2016年10月23日
「なにモノかにならねばならない」という呪縛
「コミュニティ難民のススメ」(アサダワタル 木楽社)
甲府の春光堂書店で購入。
いい本あった。
旅先で出会う本って運命を抱えているような、
そんな気がする。
もう「はじめに」からシビれることばっかりだ。
子どもの頃、「将来の夢はなんですか?」
と聞かれることがとても苦手だった。
から始まる。
~~~ここから一部引用
もちろん夢を持つこと自体を、
あからさまに否定しようとは思っていない。
問題は、大人たちが子どもたちに対して、
求めてくる夢がイコール「なりたい職業」という、
暗黙の前提があることに違和感を抱いてきたのだ
その前提を子どもたちは無意識に受け取り、
周囲から浮いてしまわないように、
徐々に「スタンダードな夢の持ち方」を
心がけてしまうようになるのかもしれない。
例えば、作文で「野球選手になりたい」と書くことは夢とされても、
「ずっと好きな野球を続けていきたい」と書くことは夢として
認められにくいのだろうか。
あるいは「宇宙飛行士になりたい」は夢で、
「いつか宇宙船に乗ってそこで生活をしてみたい」だとどうだろう。
思うに、夢というのは、なりたい職業や仕事に関することに
限られるものでは決してないはずだ。
むしろ、こうなりたいではなく、こうありたいと
願うことも夢として受け入れられてもいいだろう。
もちろん僕自身も含めて、
子供の頃にそこまで突っ込んだ疑問を
言葉にできるわけではない。
でも、世間から認められる
「なにモノかにならねばならない」
(別に有名になるといった意味ではなく、既存の職業とかに)
という強迫観念を知らず知らずに刷り込まれ、
「こういう状態=コトでありたい」と願う
思考回路の芽が自然と摘まれてしまう状況に対して、
もっと芽を向けてもいいのではなかろうか。
(中略)
この本は、これまで自分が「なにモノ」でもなく、
「なにモノ」にもなれず、だからこそ「なにモノ」かに
ならないといけないという周囲からの要請に抗い続け、
フワフワした希望と葛藤の狭間を生き、働き、表現をしてきたことに対して、
答えを出すために書くものだ。
~~~ここまで引用
とこんな感じで始まる。
そうそう、そうそう!
みたいな。
僕がこの箇所を読んで思ったのは、
「なにモノかにならねばならない」っていう呪縛は
本当に大きいと思う。
何屋さんなのか?
本業は何か?
と僕も20代のときに問われ続けた。
5年前に「本屋」という肩書を手に入れたとき、うれしかった。
「内野で本屋さんをやっている」と
初めて既存のカテゴリーに入る、
他者に説明できる仕事ができた。
まあ、それも今はまた、手放すのだけど。
まつもと空き家プロジェクトの東さんと話していて、思ったのは、
いろんな地域活動をしていると、
「あの」活動をやっている誰かになるのだという。
でも、あたりまえだけど、
中身は変わってなくて、単なる一女子大生だったりする。
なにモノになってみて、初めて気づく、
なにモノでもないという感覚。
そして、ふたたびそれを演劇を演じるように手放し、
次の「なにモノ」をまたつくっていくこと。
これからの時代の生き方はそのようになっていくのではないか。
なにモノかであらねばならない、からの卒業。
それが人生の出発点になる。