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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2015年12月03日

「学校」という装置


「サヨナラ、学校化社会」(上野千鶴子 太郎次郎社 2002)

久しぶりに読み直してみたくて、古本屋さんで購入。
2002年の発刊。
NPOを立ち上げたばかりの時に読んだイメージがある。

その頃は内容がよくわからなかったけど、
今なら、「学校化」という意味が少しわかる。

関西の四流私大から東大に
移ってきた上野さんが
東大生から感じたこと、そして関西にいるときとの
ビフォアアフターが書かれていて、「学校化」に切り込んだ1冊。

東大生の多くは、
適応能力の高い、権威主義を内面化した学生だということ。

上野氏が言う、「東大生シンドローム」は
権威主義が内面化されていることからくる「恥の感覚」のこと
自分にとっての判定者は教師ではなく、同輩であるというプレッシャー。

~~~以下、本文より一部引用

学校とは本来、試行錯誤ができる訓練期間であるはずです。
「エリート」と呼ばれる人たちは、
自分がなにかを知らないということを
自分で認めるのがイヤなのです。

学校はなぜ、試行錯誤を子どもや若者に許し、
彼らが失敗から学んで育つ場所とはなっていないのでしょうか。

学校という制度は、近代以前にはありません。
近代になってから新しくできた職業は、
官員さんと社員さんと教員さん。
「員」のつく名の職業です。

これは学校も教師もすべて近代の産物であって、
それ以前には存在しなかったということです。

寺子屋はいわば民間のボランティアでした。
近代の学校は国家が整えたひとつの制度です。

学校に通うことが義務とされ、
子どもの数に見合うだけの教室が建てられ、
そこに配置するための何十万という教師の集団が
師範学校で養成され、国定の教科書を使い、
同じようなセッティングで授業が行われる。、
そういうシステムが整えられました。

そして、そこを通過することで
人間がある規格にはめられ標準化される。
それを最近は「国民化」といいますが、
生まれも環境もばらばらな人間を、
均一な日本国民に仕立てあげていく事業が行われました。

おなじような国民化の装置として、
国民皆兵による軍隊をあげることができますが、
この二つはともに、
従順な身体をつくる装置だということができます。

全員がまえを向いて一人の人の話を
みじろぎせずに聞く身体を小学校の一年生から
叩き込み、「気をつけ、休め、右向け右」
や分列行進など、日常ではありえない身体へ馴致し、
集団のなかでのひとつの単位へと標準化してゆく点で、
学校と軍隊はパラレルでした。

学歴社会では、
学校での成績によって社会に出てからの処遇が決まり、
地位や給料というかたちで階層差が生じます。
上の階層の出身者は学校での処遇がよかったので、
社会に出てからも上の階層になる。
下の階層の出身者も結局、下の階層に収まる。

この再生産のカラクリが学校を通過することで正当化されるのです。
キャリアとノンキャリの身分差が学校という装置をくぐることで
本人にも納得され、社会にも正当化されるのです。

なぜ学校がこのような装置として機能しているのか。
そこには民主主義社会がもっているある種のジレンマがあります。

自由・平等の民主主義の社会とは、
実はまったく平等な世界というわけではありません。
人間の社会は実際にはそれぞれ異なる処遇と
異なる権力を付与された人々から成り立っています。

だから人はみな平等のタテマエにもかかわらず、
他人が自分よりも優位な立場にあるということ、
支配的な立場にあるということを、
下位にいる人間にみずから同意してもらわなければなりません。

みずから合意すれば、
服従するコストが安くてすみます。
これが近代というもの、資本主義というもののしかけです。

もし合意がなければ、
服従を求めるためには脅し・暴力・締めつけ・・・と
とても高いコストを支払わなければなりません。

優勝劣敗主義は「敗者の不満」と同時に「勝者の不安」
をもたらします。

勝者といわれる優等生は、
親や教師の期待や要求を読み取る能力に長けています。

しかしそうやって、
人の期待を読みとることばかりやっていると、
自分にとって何が意味があるのかとか、
自分の好きなことはなにかとか。
自分の人生にとってなにどういう優先度があるかということが
わからなくなってくるのです。

それを「優等生シンドローム」と言います。
ある種のロボット化です。

学校は「学校的価値」を再生産してきました。
「学校的価値」とは、明日のために今日をがまんするという「未来志向」と
「ガンバリズム」、そして「偏差値一元主義」です。

だから学校はつまらないところです。
いまを楽しむのではなく、
常に現在を未来のための手段とし、
すててを偏差値一本で評価することを学習するのが学校なのですから。

その学校的価値が学校空間からにじみ出し、
それ以外の社会にも浸透していった。
これを「学校化社会」といいます。

~~~ここまで本文より引用

なるほど。
まさにそう。

そしてもっとも大きな課題(だと私が思う)は、
子どもの教育を「学校」だけが担っているということ。
つまり、「家庭」と「地域」が機能していないということ。

学校における価値が唯一の価値だとみんなが
思っていること。

キャリア形成においては、
職業名として「夢」を持ち、
そこに向かって計画的に進んでいることを良しとする。

計画を立てれば、
あとはその計画に従って、機械のようにすることができる。
それが学校成績を上げる。

そうやって、
多様な価値観と、考えること感じることから
切り離されていくのが「学校」という装置なのだろう。

近代の世界を国家が生き延びるための仮説、「富国強兵」
それを実現するための装置が「学校」なのだろうと強く感じた。

いま。
世界はどこに向かっているのか?

国民国家として、
いや地域コミュニティとして、
自分たちが切り拓いていく未来はどこにあるのか?

少なくとも「富国強兵」ではないとしたら、
自分たちは「学校」をもう一度見直さなければならないのではないだろうか。  

Posted by ニシダタクジ at 06:34Comments(0)学び