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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2014年11月09日

強い現実と弱い現実

内田樹さんの本を久しぶりに。

http://mishimasha.com/books/machiba5.html
「街場の戦争論」
帯には日本はなぜ「戦争のできる国」に
なろうとしているのか?とあります。

なんだか、新聞を見ていても
ニュースを見ていても
なんとなく、
そっちの方向に行っているような気がするのだけど、

それはいったいなぜなのか?

という問いを深めたくて、
ニュースや新聞ではわからなくて、
いっつも世の中を鋭く切っている内田樹さんの
力を借りようと。

表現で面白かったのは、
世の中には、「強い現実」と「弱い現実」があるということ。
「過去に対する想像力」を持つということ。

~~~ここから引用

「歴史に『もしも』はない。」と言う人たちは、
今ここに存在する現実はすべてひとしなみに同じ
歴史的必然性を持ち、
同じ重量、同じ厚みを持っていると言いたいのでしょうか。

でも、僕はそういう考え方には同意できない。
「もしも」ある出来事が起きた場合に、
「それから後にまったく変わってしまったもの」と、
「もしも」ある出来事が起きたとしても
「それから後もあまり変わらなかったもの」があるからです。

ある転轍点を過ぎて、
違う線路を選んだ場合には「変わるもの」と、
どの線路を選んでも「変わらないもの」がある。

僕はそのどちらもが同じ「現実」だと言い切ることができません。
僕はそれを「弱い現実」と「強い現実」
というふうに言い分けるようにしています。

~~~ここまで引用

な、なるほど。
強い現実と弱い現実ね。

そして何より(まだ序盤しか読んでませんが)、
この本のテーマは、そのページ前に書かれているこの一節だと思います。

僕たちが敗戦で失った最大のものは、
「私たちは何を失ったのか?」
を正面から問うだけの知力です。

あまりにもひどい負け方をしてしまったので、
そのような問いを立てる気力さえ敗戦国民にはなかった。

その気力の欠如が
戦後七十年続いた結果、この国の知性は
土台から腐蝕してきている。

うーむ。
たしかに。

とうならされることが内田さんの文章にはよくありますね。

「日本はなぜ戦争のできる国になろうとしているのか?」
このテーマを考えることで見えてくる何かがあるのでは、と感じます。  

Posted by ニシダタクジ at 05:15Comments(0)

2014年11月08日

答えを出すことがもっとも重要なのではない

人生を編集し直すこと。
これが40歳なのかもしれないね。

振り返って、先を見て、
また振り返って、先を見て

その繰り返しで人生を再編成する。

世の中も、
周りを取り巻く環境も、
刻一刻と変化しているから、
その作業はずっと続けていかなければならないのだろうと思う。

「やりたいこと、夢を見つけたい。」
そうずっと思っていた。

思えばそれは、小学校に見た名作テレビドラマ
スクールウォーズのイソップから滝沢先生への問い、
「人は何のために生きているんですか?」
から始まって、

学校教育で受けた、
やりたいこと、夢を見つけて、そこに向かっていく
人生を理想として、
やりたいことや夢を見つけること
が第一歩だと思っていた。

見つかった。
それは畑だった。

しかしすぐに
「これは本当にやりたいことなのか?」
という疑問が湧いてくる。

今思う。

「これは本当にやりたいことなのか?」
という問いは、
無意味でもあり、少しは意味があるのかもしれない。

一番大切なのは、
「答えを出すことがもっとも重要なのではない」
ということか。

苦しさの源泉はまさにここにある。

答えを出そう、
と思っているから苦しい。

やりたいこと、夢、に答えやゴールなど存在しないのではないか。

これはまさに、
学校教育の呪縛そのものではないか。

答えがある。
正解がある。
そしてその答えは先生がにぎっている。

その繰り返しに小学中学高校と12年間も浸かっていれば、
「答えがほしい」と思うようになるのは仕方ない。

しかし。
現実社会に答えや正解がないように、
やりたいことや夢、人生にも当然、答えはないはずだ。

今、やりたいことは
「本当にやりたいこと」仮説のひとつに過ぎない。

仕事はすべて試作品で、夢はすべて仮説だ。

そんな感じで生きていくほうが、
もっと今を燃焼して生きられるのではないだろうか。

本屋さんを始めたとき、本屋さんは天職だと思った。
いや、「ホスピタルクラウン」(大棟耕介)を読めば実感できるように、
本屋という職業が天職なのではない。
天職だと思える瞬間が多く存在するのが本屋という場だった。

人生を振り返ると、
僕の天職はおそらく、「機会を提供すること」。
カッコよく言えば、
機会提供デザイナー、チャンスメイクデザイナー、あるいはプロデューサー
なのか。

まあ、日本語で簡単に言えば、「劇団員」
なのだろうけど。(笑)

それもひとつの仮説として、
いまをどう燃焼できるのか?
という問いに向き合っていくことが
生きることなのかもしれないと思った。

世の中は仮説にあふれた人生の物語の集合体なのだと思う。

仮説を携えて、今日も歩いていきましょう。  

Posted by ニシダタクジ at 06:36Comments(0)日記

2014年11月07日

本屋は松下村塾になり得るか?

朝読書

来年の大河ドラマの舞台
「吉田松陰と松下村塾」
いやあ、これは熱い。

僕の20代を熱くさせたのは、
東京・北区王子の物語バー「狐の木」と
その地下にある王子小劇場、
その場で行われたお芝居と
軌保博光(てんつくマン)×鶴巻健介(サンクチュアリ出版代表)
のトークライブだった。

1998年11月23日。
16年前になる。

お芝居のタイトルは「20代熱くなって時代を駆け抜けろ」。
というコテコテの熱い感じ。
舞台は幕末、坂本龍馬を中心とした人間模様が描かれた
幕末の物語だった。

当時。
20世紀末。
就職氷河期元年と言われた1998年。
(この年、有効求人倍率が0.9まで下がる)

誰かが変えていかなきゃ。
そういう機運にあふれていた(と僕が勝手に思っていた)
時代だった。

「21世紀、新しい時代をつくるのは、俺たちだ」
と勝手に思っていた20代半ばである。

僕はその時。
「まきどき村」(たぶん名前はまだ決まっていない)
をやることをなぜか心に決めていた。
(場所は決まってなかった)

そのお芝居と、
軌保博光の
「映画を撮りたい。映画を撮っているとき、俺めっちゃカッコイイと思える一瞬がある。」
という一言にシビれ、
僕の肩書は「心震える一瞬プロデューサー」(笑)となった気がする。

その夜は
「のらびとネットワーク」という
農業系若者の集まりが「狐の木」で旗揚げされた。
僕にとっては、人生を大きく動かした1日である。

その後、2002年に不登校の中学3年生シンタロウに出会い、
「中学生高校生と地域の大人が出会える場をつくりたい。」
と強く思って、NPOをつくったのはいいけれど、
その方法論はまったくわからなかった。

とりあえず、子どもの遊び場と
学習塾を並行してやりながらも、
「なんか、これじゃないなあ」と違和感を感じていた。

2004年春。
小説「吉田松陰」を読む。

文中の「野山獄」エピソードに
心を打ち抜かれる。

これだ!と思った。

黒船に乗ってアメリカに渡ろうとして
捕えられた松陰先生が入れられた萩の野山獄。
そこでは、親類から厄介者とされた人たちが
入って、いつ出られるか分からない暮らしをしていた。

そこで松陰先生はひたすら読書に励みながら、
獄中での本の説明(読書会みたいな)や
俳句や書道の教室を開き、
松陰自身も生徒になって習っていたという。
(この野山獄が内野駅前寺子屋「野山塾」の名前の由来になっている)

これがベースになって、
野山獄を出て自宅禁固となった
吉田松陰先生は、叔父が開いた松下村塾を引き継ぐこととなる。

松下村塾の教育方針は4つ。(冒頭の本による)

1 友として一緒に学ぶ
松陰が「一方的に教える」のではなく、
同じ目線で学ぶことを大切にした。
松陰は塾生を「諸友」と呼んだ。

2 褒めて能力を伸ばす
松陰は褒め上手であった。
どんな若者にも長所を見つけ出して伸ばし、
個性を尊重した

3 志を立てること
志は心の芯であり、
これがないと自分を見失うとした。
塾生を適正に評価して志を立てることを助けた

4 学んだことを実践する
人間の本質を「学ぶこと」とし、
それを実行するべきだと説いた。
師が手本を示したため塾生たちも奮起した。

もし、これらを
現代社会において再現するとしたら、
そこは、ツルハシブックスのような場所ではないかと思う。

本屋で学び、
カフェで作戦を練り、
まちで実行に移す。

その繰り返しをできる場所は、
現代では本屋+カフェ+商店街あるいは田園地域
なのではないか。

そしてそれを必要としているのは、
現代の志士たちではないか。

松陰を知る三つの言葉(これも冒頭の本による)

1 草莽崛起(そうもうくっき)
草莽とは、在野で地位を求めないが
国家への忠誠心にあふれる人々。
草莽崛起とは、そうした人々が決起して大業をなすことを指す。

2 一君万民論(いっくんばんみんろん)
権威は君主ひとりが生まれながらに有しており、
それ以外の人々に身分差別はないという考え方。
天皇のもとに万民は平等と説く。

3 飛耳長目(ひじちょうもく)
耳を飛ばして目を長くするように広く情報を収集し、
それをもとに将来を見通して計画的に
行動しなくてはいけないという考え方。

まさのこの教えを再現できるのは、
本屋+カフェという空間なのではないだろうかと思う。

いや、おそらくは勘違いなのかもしれないが、
「現代の松下村塾、それがツルハシブックスです。」
と言える日まで、いろいろと磨いていこうと思う。

さあ、共に学ぼう。  

Posted by ニシダタクジ at 06:29Comments(0)学び

2014年11月06日

天職だと思える瞬間がある



新潟日報メディアシップ20F「そらの広場」で
夜景企画会議が開催。
新潟で活躍する経営者5人と
大学生25人が自社のこれからの企画について語る。

いろいろ改善点はありましたけど、
なかなか面白かったのではないでしょうか。

個人的に気が付いたこと。
僕の天職は機会を提供すること。
本屋さんもそのためのツールなんだって。

夜景企画会議は、
さまざまな機会を提供した。

実行委員には、
経営者インタビュー
インタビューまとめ
紙芝居づくり
プレゼンテーション
当日のテーブルファリシテーター

参加社長にも、
大学生とフラットに考える時間を
参加学生には
新潟の会社って面白い社長多いんだよ、って。

そんな機会提供が僕の仕事なのだろうなと。
そこを追求していくことがこれからやるべきことなのかもしれません。

40にして惑わず。
そうありたいものです。

  

Posted by ニシダタクジ at 07:34Comments(0)就職

2014年11月05日

「つながりたい」という病

つながりたい。
ネットワークしたい。

つなげたい。
ネットワークのハブとなりたい。

活動的な人は誰もが一度はかかる病
なのだと思う。

TwitterなどのSNSで
連鎖して知り合いが増えていくことのうれしさ。
有名な人と出会えたことの高揚感。

もっと人と人が出会ったら、
面白いことが起こるのではないか、という予感。

こうして人は
「つながりたい」から「つなげたい」
と思うようになる。

そういう僕も、
24歳の秋に、伝説のバー「狐の木」(東京都北区王子)
に出会い、
その名も「ネットワークパーティー」と呼ばれるパーティーに
毎月のように顔を出していた。
(しかも、新潟から新幹線で行っていたからよっぽど楽しかったんだと思う。)

職種の異なる20代の熱い人たちとの会話に
胸が熱くなった。

そのころの僕の持ちネタは、
「まきどき村をやって畑を舞台に人と人をつなぎます。」
っていうことを熱く語っていた。

そんなことを言っている人はいなかったから、
当時は結構ウケたように思う。

「狐の木」は、
1998年7月にオープン。
数々の伝説と歴史をはぐくみながら、
2001年11月に閉店した。

藤沢烈さんがかつて言っていた。
「つなげたい」と思っていたやつら
以上の面白い人はだんだん集まらなくなっていった。

「つなげたい」
「ネットワークのハブとなりたい。」

と言う人は、
その先にある何かを見据えているが、
あまりにその場所が「聖地化」してしまうと、

「つながりたい」
「ネットワークしたい」
ということを目的としたい人が集まってきてしまう。

結果。
そこから「面白さ」「ワクワク」みたいなものが
薄れていってしまい、
「場のチカラ」を失っていく。

「つながること」は、
人間の根源的欲求であると思うから、
「つながりたい」と思う気持ちもわかるし、

中学生高校生であれば、
誰かと「つながる」ことなしに、
世界を広げることはできない。

しかし。
つながっているだけで満足してはいけない。

居場所機能だけではない、
チャレンジを生んでいく場所でなければならない。
狭い世界に閉じこもるのではなく、
どんどん世界を拓いていく場所でなければならない。

逆説的だが、それこそが、
居心地の良い場所を保っていく有効な方法論なんじゃないかと思う。

そういう意味では、
「新刊書店」
「商店街」
「農業地域に隣接」
「屋台のある本屋」
「大学が近くにある」
という条件は、最高なのではないかと思えてくる。

「新刊書店」はまだ見ぬ世界の入り口だ。

「商店街」「農業地帯に隣接」「屋台のある本屋」は
小さなチャレンジが生まれる舞台となるということだ。

「大学が近くにある」ということは、
時間という資源を持った若者がたくさんいるということだ。

ツルハシブックスが、「つながりたい」だけで
終わらぬように、
コミュニティとコミュニケーションとチャレンジを
デザインしていく必要がある。

まだ、始まったばかりだ。  

Posted by ニシダタクジ at 06:38Comments(0)日記

2014年11月04日

ひとりいち本屋の時代

本屋さんを始めたのはいつですか?

と聞かれ、2011年の3月20日だと応えるけれど、
ホントは2000年には、巻の家で
「本処 くろすろうど」を開業(?)して、
サンクチュアリ出版から本を預かって売っていたので、
そこから数えると15年目なのだけど。

そのときに会社が思う以上に
僕は遠方から来るお客さんに売ったので、
2001年から書店営業をやらせてもらえることになり・・・
(そういえば、あの家って今で言うところの「ゲストハウス」のようなものだったなあ。)

次は、2007年の「ホスピタルクラウン」(大棟耕介 サンクチュアリ出版)との出会い。

最初の10ページでもう泣ける。
「天職とは、選ぶものではなくたどり着くもの。」
だと教わった。
僕は大棟さんの大ファンになった。

7月。
中越沖地震。

僕は2004年中越地震のときに川口町で
「子どもと遊ぶボランティア」を経験していたこともあり、
(そのときのご縁で2007年5月には川口中で教育実習させてもらった。)
刈羽村のボランティアセンターの誘われ、
7月後半から8月の夏休みが終わるまでのほぼ毎日、刈羽村に足を運んだ。

そのときに、
大棟さんの顔が浮かんだ。

ひとつくらい、地震があったからこそ出会えた、
って思い出があってもいい。

サンクチュアリ出版鶴巻社長にお願いして、
大棟さんの刈羽村の仮設集会場での公演が決定。


NHKにも取り上げられた。
(大棟さんは、翌年2008年にも同じ集会場で公演している)

そして2009年4月。
大棟さんが新潟市で講演会をするという情報を入手。
書店さんが入ってくれなかったので、
自分で本を売ることになった。

そこでサンクチュアリ出版営業部長、市川さんの一言。

「委託にする?買い切りにする?」

思えば、市川さんのあの一言が
僕を本屋に導いたと思う。

「もちろん、買い切りで。100冊でお願いします。」

100冊くらい売れる、となぜか思っていたのだけど、
当日の入場者は200名ほど。

当日。
本は38冊売れ。
ヤッテモウター。
僕は62冊の在庫を抱えることになった。

62冊を家に置いておいても仕方ないので、
これは、本屋を始めるチャンス到来!と思い、屋号を考えた。
(昨日の葉葺正幸×ひすいこたろうトークでも全ては「対」になっているって言っていたなあ。)

本屋と本に人生を動かされてきた僕は、
迷わず、
「本屋には新しい人生が転がっている」
という長い店名にした。

とりあえず取扱いの書籍は
「ホスピタルクラウン」のみ。


小さなカバンを購入。


POPを書いて、本屋の完成。

そして、なんと、
大棟耕介さん直筆で屋号を書いてもらい、
それをスキャンして名刺を作成。




今を大切に生きる。
必ず来る明日はない。
というメッセージをいただき、
本屋を始めた。

誰でも、本屋になれる。

カバンと名刺と、自分の大好きな本が
あれば、誰もが本屋になれる。

ひとりいち本屋時代が
始まろうとしている気がします。  

Posted by ニシダタクジ at 07:40Comments(0)

2014年11月03日

何に向かって走ってきたのだろう

何に向かって走ってきたのだろう。

そんな問いがぼんやりと浮かぶ
連休中日の夕方。

降ったり止んだりのあいにくの天気で
タダでさえ、連休の真ん中の日は
お客さんが少ないのに、
ぽつりぽつりとくる程度。

ソトコト2月号を見てきたという
新潟大学卒業生の東京の4人組が朝来店して、
テレビを見てきたという新発田からの
大学生2人組が夕方に来店。

新大の仁美ちゃんと
毎週来るようになった
小学6年生2人と5人で女子会カタルタ
恋愛トークで盛り上がる。

新発田の2人は帰ってしまったけど、
そのあとに近所に住んでいるののかちゃん(中1)が来て、
消しゴムハンコを作り始めた。
小学生にも教える。

そこに近所のおじさん、西尾さんがやってきて、
消しゴムハンコで屋台をやったらどうか?
と聞く。

100円ショップの消しゴムハンコを買ってきて、
6等分して、ハンコつくり体験を100円で売る、
これはなかなかいいアイデアだ。

それはやったほうがいいな、と
僕は昔買っていた消しゴムハンコの本を
彼女にプレゼントすることにした。

これがツルハシブックスの日常だ。

「何に向かって走ってきたのだろう?」
と問いかければ、
そんなプラットフォームを作りたかったんだろうなあって。

1994年に農学部に入学し、直後に絶望に襲われた。
「もう、手遅れだ。」そう思った。
環境問題を学びたくて大学に入ったが、
知れば知るほど、絶望的なデータが待っていた。

そこから、なぜ?
の探求が始まった。

なんのために、人は大量生産・大量消費・大量廃棄しているのか?
そしてなぜ、誰に幸せになっていないのか?
経済成長していない途上国の子どもたちの
目がキラキラと輝いているのはなぜか?

アランダーニングの
「どれだけ消費すれば満足なのか?」は、
僕にとって、絶望でありながら、人生においては一筋の希望であった。
「所得が2倍になっても、幸せだと思う人の割合は変化していない。」

そのデータは、幸せとは何か?
と問いかけるに十分だった。

大量消費社会に生きることを余儀なくされた
団塊の世代は、大いなる物語(たとえば、日本の経済成長)
を描き、共有し、個人個人の思考停止を促すようなシステムの中で生き、
消費し、廃棄してきた。

いまの40代後半~50代のバブル世代を経て、
大学卒業時に「就職氷河期」と言われた
僕たち団塊ジュニア世代へとうつる。

「豊かさとは何か?」
常にその問いが胸にあった。

1996年。
生まれて初めて畑でサツマイモを育てて収穫した。
「これこそが豊かさ」だと直感した。
それを表現したくなった。

1997年。
就職活動中に決断をした。
畑をやるということ。
就職しないということ。
まともな人生は歩かないということ。

1998年。
大学院に進学。
猶予期間が1年だけほしかった。
自然農の川口由一さんに出会い、
全国の川口さん系自然農の農家さんたちを巡る旅に出た。

1999年。
まきどき村をスタート。
「人生最高の朝ごはん」は
まもなく16年目のシーズンを終える。

2002年。
中学校3年生シンタロウに出会った。
彼との出会いが、僕をプラットフォームづくりへと導いた。

「地域の中学生高校生と多様な大人が出会える場をつくる」と
NPOを設立したはいいけど、方法論がわからない。

子どもの遊び場、学習塾、
大学生のインターンシップ事業を経て、
2011年に本屋になった。

3年が過ぎ、ふと気が付くと、
小学生・中学生・高校生が日常を過ごす
場所ができていた。

あれだけアクションしても分からなかった
方法論がいつのまにかできていた。

「新刊書店」であるということ。
何も買わなくても居られる場所であること。

それでいて、
閉じた空間であるわけではなく、
書店であるからこそ、
新しい人の流れが常におこり続ける。

そして地下で本を発掘することで、
新たな出会いが起こり、
新しい道が見えていく。

きっと、そういう場所を作りたかったのだろう。
きっと、そういう場所に向かって走ってきたのだろう。

そんな問いかけをした、
のんびりした連休真ん中の日でした。

今日は、

「僕たちはこれから何をつくっていくのだろう」
でも読もうかな。  

Posted by ニシダタクジ at 06:01Comments(0)言葉

2014年11月02日

滞在時間を増やすとリピーターになる

僕は小売業の素人だった。
いや、現在進行形でした。
いまだに素人なのだと思います。
おつりのお札がコンビニの店員さんみたいに数えられません。

2011年3月20日。
東日本大震災の直後で、
新潟でも卒業式や送別会の自粛が相次いだ雰囲気。

そんな中でひっそりとオープンした
ツルハシブックス。

いま、ツルハシブックスは、
人が集まる本屋、
滞在時間の長い本屋として、
みんなから認識されている。

昨日は、朝8時に集合して、
朝市でおかずを買って朝ごはん食べるという
初イベントを開催。


雨の中、朝市を堪能。

超豪華なおかずたち。

10時過ぎまでやっていたので、
朝ごはんに参加した人たちは、
本屋の滞在時間2時間超。
この間に売れた本、0冊。(笑)

もっと本の話をすればよかった。
まあ、そのあとに出かけて帰ってきた後
まりちゃんが小説を買って、
店内のソファーで読み終わっていたけど。

まりちゃんの昨日のツルハシブックス滞在時間は、
8時~11時と15時半~19時半なので
7時間は店にいたことになる。

そもそも。
どうしてそんなことになったのか?

「人が集まる場所をつくりたかった」
という風に答えてはいるけど、
本当は、オープン当初、
小売業として、なんとか売り上げを伸ばしたかった。

それでいろいろビジネス書を読んでいたのだけど、
そうすると、気になる一節があった。

「初回来店時の滞在時間が長ければ長いほど、
2度目に来店する可能性が高くなる。」

そうか!
最初に来店した時の滞在時間が長ければ、
リピーターになってくれるのか。

では、どうしたら初回来店時の滞在時間が長くなるのだろうか。

1 話しかける。

まずは話しかけたらいいのではないか。
相手のことを知りたい、という思いで、
「どこから来たのか?」
「大学生だったら何年生なのか?」
「高校生なら部活をやっているのか?」
と話しかける。

あるいは、
「地下古本コーナーがあるのでいかがですか?」
と聞いてみる。

2 説明する。

不思議な本屋さんだと認識されているかもしれないので、
全体を説明するのも必要かもしれない。
こちらが新刊コーナー、地下が古本コーナー。
奥が一箱ギャラリーになっていて、
フリーペーパーはこちら。トイレもご自由にお使いください。
はじめてきた、という人にはそこまで説明したほうがいいだろう。

3 食べさせる。

何かを食べさせると、話が弾む。
これは経験的に、実感していることだ。
食べるときになかなか立って食べる人はいない。

しかし、初めて来た店で、
何か食べ物をもらう、というのは
勇気のいる行為だ。
特にお返し文化で育ってきている人にはドキドキする。

だから、食べるのを誘うほうも気遣いが必要だ。
「これ、差し入れで大量にもらったんですけど、食べませんか?」
今だと、頂いた柿が大量にあるので、
剥いて食べてほしい。

この「差し入れで」(あるいは「おみやげで」)もらったのだという表現は、
お客さんのハードルを劇的に下げることが実証されている。

なんというか、リアルな話で言えば、
「原価がタダなのだ」と認識できるし、
あるいは、「余ってももったいないから手伝ってあげようかな。」
という気分になる。(はずだ)

そして何より、第一印象で、
「差し入れやお土産がもらえる本屋=お客さんから愛されている本屋」
だと認識されるから、好印象となる。

こうして、
まず話しかけて、店内の説明をして、
なにかを食べてもらう。
これがツルハシブックス店員サムライの基本だ。

そうすると
滞在時間が長くなり、
先のビジネス書の法則からすると、
リピーターとなり、売り上げが劇的に上がる、はずなのだが、、、

まだあまり結果はあまり追いついて来ていない。(笑)

滞在時間2時間で何も購入しない、
という小売業は、なかなかないのではないか。

まあ、でもそれが
「何も買わなくても、そこにいてもいい」というのが
本屋、とくに新刊書店の強みでもあるのだから、
もともとのプラットフォームづくりやコミュニケーションデザイン
という観点からは、大きく成功しているプロジェクトになっていると
僕は思っている。

若者(中学生~大学生くらい)の居場所づくりを検討中の
大学や商店街、地域のみなさん、
コミュニケーション本屋という方法論もありますよ!  

Posted by ニシダタクジ at 06:05Comments(0)日記