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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2015年06月03日

教育サービスの「お客様」

どなたかが紹介されていた、
プレジデントオンラインで
5月30日付で内田樹氏が書いている
「国立大学改革亡国論「文系学部廃止」は天下の愚策」
http://president.jp/articles/-/15406

「株式会社化」する国立大学に未来はあるのか?と問い、
いまできることは、もはや、志ある私塾しかないと締めくくられる
この文章には、
キーワード、キーセンテンスがたくさんある。

特に中盤のこの2つ。

~~~ここから引用

営利企業モデルでは、子供たちは
「教育商品の買い手=教育サービスの受益者」とみなされます。

でも、学校教育の最終的な受益者は教育を受ける個人ではありません。共同体全体です。
まっとうな大人が育ってくれないと先行き社会が保たないからこそ公教育が存在する。
金儲けのためにあるわけじゃない。

(中略)

しかし、今、学校は教育「商品」の売り手であり、
子供たちとその保護者は「消費者」として、
授業料や学習努力という「代価」を支払って
それを手に入れるというモデルで人々は教育をとらえています。

商取引である以上、消費者たちは「最低の代価で、
最高の商品」が手に入る機会を血眼になって探す。
「賢い消費者」たるべく最大の努力を惜しまない。
でも、それが「買い物」である以上、子供たちはいずれ
「最低の学習努力で最高の商品を手に入れる方法」だけを考えるようになる。

~~~ここまで引用

これは内田先生が
以前からずっと訴えている
「教育のお買いもの化」
について書かれていること。


「下流志向~学ばない子どもたち働かない若者たち」(内田樹 講談社文庫)

こちらに詳しく書いてある。
(これは、「教育」に携わっていると自覚する人にはかなり有用な1冊であると思う)

教育のお買いもの化とは、
大学生に例えれば
「いかにラクをして単位を取るか」
に最大の価値を置くことである。

最小の対価で「大学卒業」という
商品を手に入れること。
これがお買い物の主体(消費者)
としての大学の上手な渡り方である。

授業を受けるという「不快」という貨幣に対して、
「将来どんなふうに役に立つのか?」という価値
が等価交換されなければ
サービスを受ける消費者としてはよい買い物をしたとは言えない。

しかし、この本で書かれているように、
教育の圧倒的な逆説は、

「それを学ぶと、どんな価値・意味があるか」は
学んだ後になって初めて理解できるということである。

この本で内田先生は、
母語(日本語)の習得を例に出して、こう語る。

~~~ここから一部引用

母や父が子どもに話しかけ、
その言葉を通じて、子どもは母語を学習します。
私たちは現にそうやって日本語を習得したわけですが

母語の学習を始めたときには、
これから何を学ぶのかということを知らなかった、
これが大切なところです。

「そろそろ就学年齢に達したから日本語でも勉強しておこうか」
「日本語運用能力が高いとおれから就職等にいろいろ有利だから」
とか、そのような功利的な計算をしたうえで母語の習得を開始する子どもはおりません。

つまり、起源的な意味での学びというのは、
自分が何を学んでいるのかを知らず、
それが何の価値や意味や有用性をもつものであるかも
言えないというところから始まるものなのです。

というよりもむしろ、
自分が何を学んでいるのか知らず、
その価値や意味や有用性を言えないという
当の事実こそが学びを動機づけているのです。

子どもは
学習の主権的で自由な主体であるのではありません。
まず学びがあり、その運動に巻き込まれているうちに、
「学びの運動に巻き込まれつつあるものとしての主体」
という仕方で事後的に学びの主体は成立してくる。

学びとは、学ぶ前には知らされていなかった度量衡によって、
学びの意味や意義が事後的に考量される、
そのようなダイナミックなプロセスのことです。

学び始めたときと
学んでいる途中と
学び終わったときでは、
学びの主体そのものが別の人間であるというのが学びのプロセスに
身を投じた主体の運命なのです。

しかし、消費主体として学びの場に立つ子どもたちは、
学校をコンビニのようなものと捉え、
学習という買い物をします。

買い物の前と後ではその主体は変化しません。
消費主体というのはそういうものです。

消費とは、本質的に無時間的行為であり、
消費者は無時間的な「幽霊」なのです。
つまり、変化しないということです。

3日前に自分が定価で買った商品が
セールで半額になっていると
悔しい気持ちのなるのはそういうことです。

3日前の自分が欲しかったものと
現在の自分が欲しいものは時間的には
変わっていることがあるかもしれませんが、

消費主体として市場に出現した以上は、
等価交換のプロセスで変化しないというルールに縛られるのです。

~~~ここまで一部引用

つまり、
子どもが「何のために学ぶのか?」と聞いたときに
答えるべきはその理由ではなく、
「その理由は学べばわかる」というのが教育であるということです。

かつ、本質的なことを言うと、
ウェブからの引用に書かれているように、
学校教育の最終的な受益者は本人ではなく
共同体であるのだから、そもそもお買い物モデルは成立しないことになる。

しかし、子どものころから
「消費者」であることを宿命づけられた
子どもたちは、いつまでも賢い消費者たろうとする。

大学に入っても
「最小コストで最大の成果」
つまり
「ラクをして単位を取る」
ということに青春を燃やすことになる。

これは地域活動やインターンシップでも同じだ。
その活動をすると、自分にどんなメリットがあるのか?
ということを考える。

そして、それを他者に説明しなければならない。
「それ、何のためにやるの?」と聞かれてしまうからだ。

そもそも芸術系や人文系に進む大学生は、
多かれ少なかれ、「その勉強をして、就職できるの?」的な
質問に耐えきって、大学に進学していると思う。

大学生活は、就職を勝ち取るための方法論ではない。
ただ、学びたいのだ。

地域活動もインターンシップも
動機は1つでいい。

「ただ、学びたい」

学び始めた時と
学んでいる途中と
学び終わった時に、
違う自分が存在しているような場に、自分を置きたい。

それだけで動機は十分だと思う。

大学生たちよ。
学ぼう。
大学で、そして地域で。

「教育サービスのお客様」を脱し、
学んでいく主体となること。
変化する主体となること。

そこが大学生活の出発点だと僕は思う。  

Posted by ニシダタクジ at 06:04Comments(0)学び