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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



新潟市西区内野町431-2
TEL 025-261-3188

平日12:00~19:00
土曜 7:00~21:00
日祝10:00~19:00
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2015年07月31日

好奇心の芽を摘む、7つの自問


一歩踏み出せば昨日と違う自分になれる! (ジョン・クランボルツ/ライアン・バビノー 日本文芸社)

昨日に引き続き、この本から。
テーマは「やってみる」

好奇心が「型にはまった教育」で損なわれないとすれば、それは奇跡である。
(アルベルト・アインシュタイン)
から始まる第3章。

~~~ここから一部引用

子どもは、新しいことにチャレンジするのが大好きです。
彼らは、実際に触れたり突いたり疑問を持ち、
それを確かめようと実験して自分の世界を広げていきます。

子どもは何かに興味を持ったとき、
自分にもできそうか、自分のためになりそうか、もしくは将来の仕事に役立ちそうか
を見極めるために立ち止まったりしません。
ただ、チャレンジするのみです。

ところが成長するにつれて、
子どもたちはただ遊んだり冒険したりする時間が減り、
代わりに何をすべきかについて考えるのに時間を費やすようになります。

学校に行けば、重要なのは正しい答えを導き出し、
賢く振る舞うことだと教えられ、その結果、
自分が得意でないかもしれないことを
避けて通るようになります。

いったんはじめたことを最後までやり通せないのは
意気地なしだと言われるので、
あまりたくさんのことに手を出してはいけないと思うようになります。

親の中では良かれと思って、
美術、音楽、文学などの実用的でない教科から
子どもを遠ざけてしまう人もいるので、その結果、
子どもたちは確実に将来の仕事に結びつく活動以外には
手を出さなくなります。

そんなふうに子どもの頃教え込まれてしまえば、
大人の多くが自分の好奇心を信じていいか
分からなくなってしまうのも無理はありません。

新しいことにチャレンジするとき、
大人たちは「これは自分の時間を使ってわざわざすべきこと?
やってなにかメリットはある?
本当に私らしいことで私が望んでいること?
うまくやれそうなこと?」と自問自答します。

~~~ここまで一部引用

うわーって感じです。
「やってみる」を妨げる要因は何よりも
自分の心の中にあり、
そのもっとも大きなことは好奇心の芽を自ら摘んでいるからだと
この本は言います。

そして、
「好奇心の芽を摘む7つの自問」です。

1 これは私の得意なこと?
2 そんな暇ある?
3 やり遂げるだけの根気、才能、知恵はある?
4 本当に私はそれがやりたいの?もしそうなら、他のことと両立できる?
5 お金はどうするの?
6 他人にどう思われるだろう?
7 実質的な見返りは得られそう?新しい彼氏(彼女)に出会えそう?
  仕事に有利なコネは得られそう?お金儲けに役立つスキルは身につけられそう?
  もっと健康で魅力的になれそう?

いやあ。
これは。
おそろしいです。
いつから、人はなにかを「やってみる」前に
こんな質問をするようになったのでしょうか。

大学生を見ていると、
すでにこの7つの自問を「習得」してしまっている人が多いと思います。

また自分だけならまだしも、
「やってみよう」としている友人に対して、
この質問をしてしまう人もいます。

しかし、キャリアドリフト理論では、
「考えて、行動する」のではなく、
「行動して、考える」の繰り返しによって人生が作られるのです。

もし、大学生が18歳までの習慣によって、
このような7つの自問をしてしまうようになっているとしたら、
何らかの方法でその呪縛をとっていく必要なあります。

そこで僕が考えたのが、
「気がついたら私も、本屋という舞台の、共演者になっていました」
という作戦です。

気がついた時には、もう始めている。
「始めるか、始めないか」の判断をしないうちに
始めている、ということです。

おそらくそこには
「場のチカラ」と「共演者の魅力」が必要です。

そう言えば
1週間前のアルプスブックキャンプを
手伝ってくれた大学生のヤスコちゃんは、
その2週間前にはただのお客さんでした。

「再来週、キャンプ場で本屋をやるんだけど、一緒にいかない?」
とうっかり誘われて、一緒にイベントスタッフを
やってみることになりました。


そんなきっかけ。
そこから行動が起こり、
そこでまた違う誰かに出会い、話をして、
新しい物語のスタート地点に立つ。
そんな入口が必要なのではないかなと思います。

気がついたら共演者になっていたような、
そんな空間を大学でも作れたらいいなあと思います。  

Posted by ニシダタクジ at 06:03Comments(0)

2015年07月30日

「地域」を学ぶ「地域」で学ぶということ



昨日の茨城新聞の1面トップに
茨城大学の1年生必修授業「茨城学」
の取り組みが掲載されていました。

あらためて。
「地域」を考えてみる。

「地域」を冠する大学の学部・学科が増えている。
「地域」はいま、トレンドなのだ。

しかしながら、
「地域」を学びたいという人に限らず、
「地域」をフィールドにすることは、
とても大切なことだと僕は思う。

予測不可能な時代を生きている大学生にとって、
(もちろん私たち世代も同じなのだが)
もっとも大切だと僕が思うことは、
「やってみる」、つまり試行することである。

その前にはもしかしたら自分なりの「仮説」があるかもしれない。
いや、もしかしたら、衝動や感性に突き動かされて行動したのかもしれない。

とにかく「やってみる」
そのあとに、「ふりかえる」
そして、仮説を立てる。
再度「やってみる」。
こうして、何かに出会っていくことだと思う。
価値観と感性を磨いていくことだと思う。

そんなときに「地域」というフィールドがある。

特に、その地域が高齢化していたり、
自然条件が厳しいところだったりしていると、なおさらよい。
そこには長年解決してこなかった「課題」がある。
なによりも若者の数が少ない。
だから「やってみる」ことが歓迎されることが多い。

「成果」を目指すような企業でのインターンシップと違い、
「地域」のほうは、「やってみる」こと自体に、価値がある。
それは、「何をもって成功とするか?」の価値観があいまいだからだ。
売り上げが上がった、のような明確な指標がないからだ。

僕はこれが個人のキャリア形成に似ていると思っている。

これからの時代。
目標設定・達成型の「キャリアデザイン型」キャリア形成
だけでは、キャリアは形成していけなくなると感じている。

未来が予測不可能であるのに、
その未来を目標値に落とし込むのは難しい。

だから、大切なのは、
スタンフォード大学のクランボルツ博士が言うように、
「偶然をつかむ力」=キャリアドリフト型キャリア形成であると思う。

必要なのは「やってみる」こと、そして「ふりかえる」こと。
その上で「仮説を立てる」、そしてまた「やってみる」ことだ。


クランボルツ先生の最新の本「一歩踏み出せば昨日と違う自分になれる」によると、

グーグルが世界で受けているたったひとつの理由として、
収益が見込めそうな新しいソフトウェアが開発されると、
すぐさま市場にテスト版を投入するのだという。

それ貴重なフィードバック(お客からの反応)を得て、
最小限のコストで軌道修正、もしくはそのアイデアを捨て去ることができる。

そう。
エジソンがいうように、
「失敗したのではない。うまくいかない方法を1000通り発見したのだ」
という精神で、「やってみる」がうまく回っているのだという。

そう。
これからは「やってみる」時代。
大学生の早い段階(1,2年次)に、「地域」を舞台に「やってみる」こと。

このことは、
地域にとって価値があるだけではなく、
大学生の人生にとって「やってみる」を身に付ける、
大きな機会となっていくのだと強く思う。

大学生たちへ、地域で、「やってみる」を始めてみよう。  

Posted by ニシダタクジ at 07:34Comments(0)日記

2015年07月29日

「機会提供」という醍醐味

「答えより問いが売っている本屋がいい」
と、上田のブックカフェnaboのスタッフが言っていた。

そうそう。
問いなのよ。
答えはネットに載っているからね。
って思った。

本屋が本屋である意味は、
そこに問いが売っているからだ。

それは一冊一冊の本からだけではなく、
本の並び方によっても問いが生まれる。

「問い」という機会提供がそこにはある。

本屋の魅力は「機会提供」である。
というか、社会教育の醍醐味は「機会提供」にあるのではないか。

その機会によって、
子どもがどうなるか?
というのは、結果であって、そこにこだわりすぎることなく、
ただ、純粋に機会を提供していく。

もちろんそれは
「いい機会になるだろう」と思って提供されるのだろうけど。

そして「機会」は一方向に提供されるわけではない。
ここがおもしろいところだ。

明確な目的・目標をもった学校教育は、
どうしても教える側と教わる側の関係を生んでしまう。

「日本を何とかしよう」
というような大いなる目標を掲げた
松下村塾では、「共に学ぼう」と言えたのかもしれないが、
学校では明確な目的・目標があり、その達成度が評価される。

しかし、本屋などで提供される「機会」は、
若者だけではなく、提供者側の大人にとっても同じように「機会」である。

暗やみ本屋ハックツでは、
若者に本という機会を提供しながら、
自分たちも本を売るという機会をもらっているのだ。

きっとそんな「機会提供」にこそ、
本屋の醍醐味があるのだろうと思う。  

Posted by ニシダタクジ at 06:46Comments(0)

2015年07月28日

稲作の遺伝子

あらためて、広井良典先生のちくま新書2冊を読む


「コミュニティを問い直す」


「持続可能な福祉社会」

この中で新たな発見だったのが
「稲作の遺伝子」という言葉。

広井先生は
「集団が内側に向かって閉じる」
という基本的特質をこの言葉で表現する。

日本人はムラ社会(農村型社会)を作ってきた。
高度成長期も会社というムラ社会を作った。

その内部では、
「集団が内側に向かって閉じる」
ということが起こる。

つまり、ある集団ができると、
その内部では非常に濃密な気遣いや同調性が求められる一方、
その集団の「外」に対しては、無関心か、極端な「遠慮」
(あるいは潜在的な排除・敵対関係)
が支配する、といったあり方だ。

そこには「稲作の遺伝子」が影響していると広井先生は言う。

それは、比較的小規模な集団が生産及び生活の単位として形成され、
かつその集団内部においては、きわめて緊密できめ細やかな
協調的行動や集団管理が求められる、といった社会のあり方を指している。

高度成長期に日本経済の急成長を支えたのは、
まさにこの「稲作の遺伝子」であり、
都市の中にカイシャというムラ社会を
見事なまでに作り上げたのである。

しかし、それを可能にしたのは
絶え間ない経済の拡大・成長といった条件においてのみ
機能したということである。

なるほど。
「稲作の遺伝子」。

これはいまのテーマである「承認欲求」と
若者の「自信」というテーマに直結しているキーワードだ。

若者がチャレンジをためらうのは、
「一度始めたら継続しなければいけない」という呪縛だ。

日本が失敗や途中で辞めることに対して寛容ではないのも、
この「稲作の遺伝子」が影響していると考えられる。

稲作は、「失敗」したら最後、
集落全体が食べる米の量が極端に減少してしまう。
しかも取れるのが1年に1度である。

そして何より、
「昨年と同じように作付をし栽培すれば、同じような収穫をもたらしてくれる」
という連作障害が起こらない数少ない作物であるから、
昨年と同じ、ということが大切にされる。

新しい作り方については大きな恐怖心がある。
「それで集落全員が飢えることになったらどうするんだ?」
と言われたら、チャレンジをあきらめざるを得ない。

コミュニティとチャレンジの観点から
「稲作の遺伝子」を検証する。

やっぱり、僕が農学部で稲作を専攻したことは何かの因果なのかもしれない。  

Posted by ニシダタクジ at 07:40Comments(0)

2015年07月27日

「居場所」とは「承認空間」のこと

承認がほしい。
これは人間の根源的欲求である。

「地域のしがらみ」は同時に承認を与えてくれた。

ありのままの存在は、
誰かによって承認されていた。

「地域」と「家庭」が(教育空間としては)
機能しなくなったことで、
人々は承認機会を失った。

「居場所がほしい」
「子どもたちには居場所が必要だ。」

そのときの「居場所」には、
「承認」が存在するのではないか。

学校は、「承認空間」というより、
「評価空間」であり、「効率化空間」であるから、
承認欲求が評価欲求に代わっていく
のではないだろうか。

そうすると、
原則として、学校の内部に
「承認空間」としての「居場所」をつくることは不可能かもしれない。

もし、そのような場所を作るとしたら、
「美術部」や「文芸部」などで、
どちらかというと、「部活」で何かを目指していく、
というよりは、「居場所」機能に特化していくということになるのかな。

子どもたちは「承認」を必要としている。
それは地域の居場所であり、まちの本屋であるかもしれない。  

Posted by ニシダタクジ at 06:34Comments(0)日記

2015年07月24日

「誰か」に手紙を届ける

「暗やみ本屋 ハックツ」
本を通して10代に「手紙」を届ける。

ハックツは図書館ではない。
1冊100円で購入する。

その瞬間。
「手紙」が届く。

本と手書きのメッセージに込めた
「思い」が届く。

そこには、
「大人」と「子ども」の関係ではない
1対1の関係性が生まれる。

この本を待っている「誰か」がいるのではないか。

そんな偶然性と、手紙が届く喜びを
ハックツは売っているのではないのかなあ。

工藤直子さんの詩、「あいたくて」
を思い出す。

あいたくて

だれかに あいたくて
なにかに あいたくて
生まれてきたー
そんな気がするのだけれど

それが だれなのか なになのか
あえるのは いつなのかー
おつかいの とちゅうで
迷ってしまった子どもみたい
とほうに くれている

それでも 手のなかに
みえないことづけを
にぎりしめているような気がするから
それを手わたさなくちゃ

だから

あいたくて

(工藤直子詩集 「あ・い・た・く・て」より」

僕の仕事観と人生観を表す一遍の詩。
そんな瞬間のために人は仕事をしているのではないかと思う。
暗やみ本屋ハックツは、
そんな「誰か」に届ける「手紙」を書く場所。

あなたも「誰か」に手紙を書きませんか?
寄贈本を募集しています。

東京練馬・上石神井に
「暗やみ本屋ハックツ」9月5日(土)プレオープンします。

寄贈本募集はこちらから。
http://www.tsuruhashibooks.com/hakkutsu.html


チラシはこちらから。


  

Posted by ニシダタクジ at 07:04Comments(0)日記

2015年07月23日

アートの魔法でコッソリと誇りを生む

今週の「茨城学」で紹介されたのは常陸太田市。
少子化対策などで「子育て上手」をテーマに
さまざまな取り組みが成果を出している。

また、県内でもいち早く「地域おこし協力隊」制度を
活用してきた。

その中でも興味を惹いたのが
「常陸太田アーティストインレジデンス」
http://hitachiota-air.com/


コイノボリをリメイクするワークショップ


版画ワークショップ「地元三十六景」


吊るし飾りづくり

などなどがVTRで紹介されていた。
地域のおばちゃんが「これがアートなんかね~、楽しい」
と言いながら参加していた。

「誇りの再生」
はこういうところから始まるのではないか?
と思った。

当たり前だった風景。
それをたとえば版画で表現する。

それによって、
どうしてその風景が好きなのか?
というのを改めて考える。

住んでいる人しか知らない、大好きな風景。
それをアートで表現する。

そうやって
「当たり前」を「誇り」にこっそりと変えていく。

それがアーティストインレジデンスなのではないか、と思った。
やっぱり、これからのテーマは、「こっそり」ですね。

「こっそり」がクールだ。  

Posted by ニシダタクジ at 07:10Comments(0)学び

2015年07月22日

「他者評価」を超えて

「ある問題を引き起こしたのと同じマインドセットのままで、
その問題を解決することはできない。」(アインシュタイン)


「幸せってなんだっけ?」(辻信一 ソフトバンク新書 残念ながら絶版)

この本はブータンのGNHの話から始まる。
若き国王が唱えた壮大なるギャグ、GNH(国民総幸福量)。

しかし、これこそが
冒頭の言葉を実証するメッセージとなった。

「豊かさ」こそが地球環境を破壊した。
「持続可能な発展」という言葉自体が
そのマインドセット(思考の型)を変えていない。

だから、それを根本から変える。
「豊かさ」=お金ではなく、
「豊かさ」=どれだけ幸せかという「幸福量」だと。

思えば、
GNPやGDPといった言葉も不思議な言葉だ。
単一の価値基準「経済」で、国々をランキングする。
上位にいるほうがいい国のように思える。
本当だろうか?

本当に「先進国」は「先進国」で
「途上国」は「途上国」なのだろうか?

「途上」っていう概念をみんな受け入れてるのだろうか?
これから経済成長していきます、って
みんな同意しているのだろうか?
その先に幸せが待っているのだろうか。

この本のラストに、こんなメッセージがある。
辻さんの友人のサティシュの言葉だ。

「豊かさを追いかけて、私たちはあまりにも多くのものを壊し、
失ってきた。犠牲にしてきたものは大きく言えば3つ。
それは、ソイル(土)とソウル(心)、そしてソサエティ(社会)だ。

ソイル、つまり自然を単なる資源とみなし、それを競って奪い合ってきた。
そしてその競争の中で、
ソウル、つまり自分のからだやこころさえ金儲けの手段としていじめてきたのだ。
さらにその競争の中で、
ソサエティ、つまり周りの人々と助け合い、分かち合うことを忘れてしまったのだ。」

しかし、それさえ分かれば、解決は簡単だと
サティシュは言う。

「ソイル、つまり地球とつながる」
「ソウル、つまり自分とつながる」
「ソサエティ、人々とつながる」

この3つの「つながり」こそが幸せの源泉なのだ。

ああ。
いいですね。
僕が大学生のころ自問自答してきたのと
まさに同じテーマだ。

「オーナーシップ」(所有)ではなく、
「リレーションシップ」(関係性)だと。

そうそう。
そういうことだ。

ここであらためて冒頭の言葉に戻る。

「ある問題を引き起こしたのと同じマインドセットのままで、
その問題を解決することはできない。」

大学生にとっての大きな課題。
それは、「自信がない」ということ。

それを引き起こしたマインドセットのままでは解決しない。
つまり、単一の価値観(学力)、他者評価、他者比較。
学校空間の宿命であるこの3つの
マインドセットを超えていくこと。

いちばんは他者評価を超えること。
これが幸せへの道だと思う。

言葉で言うのは簡単だけど、そんなに簡単ではない。

しかし、本当にほしいのは、
本当に他者評価なのだろうか?

ブータンの国王が
「本当は豊かさではなく、幸せが欲しいのではないか?」
と問いかけたように、

自分たちも他者評価が本当に欲しかったのか?
と問いかけてみる必要がある。

僕の仮説は、
ほしかったのは「評価」ではなく「承認」
なのではないか?

ということだ。

どんな偉い人に、
「あなたは世界で一番素晴らしい」と
言われるよりも、

親友に
「世界中が敵になっても、俺はお前の味方だから」
と言われたほうが嬉しいはずだ。

それは、
「他者評価」欲求よりも「承認」欲求のほうが強いし、
根本的欲求だからだ。

そうやって、
自分自身の他者評価欲求を客観的に見ること。
マインドセットを変えること。
そこから始まる何かがきっとあると思う。  

Posted by ニシダタクジ at 06:40Comments(0)思い

2015年07月21日

「居場所」とは、「評価」なき「承認」が得られる場所

「プレーパークには目標がない。
感性を大切にやりたいことをやる。
だから楽しい。」

2月1日に参加した水戸市のネットワークフォーラムで
同席した水戸でプレーパークを準備中の方の言葉だ。

目標がない。
だから楽しい。

この言葉は重い。
居場所の本質を表しているように思う。

「居場所」のもっとも大切な機能は、
安心できる空間であること。

それには、
目標のない場所が必要なのかもしれない。

部活で言えば、
「全国大会出場」とか掲げていなくて、
「趣味程度に楽しくテニスやりましょう」というサークル的なもの。

これを「承認」と「評価」というキーワードで読み解く。

「中学生高校生のとき、ただ、話を聞いてほしかった。
そんな場所をつくれたらいいなと思う。」

とハックツに関わっている大学生が言っていた。
このときの彼女の欲求は「承認欲求」であると思う。

ただ、話を聞くこと。

これが親や先生には難しい。
あまりにも当事者すぎるからだ。
言いにくい「悩み」は親や先生には
必然的に言わなくなる。

話を聞いてあげる、ということは、
「承認する」ということ。
そして、「居場所」とは、もしかしたら
「承認」のある場所のことなのではないか。

現代社会は、
「承認機会」の減少にひた走ってきたように見える。

大家族を解体し核家族化し、
地域コミュニティは「非効率的」で「しがらみ」が窮屈だと
機能不全に陥った。

そこで失われたものは、
子どもに対する「承認機会」なのではないか。

おばあちゃんが無償の愛を孫に届ける。
地域のお年寄りから声をかけられる。
八百屋のおっちゃんが「元気あるね!」と言われる。

大切なのは、承認機会は、
その子にとって「当事者ではない大人」から
もたらされることが多いということ。

そして、多くの場合、学校以外の空間でそれが起こるということ。

冒頭の話に戻ると、
「学校」空間には、目的と目標が存在している。
だから、機能的に「評価」を前提をした仕組みになっている。

しかし、プレーパークのような居場所には、
目的や目標がない。

つまり、
子どもが自由に遊べる場所をつくる、という目標はあるが、
個別の成長目標(たとえば、ブランコをつくれるようになる、など)はない。
したがって「評価」の機会はない。

そこが大切なのかもしれない。

ツルハシブックスをやっていて、思うのは、

「居場所」には「いいかげんな大人」が必要であるということ。
テキトーな大人がテキトーな言葉を投げかけること。
これこそが
子どもの「承認」欲求を満たしていくのではないか、と考えられる。

いいかげんな大人は、中学生を「評価」しない。
ただ、話を聞いてあげて、テキトーなアドバイスをする。

真剣に恋愛相談に来た高校生に対して、
「おまえ、今こそ詩をかけ」ってヒドイ話だ。(笑)

しかし、そこには、たしかに「承認」が存在する。
そしてそれは「評価」なき「承認」だ。

中学生や高校生は、
そんな場所を、大人を、必要としているのではないだろうか。

そんな「承認」のきっかけとなる
コミュニケーションの入り口をどう作っていくか?

そういう意味で、
本というのは、ひとつの有効なツールなのだろうと思う。  

Posted by ニシダタクジ at 06:55Comments(0)学び

2015年07月17日

メッセージを生きる

問うこと。
問いを見つけること。

これこそが、
大学生の、20代の宿題、
いや、人生に課せられた宿題なのだろうと思う。

答えのない問いに挑む。

なぜ、生きるのか?
どう、生きるのか?

マハトマ・ガンジーは、ある記者に
「アメリカ、特にアフリカ系アメリカ人に向けてメッセージを」
と問われ、こう答えたという。

「私の人生そのものが私からのメッセージだ」

きっとそういうことなんだろうと思う。
問うこと。
ただ、ひたすらに問うこと。

自分に、そして世界に。
「しつもん力で人生は変わる」
と誰かが言っていた。
本当にそうだと思う。

自分に何を問うのか?
そして
世界に何を問うのか?

その出発点に立つきっかけを得るのが大学時代の夏休み
なのだろうと思う。

旅に出る。
人に会う。
本を読む。

自らの感性を磨き、問いを得る旅に出る。
その「問い」こそが人生を、そして世界を拓いていく。

僕たちも、ガンジーと同じく、
メッセージを生きるために生まれてきた。  

Posted by ニシダタクジ at 06:51Comments(0)思い

2015年07月16日

「評価」ではなく、「承認」を必要としている。

マズローの欲求5段階説と、山竹伸二さんの3つの承認欲求


「認められたいの正体」(山竹伸二 講談社現代新書)

夢至上主義の苦しさのひとつもここにある。
「他者からの承認」を得ようとする心だ。

「承認」は「評価」と裏表になっているように思える。
つまり、「承認されたい」という気持ちは
「評価されたい」と思っているのに近い。

しかし。
実際はそうではないと思う。
「承認」と「評価」は別物である。

何か悪さをして、お母さんにおこられた後に、
おばあちゃんの家に行って、
「大丈夫、あなたがいい子なのはおばあちゃんは知っているから」

というのは、「評価」ではなく、「承認」である。
おばあちゃんからすれば、「受容」である。

おそらくはここ。
大学生が抱える生きづらさの正体の1つはそこにあるのではないか。

学校、および学校化された社会では、
「承認」と「評価」が一体化している。

そのため、本来は「承認」が必要であるはずの
子どもたちが「評価」を求めてしまう。
簡単に言えば、「褒められること」を求めてしまう。

ところで、ビジネスの世界で一時話題になった
「コーチング」の世界では、
褒めること(評価)と承認が区別されている。

~~~ここからwebより引用

http://jinji.jp/blog/blog01/2014/12/09-371833.php
「人事戦略研究所」webより

コーチングにおける「承認」

1.「あなたがいてくれて助かる」といった存在そのものを認める「存在承認」
2.「いつも掃除してくれてありがとう」といった努力やプロセス、日頃の好ましい言動を認める「事実承認」
3.「仕事のスピードが上がったね」といったよい方向へ変化していることを認める「変化承認」
4.「目標達成おめでとう、よくやった」といった成果、結果を認める「成果承認」

http://allabout.co.jp/gm/gc/323900/2/
All about 部下が元気になる「承認」とは?より

承認を伝える際には次の3つのポイントを意識して伝えましょう。

1.事実を伝える
相手が何を達成したか、どんな行動をしたかの事実を伝えること

2.比較する言葉は使わない
「A君より優れている」など、比較を使うと受け取りにくくなります

3.相手に届くのを待つ
承認を伝えたら相手が受け入れるのを待つ。
相手の反応がすぐになくても、よく観察していることです。
一瞬の表情の動きや声のトーンの変化を見逃さず意識します

~~~ここまでwebより引用

なるほど。
「承認」と「評価」は別物なのだ。

だから。
大学生が考えるのは、
自分がほしいのは、「評価」ではなくて「承認」
なのではないか?ということ。

学校は「評価」を前提としたシステムとなっているので、
どうしても「評価」を求めてしまう。

そしてそれこそが
引用記事の2つ目にあるように、
他者との「比較」を生み、より苦しくなってしまっているのだ。

こう書いていて、
思い出したひとつの本がある。


「第四の消費」(三浦展 朝日新書)

http://hero.niiblo.jp/e346221.html
ブログ「20代の宿題」~家電を売るために夢を持て?(2014年1月30日)

1975年。
洗濯機、冷蔵庫、テレビなどの耐久消費財の
世帯普及率が90%を超えた。

もはや、家電は売れない。
(テレビは2台あってもいいかもしれないが、洗濯機は1家に2つ必要ない)

しかし、家電メーカーは多数の社員を抱え、
ローンでマイホームを購入済みだ。

洗濯機をもう1台売るにはどうしたらいいのか?
世帯を分断すること、つまり一人暮らしである。
そして、「第四の消費」でも書かれているが
ウォークマンに代表される個別家電を売ることだ。

これを三浦さんは「個性化消費」と呼んでいる。
つまり、自分らしく生きるために家電を買うということ。

僕はこれが、
「承認欲求」を「他者評価欲求」にすり替える
社会全体の巧妙な作戦だったのではないか、と考える。

つまり。
人と違うものを持つことも、人と同じものを持つことも、
「個性化」ではなく、「他者評価欲求」を満たすものなのではないか。
女子高校生がルイヴィトンのバックや財布を持つことも、それに近いのではないか。

しかし。
冒頭の「認められたいの正体」にもあるように、
本当に必要なのは、「他者評価」ではなく「承認」なのではないか。

まず、その自覚。

自分がかけがえのない存在であるという「親和的承認」
自分がチームの中で役割を果たしているという「集団的承認」
自分が社会の役に立っているという「社会的承認」

これらを得るためにすることと、
「他者評価」を得るためにすることは、
違うのではないか、という今日の仮説でした。  

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2015年07月15日

幸せってなんだっけ?ぽん酢しょうゆのある家さ

1986年。
https://www.youtube.com/watch?v=MN4iA67BQKI

幸せってなんだっけ?なんだっけ?
ぽん酢しょうゆのある家(うち)さ。

キッコーマンの「ぽん酢しょうゆ」を歌った
明石家さんまの代表的CM。

この歌には元歌があるという。
幸せってなんだっけ?
盆と正月ある家さ。

盆と正月に集まってくる家族がある。
それが幸せなんだという歌。
それが戦後40年を経て
「ぽん酢しょうゆ」というモノに幸せのカタチが置き換えられていった。
それが昨日の公開講座でした。

~~~ここから講義メモ

1) 
人の幸せ装置=四つの縁(血縁、地縁、友縁、職縁)
⇒これらが機能する社会=人が孤立しない。
これらのカタチを変える4つの波

1 民主化の波(1945年終戦~GHQなどの影響による)

・血縁:家制度がなくなる(家長相続など)
・職縁:労働組合運動が起こる
・地縁:女性・青年が台頭
・友縁:公民館運動、田園都市構想

2 都市化の波(1955年~経済成長、太平洋ベルト地帯への過密と過疎)

1950年からの朝鮮戦争特需によって得たものを
太平洋ベルト地帯の工業生産に投入した。
日本中から若者が就職してきた。

・血縁:核家族・文化住宅(立ったまま調理・洗濯できる)
・地縁・職縁:「職の世界」と「役の世界」の重要関係が変わった。
・中世(室町)=職の世界、近世(江戸)=役の世界
・「職の世界」=お金とモノが大切、男の場所
・「男は会社、女は家庭」という役割分担。

・ベースアップ(基本給上昇):給与を能力給ではなく生活給とした
⇒労働組合運動の結果。
⇒生活給:被扶養者(扶養される人=専業主婦)を生んだ。
⇒女性は男性の給与で生きるようになった。

・女性が働きに出る:子育ての問題が出てきた。
・日立製作所など、多くの大企業で優秀な女性が辞めていった。
⇒M字型就労

・当時のテレビCM
⇒栄養ドリンク:男性しか飲んでいない。
⇒洗剤:女性しか使っていない。
⇒ジェンダーによる役割の既定
⇒小堺一機のアクロンのCMにつながる。

3 高齢化の波

・血縁:男と女の関係が変わる
・「ありがとう」⇔「あたりまえ」:あたりまえじゃない⇒ありがとう
・職縁:男は職縁を失う。
・キャリア:仕事だけじゃない。
・24時間365日休みがない仕事:お母さん

・会社でやっていること(定年後になくなること)だけがキャリアじゃない。
・高齢になっても誇り高い人生を生きられるのか?が重要

4 無縁社会化の波

4つの縁が無縁化していく:対処できない。
民主化、都市化、高齢化はつながり方を変えることで対処できる。
それが無縁化するということはどうしたらいいのか?

~~~ここまで講義メモ

「都市化」というのはそういう文化形成だったのだなあと。
会社員+専業主婦という仕組みがもっとも効率的(と当時は判断された)
のだなあと、改めて実感。

女性の働きやすさ、とか
女性の能力(脳の仕組みの違いによる)を
どのように生かすか?

というのは、
社会が高度化・情報化・サービス業化していく上で
不可欠のものになってきているのだなあと。

「太平洋ベルト地帯に資源(ヒト、モノ、カネ)を集中投入する。」

という日本株式会社の経営方針は、
会社として成長(経済発展)するためには
おそらく正しかったのだろう。

しかしそれは、
・人口が増え続ける
・工業製品が売れ続ける
・それによって雇用・賃金が増える

という特殊な環境において、という前提条件を付けなければならない。

「効率化」のために、
男は仕事、女は家庭という文化を作り上げていった。
テレビを見れば、リポビタンDやオロナミンCを飲んでいたのはいつも男性だった。
洗濯や料理をするのはいつも女性だった。

そして冒頭のCM。
幸せってモノがあることだと。
それを日本全体で共有していた。

しかしもはや、
「効率化」では価値を生み出せない時代となった。
ひとりひとりが自ら考え、
新しいものを生み出していく創造力が求められるようになった。

そのときに問われること。

それが「哲学」であると思う。
会社で言えば「経営理念」ということになるだろう。

新しく生み出される商品は
どんな「哲学」(=価値観・感性)で
生み出されたものなのか?
そういうものが問われるのだ。

まさに
「幸せってなんだっけ?」
という問いへの自社の、自分のスタンスが
問われているのであると思う。

もし、僕たちが新しい文化をつくっているとしたら、
それはどんな文化なんだろう?

きっとそんなことが問われている時代に、社会に、
僕たちはいま、生きている。

幸せってなんだっけ?  

Posted by ニシダタクジ at 06:39Comments(0)学び

2015年07月14日

「大きな物語」なき時代を生きるために

「物語」を自分で創らなければいけない時代。

土曜日のワークショップで、
「豊かとは、選択肢が多いことだ」と言った人がいた。

そう。
僕たちは選択肢の多い「自由」な社会を生きている。

明治維新以来、
僕たちは、共有すべき「大きな物語」を持って生きてきた。
「富国強兵」「殖産興業」「経済復興」「経済成長」

個人ひとりひとりの「物語」は、
その大きな物語の中のほんの一粒の小さな物語だった。

みんなが同じ物語を共有することで、
安心感と仲間への連帯感が生まれた。
自分がなんとかするのだという使命感もあった。

バブル崩壊からの20年を「失われた20年」というが、
そのときに失われたもののひとつが
「大きな物語」だったのではないだろうか。

そして今。
未来がまったく予測できない時代に生きている僕たちが
抱えている、不安感、喪失感の大きな要因のひとつは
そこにあるのだろう。

選択肢の多い「自由」と引き換えに、
僕たちは「大きな物語」を失ったのだ。

「大きな物語」を喪失し、
ひとりひとりが「物語」を描かなければいけない時代。

自分自身の「小さな物語」を描くために、
哲学が必要なのだろうなあと。

何を大切にしていくのか?=価値観と
何を美しいと思うのか?=感性

のふたつを形成していくことで、
その先の志が見えてきて、
それをつなぐのが物語=生き方
になっていくのだろうと。

「物語」のある人生を生きる。
その物語にはどんな登場人物が必要なのだろう。

何に価値を置き、
何を美しいと思い、
物語をつくっていくのだろうか?

おそらく、それが
「哲学」とか「誇り」とかなんだろうなあと思う。

その「物語」をつくりあげるために、
「地域」をフィールドに何ができるだろう?
「地域」で活動する意味はなんだろう?
そのことによって「地域」はどうなるのだろう?

僕は若者が地域(特に高齢者地域)で活動する意味は、
そのような「哲学」と「誇り」の相互作用にあるのではないかと思う。

若者は自らの「哲学」を形成するために、地域の「誇り」に触れる。
地域は、若者のまっすぐな心を受けて、「誇り」を思い出す。

きっとそういうところにあるのだろうと思う。

僕の価値観では、
「地域が活性化すること」に価値があるのではなく、
ひとりひとりが「哲学」や「誇り」を持って今日1日を生きることにこそ
価値があるのだと思うから。  

Posted by ニシダタクジ at 07:31Comments(0)日記

2015年07月13日

「豊かさ」は「瞬間」にある

水と土の芸術祭
「これからの米屋の話をしよう」ワークショップ
の第1回が行われました。
20人を超える人たちが集まりました。


ワークショップテーマは
「豊かさとは何か?」
「豊かさを実践できる米屋とは?」

そんな問いをみんなで考えた
いい時間になりました。

「ていねいに生きる」
そんな生き方をしたいと思っている人は本当に多いんだろうなあと。

最後の感想では、
「豊かさについて考える時間がよかった」
という声が多数。

コミュニケーション・デザインとしての
米屋さんも魅力的だなあと思いました。

最後に参加した高校生が言ってくれた感想が
心に残りました。

「豊かさについて語るこの時間が豊かだと思いました。」

いやあ、そうそう。
そうなんだよね。
思わず泣きそうになりました。

そうそう。

「時間」とか「空間」、周りの人たち。
それが合わさった「瞬間」
に豊かさというのがあるんだよね。

日曜日は、まきどき村の人生最高の朝ごはん。


畑やって、
朝市で漬物買って、
料理つくって、みんなで食べる。




昨日は男8名での朝ごはんだったので
村長のテンションが低かったけど(笑)、
アイルランドから水と土の芸術祭に招へいされた
クイビーンさんと楽しい朝ごはんを食べました。

人生最高の朝ごはん。
それは時間と空間のアート。
「人生最高」という瞬間を生み出す
企画だったのかもしれないなあ。

「豊かさとは何か?」
これは僕の大学生時代の一貫したテーマでした。

そのひとつの出口が、
まきどき村の人生最高の朝ごはん。

米屋ワークショップからの朝ごはん。
田坂広志さんのいうように、一段高くなって返ってくる。
それが人生なのかもしれませんね。  

Posted by ニシダタクジ at 07:30Comments(0)学び

2015年07月11日

相互監視から相互扶助へ

9日の公開講座。
今回は福祉コミュニティのまちづくり論

~~~ここから講演メモ

・1969年国民生活審議会コミュニティ問題小委員会
⇒政府文書で初めて「コミュニティ」という言葉が出る。
「自主性と責任を自覚した個人及び家庭」
「開放的でしかも構成員相互に信頼性のある集団」
⇒町内会という組織と決別する文書

・コミュニティはどこにあるのか?
1 理想的概念であり実現しない
2 現実的概念 「地域性と共同性を備えた組織」=町内会ではないか
3 実践的概念:いまのままの地域ではなく、活動目標と一体化した理想の地域

・マッキーバー
人々が衣食住などの共通関心により結合した包括的共同体=コミュニティ
企業・学校・クラブ・教会など特殊関心により結合した人為的組織=アソシエーション

為政者にとって、「地縁」とは、相互監視システムであり、
住民にとって、「地縁」とは、相互扶助システムである。

日本の場合相互監視の意味合いが強い。

イタリアの場合:相互扶助システム「コムーネ」
アモーレ:愛し合える距離
カンターレ:歌い合える距離
コンジョーレ:食べ合える距離

・大宝律令
・五戸の制:五人組。五人で共同責任をとる。
・国家成立の2条件:税と軍隊
・平安時代の荘園に受け継がれる

・秀吉の時代
五人組(階層分離)
兵農分離⇒刀狩り
武士になりたいヤツをとめる。
春農民⇒冬武士:やめさせる

・検地:租税を確定させ農民を固定する。
・五人組:相互監視システム

・家康の時代
・混在・人口流入・植民都市
⇒税のため新しい地域組織をつくる必要があった。
築地や浜町が町人のまち、ここに新しい地点組織が生まれてくる。

長屋=根小屋
1)自治制度 
刑法:町奉行⇒それ以外はサムライは関与しない
町年寄⇒町名主⇒大家⇒店子

木戸番:6時に開けて6時に締める。外出できない。

2)戸籍
江戸時代は寺で管理(過去帳)⇒足りない⇒大家が管理する
札付き:戸籍に札がつくところから。
農村は町人、サムライと違う法で動く。

・明治維新
軍隊と税(米から金へ)
棲み分け⇒戦争による平準化が起こる。

・昭和
東条英機の国民皆兵⇒戸籍を整備して山の民も全員入れる。

・1937年「町内会・部落会整備法」(内務省にいた友末洋二による)
・戦争への草の根軍国主義組織としての町内会、部落会。

・1945年
GHQ:町内会廃止命令⇒日本型地縁組織の消滅⇒社会福祉協議会をつくる

・アメリカの共和党と民主党
・共和党:棲み分け 民主党:混住
・茨城県「納税組合」をつくる:町内会の機能を持っていた
(民主党オーバーガードと友末知事による)

・昭和27年、新制中学校をつくるために昭和の大合併が行われる。
・民主的自治組織(自治会)が組織される前に人口大移動が起こる⇒過疎と過密

~~~ここまで講義メモ

なるほどなあと。

税をちゃんととるための相互監視システム。
それが五人組というか町内会なんですね~。

イタリア方式素敵、とおもったけれど、
日本は相互監視の色が濃いとか・・・

田舎のなんとなくの閉塞感みたいなのっていうのは
この「相互監視」の名残なんでしょうね。

相互監視が嫌で都会に出て行ったけど
そこにはコミュニティがなく、助け合えることもない。

そんなことを続けてきて人はふたたび、
テーマコミュニティやコワーキングスペースで
つながってきたのだろうなあと。

相互監視ではなく、相互扶助としてのコミュニティの再構築。
きっとそれが必要なのでしょうね。  

Posted by ニシダタクジ at 07:07Comments(0)日記

2015年07月10日

「誇り」の再生とコミュニケーション・デザイン

「誇り」そのものが観光資源であり、
誇りに対して、人は魅力を感じリピートする。
と仮説する。

では「誇り」の構成要素はなんだろうか。

佐藤家保存会のじいちゃんたちを思い出す。
地域愛、そして哲学、かなあ。

哲学は分解すると
価値観と感性に分解される。
価値観は言葉にすると「何を大切にしているか」であり、
感性を言葉にすると「何を美しいと思うか」である。

カッコイイ若者には
哲学と志、それをつなぐ生き方があると思った。
その哲学に、
地域愛が加わった生き方から「誇り」が生まれてくるのではないか。

仕事旅行の内田さんの話を聞いて、
「誇り」の再生は可能だと思った。
職人たちの話を目を輝かせて聞く若者。
これをデザインすると誇りが生まれる。

そういえば、15年ほど前に
新潟県上越地方で、
横浜市の小学生を農家に民泊させる修学旅行を企画している
話を聞く機会があった。

農作業を本気でやる。(サボっていたら怒鳴られる)
というプログラムを通じて、
子どもたちと地域のじいちゃんが仲良くなって、
3泊4日の最終日には子どももじいちゃんも泣きながら別れを惜しむのだという。

そう。
「誇り」の再生は可能なのだと思う。
そしてその「誇り」を再生するのが、
若者とのコミュニケーションなのではないか。

それは若者にとっても
「誇り」に触れる、という貴重な経験となる。

若者たちは、自らが生きていくために
「誇り」を必要としている。

しかも、会社や地域といった「共同体」が
あまり機能していない現状だと、

「スクールウォーズ」のモデルとなった
伏見工業高校のような、
「ラグビーでこの学校を日本一にしてください。
この学校には誇りが必要なんです。」

というような、
学校のようなコミュニティの結びつきは残念ながらもはやない。

たとえば、自分の所属大学の
ラグビー部が日本一に輝いたとして、
それを自らの誇りとできる大学生はどれほどいるのだろうか?

若者は自分自らの手で、足で、
「誇り」に触れることで、
自らの「地域愛」「哲学」「志」を
形作っていくしかない。

だから。
「誇り」に触れることだ。
「誇りある大人」に出会うことだ。

そしてそれを
「誇りある」ととらえるかどうかは自らの感性だ。

僕は大学生のとき、
ひたすら日本のちょっと変わったこだわり農家を
めぐって旅をしていた。

それぞれの農家さんには、
それぞれの「哲学」があった。「誇り」があった。
言いようのない「愛」があった。

僕をその旅に向かわせたのは、
きっとその力だったのではないだろうか。
そしてそれは同時に、
農家さんたちの「誇り」を強化していたのではないかと思う。

誇りの再生は、若者と農村のコミュニケーションデザインによって
可能になるのではないか。

そして、その先に、
農村部での仕事づくりがあるのではないか。
そんなデザインをつくっていけたらと思う。


「農山村は消滅しない」(小田切徳美 岩波新書)

本、生協で売っていたので買いました。
ツルハシブックスさん、ごめんなさい。

「地域の誇り」再生のために
お買い求めはツルハシブックスでお願いします。(笑)  

Posted by ニシダタクジ at 05:59Comments(0)日記

2015年07月09日

「誇り」という観光資源

http://www2.hokurikutei.or.jp/lib/shiza/shiza09/vol22/topic2/
「北陸の視座 vol22 2009年5月より)

農山村で起こっているのは

人、土地、ムラの空洞化であると言う。
人の空洞化が「過疎」、
土地の空洞化が「中山間地域」、
ムラの空洞化が「限界集落」
という言葉を生んだ。

明治大学の小田切先生によれば、
この根底にあるものは、
「産業政策」や「農業政策」はもちろんであるが、
何よりも

「誇りの空洞化」であるという。

農山村に住んでいる人たち自身が、
自分自身が住み続ける誇りを失い、
子どもたちを都会に出してしまう。

それでは、
誇りとは、いったいなんだろうか。

「人生最高の朝ごはん」が開催される
新潟市西蒲区福井の旧庄屋佐藤家
に参加する地域のじいちゃんたちには、
「誇り」があるように感じられる。

だから、旧庄屋佐藤家は
居心地のよい空間ができるのだなあ。

僕は、まきどき村を始めた1999年。
その翌年の2000年に、それを体感することになる。

まきどき村開墾ツアーという
合宿を開催した。

2泊3日、盛りだくさんのスケジュールで
まきどき村のすべてを体感してもらった、はずだった。

ところが、
東京から来たUさんが、感想で言った一言にびっくりした。
「佐藤家のかや刈りが一番楽しかった」

そうまきどき村体験ツアーの数日後、
彼女だけ旧庄屋佐藤家のイベント、
かや刈りに参加。

屋根の葺き替えのためのかやを刈って、
終わってから酒を飲む、という田舎にありがちなイベント。

なんにもプログラムされていない。
しかし、Uさんはそれが一番楽しかったのだという。
彼女は1年後、再びそのイベントに来た。

観光資源とは、
もしかしたら、「誇り」そのものなのではないか?
地域の人からにじみでる「誇り」を体感したとき、
人はまた来たい、と思うのではないか。

すなわち、
「地方再生」とは、
まず、「誇り」を再生することなのではないか。

この前、常陸太田市の里美で、
折橋地域の人たちがやっている
酒造のリノベーションプロジェクトに参加したとき、
同じような空気感を感じた。
まずは、誇りを体感すること。

うんうん。
この方向性、いけそうだな。

小田切先生の本、読んでみようっと。


「農山村は消滅しない」(小田切徳美 岩波新書)  

Posted by ニシダタクジ at 07:43Comments(0)日記

2015年07月08日

大きくなったら何になりたいの?に真剣に答えてはいけない


「その幸運は偶然じゃないんです。」(J.D.クランボルツ ダイヤモンド社)

読み直す。
センセーショナルな言葉がつづく。
帯がすでに
「もうキャリアプランはいらない」
ですからね。挑戦的。

スタンフォード大学の教育・心理学の
クランボルツ教授の本。

第2章 選択肢はいつでもオープンに
から一部引用

~~~ここから一部引用

みなさんには今後一切キャリアの意思決定を
しないでほしいのです。

なぜでしょうか?
「キャリアの意思決定」とは、
ひとつの職業に永遠に関わり続けることを
宣言することと解釈することができます。

しかし、あなた自身も、
あなたを取り巻く環境も、
常に変化しているときに、
ただひとつの道に人生を捧げようとすることはばかげています。

自分の将来を今決めるよりも、
積極的にチャンスを模索しながら、
オープンマインドでいるほうがずっとよいのです。

「大きくなったら何になりたいの?」
たいていの人は、子供のころにこの質問をされた経験があるでしょう。

この質問は、
トレーニングを受けた大人(エコノミスト、証券のディーラー、気象学者、政治アナリストなど)
でさえ、将来を正しく予測することは難しいという現実を無視して、
子供が将来を予測できると想定した質問です。

高校生や大学生になると、
将来の職業を宣言しなければいけないというプレッシャーはさらに増します。

その決断をしないと、
彼らの両親や先生、カウンセラーは
「優柔不断」さらには「決断力がない」とレッテルを貼ります。

やってみたこともないのに職業を決めることを彼らは期待されているのです。
おかしいとは思いませんか?
しかも一生それにこだわり続けなければならないなんて!

これではまるで、デートをしたこともないのに、
結婚相手を選べ、と言っているようなものです。

しかし、私たちが生きている社会では、
若者は自分が将来就きたい職業を明確に述べられるようになるべきで、
それは早ければ早いほうがいいという考え方が一般的です。

ある調査の結果、
18歳の時に考えていた職業についているという人は
全体の約2%にすぎないことがわかりました。

将来の職業を決めるという目標は無駄だと思うようになりました。

~~~ここまで一部引用

これが「計画された偶発性理論」
いわゆる「キャリアドリフト」理論です。

キャリアは予期せぬいくつもの出来事の結果、形成されていく。
だから偶然を計画し、偶然をつかまなければならない。

若者のいわゆる「もやもや」(漠然とした不安)を
キャリア教育的切り口から切ると、
おそらく「キャリアデザインの呪縛」とも言うべき、
なりたい職業を早く決めなきゃいけないというプレッシャーと
それに対する自らの感性の違和感が原因となっているのではないかと考えられる。

「キャリアデザイン」がうまくいく条件は、

1 将来がある程度予測できる
2 その仕事が長く(少なくとも40年くらい)、消滅しない
3 そのキャリアプランに周りの人(両親や先生)も同意できる

という3条件がそろった場合にのみである。

小中学校で「キャリアデザイン」一辺倒で指導が行われるのは、
学校の先生は、そうやって「キャリアデザイン」した結果、
先生になっているからである。

現在の日本は18歳時点で「先生になる」と決めなければ
義務教育(特に小学校)の先生にはなれないシステムになっている。

しかしながら、
世の中を見渡してみれば、
クランボルツ博士の言うように、
2%くらいの人しか、18歳時点で想定した仕事に就いていないのではないか?
と思う。

キャリアプランはいらない。とまでは言わないが、
キャリアデザイン一辺倒のキャリア教育は
それによって「もやもや」する若者を確実に増やしていると僕は思う。

多様な価値観とは、
どこに就職するか?
ではなく、
就職するか、しないか?

そこから始めていくことだと思う。

そのときに「地域の大人」たちがもつ多様な価値観
(大切にしているものは何か?)
に刺激を受けて、ひとりひとりの価値観が形成されていくのだろうと思う。  

Posted by ニシダタクジ at 06:36Comments(0)

2015年07月07日

yet confidence

キャリアにおける「自信」とは、
yet confidence(「まだやれる」という自分自身への信頼)
だと思う。

「大切にしたいもの」=価値観と
「美しいと思うもの」=感性を磨きながら、
さまざまなことにチャレンジし、
「yet confidence」=自信を保っていくこと。

この3つがあれば、
自分自身のキャリアをつくっていける。
この3つは当然、数値化できるものではない。

糸井重里事務所が出した

「はたらきたい」には、

「あなたが大切にしてきたことはなんですか?」
という問いに答えられることが大切だと書いてある。

つまり、「価値観」「感性」だ。
最終的には「コイツと一緒に働きたい」かどうか?
が採用のポイントなのだという。

つまり、最終的には能力だけではなく、「価値観」「感性」で
就職は決まるのだという。

そうだとすると、就職するためには、
いや、就職しないでフリーランス、あるいは起業するにしても、
「コイツと一緒に働きたい」と思わせるためには、
「価値観」と「感性」を磨いていくことが大切になる。

そして、どんな仕事が目の前に来たとしても、
「yet confidence」を保ち続けることが大切だ。

「yet confidence」とは、
「やればできるかもしれない」ということ。

学校生活を生きてくると、
単一のモノサシと他者評価、他者との比較の中で、

たとえば、
「同じように勉強しているのに、アイツはオレよりも成績がいい」
という結果によって、
「もしかしてオレ、頭悪いんじゃないか?」
と思ってします。

単純に言えば、この繰り返しで、
「自分の能力・才能はこんなもんだ。」と自己限定してしまう。
これを「才能思考」と名付けてみる。

そしておそらく若者たちにとって不幸なのは、
この才能思考に染められている真っ只中に
進路指導およびキャリア教育が始まっていくことだろう。

乱暴な言い方をすれば、
「あなたの能力はこんなもんだから、こんな進路(選択肢)しかありませんよ。」
というような、将来の進路の限定が始まる。

限定しなければ目標設定ができないので、
目標設定に価値がある学校では、こうしたことが起こる。

問題は、目標に最適化し、そこに邁進した後、
その目標・夢が破れたとき、
リカバリーできるか、ということだ。

公務員になる、あるいは美容師になる、
そんなふうに目標を立てて、そこに進路を絞っていく。

ところが試験に受からなかったり、
身体的にシャンプーと肌が合わなかったりして
その目標を達成できないことが分かる。
そのときに、次の道に進んでいけるか?

それが、「yet confidence」になる。

簡単に言えば、「やってみる力」。
自分は開花の道の途上にあるという実感。

これを持っていれば、
また次の道へ進んでいくことができる。

しかし、前述のとおり、
学校生活では「才能思考」への道がひたすらに開かれているので、
「yet confidence」を保つのは難しい。

「いや、そんなこと言っても、私は子どもの時から自信のない子で・・・」
と思う人がいるかもしれない。

しかし。
そんなことはない。
物心つく前は誰もが「yet confidence」を持っていた。

その証明はいま、あなたが自転車に乗れることだ。
自転車という乗り物に乗るのは、難しい。
なにより怖い。
しかし、小学校の低学年か、あるいは幼稚園のときに、
何度か失敗しながらも乗れるようになる。

あのとき、1度2度転んだだけで、
「おお、俺、自転車向いてないから、歩きでいいかな。」
と思う子はほとんどいない。

「乗れるはずだ」と信じて、実際に乗れるようになる。
それは自分にその能力が備わっていたからではなく、
能力が開花したからではないだろうか。

ところが。
大人になると、人はいつのまにかその力を失っている。

「人前で話すのが苦手だ」と勝手に思っている。
そして、何度かそんな機会があって、うまく話せないと
「やっぱり自分は人前で話すのが苦手なのだ」と
強化していまう。

これが仕事だったらどうだろうか?

この仕事やってみないか?と誘われたときに、
「やったことないけど、やってみようかな」と思うか、
「コミュニケーションは自分には向いていないので断ろう。」と思うか。
これによってキャリアは大きく変わってくる。

では。
小学校中学校高校で失ってきた「yet confidence」を回復するには
どうしたらいいのか?
「やってみる力」「再チャレンジする力」をどう育んでいくのか?

1 「巻き込まれる空間」、「偶然」をつくる。

2 「やってみる」機会を増やす。

3 「やってみる」⇒「振り返る」のサイクルを回す。

この3つを繰り返すしかないだろうと思う。

まずは、「やってみる」へのハードルを下げる。
ここが課題だなあと思う。  

Posted by ニシダタクジ at 06:40Comments(0)日記

2015年07月06日

画一的な「ロールモデル」型キャリア教育

「やりたいことがわからない」

ツルハシブックスに立っていた4年間。
来店する大学生のもっとも深刻な悩みは
これだった。

やりたいこと、夢がない。
だから、何をしたらいいか分からない。
将来が描けなくて不安だ。

一見すると、
それは深刻な問題のように見える。

しかし、その本質的な課題は、
「やりたいことがわからない」ではなく、
「やりたいことがわからなくてつらい、不安だ」
ということではないか。

「今はやりたいことはわからないけど、
いろいろやっていれば、そのうちに何か見つかって、
人ともつながって、なんとかなっていくと思っている。」
と言える人が強い。


「プレイフル・ラーニング」「プレイフル・シンキング」

の上田信行先生の言葉を借りれば、
「yet confidence」(まだやれる!という自分自身への信頼)
を如何に持っているか、
がキャリアにおいては重要であると思う。

それでは、そもそも、
なぜ「やりたいことがわからない」ことは、
若者にとって深刻な課題(だと思わされている)なのだろうか?

ひとつの仮説は、学校でのキャリア教育において、
「多様な価値観」「多様な働き方」と言いながら、
実際には、「ロールモデル型」(キャリアデザイン型)の
キャリア形成モデルの1択しか選択できないからではないか?

つまり。
ある程度早い段階で(遅くとも大学4年の就職活動の前までに)、
自分のやりたいこと、目標を定め、
そこに向かって計画を立て、努力をして目標を達成していく、
という手法しか、選択できないということ。

つまり。
「やりたいこと、まだ分からないんで、とりあえずフリーターになります」
という出口は、キャリア教育としては失敗であると定義されていることである。

もちろん、生涯賃金など、様々な条件から、
新卒フリーターや3年以内の離職というのは、
社会的に不利になることが多いだろうと思う。
しかし、それでも、「学び続ける姿勢」「人との出会いを活かし、行動する力」
があれば、キャリアは拓けていくのではないだろうか。

まあ。
フリーターになるのは結果であるので、置いておいて、
問題は、「やりたいことがわかっている」ことを
あまりにも重視するために、
冒頭のような「やりたいことがわからない」ことに対して、
過度に不安になってしまうことである。

そしてそれは
「やりたいことがわからない。」
⇒「チャレンジできない」
⇒「自分に自信が持てない」
というスパイラルに陥ってしまう。

問題はおそらくここにある。
目標設定・達成型の方法論の絶対化は、
「やりたいことがわからない」から「行動しない」
という若者を生んでしまっているのではないか。

しかしながら、
キャリアにおける夢や目標の設定、言い換えれば、
「やりたいことの言語化」はそんなに簡単なことではない。

理由その1 予測不可能な世の中。

5年後の日本の未来図がまったく描けない時代に、
自らの5年後を描けるだろうか?
10年後もなくならない仕事がどれほどあるのだろうか?

理由その2 言語化能力の不足。

10代20代で社会に出ていないのに、
大人に説明できるくらいのやりたいこと、将来ビジョンを言語化できるだろうか。

理由その3 既存の価値観による制約。

たとえば美術系や人文系を学びたいので、と大学に進学しようとすると、
「それで就職できるのか?」と言われてしまうので、
今の大人(先生や親)の価値観の範囲内での目標設定になってしまう。

にも関わらず。
学校は、目標を設定し、達成へ努力しろ、と強いる。

教育系NPOも、
かっこいい大人、素敵な大人をピックアップして、「背中を見せる」活動を行う。
それによって人生が動く子どもたちもたくさんいるだろう。
学校だけじゃない多様な働き方を見せる意義はもちろんあるだろう。

しかしそれは同時に、
「ロールモデル」型キャリア教育という
方法論を強化していると言えるだろう。
「あんな大人になりたい」と目標を決めて進んでいくこと。

目標を決めて、そこに向かって進んでいくこと。
これは学校教育の宿命である。
教育には目的・目標がなければならないからだ。
それがなければ、先生が達成度を評価できないからだ。

しかし、それぞれの人生を左右するキャリアにおいて、
中学生・高校生・大学生時点での他者による評価は、
そんなに重要なのだろうか?

「人の役に立ちたいので、将来は市役所職員になろうと思います。」
と宣言して、法学部に進学する。
「人を助けたり、人と話をするのが好きなので」
と決めて、ホテルマンを養成する専門学校へ進学する。

それはもちろん素晴らしいことだと思う。
しかし、本当に大切なのは、それが叶わなかったとき、
あるいは夢破れて途中で転職せざるを得なくなったときに、
再就職し、生き抜く力を持っているかどうか、ではないか。

「yet confidence」(まだやれる!という自分自身への信頼)を持ち、
キャリアを自ら拓いていく力なのではないか。

だから、それを磨いていくような機会を
作っていかなくてはならない。

「計画された偶発性理論」を説く
クランボルツ博士は次の5つを磨けという。

1.好奇心:新しい情報・学習機会の模索
2.持続性:めげない継続的努力
3.楽観性:新しい機会を「実現可能」とらえるマインド
4.柔軟性:信念・概念・態度・行動を柔軟に変える
5.リスクテイキング:結果が不確実でも行動に移す。

昨日のブログに書いた「仕事旅行」の内田さんは、
工学部を出て、建築デザイン会社に10年働いた後に
「仕事旅行」を立ち上げている。
自分の感性と価値観を信じられるって素晴らしいなあと思った。

そして、それこそが
予測できない社会における働き方のひとつのカタチなのではないかと思った。

「ロールモデル」型キャリア教育が間違っているわけでは決してない。
それは一つの有効な方法論であるだろう。
しかし、それは唯一の方法ではない。

「学校」という場所は
ひとつのモノサシで、人を評価しなければならない宿命を負っている。
先生によって、評価が違っては困るからだ。

キャリア教育においては、
それが「ロールモデル型」という方法論になっている。

私たちは、ここ30年。
「経済成長」という皆が共有できる大いなる目標を失い、
ひとりひとりの個人として叶えたい夢・目標をもたなければ生きられない時代を生きている。

それはおそらくはそうだろう。

しかし、それは、
中学・高校・大学のときに
「やりたいことを言語化する」ことでは決してないと思う。

「大切にしたいもの」=価値観と
「美しいと思うもの」=感性を磨きながら、
さまざまなことにチャレンジし、
「yet confidence」(まだやれる!という自分自身への信頼)を保っていくこと。

そのことで自らの哲学が確立され、志が生まれ、
志と哲学をつなぐ働き方に到達していく。

これが、これからの時代のキャリア形成なのではないかと強く思う。

この春、そんなふうに生きてる人たちに出会い、
僕自身の感性が「カッコイイなあ」と実感した。

さあ、僕はもう40歳なので、
そろそろ「やりたいことを言語化」しなきゃいけないな。(笑)  

Posted by ニシダタクジ at 07:13Comments(0)思い