プロフィール
ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



新潟市西区内野町431-2
TEL 025-261-3188

平日12:00~19:00
土曜 7:00~21:00
日祝10:00~19:00
*火・水曜定休





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2017年03月26日

夢を語れ

どうやるか?
ではなくて、
なぜやるか?

方法を語るのではなく、
夢を語れ。

きっとそのフェーズに戻したほうがいいのだろうね。

描く未来にワクワクしていないと、
仕事は作業になる。

その未来を描くところから、
もう一度やり直しだなと思った。

1人のリーダーにに求心力を期待するのではなく、
コンセプトに求心力を持たせること。
それをやらなければいけないのだな。

誰かが人生を賭けないプロジェクトは
成功しない。

いや、人生賭けたって、
うまくいかないプロジェクトはある。

それを誰かに期待するのではなく、
自分が動くしかないのかもしれないなと。

もう一回、
ワクワクする未来を描くところから、やり直そうかな、と。  

Posted by ニシダタクジ at 05:52Comments(0)日記

2017年03月19日

アーティストと作品の関係

アーティストは最初、作品によって見出される。

いい作品を何作か続けると、
そのアーティストの名前が売れる。

すると、そのアーティストの
名前で、作品を鑑賞したくなる人が増えてくる。

本で言えば、
有名著者の作品は発売前に
たくさんの予約が入る。

一方で、
一作品しかヒット作を生み出せなかった人は、
「一発屋」と称される。

その人の名前は、
すぐに消えてなくなる。

でも、作品は残る。
記憶にも残る。

アーティストの名前が売れてくると、
極端な話、作品の良さに関わらず売れる、という現象がおきる。

その人の作品だから買おう、ということが起こる。

著名な画家の無名時代の作品に、
何億円もの値段がつくような現象だ。

それは作品というよりは、
ネームバリュー、つまり世間的価値を
買おうということなのだろう。

アーティスト<作品
だったのが
だんだんとアーティスト=作品
になり、いつのまにかアーティスト>作品となるのだ。

しかし、それは、
アーティストの本望なのだろうか?

岡本太郎は、
「今日の芸術」(光文社知恵の森文庫)の中で、
芸術はわかろうとするものではないと説く。

そして、今日の芸術は、
うまくあってはならない。
きれいであってはならない。
ここちよくあってはならない。

と言う。
目の前の作品と対峙せよ。
対峙し、感じること。
そこから芸術鑑賞は始まるのだと。

「わからなさ」と向き合い、
自分なりの答えを出していくこと。
そんなことを説いた。

岡本太郎からすれば、おそらくは、
作品ではなく、名前が注目されることは、
あまり好ましいことではない。

アーティストであるならば、
作品を見て、作品を味わってほしいと思うはずだ。
そこに「作家の名前」は邪魔になる。

しかし。
作家にも「承認欲求」がある。
いい作品を書いたら、それを承認されたいし、賞賛されたい。

それは個人に向かってくるものであるから、
そこに、ジレンマがある。

作品を純粋に見てほしい。
でも、作家としての自分を認めてほしい。

その壁を作家自身が超えられるかどうか。
あるいは、世間が作家の名前を超えて、
作品を見ることができるか。

そんなことをふと考えたいい時間をもらった。  

Posted by ニシダタクジ at 06:55Comments(0)日記

2017年03月13日

かつての市場が交換していたもの

かつての市場が
交換していたものは、
モノだったのだろうか。

小阪裕司さんの
「心の時代にモノを売る方法」(角川ONEテーマ21)を思い出す。



http://hero.niiblo.jp/e386148.html
200年隠れていた「贈与と交換」の経済
(2014.3.23 20代の宿題)

この本に引用されている山崎正和氏の本
「社交する人間」(中公文庫)

「経済の第一の系統は生産と分配の経済であって、
これは同質的で均一的な集団を形成しながら、
それによって生産物の効率的な増産を目標としてきた。

これに対して第二の系統をつくるのが贈与と交換の経済であって、
言葉を換えれば社交と商業の経済だといえる。」
(社交する人間より)

この第1の系統である
「生産と分配の経済」は、
共同体が「生き延びる」ために必要な経済であったと言えるだろう。

それに対して、
第2の系統である「贈与と交換の経済」は、
個人が楽しく豊かに「生きる」ための経済だったと言えるだろう。

なるほど。
そもそも市場の起源は、
贈与と交換の経済の実現場所だったのではないか。

かつて、コミュニティは基本的に
家族を単位とし、「自給自足」してきたはずだ。

そのあいだに「市場(いちば)」が成立していったのだと思う。
その市場で最初に取引されたものは、
おそらくは生活必需品というか、
生きるのに必須のものではなかっただろう。

すでに生きていくだけの何かはあった。
その余剰物を、交換するところから市場は始まっているはずだ。

そしてそこに旅人としての商人の存在があり、
旅先で手に入れた様々な珍しいものを売ったのだろう。

「商人はめぐりあった消費者に商品の物語を説き、
その心を魅惑する会話の成功とともに需要を創造したのであった。」

きっとそうだ。
かつて市場は、そもそも商品というよりも、
共感や驚きを売ってきたのではないか。
物語を売ってきたのではないか。

未知なるものを、共感という舞台を
出現させることで売る。それが市場なのではないか。
商人はそこで学び、技を磨く。

市場は、劇場であり、また学びの場であった。
未知なるものを知る場所であった。

「小商いをやってみる」
っていうのが少し流行っているようだけど、
もしかしたらそこには、根源的な「生」があるのではないか。

未知のものばかりが売っている市場では、
まずは感性がヒットする。
おや?と心が奪われる。
そこで商人が語る。

その物語や人の魅力に心惹かれて、
人はモノを買ったのではないか。

そのときに買っていたのは、
モノではなかったのだろう。
「共感」だったのだろう。

そういう意味では、
いま、世の中で動いている
「クラウドファンディング」は文字通り
「共感」を介して、お金が動いている。
つまり、共感を取引していると言えるのではないか。

「小商い」や「ナリワイ」と呼ばれるものは、
まさに生命的な本能がそちらに向かわせているのではないか。

「市場(いちば)」は交換の場であり、
エンターテイメントの場であり、学びの場でもあったのだろう。

たぶん、これから始まるプロジェクトって
そういうのをやりたいのだろうな、って思っている。

次のステージがだんだんと見えてくる。  

Posted by ニシダタクジ at 07:59Comments(0)日記

2017年03月05日

人の魅力からコンセプトの魅力へ

プロジェクトが始まるとき。
そこには「人の魅力」が重要である。

その人に吸い寄せられるようにして、
人が集まってくる。

ほぼ「プロジェクト=人」である状態。

「〇〇プロジェクトをやっている〇〇さん。」
に会いに行く。
会いに行きたくなる。

そうしないと、
小さな事業は始まってはいかないと思う。
特に非営利事業はそうであると思う。

コンセプトももちろん大事だけど、
誰が語ったか、によって、
プロジェクトの成否が決まる。

それが第1フェーズ。

だんだんと
「プロジェクト>人」にしていかないといけない。

そうしないと、
その人がいなくなったらどうなるのか?
という問題が生じる。

そこで、必要になってくるのがコンセプトの力だ。

何が大切なのか、何が提供している価値なのか。
それを参加している人たちが共有していること。
(必ずしも「言語化」されている必要はない)

それができてくると、
「場のチカラ」が形成されてくる。
すると、最初の発起人の存在感が薄れてくる。
それが第2フェーズ

そして、最後には、その場やコンセプトに対して、
人が集まってくるようになる。
そのとき、発起人の存在は不要になる。

まきどき村もツルハシブックスも
そのようなフェーズをたどってきたように思う。

現代は、ソーシャルネットワークサービスなどの影響で、
「個」に重きを置きすぎる傾向がある。

これまでの工業社会で、
「個」が疎外されてきたというか、
アイデンティティの発揮を限りなく少なくする方向に
動いてきた。(昨日の属人的な話のような)
その反動であるのかもしれないが。

ただ、コンセプトではなく、「個」に注目しすぎると、
その活動は一般化しないというか、
継続性と再現性(だれでもどこでもいつでもできる)がなくなっていく。

だから、コンセプトをもっと大事にしていく必要がある。
きっと、コメタクはそういう過渡期にあるのだろうな。

人からコンセプトへ。
第2フェーズが始まろうとしている。  

Posted by ニシダタクジ at 08:50Comments(0)日記

2017年03月04日

システム化はひとりひとりを幸せにするのか

属人的なシステムは継続しない。

だから、情報を共有し、
その人がいなくなったときでも、
誰かが替わりをできるようなシステムを
つくらなければいけない。

これはそのとおりだろうと思う。

しかし、システム化するということは、
ひとりひとりにフォーカスしないということ
なのではないか?

その人じゃなくてもできる、
というシステムをつくることなのではないか。

それはひとりひとりを幸せにするのか。
交換可能な部品にしてしまうのではないか。

ふと、北九州市立大学の竹川先生の言葉を
思い出す。

「優れたシステムは自律的に動く」

そうそう。
そういうやつ。

自律的に動くシステムをつくる。
ひとりひとりにフォーカスされるような。
ひとりひとりを大切にできるような。

そんなシステムをつくること。

継続することが目的ではなく、
ひとりひとりにフォーカスされ、
力が発揮できるようにするために、
システムをつくっていく。

それがこれからやることなのかな。  

Posted by ニシダタクジ at 07:45Comments(0)日記

2017年01月17日

なぜ本屋だったのか?

なぜ本屋だったのか?
と聞かれるけど。
いろいろ理由はあるのだけど。

不登校の中学生の家庭教師をしたとか、
サンクチュアリ出版の営業をしたとか、
郡山のヴィレッジヴァンガードの店長とか、
インターン事業のプラットフォームが欲しかったとか。

いろいろ言語化されていることは
あるのだけれど。

今回の九州で、わかったこと。
やっぱり本屋だったんだなあということ。

箱崎・キューブリック・丸充酒店・見月さん
小倉・旦過市場・大學堂・竹川さん
天神・ひとつ星・屋台・白石さん
古湯・泊まれる図書館・キッチン10・白石さん
熊本・正統的周辺参加・ねぎぼうず・松尾さん
鹿児島・居場所・第3の場・本の処方箋・4人のスタッフ大学生と参加者

僕にとって本屋とは、
「新しい世界との境界」で、「コミュニケーション」で
「人と人が出会う」ところであり、
システムとしての「場」であり、
本への「愛」を届ける「実験場」であり、
「癒し」であり「多様性」であり「地域への愛」であり、
「参加の仕組み」であり、
固定された「居場所」ではなく「流動性」のある「第3の場」であり、
そして、「学び」にあふれた「劇場」だったのだ、と。

そんな「劇場」のような本屋を。
いや、本屋のような「劇場」を
この世につくっていくことこそ、
僕のミッションなのではないかと思った。

最後の鹿児島は、
ジャズセッションのようなライヴ感のあるイベントとなった。

「本の処方箋」もしてくれた参加者のひとりからメッセージをもらった。

~~~ここから引用

今日のお話を聞いて、悩みが解決した気がします。
診察のときに”いま満たされているのが悩み”って言いましたが、
たぶん、私は今まで人生の充実ばかり求め過ぎていたんだなって思いました。
だから、目的を果たした途端、
何を目的にして進めばいいか分からなくなって迷っていたんだと思います。
これからは、もっと場の楽しみを追い求めてみようと思います!笑

役割を果たすだけじゃなくて、色んな劇場で色んな役を演じてみようと思いました!
今までは、何か悩みがあると1人でひたすら考え込んで
落ち込んでしまうのが当たり前だったんですけど、
今日みたいに、あんなに楽しく落ち込まずに悩みを解決する方法があったんだなって、
終わった後で気がついてすごく衝撃でした笑

なんだか落ち着く場所で、すごく幸せな時間でした(o^^o)
今日のイベントが背中を押してもらうきっかけになった気がします。
処方していただいた本も読んでみます!本当にありがとうございました。

~~~ここまで引用

イベントでは、
「第3の場」と「居場所」について
参加者全員で考えるという、そんな話になった。
(打ち合わせと全然違う)

「人生を充実させる」には「役割」があることが大切だけど、
「場を楽しむ」には「役割」ではなく「役」を演じることが大切なのではないか。

「第3の場」は、
必ずしも空間ではなく、時間でもいいのだと。
いてもいい、と存在が許される空間・時間なのだと。
そういう時間と空間と関係性が「第3の場」をつくるのだなあと。

そしてそれは時間的継続性を持たず、
一瞬一瞬を楽しむ場になっている。

いい意味で無責任というか、
ゆるやかな「役」があるかもしれない、ということ。

おそらくはツルハシブックスが目指していた「本屋のような劇場」は、
そんな「場」だったのだろうと思う。

そういう「場」をつくるには、
本屋という「システム」はかなり魅力的なものと
なるのだろうなと改めて思った。

鹿児島のイベントを企画してくれた
4人の大学生のみなさん、ありがとうございました。

15日・鹿児島を目標に
予定を組んでいたら、
自分自身を問い直す。
とても有意義な時間となりました。

本当にありがとうございました。

最後に翌日の朝活で思ったこと。
主催の1人がさまざまな場所で自分を演じる、
というのを図解して書いていて、
それを支える「受け止める」「受け入れる」存在
という図解を書いていたけど、

そういう、ありのままを愛してくれる存在、
受け入れてくれる存在を、
きっと多くの人、特に中高大学生は必要としていて、

そんな存在に、本屋ならなれるんじゃないか。
きっとそれが僕が本屋である理由なのではないか。

だから、次は「畑のある本屋」なんだと、
自分の中でしっくりきた、九州縦断でした。
最後まで、大きな学びをありがとうございました。

写真は末吉くんが撮ってくれました。
  

Posted by ニシダタクジ at 09:15Comments(0)日記

2017年01月08日

食堂のような劇場





「未来食堂」にいってきました。
メニューは鮭のちゃんちゃん焼定食でした。


「ただめしを食べさせる食堂が今日も黒字の理由」(小林せかい 太田出版)
年末に読んだこの本が衝撃的過ぎて。

お店でこちら

「未来食堂ができるまで」(小林せかい 小学館)
を買いました。
いま読んでいます。

ランチを食べ終わったら、
なんと、ライフネット生命の出口さんが登場。
思わず3ショット。(笑)
「仕事に効く教養としての世界史」、読んでます。



で。
ランチだけではなく夜も行きました。
さすが山田さん@塩尻市役所。

そしたら、この写真です。


閉店時間の22時がせまってくると
突如始まるミュージカルのような時間。
お客さん全員で、お店の掃除です。
明日はサロン18禁という18歳以上は入場できない
イベントがあるので、すみずみまでピカピカにします。

このあと、ワックスまでかけました。
そして、最後にみんなで記念撮影。



1人が言いました。
「なんか、ラジオ体操の後みたいですね」

そうそう。
そういう感じ。
すがすがしい感じ。

今日も夏休み始まるぞ~、みたいな。

その店にたまたま居合わせた2人も
誘って、吉野家で乾杯しました。
なんか、人生史に残る2次会だったなあ。

「未来食堂」は、
食堂のような劇場でした。

なんでしょう、このすがすがしい敗北感は。

「本屋のような劇場」を
目指してきた僕としては、
圧倒的に敗北しました。

ツルハシブックスは、
「アートとビジネスとデザインのあいだ」
を目指してきましたが、

未来食堂は、
「目指したい未来」といういちご
が「遊び心」と「アート」という餡でくるまれ、
さらにそれを「ビジネス」というもちで包んだ、

「いちご大福」のような場所でした。

せかいさん、山田さん、みなさん
劇場のような1日を、ありがとうございました。

楽しかったです。

1月28日(土)
飯塚商店withツルハシブックスで
こちらの2冊を販売します。

購入いただいた方にはなんと!
「未来食堂」の何度でも使える100円引き券をプレゼントします。

  

Posted by ニシダタクジ at 07:46Comments(0)日記

2017年01月05日

「場」と「コミュニティ」のあいだ

必要なのは、「場」であって、
「コミュニティ」や「居場所」ではない。
プラットフォームとは、
「場」であって、「居場所」ではない。

まあ、日本語のニュアンスは難しいのだけども。

その「場」とは、
相互に作用する「学びの場」で
あるのではないか。

そこには少しばかりの緊張感があり、
少しばかりの安心感もある。

緊張感があるとすれば、
「自分が変わるかもしれない」という変化への恐怖かもしれないし、
安心感があるとすれば、
それは同じ学びをする「同志」としての感覚なのかもしれない。

一方で、人が「コミュニティ」を欲してしまうのに、無理はない。

人は、生き延びるために「コミュニティ」を
必要としてきた。

農村社会
職人や商人たちの組合
あるいは企業社会

そのコミュニティに属していることが
「生き延びる」ために必要だった。

しかし。
いまは、その前提は崩されている。

一部大企業や官公庁・自治体に属さない限り、
「コミュニティ」は生活を保証してくれない。

しかし。
人は「コミュニティ」を求める。

「場」が「コミュニティ」になってしまうことがある。

常連さんのついた居酒屋や喫茶店。
入り口を開けた時の「ギラッ」とにらまれる感じ。
なんとも言えず居心地が悪い。

ツルハシブックスもそのような状況に陥りつつあったのではないか。

僕にとって、価値があるのは、「機会提供」だ。
そこにたくさんの人が来て、本や人との出会いを
提供したいから本屋というスタイルにつながった。

それが「コミュニティ」を形成し、「居場所」利用が
進んでしまうと、そのような「機会提供」機能が損なわれる。

それには、
「アイデンティティ」という課題が存在するのだろうと思う。

私が私である意味。
私は何者なのか?という問いに答えられない不安。

それが、「コミュニティ」に属することで、
少し解消されるのだと思う。
マズローの欲求五段階説のような。

問題は
「場」と「コミュニティ」が両立しないことだ。

「場」は絶えず、「新しい風」を必要としている。
「コミュニティ」は世界をウチとソトに分け、
新しい人はソト側になってしまう。

これを「ゲストハウス」は性質上、
うまいこと仕組化しているのだろうと思う。

「場」と「コミュニティ」のあいだ。

おそらくはそこに「場」をつくっていくことだろうと思う。
具体的には「市場」のような空間なのかもしれない。

新しい人が入ってきて、
古い人も、ゆるやかにつながり、
それぞれの人が自分の「店=見世」を
やったりやらなかったりするような空間。

そんな空間をつくっていけたらいいなと思う。  

Posted by ニシダタクジ at 08:07Comments(0)日記

2017年01月03日

「本屋」から「市場」へ



初日の入り後の富士山@千葉。

本年もよろしくお願いします。
「毎日」にこだわらず、書きたいときに
書いていきます。

基本的には、本を読んで気づいたこと、
20代に向けてのメッセージを中心に書いています。

紹介する最初の1冊は

「本屋になりたい~この島の本を売る」(宇田智子 ちくまプリマー新書)

沖縄の市場(商店街)で小さな古本屋を
やっている宇田さんの1冊。

日本最大の書店(ジュンク堂)から
日本一小さい(3坪)の古本屋へ。

この「市場」っぽいところに惹かれて購入。
この本の最終章「町の本を町で売る」に、
なんだか町の本屋さんってなんだろう?
って考えさせられました。

「本屋」から「市場」へ。

2017年はきっとそんな年になるのだなと予感しました。

~~~これから本文より抜粋

自分で店を始めてから、
買いものをする場所が変わりました。
スーパーやチェーン店、または通販を使うより、
できるだけ近くの商店で買うようになったのです。

個人商店の苦労がわかったから、というのが大きな理由です。
特に、店主が店番もしているような店では、目のまえでひとつ
商品が売れることがどれだけ励みになるか。

(中略)

店をやっている知り合いが増えたのも
理由のひとつです。
少しでも売り上げに貢献できればという気持ちと、
ちょっと顔を見にいくような気分で立ち寄ります。

~~~ここまで本文より抜粋

そうそう。
お店をやるってそういう感じ。

沖縄の人も、普通に車で郊外のショッピングモールに
買い物に行くのだそう。

きっとそれって、
みんながサラリーマンになっちゃったからかもしれないなあと
思いました。

分断。
経済成長とは、分断だったと僕は思っています。

生産者と消費者を分け、
作る人と使う人を分ける。
その逆展開でつながることを人は求めているのかもしれません。

そんな中で、
本屋は何ができるのでしょうか。

早稲田大学の松永さんは、
本にも、演劇にも、「多様性」と「普遍性」がある
と言いました。

そうそう。
それにプラスして、
本屋には「劇場性」があるのだと思います。

僕が「偶然」と読んでいた現象は、
大阪の陸奥さんに言わせれば「逢着(ほうちゃく)」でした。
http://hero.niiblo.jp/e483057.html
(2016年12月4日 20代の宿題)

そして、ツルハシブックスが閉店した理由は、
おそらくは、その「劇場性」が発揮できなくなっていったから、
だと思います。

「居場所」と「言語コミュニケーション」
の課題が、駅前のビル店舗では、解決不可能だったのかもしれません。

次は、「市場」だ。
「市場」の中の「本屋」になるということだと思います。

そしてその本屋は。
「畑のある本屋」です。

塩見直紀さんは、「半農半Xという生き方」(ちくま文庫)
の中で、「使命多様性」の時代だと言いました。

そうそう。
半農半XのXは使命であり、天職のことです。

「天職」と聞くと、
どうしても、「職業名」のことかと思ってしまいますが、
本当は「使命」のことだと僕は思います。
何に命を使うのか?というほうがしっくりきます。

そんな大げさだけど「使命」に出会える「場」をつくる。

大学では、
そんな小さな「使命」に出会える機会を、

本屋で言えば、
「多様性」と「普遍性」と「劇場性」を満たす本屋を、

つくっていくこと。

それが2017年の出発点にしたいと思います。
とてもおもしろいものができそうな予感がしています。

本年もよろしくお願いします。  

Posted by ニシダタクジ at 04:31Comments(0)日記

2016年12月19日

中高生に必要なのは「居場所」ではなく「劇場」

「居場所」という場所があるのではなく、
居場所という「瞬間」がある。

アサダワタルさんの
「コミュニティ難民のすすめ」の表現によれば、

自分にとって居場所とは、場所ではなく、
「今この瞬間」という「時間」そのものだった。
そしてそれは当然のように常に変化し、転がってゆくものだ。
その感覚ってすごく大切だと思う。

「場」が「居場所」になった瞬間、
そこへのある種の「安定」というか、
変わらないでほしい、というか、保ちたい
というか、そういうのが始まってしまう。

ツルハシブックスは本屋のような劇場
を目指してきた。

では「劇場」とは、なんだろうか。
「劇場」とは、たとえば、中高生にとっては、
「居場所はそこ(学校)だけじゃない」と自ら気づけるところである。

そこでなぜ、本なのか?と、問われたら、

本のある空間こそが多様性を表現している、
と僕思っていたのだけど、
早稲田大学の松永さんが言っていた、
「特異性」と「普遍性」というキーワードが
思い出された。

これは芸術・文化のキーワード。
芸術は特異性と普遍性の表現であるという。

本のある空間において、
本は1冊1冊は特異、個性的でありながら、
自分たちは同じ人間である、ということを
風景以上に伝えてくるのではないか。

「サードプレイスを支配しているのは常連客」
http://hero.niiblo.jp/e209391.html

なるほどな。
本をもっと入れ替えていくこと。
新規の「本を買うことが目的」のお客をきっちりと入れていくこと。
そういうことが必要だったのだろうな。

「居場所」になってはいけなかったのだ。

サードプレイス=第3の場所は
第3の「居場所」になってはいけないのだ。
(多くの場合、学校や家庭を上回り第1の居場所になる)

だとすると、
本屋のような劇場は、
実際の固定された場である必要がないのかもしれない。

カフェの心地よさは、
1 そこに居合わせた人の目的がそれぞれ異なること
2 そもそも構成メンバーが変わること

そこから来るのではないか、と
武雄市図書館にいったときに感じた

分断から共存へ
http://hero.niiblo.jp/e302022.html

に書いてある
いろんな想いを持った人が、場を共有していて、
それがステキな一体感というか、アート作品のような
空気感を出している。

そういう空間。

福島の下枝さんがこの前言っていた
「地域づくりはジャズセッションだ」

ジャズのセッションは
メンバーと方向性だけが決まっていて
そこから演奏が始まっていく。

そういう一期一会感が必要なのだ。

だから、
そんな一期一会のある「劇場」をつくっていくこと。
場が適度な緊張感を持ちながら、
新しくそのセッションに入ってくる人を受け入れていくような、

そんなジャズのセッションのような劇場を
つくっていくこと、かなあ。

「居場所」という場所は不要で、
「劇場」をたくさんつくり、

「居場所という瞬間」をつくっていくこと、なのかもしれない。  

Posted by ニシダタクジ at 08:04Comments(0)日記

2016年12月02日

「居場所」と「環境」と「コミュニケーション」

「西田さんにとって本とは、なんですか?」

おおお。
「プロフェッショナル~仕事の流儀」だ!
と興奮した。

11月30日の井上有紀卒論応援イベントでの
とある大学生からの質問。

出てきた「キーワード」

畑のある本屋

本屋+米屋+農+福祉

居場所のジレンマ

「居場所」をつくりたかったわけではなかった。

なぜ本、本屋なのか?

ツルハシブックスのラスト1年。
2016年は、居場所のジレンマとの戦いだった。
そして、その戦いに、おそらくは敗北した。
勝てなかった、居場所のジレンマ。

居場所のジレンマとは、
居心地のいい場所は、
誰かにとっての「居場所」になりやすく、
その絶対数が増えてくると、「常連」と呼ばれる人が
その場所を占拠するようになり、
それは初めて来る人にとっては、「居心地の悪い」場所になってしまう
というものだ。

それは越えられたのか?
それとも、空間の力の限界だったのか。
それは、これから問いかけていくことなのかもしれない。

朝6時に集まり、
畑に立ち、農作業をして、おかずを調理し
囲炉裏を囲んで朝ごはんを食べる。



そこには、だれもが「存在を許される」場がある。
そんな「まきどき村」の包容力はどこからくるのか?

なぜ、まきどき村で許容できて、
ツルハシブックスでは許容できないのか。

そんなことを思索していたら、
「コミュニケーション」というキーワードが降りてくる。

人と人は「コミュニケーション」している。
それは、言語で、もしくは非言語で。

冒頭の、なぜ本なのか?本屋なのか?
という質問に対して、とっさに出た答えは、

「本が多様性を表現しているから」

そうそう。
本がそもそも「多様性」だから。

ツルハシブックスは、「偶然」という名のアートだった。
「偶然」を生むには「多様性」が必要だった。

多様性が偶然性をはぐくみ、
偶然性が可能性をはぐくむ。

かっこよく言えばそういう場所だった。

しかし。
まきどき村とツルハシブックスの最大の違いは、
ツルハシブックスには、
言語によるコミュニケーションに圧倒的に依存しているということだ。

これは環境のせいだ。
駅前にある「オシャレなブックカフェ」では、
コミュニケーションの主な方法は、言語によるコミュニケーションだ。
そもそも本だって、言語によって多様性を表現しているのだ。

ところが、まきどき村は、そうではない。
体を動かす、草を取る、火を炊く、ご飯をつくる

そうしているあいだに、
非言語のコミュニケーションがはかられていく。

それなんじゃないか。
世の中には、言語によるコミュニケーションが苦手な人が一定の割合存在する。

おそらく、まきどき村に通っていた
不登校だったTちゃんは、そのひとりだろう。

しかし、あの場所、あの空間、あの時間では、
別に言語によるコミュニケーションを行わなくても、
人と非言語コミュニケーションができる。

それが「居場所」という瞬間をつくっていたのではないか。

「畑のある本屋」っていうのは、
そういう非言語コミュニケーションの機会をつくる、
ということなのかもしれない。

なんか、もう少しだ。
見えてきつつある気がする。  

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2016年11月27日

空間の包容力

世の中から
「居場所」が無くなっているんだなと。

コミュニティの解体で
お祭りがなくなり、ひとり暮らしになり。
職場というコミュニティもドライになり。

「居場所」を必要としているのは、
中高生だけではない、ということ。
それが分かった。

しかし、それを
本屋+カフェ、そして駅前立地という
条件下では、
それを許容することができなかった。

他方、「まきどき村」は、
多くの人を許容、あるいは包容できる場であると
言えるのかもしれない。

小学校1年生から8年間ずっと不登校の中学生が、
毎週、始発に乗って、まきどき村にやってくるのは、
なんだったのだろう。

畑での農作業、囲炉裏、朝ごはん。
その空間の力。
もちろん、集まる人たちの力もあるのだろうが、
圧倒的な空間の包容力がある。

もしかしたら、次のためのステップなのかもしれない。

居場所を目指しているわけではないけれど、
ある程度許容できるような、
空間デザインが必要なのかもしれないと思った。

ツルハシブックス閉店という問い。

まだまだ、始まったばかりだ。  

Posted by ニシダタクジ at 07:27Comments(0)日記

2016年11月25日

暮らしたいまちを自らつくる

コメタクの井上有紀が言った。
「コメタクは暮らしだから。」

だから、東京に住みながら
新潟の活動をすることはできないのだと。
とても素敵な感性だなあと。

東京ひとり暮らしには「生活」はあるけど「暮らし」がない。
帰りたくなる「何か」がない。

きっとその「何か」は「誰か」であり、
その誰かがいるから、
暮らしが成立するのだろう。





まちあるき@川崎・武蔵新城

豆腐屋のある暮らしではなく、
豆腐屋のおばちゃんがいる暮らし、なのだろう。

ツルハシブックスの目指した
「本屋のある暮らし」はおそらくはそういうことかもしれない。

誰かに会えるから。
何かが生まれるから。
そこから始まる物語があるから。

そんな場所を自らが作っていけたら、
そこが「暮らしたいまち」になっていく。

内野も、上石神井も、伊那も、千林大宮も、
この武蔵新城も「暮らしたいまち」をつくる、
20代が中心となって自らの手でつくる。
そんなプロジェクトなのかもしれないな。  

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2016年11月18日

「自由」と「承認」と「尊厳」


「14歳からの社会学」(宮台真司 世界文化社)

実は宮台先生の本、初めてです。
なんていうか、食わず嫌い王でした。

いきない第1章<自分>と<他人>のところから
ガツンと来ます。

~~~ここから一部引用

「尊厳」と「承認」のメカニズム

実は、君が他者に対して自由にふるまえるためには
「尊厳」が必要だ。

「尊厳」は、君以外の人(他者)から「承認」される経験を必要としている。
逆にたどれば、他者から「承認」された経験があるからこそ、「尊厳」(「失敗しても大丈夫」感)
が得られ、それをベースに君は自由にふるまえるんだ。

1 君が「試行錯誤」する(「自由」
2 それを他者が認めてくれる(「承認」)
3 「失敗しても大丈夫」感をいだける(「尊厳」)
⇒1 安心してさらに「試行錯誤」する⇒2・・・

という循環が、人間を社会的に成長させる。

たとえば

1 学校で君がある授業を選んで「この選択はよかった/失敗した」と思う
2 他者が「よかったね。次もがんばって」/「残念だったね。でも次がんばればいいじゃん」と君にいう
3 君は「次もがんばるぞ」/「次はがんばるぞ」と意欲を出す

子どもが大人になるとは、他者たちと交流する中で、
「試行錯誤」をくり返し、「みんなはこういうことを『承認』するんだ」
ということを学んで経験値を高め、「自分はたいてい大丈夫」という
「尊厳」を得ていくことだ。

ところがいまの社会で問題なのは、
「みんな」がよくわからなくなっていること。

「みんな(他者)」は、「ぼく」や「君」に承認をあたえてくれる
大切な存在だ。それが誰だかわからなくなると、
「ぼく」や「君」の「尊厳」は望みうすになる。

すると、今度は悪循環が始まる。
「承認」を与えてくれる「みんな(他者)」がよくわからない
⇒安定した「承認」を得られない
⇒安定した「尊厳」も得られない
⇒自由に試行錯誤できない
⇒ますます「みんな」がよくわからなくなるという悪循環だ

悪循環に陥った結果として3つのタイプがある。
1 他者に「承認」してほしいあまりいい子を演じる、遠慮して意見を言わない
2 まわりの期待と自分の能力の落差に怯え、試行錯誤に踏み出せない
3 承認されない環境に適応して、尊厳を投げ出す

この3つ目のタイプが
宮台さんのいう「脱社会的存在」であるという。

~~~ここまで引用

なるほど~。
これは14歳にもわかるような文章だなあ、素晴らしい。

これを大学生になってから
リハビリするとしたら、やはり、
田舎で地域系の何かに出て、「承認」を得ることが
近道なのだろうなと思う。

承認⇒試行錯誤⇒承認⇒尊厳

のサイクルを回し始めること。
これが地域コミュニティ、特に田舎の地域コミュニティの役割なのでは
ないかと思うし、それがもっとも、効率的な「尊厳」の回復方法ではないかと
僕は思っている。

茨城・常陸太田の里美とか、新潟の粟島とか、かなりいいと思います。  

Posted by ニシダタクジ at 08:02Comments(0)日記

2016年11月16日

「成人式」と「社会人」を問う

「これからの成人式」を売りたい。
本を通じてって思う。

大人になるとは、
社会人になるとは、

そんな問いを投げかけたい。

20歳になることが大人になることではない。
会社に入ることが社会人になることではない。

そんなことはみんな分かっているはずなのに、

世間では、成人式が行われ、
大学生は、就職活動を行っている。

いや、それ自体が悪いわけではないのだけど。

大人になるとは?
社会人になるとは?

の問いを投げかけたい。

本を通じて。
それがこれからのツルハシブックスではないかと思う。

自分と社会とのコミュニケーションをどのようにとっていくか。

自分サイドとしては、
「承認欲求」の原因を知り、それを相対化し、
たとえば、「分人主義」のような、
劇団員的な生き方を。

社会サイドとしては、
歴史を知り、資本主義を相対化し、
これからの世の中を展望していく。

その上で、
自分と社会のあいだをコミュニケーションする方法と、
自らを表現しながら生きる方法を探る。

その上で就職・あるいは起業していくような、
感性を大切にして、キャリアドリフトをしていくような、

そんな20代の助けになるような
本屋をやりたいなあと思う。

そうすると、
本屋としての顧客は主に大学生~20代。
コンテンツとしては「本の処方箋」

ハックツという古本プロジェクトとしての
顧客は10代ということになるだろうか。

それらを組み合わせて、世の中に、
ツルハシブックス店員サムライのような、
「松下村塾的な」場やチームを生み出していくこと。

それ、これからもやっていきたいです。  

Posted by ニシダタクジ at 08:08Comments(0)日記

2016年10月10日

ヒントは過去にある~Connecting the dots

アップル創業者のスティーブ・ジョブズの
スタンフォード大学卒業式での伝説のスピーチ。

「先を見て点をつなげることはできない。
できるのは過去を振り返って、点をつなげることだけだ。
だから将来、その点がつながることを信じなければならない。

直感や運命、人生、カルマ、何でもいいからそれを信じること。
点がつながって道となることを信じることで心に確信を持てる。
たとえ人と違う道を歩むことになっても、信じることだ」

大学を中退したことで、
潜り込んだカリグラフィーの授業。
当時はただ夢中でそれを学んでいただけ。
しかし、それがパソコンに「フォント」という概念を生み出した。

そう。
過去を振り返って、点と点をつなげる。

それは、「つながっているように見える」
だけかもしれない。

でも、多くの、活躍している人たちのインタビュー。

きっかけは?

と聞かれて答えるのは、ほとんどの場合、
「過去のリアル」だ。

「リアル」とは、
「感情が揺さぶられた経験」のこと。

病児保育分野で活躍するフローレンスの駒崎さんも、
自分のお母さんが電話で話していた相手が、
病気の子どもの面倒を見るために、何度か休んで、
会社を解雇されたという事実に心を揺さぶられたことから始まっている。

だから、進路に悩む大学生たちも、
過去の「心揺さぶられた経験」を思いだしていくことを
始めていくこと。

そして、大学時代も、多くの人に会い、
「心揺さぶられる経験」をすること。

感性を磨いて、
自分の心が揺さぶられる経験を多くすること。

これがキャリアドリフト時代の
進路選択の方法なのではないだろうか。

いつか、あなたもインタビューを受けて、
Connecting the dots
と答える日が来るのだ。  

Posted by ニシダタクジ at 06:15Comments(0)日記

2016年10月03日

メディア化するお店の時代

トークイベント
「さよならの向こう側」3連発でのキーワード

・カフェという文化
・出版=パブリッシャー
・「食」というコミュニケーションツール

そこから導き出されるのは、
「商店街を巻き込んだ横のツルハシブックス」
「ツルハシブックスのメディア化」

サムライ、劇団員たちの
「編集員化」だろうと思う。

おそらく、これから、
お店はどんどんメディアになっていく。

参考:
メディアに期待するものは情報ではなくコミュニティとコミュニケーション
http://hero.niiblo.jp/e391242.html
(2014.3.29 20代の宿題)

メディアとしてのお店が示す世界観に賛同して、
そこに人が集まり、コミュニティを形成していく。

その参加の入り口が、
「購入」になっていく。

これを逆から言えば、
コミュニティ・プラットフォーム、
コミュニケーション・プラットフォームを
作りたければ、

世界観を発信するとともに、
入り口となるような小さな商品を売る「お店」
という形態を取ることが
必要なのではないだろうか。

届けようとしている人(顧客)が、
もし、積極的に新しいことに顔を突っ込んでいける人
でなければ、
(多くの中学生高校生大学生はそうであると思うが)

お店という形態を取り、
コミュニケーションの入り口を作らなければ、
接点をつくることができないのではないか。

そういう意味では、
本屋であること、古本屋であること、
米屋であること、雑貨屋であることは、
コミュニケーションの入り口として機能しているのだろう。

そんな入口を持ちながら、
メディアとしてお店を運営していくこと。

これがサムライや劇団員の
次のステージなのではないかな、と思う。  

Posted by ニシダタクジ at 07:40Comments(0)日記

2016年10月02日

横のツルハシブックス

トークイベント3連発。
唐澤さん、高井さん、野呂さん。

午前、午後、そして夜と
「向こう側」について話す。
だんだんと見えてきた、「向こう側」

たぶん。
これからのツルハシブックスは、

カフェ的空間を、
内野町の商店街にどんどん増やしていく。

そして、サムライたちは、
動画や写真など、
広い意味での出版(パブリッシング)
を担っていくのかもしれない。

そして「宿」。
この町が、小さな宿屋のような。

野呂さんがスペインを歩いた時の、
小さなまちの宿屋のような、

そんなまちを作っていくこと。

いわば、
「横のツルハシブックス」
を作っていくこと。

それなのかもしれない。

「向こう側」がだんだんと見えてくる。

未来の「音」が聞こえてくる。  

Posted by ニシダタクジ at 07:49Comments(0)日記

2016年09月27日

ハックツというアイデンティティ

国立本店とコラボ会議。
ツルハシブックスとハックツを簡単に説明する。

こういう場所で説明すると、
なんかやっぱりツルハシブックスとかハックツ
ってすごいんじゃないか。
って思う。

本関連のコミュニティはたくさんあるけど、
ハックツやツルハシブックスほど
スタッフのモチベーションが高いところは
ないんじゃないか。

そんなふうに思った。

そしてその秘密は、おそらく、
10代、中高生にフォーカスしているところ。

構造的には、
10代のための居場所(第3の場所)
をつくるプロセスの中で、

それがスタッフたちの共通点となって
そこは彼らの居場所(第3の場所)にもなっている。

そしてさらにそれを応援する、
地域の大人たちが本や、運営のための資金の
支援をしていく。

それが地域の大人にとっての、
第4、第5の場所になっていくといいのだろうな。

ハックツがコラボするとしたら、
10代、中高生というのは、外せないキーワードに
なっていくのだろうと思う。

それがハックツのアイデンティティであり、
ハックツがハックツである理由なのだから。  

Posted by ニシダタクジ at 05:16Comments(0)日記

2016年09月24日

「誰かのために」という「過去」を積み重ねていく

ツルハシブックスには、
「少年A」と「少年B」と呼ばれる常連のお客さんがいる。

「少年A」は中学3年生。小学校5年生のときから
ツルハシブックスに出入りしている。

「少年B」は高校2年生。
僕が茨城にいるあいだに、常連と呼ばれるようになっていた。

昨日の昼間、僕が3Fで休んでいると、
少年B、高橋くんがマンガを読んでいた。

そこでレポートをやっていた井上有紀ちゃんが
「ツルハシ閉店に向けて、
いまいろいろな人から書いてもらっているのだけど、
何か書いてくれる?」

というと、
「超ネガティブなこと書いてもいいんですか?」
「いいよ、いいよ。」

そうして書かれた紙がこちら。


うんうん。
そうだよね。
バカヤロー。
それだわ、きっと。

昨日も、少年Aは、
1Fと2Fの階段の途中で、
ひとり、YOUTUBEを見ていた。

2FからWIFIを飛ばしているので、
そっちのほうが電波がいいんだって。

2人の少年にとって、
ツルハシブックスは「居場所」なのだろうなと。
「サードプレイス」という言葉では
言い表せないほどの居場所なのだろうと。

そして、サムライたちは、
2人の少年に接する中で、
大切な「過去」を積み重ねていく。

それはきっと、
「顧客は誰か」という問いへのヒント。

すべての会社が
明らかにしなければならない
ドラッカーの5つの質問。

いや、本当は、
すべての事業は、

あるいはすべての人たちが、
人生を生きる上で、明らかにしなければならないこと。
「顧客は誰か」
「顧客にとって価値は何か」

それは、少年Aや少年Bといった
具体的な誰かに出会うこと。
心を揺さぶられること。

そこから人生は始まっていくのだろうと思う。

ツルハシブックス店員サムライとは、
きっとそういうことなのではないだろうか。

「誰かのために」という「過去」を積み重ねていくこと。

福島正伸さん風に言えば、
「あきらめない理由」を積み重ねていくこと。

ツルハシブックスがあってよかった。

ツルハシブックスを設計・施工した
今井あゆみさんがやりたかったのは、
きっとこういうことなのだろうな。

素敵なお店をありがとう。
ツルハシブックスという旅はまだ、終わりませんよ。  

Posted by ニシダタクジ at 07:09Comments(0)日記