2014年12月01日
未来を創るのか、それとも報告書を作るのか?
「世の中には、二種類の人間がいる」
とは、よく引用される
名言ではあるが。
僕も引用して、一言。
「世の中には2種類のワークショップがある。
未来を創るワークショップと報告書を作るワークショップだ。」
悪い大人たちは、
(いや、おそらくは悪気はないのだろうが)
大学生を活用(利用)して、
ワークショップに活気を持たせようとする。
行政が主催する、
あるいは行政主導でNPOが
委託されている事業である場合、
ひとつの副作用がある。
それは、
「よい報告書」を書かなければいけない。
ということ。
しばしば。
目的と手段は逆転する。
つまり。
報告書を書くことが、
いいワークショップをするよりも上位目的となってしまうことだ。
僕自身が大学3年生と4年生の時に、
とある行政主催のワークショップに
2年連続で参加した。
衝撃を受けた。
なんと、
「去年と同じことを、同じ人が、同じようにやっていた」のである。
これには心の底からビックリした。
ええええ。
この1年、何をやってきたんだ、と憤った。
何も行動が起こらない
=未来が何一つ変わらないワークショップに、
何か意味があるのだろうか?
あ、もしかしたら
KJ法とか、そういうワークショップ手法を学ぶ、
という目的があったのかもしれないけど。
でも、それならそれでイベントのタイトルをそういう風にしないといけないよね。
未来を創る、とか
まちづくり、ではなく、
「報告書をつくるワークショップ」だと言わないと。(笑)
土曜日のKP法のときに
川嶋さんも言っていたけど、
模造紙で書いて発表とか、
KJ法でポストイットが無数に貼られた紙を見せられて、
「こんなんなりました~」って言われても、
ほかのチームの人やギャラリーは何話したのか聞いてないからさっぱり文脈がわからない。
それって報告書に
「みんなでやった感」がでるからつくるのではないですか?
KP法でいろんなチームのをコンパクトA4にまとめたほうが
相乗効果で新しいものを出てくるのではないですか?
行動すること。
それが前提になっていないワークショップは
心がワクワクしない。
大学生だから、そういうの、感じちゃうんだろうなあ。
未来を創るのか?
それとも報告書を作るのか?
そのワークショップはどちらですか?
とは、よく引用される
名言ではあるが。
僕も引用して、一言。
「世の中には2種類のワークショップがある。
未来を創るワークショップと報告書を作るワークショップだ。」
悪い大人たちは、
(いや、おそらくは悪気はないのだろうが)
大学生を活用(利用)して、
ワークショップに活気を持たせようとする。
行政が主催する、
あるいは行政主導でNPOが
委託されている事業である場合、
ひとつの副作用がある。
それは、
「よい報告書」を書かなければいけない。
ということ。
しばしば。
目的と手段は逆転する。
つまり。
報告書を書くことが、
いいワークショップをするよりも上位目的となってしまうことだ。
僕自身が大学3年生と4年生の時に、
とある行政主催のワークショップに
2年連続で参加した。
衝撃を受けた。
なんと、
「去年と同じことを、同じ人が、同じようにやっていた」のである。
これには心の底からビックリした。
ええええ。
この1年、何をやってきたんだ、と憤った。
何も行動が起こらない
=未来が何一つ変わらないワークショップに、
何か意味があるのだろうか?
あ、もしかしたら
KJ法とか、そういうワークショップ手法を学ぶ、
という目的があったのかもしれないけど。
でも、それならそれでイベントのタイトルをそういう風にしないといけないよね。
未来を創る、とか
まちづくり、ではなく、
「報告書をつくるワークショップ」だと言わないと。(笑)
土曜日のKP法のときに
川嶋さんも言っていたけど、
模造紙で書いて発表とか、
KJ法でポストイットが無数に貼られた紙を見せられて、
「こんなんなりました~」って言われても、
ほかのチームの人やギャラリーは何話したのか聞いてないからさっぱり文脈がわからない。
それって報告書に
「みんなでやった感」がでるからつくるのではないですか?
KP法でいろんなチームのをコンパクトA4にまとめたほうが
相乗効果で新しいものを出てくるのではないですか?
行動すること。
それが前提になっていないワークショップは
心がワクワクしない。
大学生だから、そういうの、感じちゃうんだろうなあ。
未来を創るのか?
それとも報告書を作るのか?
そのワークショップはどちらですか?