばである。人間の語るものであっても、科学のことばには、配置と履歴が書き込まれていない。

今、この実験室のなかで行われている実験には、配置と履歴が存在するが、その実験によって明らかにされ、論文や教科書に記載される物理法則には、配置と履歴がないのである。科学のことばに普遍性があるというのは、要するに、配置と履歴を消去したことばだからである。

わたしの考えでは、感性とは、自己の空間的配置と時間的履歴を身体的自己が感知する能力である。このとき、配置と履歴は、相互に不可分な関係にある。わたしの配置が履歴となるのは、配置が変化してゆくからである。昨日の配置と今日の配置は異なっていて、昨日の配置は今日の履歴の一部となる。

人間は、さまざまな事物やひとびとと固有の配置でむすばれながら、行為を選択し、人生を送る。行為と人生について語るとき、ひとは自己の配置と履歴を知る。

配置と履歴を消去した普遍的なことばがどれほど力をもつように見えても、そのことばによって世界とかかわり、自己の人生を選択していくのは、どこまでも配置と履歴をもつ身体的な存在である。

環境と自己の関係を捉える能力、配置と履歴から世界を感知する能力が感性であるとすれば、この能力は、人間が身体的存在であるという人間の本質に由来している。だからこそ、ひとりひとりの感性は異なっていて、あるひとびとの感性はするどく、また豊かであるといわれる。

人間は普遍的なことばが配置と履歴を組み込んだことばよりも高い次元にあるという幻想を抱いてきたし、まだその幻想から抜けきれないでいる。この幻想から醒めて、もう一度自分の皮膚とその外の空間との境目を見つめ直すことが必要である。
~~~

グッときますね。「感性とは、自己の空間的配置と時間的履歴を身体的自己が感知する能力である。」ホントそうだなあと思います。

「感性を磨く」ってそういうことだし、それが高校時代から磨けたらいいなと心から思います。
そしてそれは「アイデンティティ」とか「存在」の課題と直結していて。

僕たちが歴史ある居酒屋や「まち中華」、古民家をリノベーションした空間に感じるもの、なのかもしれませんし、ソーシャルバーPORTOのような「場」で起こっていることなのではないかと思います。

学校の教科書がつまらないのは、表記が「普遍的なことば」で書かれているからであって、それを生身の教師が、配置と履歴、つまり「存在」を賭けて、語るからこそ、面白い授業になるのではないかと。

探究の時間においては、「考えること」だけじゃなく「感じること」も大切にしてほしい。
達成と成長ではなく発見と変容だし、まずは観察し、感じてください。

「まなび」ってそんな風に身体的なものになっていくことで初めて「アイデンティティ」が形成されていくのではないかと。  

Posted by ニシダタクジ at 07:36Comments(0)日記

2023年06月29日

「自分」と「場」をともに「いとなむ」







ソーシャルバーPORTOの嶋田匠さんとご一緒してきました。
嶋田さんの取り組みについてはこちらから
https://note.com/takumi_shimada/n/nec142082f73c

なんというか、言葉のセンスがすごくて、ドキドキします。

以下、僕のサイトを見たメモ
~~~
「居場所」
よりどころ・・・「存在価値」を認められる場所
やくどころ・・・「提供価値」を認められる場所

よりどころ⇒PORTO:日替わり店長のバー
人が場を持つことのハードルを下げる

やくどころ⇒コアキナイ
会社員のやくどころ:外部に依存した不安定なものとなっている
「1社に属してはたらく」⇒安定しない

らしさ=「志向(判断基準)」「嗜好(好き/嫌い)」「資質(強み/弱み)」
本業とは別に個人のらしさを活かしたスモールビジネス「コアキナイ」をつくる

「コアキナイ」
1 小さな(無理のない大きさの)商売という意味での「小商」
2 個性(らしさ)を活かした商いという意味での「個商」

コアキナイ:個人の「らしさ」を活かした無理のない大きさの価値交換
起業⇒コアキナイへのシフト
1 個商:マーケットイン⇒パーソナリティアウト
2 小商:不特定多数⇒特定少数⇒中数
自分をそのまま社会に差し出してみる
それを無理のない大きさでやってみる
そんな自然なやくどころがコアキナイ

「木」と「森」
「木」:それぞれのコアキナイ
「森」:コアキナイの集合体
ゼミで木を生み、コミュニティで森を育てる
⇒「森」の時間と「木」の時間をつくる
⇒林よりも森みたいな
~~~

嶋田さんは大学時代に原宿で「無料相談屋」というボードを持って、道行く人たちの相談を受け付けていた。そんなところからリクルートキャリアに就職し、売れない日々の中で「よりどころ」と「やくどころ」という感覚に気づき、PORTOをスタートします。

現在はコアキナイビルで、ソーシャルバーの他、シェアハウスなど様々な事業を展開しています。
https://ko-akinai.com/overview/
↑「アウトプットするガレージ」っていいな。

そんな嶋田さんと今回は
「らしさ」を見せる〇〇ということで
20代半ばのみなさんとトークしました。

~~~以下メモ
「真の贅沢というものは、ただ一つしかない、それは人間関係という贅沢だ。」
サン=テグジュペリ『人間の土地』(新潮社文庫)

ヨリドコロとヤクドコロ:どちらかだけではダメで両方必要
「ヨリドコロ」SNSの友人が1000人いて見えるようで、点線でつながっているだけ。
⇒ヨリドコロをたしかめるための「バー借りるけど一緒にやらない?」と声をかけられる場としてのPORTO。

存在承認とヤクドコロ
アイデンティティは事後的にできる
居場所⇒アトリエ:「〇〇する」を許されている「場」

「身体性」というキーワード
PORTOに立つ(店長をやる)ということ。
=「存在」を体感すること
=ヨリドコロとヤクドコロを行き来すること
=他者の存在(目撃者と証人)があるということ
=リアルメディアとしてのPORTOだしコアキナイだしガレージ

そこには固定された役割ではなくて、生成的に役割が生まれてきて、それを育むことで「ヤクドコロ」が発生し、それが他の人にとっても自分にとっても「ヨリドコロ」になり得る。

みんなで育てていく「営み」として:「林よりも森みたいな」
林=生やすを語源としていると言われている:人工的に植えて、木を生やした状態のこと
森=盛りを語源としていると言われている:盛り上がった土に気が生えている状態のこと
「待つ」こと:機が熟すのを待つ。

ヨリドコロとヤクドコロは複数名のあいだで同時に起こり、境界がなくなる。
それを行き来するような「場」があるのではないか。
存在価値⇔影響価値⇔提供価値

共有地⇒共営地へ
この営みがつづいていくことを心から願ったときに場と自分とのあいだに役割が生成されていく。
⇒ブリコラージュってそういうこと?:この場をともにしてくれてありがとうございます。
~~~以上メモ

「生成される役割(=ヤクドコロ)」これが「存在承認」へのキーワードかなあと。
僕がつくりたい「場」もそういうものかと思ったし、高校生にこそそんな「場」があったらいいなと思う。

ひとりひとりという木と、それが集まった森と。
それが相互作用し、育む「場」。
そんな「営み」をつくっていきたいと思う。  

Posted by ニシダタクジ at 05:48Comments(0)日記