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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2013年04月07日

ファクトリーからワークショップへ

「わかりあえないことから」で小休止。
ふたたび「かかわり方のまなび方」に戻る。
深いなあ、西村先生。



ワークショップが拡大解釈的に使われ始めた起源。
それは、アメリカが農業から工業へ、
そして都市中心の社会へと移っていった時代性がある。

アメリカはT型フォードに代表される
「世界の工場」として繁栄した。

いっぽうで労働者たちは、
ただの「労働力」として扱われることへの違和感を
感じ始めた。

「工場」というシステムが中心でそれにしたがって生きていくような空間ではなく、
人間を中心とする場を社会の中に取り戻してゆきたいという期待。
「工房」を意味するワークショップ

にはそんな思いが込められていたのではないか。

~~~ここから引用

ファクトリー(工場)の特性は、
「何をつくるか?」があらかじめ決まっている点にある。
そしてそれを効率よく、高精度に、間違いなく生産するためのラインが設計され、稼働する。

一方ワークショップ(工房)では、「何をつくるか?」は
あらかじめ決まっていない。少なくとも設計図のたぐいはない。
そこには素材があり、道具があり、「少しでもいいものをつくりたい」
意欲を持つ職工が集って、互いに影響を与えながら働く。
そしてつくり出すべき「何か」が、その場で模索されていく。

ファクトリーは量産するが、ワークショップは量産のための空間ではない。
また前者において失敗はあってならないもので決して望まれないが、
後者(ワークショップ)では失敗はむしろ重要な手がかりで、いい失敗を積極的に
得るべく試作が重ねられる。

ファクトリー(工場)は、システムを所有し管理する側が大きな影響力と権限を持つ社会を象徴している。
その発展は素人より専門家が、生活者より消費財を供給する側がよりパワフルな社会の深化でもあった。
一方、ワークショップ(工房)では、一人ひとりの個人が中心で、権限も分散している。

このようにファクトリーという対立概念を置くと、ワークショップという言葉に込められてきた願いの
内実が少し見えやすくなる。

~~~ここまで引用。

むむむ。
これはすごいね。

これを見るとなおさら、
僕たちは生まれてからずっとファクトリーな社会を生きてきたから、
気づかなかったのだけど、

もしかしたら「ファクトリー化」された社会の方が
特殊なだったのかもしれないと最近思うようになった。

人が生きる、とか
仕事をする、とかっていうのは、
ファクトリーじゃなくワークショップの方がしっくりとくる。
そんな実感はすごくある。

ここにきて、ワークショップへのまなざしが熱くなる、
今日この頃です。  

Posted by ニシダタクジ at 07:22Comments(0)学び