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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2016年09月07日

手紙のような本棚をつくる

2016年1月3日。
僕は新年最初の1冊を
東京・千駄木の往来堂書店で購入した。
「誰もいない場所を探している」(庄野雄治 ミルブックス)
だった。素敵な言葉遣いに魅了された。

新刊書店ツルハシブックスを始めてから、
本屋特集の雑誌を買っては、
本屋めぐりの旅をするようになった。

自分も新刊書店なのだから、
トーハンに注文すれば、ツルハシブックスに
数日後、数週間後には入荷される。

それは分かっているのだけど、
「買ってしまう」店がある。

東京では、圧倒的に「往来堂書店」だ。
なぜか、買ってしまう。
そこに「一期一会」があるような気がする。

今日、その理由がわかった。


「本屋会議」(本屋図鑑編集部編 夏葉社)

の第5部「本屋原論」

往来堂の笈入さんが、

本屋とは何か?
本屋の果たすべき役割とは何か?
について書かれた渾身のエッセイ。

シビれた。
揺さぶられた。

今から11年前、
2005年夏の玉川大学教育学部のスクーリングで受けた
「教育の原理」の講義を思い出した。

~~~以下に少し引用する

すぐに役立つ本といつか役に立つかもしれない本

いつか役に立つかもしれない本は、じっくり読んでみなければ、
どんな問題に答えてくれるのかさえわからない。
また読んだ人によって、得る答えも異なることだろう。

産業としての日本の出版は、
1990年代後半に売り上げのピークを迎えた。
その後は減少を続けているが、私はその原因の一つは、
「すぐに役立つ本」の成長が限界に達したからだと思う。

まじめな日本人は、
とにかく昨日よりは今日、先月より今月、昨年より今年の
商売が少しでも大きくなるように一生懸命努力してきたが、
いまや勤勉さだけでは生産を拡大していくことはできない。

利益を生まない、つまり商品として価値がないものは、
資本主義の立場から見ると無価値である。
しかしそれらは図書館に行けば基本的に無料で読める。

100年前も、もしかしたら1000年前も、同じ問題を考えていた
人間の知の営みは少しずつ蓄積されながら、
本という形で人類の共有財産としてそこにあり続け、万人に向けて開かれている。

つまり根源的には本の価値と商品としての価値は関係がない。
というより商品としての価値は本の価値のごく一部分と言えるだろう。
したがって資本主義的な方法でのみ本を取り扱おうとすると、どうしても無理が生じる。

本は共有財産として無料で読む方法が用意されているが、
一方で本を書くには時間も労力もエネルギーもいるし、お金もかかる。
新しい本の値段というのは、その共有財産を
少しずつ積み重ねて発展させていくための寄付のようなものではないのか。

そして本屋は本の文化を維持し、
本を再生産するための寄付を受け付けるところとは言えないだろうか。

人々が本屋でお金を出して本を買い、
それがまた別の本を生み出すことにつながり、
その積み重ねが人間の共有財産として万人に開かれる。
一部の人しか経済的負担をしないのは不公平とも思えるが、
寄付とはそもそもできる人ができる範囲で行えば良いものだ。

その場所に足を踏み入れたとき、
その文化の一翼を自分も担えてうれしいと感じられる場所であること。
それが本屋の目指すべき理想であろう。

本屋はよく売れる本を愛してはいけないのである。
愛した本を、よく売らなければならない。つまり順序が逆なのだ。

新刊本はどこで買っても同じ値段、同じ品質である。
そして現代は人々の生活に情報の検索が浸透し、
多くの人がインターネット上にある膨大な商品群のなかから注文して本を買う。

そのような時代においてもある特定の店で買う理由がもしあるのなら、
それこそが人々がこれからの本屋に求めていることだし、
本屋がこの先も果たしていくべき役割と言えそうである。

想像力を駆使して生活者である読者の見ている世界を考えてみることだ。
その人には世界はどのように見えているのか。
何を重要と考え、どんなことに関心を持っているのか。やりたいことは何なのか。

それらを想像することは、身近にいる大切な人に
何を手渡したら喜んでもらえるのか考えることと同じだ。

その人に世間で売れているものを渡せば大喜びするだろうか。
反対に見かけることのまれな珍しいものを渡せばいいのか。どちらも違うだろう。

たとえば何も知らない子どもはそもそも検索窓に入力する言葉を持っていない。
したがっていくらインターネットが使えても本を探すことはできない。

そもそも子どもは知りたいことがはっきりしていない。
ゴールがはっきりしないとき、検索は対して力を発揮しないように思える。

だから目的のまだはっきりしない子どもには、
文化を見わたし世界に誘う力を持つ本棚、
それがたくさん並んだ本屋という空間を日常的に味わってほしい。
一冊の本との出会いも喜ばしいし、その一冊の背後に
大きな世界が広がっていることを感じ取ることができると思うからだ。

目的がはっきりしていないのは、何も子どもに限った話ではない。

大人もはっきりとした目的を持たずに本屋へやってくる。
むしろ、これからの本屋にとって目的のはっきりしない読者が
一番重要な顧客になってくるはずである。
なぜなら、目的の本が決まっている読者は
インターネット上の書店や巨大な書店で買うことが多くなるからだ。

目的の本がはっきりと決まっていない読者に対して、
どのように本を見せるか。それが今まで述べた知識の体系や、
ある本屋が見た世界観を表現した本棚である。

それぞれの世界認識の方法の数だけ、
異なる本屋が現れてしかるべきである。

私たちはその間を自由に行き来できる自由を持っているはずなのである。
人々はいくつも本屋を持つことができる。
昨日行った本屋とまた違う本屋を今日はまた覗いてみればいい。

~~~ここまで引用

って。引用しすぎかも。著作権大丈夫かと思うくらいだわ。

この本、買うべきですよ。
「本屋」という文化を残したいとあなたが思うなら、
絶対に買うべき1冊。

僕は本屋でよかったと、心から思った。
世界観を表現した手紙のような本屋さんをつくりたいと。
もちろんそれはツルハシブックスやハックツのことなのだけども。

まだまだ、まだまだだよ、って。

一番衝撃を受けたのはココ。

「本は共有財産として無料で読む方法が用意されているが、
一方で本を書くには時間も労力もエネルギーもいるし、お金もかかる。
新しい本の値段というのは、その共有財産を
少しずつ積み重ねて発展させていくための寄付のようなものではないのか。

そして本屋は本の文化を維持し、
本を再生産するための寄付を受け付けるところとは言えないだろうか。

人々が本屋でお金を出して本を買い、
それがまた別の本を生み出すことにつながり、
その積み重ねが人間の共有財産として万人に開かれる。
一部の人しか経済的負担をしないのは不公平とも思えるが、
寄付とはそもそもできる人ができる範囲で行えば良いものだ。

その場所に足を踏み入れたとき、
その文化の一翼を自分も担えてうれしいと感じられる場所であること。
それが本屋の目指すべき理想であろう。」

本屋とは、そんな理想を持って歩んでいく道のこと
なのかもしれない。

だとしたら、やっぱり米屋本屋だなあと、
実感がじわじわくる。

夏葉社さん、本当に素敵な1冊をありがとうございました!  

Posted by ニシダタクジ at 08:17Comments(0)学び