プロフィール
ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



QRコード
QRCODE
アクセスカウンタ
読者登録
メールアドレスを入力して登録する事で、このブログの新着エントリーをメールでお届けいたします。解除は→こちら
現在の読者数 8人
オーナーへメッセージ

2013年04月11日

もうひとつの道

4月10日、昨日で、
まきどき村は14歳になりました。
1999年4月10日。
僕にとっては大きな一歩でした。

思えば、いま、坂口恭平さんの「独立国家のつくり方」を
読んだあとで振り返ると、

まきどき村はまさに
「もうひとつの世界」を作ろうとした実験だったんじゃないか
と思います。

豊かさとは何か?

という問いから、僕がたどり着いたカタチ。
それをただ、表現したかった。
それだけです。

絵を描いたり、
音楽を奏でたり、
踊りを踊ったりするように、

僕は畑に人を集めて、
囲炉裏を囲んで釜炊きご飯を食べる、
という表現方法にたどり着き、
そこで感じてもらう何か、を楽しみたかったのです。



若い。
24歳。

振り返るにはまだ早いけど、
多くの人は、「もうひとつの道」を必要としてるのではないかと
思います。

見えている社会だけが唯一の世界ではなく、
世界はタテに無数に広がっているのです。

視点を広げる。
そんな機会に、
まきどき村の人生最高の朝ごはんがお役に立てればと思います。



人生最高の朝ごはんは毎週日曜日開催。
今週は14日にやりますが、
同じ日に小学生のイベントがかぶっているので、
おにぎり作って、畑で食べます。

ジャガイモを植えますよ。
参加、歓迎です。

まきどき村15年目、スタートします。  

Posted by ニシダタクジ at 05:40Comments(0)足跡

2013年04月10日

書類を捨てる、ということ

書類の整理。

これは、「何をやらないか?」
という決断を求められる作業。

「経験」が詰まっている書類。
それを捨てることは
もうそれをやらないということ。

ドラッカー5つの質問。
1 われわれのミッションは何か?
2 われわれの顧客は誰か?
3 顧客にとっての価値は何か?
4 われわれにとっての成果は何か?
5 われわれの計画は何か?

この中でも2顧客は誰か?
この質問に答えていくことが
全ての組織にとって必要だと思う。

オファーの来る全ての事業が
ミッションにつながっていると思えてしまうからだ。
そうではなくて、顧客は誰なのか?
そして
3 顧客にとっての価値とは何か?
この質問に向き合わないと、書類が捨てられない。(笑)

ここをしっかりと絞っていく。

10歳から29歳くらいまでと顧客を絞ろう。
そして、義務教育には手を出さない、と決めよう。
あくまで学校を補完する立場で関わっていこう。

農作業とか農業体験を
目的にするのではなく、フィールドとして活用して、
その先の目的を見ていこう。

ということで、
いろいろ書類を捨てました。

書類を捨てる前に自分戦略会議が必要ですね。  

Posted by ニシダタクジ at 05:32Comments(0)日記

2013年04月09日

評価者から共感者へ

褒める。
って難しい。

と昨日書いた。

評価する。
というのは難しいことだ。

褒めるという行為は、
その場にいる人を評価者と被評価者に分けてしまうような、
そんな怖さがある。

評価されることを目的してしまう危険と隣り合わせだ。

褒めるではなく、認める。
評価するではなく、共感する。

テレビを見ると、人をけなしてばっかりだ。
(ばっかりではないだろうけど、どっちかといえば賞賛するよりも多いだろう)
だから、褒めることが必要だ。

そうじゃなくて、
共感する、ということなのかもしれない。

共感してくれる、誰かがいる。
それだけでだいぶ違うのではないだろうか。
評価者から共感者へ。
これが若者と接する時のキーワードとなるのかもしれない。

うーん。
こんなとき、
三島邦弘さんの「計画と無計画のあいだ」が読みたくなる。

真実はすべて、あいだにあって、
そのあいだを決めるのは本人たちなのだ。

きっと教育も
評価と共感のあいだにあるかなあとふと思った。  

Posted by ニシダタクジ at 05:41Comments(0)日記

2013年04月08日

自信を持つのではなく、他者評価を生きないということ

若者支援について考えさせられる機会を多く頂いている。

それは大学生だったり、
中高生だったり、
引きこもりの若者だったりする。

そしてよく、
「自分に自信を持つ」ということの
難しさを痛感させられる。

心理学者アルバート・バンデューラによると
自己効力感=self efficacy(⇒おそらくは日本語にすると「自信」の一種)
を高めるには

1 制御体験(成功体験)
・・・自分を制御して目標を達成する経験
2 代理体験
・・・達成した人の話を聞く経験。
3 社会的説得(言語的説得)
・・・「やればできる」などという他者からの説得。
4 生理的・感情的状態
・・・長所や短所を感じる生理的体験を自覚すること。

だと言われている。

このうち、今回の課題は、
1 制御体験(成功体験)
だ。

「成功」と言われると、
どうしても私たちは、
「他者評価による成功」を思い浮かべる。

誰かに褒めてもらった。
「すごいね」と言ってもらえた。
金銭的に高く評価された。

など。

では、それが本当に自己効力感(≒自信)
につながっているのだろうか?
そもそも、彼らは自信がないとしたら、
なぜ、自信がなくなっていったのだろうか?

子どものころはみな、なんでもできる気がしている。

僕は高校生の頃、
地球環境問題の現実にショックを受けたのだけど、その現実を前にして、
自分が何か新技術を開発することで、解決しよう。と本気で思っていた。

ところが、
大学に入って、たくさんの本を読んだり、自分自身の能力のなさを痛感すると、
自分には何もできない、と思って、絶望した。
なんのために大学に入ったのか、まったく分からずに途方に暮れた。

そんなとき、
農学部学生の自主ゼミの全国大会が東京であり、
それで発表している同学年の大学生のすごさにショックを受け、
サークルを立ち上げた。思えばあの出会い、敗北感が僕の出発点だったように思う。

そうやって、サークルを立ち上げてからは、
たくさんの失敗をし、周りの大人に多大な迷惑をかけて、
そうやって、一歩ずつ前に進んでいた。

やることに継続性・持続性がなくて、
すぐに断念したこともたくさんあって、
たくさんの人に迷惑をかけたから(現在も)、
僕を批判する人たちはたくさんいる。

そういうときに指摘を受けると、
僕もシュンとなって落ち込んでしまうのであるが、
意外に僕には「鈍感力」というのがあって、
そういう失敗に対して、自信を失わないような耐性をつけてきた。

また、中にはあたたかく見守ってくれる大人や友人もいて、
「行動することに価値がある」と言ってくれたりもした。

だとすると。

「自信を持つ」というのは、
他者から褒められるということによって育まれるのではなく、
自分の意志で行動したことに対して、
それを認めてくれることのプロセスによって育まれるのではないか。

「何かができた」ことがすごいのではなくて、
「やってみた」ことに価値があるのであって、
結果はおまけみたいなもんだ。

「承認される」ということと
「褒められる」というのは、ちょっと違うのだろう。

いちばん大切なのは、
「他者評価を生きない」ということだと思う。

人は、他者評価を生きることで、
どんどんきゅうくつになっていった。

坂口恭平「独立国家のつくり方」(講談社現代新書)に登場する
俗称(本人たちはおそらく思ってはいない):ホームレスは、
家のように見える段ボール群を「寝室」だと言い切り、
図書館を「我が本棚」だと言った。

経済社会という
「統一された他者評価」の基準での「幸せのようなもの」から
決別した彼らの潔さに坂口さんは衝撃を受ける。

ということは、
自己効力感(≒自信)を手に入れるためにまず大切なのは、
「他者に評価される自分になる」ということではなく、
他者評価を生きないこと(⇒さすがにいきなりは難しいから)であり、
他者評価に行動を左右されないことなのではないだろうか。

もし、そうだとしたら、
若者支援の重要なポイントは
・むやみに結果を褒めない。
・行動を承認する。

そんな話をツルハシブックスでしていたら、
教育学部の大学生ふたりが
「褒める」じゃなくて、「認める」なんだよ。
と言ってくれた。

なるほど。
褒めるじゃなくて、認める。

そのために必要なのは、
「承認」する、ここにいてもいい、という空気に満ちた「場」
を作っていくということも非常に大切になる。

居場所とは、そういう場所なのだろう。  

Posted by ニシダタクジ at 07:12Comments(0)日記

2013年04月07日

ファクトリーからワークショップへ

「わかりあえないことから」で小休止。
ふたたび「かかわり方のまなび方」に戻る。
深いなあ、西村先生。



ワークショップが拡大解釈的に使われ始めた起源。
それは、アメリカが農業から工業へ、
そして都市中心の社会へと移っていった時代性がある。

アメリカはT型フォードに代表される
「世界の工場」として繁栄した。

いっぽうで労働者たちは、
ただの「労働力」として扱われることへの違和感を
感じ始めた。

「工場」というシステムが中心でそれにしたがって生きていくような空間ではなく、
人間を中心とする場を社会の中に取り戻してゆきたいという期待。
「工房」を意味するワークショップ

にはそんな思いが込められていたのではないか。

~~~ここから引用

ファクトリー(工場)の特性は、
「何をつくるか?」があらかじめ決まっている点にある。
そしてそれを効率よく、高精度に、間違いなく生産するためのラインが設計され、稼働する。

一方ワークショップ(工房)では、「何をつくるか?」は
あらかじめ決まっていない。少なくとも設計図のたぐいはない。
そこには素材があり、道具があり、「少しでもいいものをつくりたい」
意欲を持つ職工が集って、互いに影響を与えながら働く。
そしてつくり出すべき「何か」が、その場で模索されていく。

ファクトリーは量産するが、ワークショップは量産のための空間ではない。
また前者において失敗はあってならないもので決して望まれないが、
後者(ワークショップ)では失敗はむしろ重要な手がかりで、いい失敗を積極的に
得るべく試作が重ねられる。

ファクトリー(工場)は、システムを所有し管理する側が大きな影響力と権限を持つ社会を象徴している。
その発展は素人より専門家が、生活者より消費財を供給する側がよりパワフルな社会の深化でもあった。
一方、ワークショップ(工房)では、一人ひとりの個人が中心で、権限も分散している。

このようにファクトリーという対立概念を置くと、ワークショップという言葉に込められてきた願いの
内実が少し見えやすくなる。

~~~ここまで引用。

むむむ。
これはすごいね。

これを見るとなおさら、
僕たちは生まれてからずっとファクトリーな社会を生きてきたから、
気づかなかったのだけど、

もしかしたら「ファクトリー化」された社会の方が
特殊なだったのかもしれないと最近思うようになった。

人が生きる、とか
仕事をする、とかっていうのは、
ファクトリーじゃなくワークショップの方がしっくりとくる。
そんな実感はすごくある。

ここにきて、ワークショップへのまなざしが熱くなる、
今日この頃です。  

Posted by ニシダタクジ at 07:22Comments(0)学び

2013年04月06日

地域経済の流れの一部になるということ

なんと、わたしたちは分断された社会を
生きているのだろうと思った瞬間だった。

いつ、その想像力を失ったのか。
「コストパフォーマンス」「他店と比べてください」などという
言葉に市場を席巻されたのだろうか。

昨日、古町にある、昭和の薫り漂う
シブいとんかつ屋さん「青い鳥」(仮称)に行った。

ソースの効いた「たれカツ丼」が食べられる。
カウンターのみ、6,7人しか入れない店内で
しばし、カツ丼ができるのを待つ。

僕たちが入る前に入っていたお客さんは、
会計をして、出て行った。
帰り際にこう言った。
「また来週。」

また来週ってのは、毎週金曜日に来ているのか、
それとも毎日、仕事終わりに来ているのか、
それとも、また来週もがんばろう、という掛け声なのか。

次にやってきたお客さんはお持ち帰りだった。
「いつもありがとう」
「ホントは食べて帰りたいんだけど」
「まあ家族で食べるのもいいじゃない。」
「また来るよ」
「転勤なかった?奥さんも?」
「なかった」
「よかったね~」
これはおそらく、公務員的な夫婦なのだろうか。

そして、ニュースで鳥インフルエンザの話題が聞こえてきた。
店主のおばちゃん、すかさず「こわいねえ」とかぶせる。
そのタイミング!、素晴らしい。

そして、目の前にカツ丼が運ばれてくる。
これでもか、というくらい載っているカツ。
甘辛のタレ。



うわっ。
これはうまいや。
まいった。
みんなが通う理由がわかる。

いや。
でもそうじゃない。

みんな、地域経済の一部に組み込まれているだけだ。
日々、働いて稼いだお金の一部をこのとんかつ屋さんに
循環させている。

そして、店主のおばちゃんとたわいもない会話を交わす。
そういう豊かな風景が、かつて、どこのまちにもあったのだろう。

自分が地域経済の仕組みに組み込まれているということ。
そんな豊かさを感じられる場所が、まだかろうじて残っている。

そんな「つながり」をもしかしたら
現代の若者こそ、求めているのではないだろうか。

地域経済の循環の中にいる。
そんな幸せ感を感じるために、また、僕は、あの店に足を運ぶのだろう。

もうひとり、近所のおじさんらしき人が入ってきて、
カツ丼を注文した。

食べ終わってはいたのだけど、
お母さんが奥の厨房で作っているので、
カツ丼が出来上がるタイミングを待って、お会計。

ごちそうさまでした。

あたたかい時間を、ごちそうさまでした。  

Posted by ニシダタクジ at 05:31Comments(0)日記

2013年04月05日

協調性から社交性へ

「わかりあえないことから」
読み終えました。

素晴らしい。
最後熱い。
演じるということ。

「協調性から社交性へ。」
「みんなちがって、たいへんだ。」
「多文化共生時代のダブルバインドをしたたかに演じながら生きる人材を育てる。」

キーワード盛りだくさん。
ステキだなあ。

この本と
坂口恭平「独立国家のつくり方」で
15コマ、ゼミができます。

世の中はひとつではなく、
何層にもまたがっていて、
それを自由に行き来できること、
つまり、演じられることが、生きる術なのだなあと思います。

学校では、「いい子を演じる」という
自覚を持って、いい子を演じればいい。

本当の自分とか
本当にやりたいこと、とか。
そんなものに悩む必要なんかない。
演じているものの総体が自分であり、やりたいことだ。

そんなふうに人が育っていけばいい。

開講するタイトルはこれ。
「多文化共生時代を生き抜く、人生の演じ方」
テキストは
「わかりあえないことから」と「独立国家のつくり方」

いいね。
5月に開講しましょう。
中学生くらいにも理解できるような授業をしたいなあと思います。

いい本に出会い、またいろいろつながってくる。
これだから読書は楽しいのです。  

Posted by ニシダタクジ at 05:33Comments(0)学び

2013年04月04日

冗長率というコミュニケーション力

芝居がかった、とか
セリフみたいな、とか、
ヤラセっぽい感じ、とか。

その原因がどこから来るのか?
それは、芝居のセリフにあまりにも
無駄がないから、だと言う。

本日も
コミュニケーションについて考える、
平田オリザさん「わかりあえないことから」(講談社現代新書)の
自主ゼミの時間です。

ある演劇の教科書に

その、竿を、立てろ

という例文があって、

この、ではなく「その」を強調したい時には「その」を
棒ではなく「竿を」を強調したい時は「竿を」を
転がすのではなく「立てろ」を強調したい時は「立てろ」を
それぞれ強調して読むと言う練習を繰り返し、
感情表現ができるようになると実際に書いてあるそうだ。

しかし、これは日本語としては少しおかしい。

本当に竿を強調したい時、
わたしたちは

「さお、さお、さお、その竿立てて」
と言うし、

立ててほしい時は
「立てて、立てて、その竿」
と言うのではないか。

これは西洋近代演劇を模した日本演劇の不幸だと平田さんはいう。

・日本語は、強弱アクセントをほとんど使わない。
・日本語は、強調したい言葉を、語頭に持ってきて繰り返すことができる。

これが、日本語の演劇が
「芝居くさい」ことの原因だという。

演劇は話し言葉が多用される。
それを書くときに重要なのは、
「会話」と「対話」を区別することだとと著者は考える。

「会話」:複数の人が互いに話すこと。またその話。
⇒価値観や生活習慣なども近い親しいもの同士のおしゃべり。

「対話」:向かい合って話し合うこと。またその話。
⇒あまり親しくない人同士の価値観や情報の交換。あるいは親しい人同士でも、
価値観が異なるときに起こるその摺りあわせなど。

日本社会には、この「対話」の概念が希薄なのだと言う。
それは、日本が稲作文化の中で、
ほぼ等質の価値観や生活習慣を持った者同士の集合体を
基本として構成されていたから、阿吽の呼吸、みたいなのが大切だとされたのだ。

他方、ヨーロッパは、
異なる宗教や価値観が陸続きに隣り合わせているから、
自分が何を愛し、何を憎み、どんな能力で社会に貢献できるかを
説明しなければならない。

日本がいいとか、ヨーロッパがいいとかではなく、
これは文化的な背景が違うからどちらがいいというわけではない。

そしてもうひとつ、「冗長率」だ。

一つの段落、一つの文章に、どれくらい意味伝達とは関係ない無駄な言葉が
含まれているかを数値で表したもの。

ふつうのおしゃべりである会話が、高い数値になりそうだが、
そうではなく、異なる価値観のすり合わせをする対話がもっとも冗長率が高くなる。

「えーと、まぁ、おっしゃることはわからないでもないですが、ここはひとつどうでしょうか、
別の、たとえば、こういった見方もあるんじゃないかと・・・」

とここまで何一つ本題に入っていない。
冗長率は圧倒的に高くなる。

この冗長率を操作することで、
相手の理解度や聞きやすさが変わってくるのだという。

7時のニュースと9時のニュースでは
圧倒的に9時のニュースの方が冗長率が高い。
またスポーツニュースなどに芸能人を起用したりするのは
まさに冗長率を変えて、聞きやすくしているのだろう。

著者によると、
冗長率操作の天才はニュースステーションの久米宏さんで、
ニューストピックに応じた冗長率の操作が天才的だったという。

なるほど。

~~~ここから引用

日本の国語教育は、この冗長率について、
低くする方向だけを教えてきたのではなかったか。
「きちんと喋れ」「無駄なことは言うな」
・・・だが本当に必要な言語運用能力とは、
冗長率を低くすることではなく、それを操作する力なのではないか。

だとすれば、国語教育において、本当に今後、
「話す・聞く」の分野に力を入れていこうとするならば、
少なくともスピーチやディベートばかりを教え、
冗長率を低くする方向にだけ導いてきたこれまでの
教育方針は、大きな転換を迫られるべきだろう。

~~~ここまで引用(「わかりあえないことから」より)

うーむ。
なるほど。

これ、コミュニティデザインの分野って
まさにそうだなあ。

相手によって、
冗長率を変化させていくことができる力。

田舎に行って、
じいちゃんばあちゃんたちと話すときに、
「結論から申しますと」

みたいな切り出ししたら、怒られるよなあ。

これは、面白い。
何を養成するためのコミュニケーション力なのか。
もういちど問い直す必要がありそうです。  

Posted by ニシダタクジ at 07:14Comments(0)学び

2013年04月03日

喋らないという表現、教えない勇気


「わかりあえないことから」(平田オリザ 講談社現代新書)

これ、いいね。
なんか、根源的な問いが詰まっている気がする。

平田オリザさんが学校で行う国語の授業。
そこでは、簡単な演劇をつくるワークショップが行われる。

たとえば、朝の教室でみんなが登校後、
ワイワイガヤガヤやっている中に、先生が入ってくる。
という芝居。

セリフや配役を自分たちで考え、やってみる。
そのときの柔軟性がおもしろい。

セリフがない人がいてもいいのだ。

「話さない」と言った子に対して、
「じゃあ、君は話さない役にしようか?」
と平田さんが聞くと、

意外にみんな
「えー、じゃあ、なんか言う」
といって自分のセリフを書き始める。

「話さない、寝てるから」という子に対しては、
「おぉ、いいね、いいね、じゃあ君は寝てる役にしようか」

「いない、いつも遅刻ギリギリだから」と言う子がいたら、
「おぉ、いいね、いいね、じゃあ遅刻してくる生徒の役も作ろう」

とくるわけだ。
なんだかこの授業とても楽しそう。

演劇という舞台での「役」としては、
別に話す人ばっかりじゃなくてもいいのだ。

このときに子どもたちは
「話さない」というのも表現だと知る。

あるいは「その場にいない」ことさえ、
表現かもしれないと感じる。

平田さんは言う。
子どもたちのなかで「表現」という概念が大きく広がっていく瞬間がある。

いいね。こういうの。
しゃべらないという表現。
こういうのもあるんだって知る。

だから先生だって、
「教えない」というのもあることを知ること。

平田さんは公教育の世界に入って一番驚いたのは実はこの点だと言う。

先生はついつい
「ほら、先生が入ってきたんだから、そんな言葉づかいじゃダメでしょう」
ということを一方的にすり込んでしまう。

少し、本文から引用する

~~~ここから引用

私が公教育の世界に入って一番に驚いたのも、実はこの点だった。
教師が教え過ぎるのだ。もうすぐ子どもたちが、素晴らしいアイデアにたどり着こうとする、
その直前で、教師が結論を出してしまう。
おそらくその方が、教師としては教えた気になれるし、体面も保てるからであろう。
だいたいその教え方というのも全国共通で、「ヒント出そうか?」と言うのだが、
その「ヒント」はたいていの場合、その教師のやりたいことなのだ。

表現教育には、子どもたちから表現が出て来るのを「待つ勇気」が必要だ。
しかし、この勇気を培うことは難しい。
ただの勇気では、蛮勇になってしまう。経験に裏打ちされた自身が「待つ勇気」「教えない勇気」
を支える。

~~~ここまで引用「わかりあえないことから」より

場の持つチカラ。
表現するという自由。
なんか、人生や世の中の基礎が学べそうな授業。
こういうの、楽しいかもしれませんね。

わが塾でもできないかしら。  

Posted by ニシダタクジ at 07:21Comments(0)学び

2013年04月02日

どうして本屋さんをやったのか?

どうして本屋さんを開業するに至ったのか?

っていう質問をよくされるのだけど、
あまりにも外部要因が多すぎて、
向こうが期待するような回答ができていない気がする。
でも、それが事実なのだからしょうがない。

キレイな理由は、
出版社の営業をしていて、
ステキな本屋さんにたくさん出会って、
自分でもいつか本屋がやりたいと思い、
念願かなって、出店しました。

うん。
まあ、ウソではない。
4月2日だし。

サンクチュアリ出版の営業時に
・平安堂飯山店のM店長(当時)
・ヴィレッジヴァンガード郡山アティ店のM店長(当時)
・トップカルチャー蔦屋書店のYさん
という3人の書店員さんに出会ったから。

あ。今書いていて気づいたのだけど。
僕は素敵な本屋に出会ったから本屋になったのではなくて、
ステキな書店員さんに出会ったから本屋になりたかったのだ。

本屋で世界を変えられる。
今でもそう思っている。
だって、世界を構成しているのはひとりひとりの人間なのだから。

そう。
そういう説明が一番キレイだ。

でも。
半分はそうじゃない。

ヒーローズファームとして、商店街に出たかったのだ。
いつまでも秘密結社のように活動するのではなく、
みんなが、特に大学生高校生中学生が足を運びやすい場所に「場」をつくり、
地域の大人との接点を作りたかった。
それもずっと前から思っていた。

タイミングよく空き店舗と空き店舗活用の補助制度があり、
ここで若者と地域の拠点づくりをやろう、
ということで内野駅前に出ることになった。

「なぜ内野で?」
というのもよく聞かれるのだけど。

ひとつは大学生高校生中学生がたくさんいるから。

もうひとつは、内野という町の位置が
農村部と都市部のちょうど境目にあるから。

そう。
やはり僕の原点は畑であって、
「畑を中心にして人が集まる場をやりたい」
っていうのは今でもまきどき村に生きているのだけど、

そしてそれを必要としている人は都市部にはたくさんいて、
その結節点として機能したいというのが、
内野である理由だ。

インタビューをされると、
原点に返るし、自分がなぜやっているのか?
を見つめなおす機会になる。

地域と人生の小田原中継所。
それは若者と大人の中継所でもあり、
農村と都市の中継所でもある。

いざ、新年度。
張り切っていきましょう。  

Posted by ニシダタクジ at 06:02Comments(0)

2013年04月01日

【御礼】FAAVO達成しました

3月31日を締切に動いてきました、
ツルハシブックス&うちのカフェイロハニ堂
の改装資金を集める

FAAVOプロジェクト
「求ム、寄附侍&贈本侍。あなたもサムライになりませんか?」
は、おかげさまで、23名、133,000円の申し出を頂き、
無事、成立いたしました。
https://faavo.jp/niigata/project/49

全国からのみなさまのあたたかい申し出に
ますます身の引き締まる思いです。

うちのカフェ「イロハニ堂」は
おかげさまで、レアチーズケーキやくつろぎ空間
に対してのお褒めの言葉を多数いただいております。

ツルハシブックスは、
人生の冒険の途中に立ち寄る本屋として、
ドラクエのまちをイメージして再配置しました。

地下古本コーナーHAKKUTSU(発掘)は、
宝探しをするように、本が隠されています。
残念ながら29歳以下の方しか入場できません。

みなさまのおかげで、
無事、改装を行うことができました。

全国に散らばったサムライの皆様に応えられるよう、
若者が機会を得られる書店を創っていきます。

※寄附サムライの方、FAAVO経由で
特典送付先や、特典の種類について
問い合わせさせていただきます。

今後ともよろしくお願い申し上げます。
ありがとうございました!

PS
店頭分も昨日で91名のサムライが誕生しました。
金額集計がまだ間に合っていませんが、
また報告させていただきます。  

Posted by ニシダタクジ at 05:28Comments(0)日記