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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2015年06月01日

「地域」という中くらいのクレイな物語


「愛国消費~欲しいのは日本文化と日本への誇り」(三浦展 徳間書店)

読みました。
「第四の消費」と合わせて読むといいかもしれません。

なぜ、いま人は神社に行き、
サッカー日本代表を応援したがるのか?
を消費社会研究の第一人者である三浦氏が切った本。

この中でいちばん面白かったのは、
「ソリッド」「リキッド」「クレイ」の話。

1960年代までの高度経済成長期に多くの人が共有していた
「経済大国」という「大きな物語」の時代から一転、

1970年代にその喪失と自分らしさ志向が始まり、
約30年以上の時間をかけて、
また、グローバリゼーションも重なり、個性化・多様化が進行した。

こうした状況を
社会会社のジグマント・バウマンは、
近代が「ソリッドな(固体的の)」「重い」近代から
「リキッドな(液体の)」「軽い」近代に変化したという。
特に現代はその「液状化」が加速しているという。(本書より)

1990年代には、
「規制緩和」「官から民へ」「自己責任」
などの掛け声のもと、新自由主義的な思想が急速に広まった。

本書で引用されている経済学者の中谷巌氏のコメントが興味深い。

「社会の価値がマネー一色に染められていくことがこれほど危険なこととは思わなかった。」
「新自由主義の理論モデルでは、個人と国家しか想定していない。
だから世界中どこでも同じ価値観、同じモデルが成立すると考えられてきた。
しかし、そこには個人と国家の中間にあるべき、固有の歴史を有し、
人と人がつながりをもつ「社会」への視点が決定的に欠けているのだ」
「私は社会というものの重要性を改めて痛感した。」
(文藝春秋 2009年3月号)

これを受けて三浦氏は、以下のように言う。

かつてのソリッドな共同体(地縁的コミュニティ)から
自由になったわれわれは、たしかにもはや固定した
共同体の中にどっぷりとつかって束縛されたいとは思わない。
かといって、完全にリキッドな状態になって、どこに流されていくかわからない
といういうのも不安すぎると思っている。
だからソリッドでもリキッドでもない、その中間ぐらいの状態をわれわれは望んでいると言えるのではないか。

したがって、「日本」志向は、
「大きな物語」の消滅から30年が過ぎ、
自らの存在がリキッド化していく不安の中で、
求められている新しい大きな物語なのではないか?
というのが三浦氏の時代診断である。

ソリッドでもリキッドでもない
一定の安定度をもった中間くらいの状態を
欲しているのではないか?
それを三浦氏はクレイ(粘土)と呼ぶ。

それらは
浴衣を着て花火を見に行ったり、
伝統工芸を見直したり、
農村風景を守ろうとしたり、
田園でのアートプロジェクトなどを見に行ったりすることに
現れているのではないか?

そうした地方の中でこそ、
伝統が失われつつあり、危機に瀕している。
それをなんとかしなければ、
という思いを持っている人も多い。

山崎正和が読売新聞で2010年に語った次のコメントを一部抜粋しようかと
思ったけど、本書にある全文を掲載する。

~~~ここから引用

「地域社会は近代国家以前からあったのだし、権力の担当者と関係なく存在していた。
藩主は国替えをさせられても、農民や町人は地域にとどまった。

前近代の行政は明らかに今より劣っていたのに、
地域社会ははるかに元気であった。地域振興を語るのなら一度、
この原点から考え直す必要があるのではないか。
元気だった村は単にものを生産する場所ではなかった。

鎮守の森や檀那寺があって、
人が四季を祝い祭りを楽しむ場所であった。

古くはそこに観世の能が生まれ、阿国の歌舞伎が育ち、
伊勢の本居宣長や大坂の山片蟠桃など、学者や文人をも
輩出して日本文化の基盤を養った世界であった。

ものを生産するにつけても、
かつての村や町は付加価値の創出、
いわば文化産業の育成に熱心であった。

米や野菜のような一次産品をはじめ、
繊維、紙、陶器、漆器、刃物などの工業品にも
各地の名産があって、収入だけではなく地域の誇りを生み出していた。

今日の地域を貧しくしているのは、
たんに金銭的な富の欠乏ではなく、こうしたかつての
文化力が衰退したという思いと、
それに伴う誇りの喪失ではないだろうか。」
(2010年3月21日付読売新聞)

~~~ここまで引用

すごい文章だなあ。
「地域の誇り」。
これこそが大切なのだと改めて思う。

そして、
この「地域の誇り」という物語を触媒として、
ふたたびつながり、まとまろうとしているのではないか?
というのが、三浦氏の視点である。

国家でも個人でもない、
ソリッドでもリキッドでもない。
中くらいのクレイな物語を共有し、
共に創っていくようなプロジェクトがいま、求められているんではないか?

僕としてはおそらくそれは、
「地域コミュニティ」と「テーマコミュニティ」が
うまく重なり合うところに生まれていくのではないか?
と思う。

その「テーマコミュニティ」の求心力として
大きい力を持つと思うのが、
「お客はだれか?」
つまり、だれのためにこのプロジェクトがあるのか?
という具体的顧客の設定になると思う。

そこの共感が強ければ強いほど、
より参加者のモチベーションが上がって、
いいプロジェクトになっていくのだろう。

「地域コミュニティ」×「テーマコミュニティ」
これこそ、21世紀を生きる私たちが持つべき
クレイな物語なのではないだろうか?  

Posted by ニシダタクジ at 07:25Comments(0)