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ニシダタクジ
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 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2016年05月31日

「科学主義」の終わり


「評価経済社会」(岡田斗司夫 ダイヤモンド社)

5年前の本。
鹿児島のブックオフでゲット。
なぜか旅先ブックオフで18冊も買ってしまった。

本を読むタイミングがいいなあって思います。
「評価経済」っていう名前は知っていたけど、
体感できてなくて。

いま、きっと松浦伸也くんとか吉野さくらちゃんとかが
やっているやつだな、これは。

貨幣経済社会から評価経済社会へ
という予言は、徐々に絵が見えてきている。
「あなたから買いたい」
っていうのはそういうことだ。

アルビン・トフラーの「第三の波」(1980年)によれば、

「今まで、人類の歴史を変えてきた大きな変化を
波にたとえる。第一の波は農業革命、第二の波は、産業革命、
第三の波は、現在起こりつつある情報革命である。

農業革命のときにも、産業革命のときにも、
大きな価値観の変化が起きている。
打ち寄せる第三の波、情報革命ですべては変化する」

と農耕や産業革命によって社会のあらゆる部分が
大きく変わったように、情報革命によって社会のあらゆる
部分が変化すると予言しました。

トフラーは、
インターネット登場のはるか前に、
「出勤せずに自宅にいながらネットで仕事」
などの予言をバンバン的中させました。

それに対して、ニッポン代表の堺屋太一は
「知価革命~工業社会が終わる 知価社会が始まる」(1985年)
の中で

「これからの商売で大切なのは、モノそのものではなく、
それに付加される知的価値である」とし、

その中で社会の共通概念としての基本価値観を次のように述べました。

「やさしい情知の法則=どんな時代でも人間は、
豊かなものをたくさん使うことは格好よく、
不足しているものを大切にすることは美しいと感じる」

つまり、(これは著者の要約)

ある時代のパラダイム(社会通念)は、
「その時代は何が豊富で、何が貴重な資源であるのか」を
見れば明らかになる。

ということです。
しかし、ここで、著者は指摘します。

トフラーも堺屋も
「変わりゆく価値観」そのものを予測できなかった、と。

現在は、「パラダイムシフト」の時代だと、
ふたりに限らず、ドラッカーまでも言っています。

人類史上2回しか前例のない大変化の時代を
いま、生きているのだと。

ではどのように
価値観は変化しているのか?

著者は「科学の終わり」を主張します。
いまの若者は、すでに科学を信じていないと。
信じていない、というよりも、
科学よりも「今の自分の気持ち」を大切にしている、のだと。

そこで今日のブログの本題。
「科学主義」について。

トフラーや堺屋と今の若者(というか私たち)
の価値観の最大の違い。
それは「科学主義者」かどうか?

つまり「科学の発達が人類を幸福へ導いてくれる」
ということを信じているかどうか?の違いではないかと言います。

今日はこちらの「科学主義」の終わりを抜粋します。

~~~ここから引用メモ

今から200年前、ヨーロッパで「産業革命」が
起きました。

演劇、ファッション、グルメ、車、レジャーと
それまで貴族によって独占されていた特権、
娯楽がすべて大衆のものとして開放されたのです。

たとえば、
貴族しか聞くことができなかった「室内管弦楽」は
巨大な音楽ホールで、指揮者や弦楽器パートなどを
科学化、産業化されたパートによって譜面の通りに
演奏されるようになりました。

また科学の力は地理的な障害、
身分の違いをも解消し始めました。

「演劇」は、都市の住民、つまり市民でなければ
見られない娯楽でした。
しかしそれを科学は「映画」に改良しました。
これによってどんな地方でも、映写機さえあれば、
都市の住人と同じ娯楽が見られるのです。

興行関係者は、この「地方住民からの収益」
の多さに驚き、あわてて、「誰にでも分かりやすい
ストーリー」を制作者に要求しました。

聖書やシェイクスピアを諳んじてなければ
理解できない難解なテーマよりも、
単純な勧善懲悪ストーリーが映画の主流になりました。

地方の観客は、映画にストーリー以外の要素、
都市の最新流行のショーケースとなることを
要求しました。

ここにおいて、映画は、
「流行の素材を使って普遍的なストーリーを語る」
という、現在のハリウッドスタイルの原型を手に
入れたのです。そしてこれに続くラジオ、新聞によって、
「都市に住める身分の人々」と「地方にしか住めない人々」との差は、
急速に縮み始めたのです。
この差は近年、インターネットの登場によってほとんどなくなりつつあります。

科学は人々に娯楽を与えただけではありません。
科学が、人々を「市民」にした。
科学が、人々の楽しみを普遍化、平等化することによって、
身分制度、封建社会を壊滅させた。

科学には、「前世紀の貴族の特権と楽しみを市民に開放する」
という大義名分があったのです。

ああ、科学ってやつは、なんてすごいのでしょう!
そんな科学をかつての私たちは熱狂的に支持しました。
人々は目の色を変えて量産し、
目の色を変えて買い、目の色を変えて遊んだ。

人類は科学の力で、やがて月にも火星にも植民地をつくるだろう
人類は医学の力で、どんな病気も治せるようになるだろう
人類は合理主義の力で、やがて地上から戦争を撲滅するだろう
人類は民主主義の力で、最大多数の最大幸福を追求した政治を実現するはずだったのです。

社会の上から下まで、みんなが本当に、腹の底から、
それを信じていました。

科学主義とは、
実際はこのように
民主主義、資本主義、西欧合理主義、個人主義
といった価値観を含むひとつの世界観のことだととらえてみると、

もはや私たちは、
そんなに楽観的にこれらを信じていません。

トフラーや堺屋の予言は、
若いころから染みついたこのような「科学主義」によって
描かれたので、ギャップが生じてしまうのです。

だからこそ、著者は繰り返して言います。

「科学は死んだのです。」と。

産業革命と同時に宗教が死んだように、
合理主義が世界を席巻した瞬間に宗教が
「その他大勢の価値観」の一つに甘んじる他なかったように、

情報革命によって、
科学は死を迎えているのです。

~~~ここまで引用メモ

なるほど。
ハリウッド映画はそういう見方ができるのか、と。

きっと悪気はなかったのだろうね。
最大の利益を生むためには、
ストーリーを単純化し、わかりやすくすることが
避けられなかったのだろう。

「科学主義」が生み出した「思考停止」であるとも言えるなあ。

しかし。
時代は変わった。
いや、変わりつつある社会のまっただ中をいま、生きている。

「思考停止社会」から脱出し、
考え続けること、価値観を自ら作り上げていくこと。
きっとそれがなければ生きられないのだろうと思う。

いいタイミングで読ませてもらった。
鹿児島のブックオフさん、ありがとう。  

Posted by ニシダタクジ at 09:43Comments(0)