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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2016年11月29日

「ノイズ」を手に入れる


「弱いつながり」(東浩紀 幻冬舎)

「本の処方箋」で処方しようと思って、
久しぶりに読み直してみる。

冒頭から、すごいんですね、これ。

~~~ここから引用

ネットは階級を固定する道具です。
「階級」という言葉が強すぎるなら、
あなたの「所属」と言ってもいい。

世代、会社、趣味・・・なんでもいいですが、
ひとが所属するコミュニティのなかの人間関係を
より深め、固定し、そこから逃げ出せなくなるメディアが
ネットです。

(中略)

ぼくたちは環境に規定されています。
「かけがえのない個人」などというものは
存在しません。

ぼくたちが考えること、思いつくこと、欲望することは、
たいてい環境から予測可能なことでしかない。
あなたは、あなたの環境から予想されるパラメータの
集合でしかない。

(中略)

人生の充実のためには、強い絆と弱い絆の
双方が必要なのです。

世の中の多くのひとは、リアルの人間関係は強くて、
ネットはむしろ浅く広く弱い絆を作るのに向いていると考えている。
でもこれは本当はまったく逆です。
ネットは強い絆をどんどん強くするメディアです。

では僕たちはどこで弱い絆を、偶然の出会いを
見つけるべきなのか。それこそがリアルです。
身体の移動であり、旅なのです。

ネットにはノイズがない。だからリアルでノイズをいれる。
弱いリアルがあってはじめてネットの強さが生かせるのです。

~~~ここまで引用

なるほどね。
たしかに。
フェイスブックとかそうですよね。

どんどん固定化されていくっていうか、
そういう恐怖ってあるなあと思った。

ちょっとした「ノイズ」というか、
価値観がヒットするフックみたいなものを
手に入れていくことって大切なことなのだろうと思った。

中略で省略してしまったけど、
アメリカの社会学者、マーク・グラノヴェター
が1970年代に提唱した概念である「弱い絆(ウィークタイ)」。

ボストン郊外に住む300人弱の男性ホワイトカラーを
対象とした調査で、
多くの人がひととひとの繋がりを
用いて職を見つけていることがわかり、

しかも、高い満足度を得ているのは、
職場の上司とか親戚とかではなく、
「たまたまパーティで知り合った」といった
「弱い絆」をきっかけに転職したひとのほうだということだ。

友人や上司は
あなたのことがよくわかっている。
しかし、パーティであった人は
ほとんど知らないからこそ、
未知の転職先を紹介してくれる可能性がある。

そうやって人は花開いていく。

なるほどね。
これはおそらくそうなんでしょうね。

「弱い絆」言い換えれば「ノイズ」が
人の可能性を開いていくのです。
これ、きっと大学生にとってもとても重要な
ことなのかもしれないなあと思います。

「ノイズ」を手に入れる。

それには、旅をする。
本を読む。

あるいは地域に出る。
もしくは新聞を読む。っていうのも
いいかもしれません。

人に出会い、
「ノイズ」を感知し、「弱い絆」をつくっていく。

その繰り返しの先に、
人生が待っているような気がします。  

Posted by ニシダタクジ at 08:12Comments(0)

2016年11月28日

いま感性が反応していることが最先端だとしたら

感性を信じられるようになる。

これこそが
実はいちばん大切なことなのではないか。

他者の意見や世間の価値観ではなく、
自分の感性を信じる。
そして決断できるようになること。
これが、「20代の宿題」なのではないか、と。

ツルハシブックスってなんだったのか?
きっとそれが今問わなければいけないこと。

どこからきて、どこへいくのか?

いま、感性が反応していることが最先端だとしたら、
世の中は、というか私たちの生活はどこへいくのか?


新潟での活動(1996~)
有機農業研究会STEP(サークル・学食の生ごみをたい肥化して畑をやる)
まきどき村(農作業後、朝ごはんを食べる人生最高の朝ごはんを実施)
学校給食と子どもの健康を考える会(学校給食米飯化運動)
サンクチュアリ出版(地方書店営業)
虹のおと・虹のひろば(小学生と地域のお年寄りの昔遊びを通じた交流)
ヒーローズファーム(大学生の地域企業でのインターンシップのコーディネート)
ツルハシブックス(JR駅前での地域拠点となるような本屋・カフェ)
コメタク(米を炊くことをテーマに、暮らしを考える米屋)

そして、進行中の
・暗やみ本屋ハックツ(東京・練馬:10代向けに特化した寄贈本の古本屋・月1回営業)
・こめつぶ本屋(大阪・千林:商店街にある米屋の隣の空間での高校生向け活動)
・カリカリブックス(仮)(長野・伊那:駅前商店街の空き店舗を活用した高校生向け古本屋)

さらには、
・プロジェクト3号室(川崎・武蔵新城:マンション1Fを活用した高校生の活動拠点となるような本屋)

「高校生」をキーワードにして、
「学びのコミュニティ」ができていく。

たぶん、これが第1の仮説で、
ツルハシブックスで実証されたこと。
これからもこれは継続して活動していくだろう。

次は、何か。

まずは、本屋を復活させたい。
米屋本屋はやりつつ、だけど、
内野町のいろいろなところで本屋を出店しつつ、だけど。

「畑のある本屋」




多様な目的の人が同じ空間を分け合っている。
それが僕の考える「居心地の良さ」だ。
そこに「偶然」が生まれる余地がある。
それには畑のある本屋が面白い気がする。

本の集合体が発信するメッセージがそもそも「多様性」だからだ。

それがきっと次の本屋さん。

その前に、やらなくてはいけないことは、
おそらくは米屋の収益化なのだと思っている。
米屋×本屋だけでない、
地域の人とのつながりをつくり、住みたいまちをつくる、
そんな場を作っていかなくてはいけない。

あとは「移住」かな。
「参加できる」まちが移住したくなるまちになるのかもしれない。

そのあたりの構築かな。
あとは、10代の地域活動参加による
就職観(キャリアドリフト観)の醸成について、研究することからなあ。

そんな話を30日しますね、ゆきさん。  

Posted by ニシダタクジ at 08:12Comments(0)アイデア

2016年11月27日

空間の包容力

世の中から
「居場所」が無くなっているんだなと。

コミュニティの解体で
お祭りがなくなり、ひとり暮らしになり。
職場というコミュニティもドライになり。

「居場所」を必要としているのは、
中高生だけではない、ということ。
それが分かった。

しかし、それを
本屋+カフェ、そして駅前立地という
条件下では、
それを許容することができなかった。

他方、「まきどき村」は、
多くの人を許容、あるいは包容できる場であると
言えるのかもしれない。

小学校1年生から8年間ずっと不登校の中学生が、
毎週、始発に乗って、まきどき村にやってくるのは、
なんだったのだろう。

畑での農作業、囲炉裏、朝ごはん。
その空間の力。
もちろん、集まる人たちの力もあるのだろうが、
圧倒的な空間の包容力がある。

もしかしたら、次のためのステップなのかもしれない。

居場所を目指しているわけではないけれど、
ある程度許容できるような、
空間デザインが必要なのかもしれないと思った。

ツルハシブックス閉店という問い。

まだまだ、始まったばかりだ。  

Posted by ニシダタクジ at 07:27Comments(0)日記

2016年11月25日

暮らしたいまちを自らつくる

コメタクの井上有紀が言った。
「コメタクは暮らしだから。」

だから、東京に住みながら
新潟の活動をすることはできないのだと。
とても素敵な感性だなあと。

東京ひとり暮らしには「生活」はあるけど「暮らし」がない。
帰りたくなる「何か」がない。

きっとその「何か」は「誰か」であり、
その誰かがいるから、
暮らしが成立するのだろう。





まちあるき@川崎・武蔵新城

豆腐屋のある暮らしではなく、
豆腐屋のおばちゃんがいる暮らし、なのだろう。

ツルハシブックスの目指した
「本屋のある暮らし」はおそらくはそういうことかもしれない。

誰かに会えるから。
何かが生まれるから。
そこから始まる物語があるから。

そんな場所を自らが作っていけたら、
そこが「暮らしたいまち」になっていく。

内野も、上石神井も、伊那も、千林大宮も、
この武蔵新城も「暮らしたいまち」をつくる、
20代が中心となって自らの手でつくる。
そんなプロジェクトなのかもしれないな。  

Posted by ニシダタクジ at 08:00Comments(0)日記

2016年11月23日

「感染動機」による内発的学び


「14歳からの社会学」(宮台真司 世界文化社)

昨日に引き続きまして。
いやあ、これ面白い。
真骨頂は第5章でしたね。

第5章 <本物>と<ニセ物>

ここです。
大学生必読。

~~~ここから一部引用

宮台さんによると、
ものを学ぼうとするときに、3つの動機があるという。

1 競争動機(勝つ喜び)
周りの子とテストの点数を競い合うとか
人よりも高い偏差値の学校に合格したいと思って受験勉強するとか。

2 理解同期(わかる喜び)
自分の力で問題が解けたとか
自分の考えをうまく説明できたと感じる喜び。

戦後の日本の教育は、
「競争動機」と「理解動機」に集中して議論がなされてきた。
だがもうひとつ大事な動機がある、と宮台さんは言う。
それが

3 感染動機だ。
直感で「スゴイ」と思う人がいて、その人のそばにいると
「感染」してしまい、身ぶりや手ぶりやしゃべり方までまねしてしまう
―そうやって学んだことが一番身になると宮台さんは言う。

「よくわからないけどスゴイ」から始まる学び。

「感染動機」だけが知識を本当に血肉化できる。
なぜか。

「競争動機」は競争に勝った喜びの瞬間。
「理解動機」は理解できた喜びの瞬間。
これらの瞬間を求めて、君はやる気を出す。

「感染動機」は違う。
スゴイ人に「感染」している何かをしている時間が、
すべて喜びの時間―瞬間じゃない―になるんだ。

だから、感染動機が最も強い「内発性」をあたえる。
「内発性」とは、内側からわき上がる力だ。
「自発性」と比べるといい。

「競争動機」も「理解動機」も自発性に基づく。

「感染動機」は違う。
「感染」している限り、「何か」自体が喜びになる。
やることなすことが喜びだ。これこそが「内発性」なんだ

1 誰かに「感染」し、
2 徹底的にその人の視点から理解し
3 やがて卒業して今度は別の誰かに「感染」する。

1~3を数回繰り返すと、
君自身が誰かから「感染」してもらえる価値を持つようになっているだろう。

~~~ここまで一部引用

したがって、
大切なのは、知識ではなく、「感染」。
「スゴイ人」に「感染」する感受性を少しずつ育むこと。

いや。
これはたしかにそうだ。

大学時代に得るべき「学び」
っていうのは、この、
「感染動機」による内発的な学びではないか。

そういう意味では、
広い世界を見るっていうことは大切だと思う。
もしかしたらその前に「プライドを砕く」っていう
ワンステップが必要なのかもしれないけど。

僕の場合は、
大学1年生の時に、啓発系環境NGOの代表の本を読み、感染。
大学2年生の時には、微生物資材技術を説明するとある農学部教授の本を読み、感染。

大学4年生の時には、「自然農」の川口由一さんに、
院1年生の時には、「粗食のすすめ」の幕内秀夫さんに感染した。

思えば、それが今の基本姿勢を決めているのかもしれないなと。
前者の二つは、「卒業」したので、あえて名前を出さないが、
たしかに、宮台さんのいうように、「感染」によって僕はつくられてきた。

「勝手に弟子入り」みたいな感じ。
追っかけになる、というのかな。

自然農の川口さんは、ほんと、追っかけた。

山形の北のほうから
四国・徳島の自然農実践者の集いまで、
川口さんの講演を聞きに行った。

そのときの最初の出会いは
東京での対談イベントだっただろうか。

ものすごい衝撃だった。
淡々と語る川口さんの姿にびっくりした。

伝えようとしていないのに、伝わってくる。

これはなんだろう?
と率直に疑問を感じた。
思えば、それが宮台さんの言う「感染」だったのだろう。

「感染動機」による内発的学びは、楽しい。
言語化できない何かを解き明かし続けていく旅だから。

まさにこれこそが、
大学生の、20代の、宿題になるのではないか。

感染する誰かに出会い、感染する。

そこから学びのドアは開かれていく。  

Posted by ニシダタクジ at 08:00Comments(0)学び

2016年11月21日

「生きがい」と「仕事」の逆転


「14歳からの社会学」(宮台真司 世界文化社)

第3章<理想>と<現実>

学校と仕事について書かれています。
これもいいですね。
ほんと、14歳に読んでほしい。

いきなり来ますよ
「近代学校教育のモデルは軍隊と監獄」ですから。
いいなあ。
これ読んで、学校の先生に質問してほしい。

エッセンスが詰まっていますので引用します。

~~~ここから一部引用

江戸時代の農村の人々は、
めいめい時間を決めて働いていたんだけれど、
明治の近代化で、その人たちを時間的に管理された
工場労働にかり出す必要が出てきた。

そのためにまず、それまでの村人としての意識と体に
染みついた生活習慣を変えてもらう必要があった。
そこで導入されたのが近代の学校教育だ。

体育の集団行動は、軍隊教練から、
教室の構成から内申書まで監獄の管理システムの応用だ。

軍隊と監獄をモデルにした学校教育は、
農村の人々を都市労働者として編成し直すのに役立った。
雨が降ろうがヤリが降ろうが時間通り出社し、
規律正しい集団行動で、安くていいものを大量生産する競争に加わる。
そんな都市労働者が誕生することになった。

~~~ここまで引用

こう読むと、いかに学校教育が「不自然」なものであるか、
実感させられる。

そして「近代過渡期」である
大量生産・大量消費を乗り越えた我が国は、
多品種・少量生産の「近代成熟期」を迎える。

「近代過渡期」では、
「いい人生」=「いい労働者であること」だから、
「いい労働者」になる訓練をすればよかった。

でも「近代成熟期」だと「いい人生=いい消費者であること」
だから、「いい消費者」になる訓練が新たに必要になる。

「近代成熟期」は、
みんながものの豊かさを求めていた時代と異なり、
価値観が多様化し、ひとりひとりが求めているものが異なる。

フォード主義と呼ばれる労務管理の方法は、
「構想と実行の分離」といって、
「頭を使う人と、体を使う人を分ける」やり方のことだ。

この方法では創意工夫を求められるのは、
構想する(頭をつかう)人だけで、実行する(体をつかう)人は、
一丸となって勤勉に働くことを求められた。

このやり方は、多品種少量生産、サービス産業時代になると
変わってくる。

この新しい労務管理のやり方をポスト・フォード主義という
具体的には「構想と実行の一致」といって、トップから末端まで
すべての人が創意工夫を、
体だけではなく頭をつかうことを求められるようになることをいう。

こうして、創意工夫が求められ、仕事には「生きがい」が生まれた。
やがて若い人がみんな仕事に生きがいを求め始めた。

なるほど。
ここで、仕事の中に「生きがい」を見出してきたはずなのに、
いつの間にか、「生きがい」と「仕事」の逆転現象が起きているんじゃないか。

ここからは、さらに引用してみる。

~~~ここからさらに引用

最初に確認しよう。
仕事をする人に「生きがい」をあたえるために、仕事があるんじゃない。
社会が必要とするから―仕事をしてもらわないと困る人々がいるから―
仕事がある。みんなが仕事に「生きがい」を求め始めれば、多くの人は
「生きがい」から見放されてしまう。

「近代成熟期」は低成長で賃金があまり上がらない。

そんな中、企業はまず「仕事での自己実現」で
若い人をあおって競争させ、本当に優秀なひとにぎりの
人間をすくい上げたあと、今度は残った人に
「仕事での自己実現」はそこそこに「消費での自己実現」を
目指してはどうかと提案し、消費サイドに回ってもらう。

すると世の中「仕事での自己実現」をする少数のエリートと
「消費での自己実現」をする大多数の大衆とがかみ合って、
経済がうまく回る。

結局「生きがい」や「自己実現」といったものは、
経済を回すためにエリートが考え出したキレイゴトじゃないのか、と。

当たり前の話だけど
仕事に生きがいを求めない生き方だって、
消費に生きがいを求めない生き方だって、
いくらでもある。

実際、労働者に「生きがい」をあたえるための会社なんてない。
会社はもうけるためにある。
もうけるために役に立つ限りで
「生きがい」を与えるだけだ。

~~~ここまで引用

ここから、さらに論は展開していくのだけど、
ここまでにしておく。

若者を取り巻く、
「もやもや」の原因のひとつがここにあると思った。

時代背景的には、
「近代過渡期」から「近代成熟期」に移り、
「構想と実行の一致」をひとりひとりが求められ、
「生きがい」が生まれた。

それは、「仕事」の中から「生きがい」を見つける方法でもあった。

トヨタが「カイゼン」方式をとりながら、
生産効率をどんどん上げていった。
技術はどんどん向上していった。

時代の流れなのか、エリートたちの戦略なのか、
多くの人が「生きがい」を考えるようになった。
仕事に生きがいを求める人たちが増えた。

だから、「就職活動」ビジネスが起こり、
自己啓発本やセミナーが流行り、
通信講座が売れ続けるのだろう。

しかしながら、それは、
「仕事における生きがいの実現」に向けて、
「消費による生きがい」を求めている姿に他ならないのかもしれない。

そしてそれは、
他者評価を前提をしている以上は、
決して終わることのない苦しい旅だ。

「自分に向いている仕事」は、
「自分に向いている異性」を探し求める姿に似ている
と宮台さんは言う。

「仕事」そのものが自分に向いているのではなく、
「仕事」をやっていく中から、小さな「生きがい」「やりがい」
を見つけ、「お客」に出会い、「天職」だと思える瞬間をつくっていくこと。

それが僕が
「ホスピタルクラウン」から学んだ仕事観だった。

「仕事」と「生きがい」「やりがい」
その関係性をもう一度見直してみる必要があると思う。  

Posted by ニシダタクジ at 08:18Comments(0)

2016年11月18日

「自由」と「承認」と「尊厳」


「14歳からの社会学」(宮台真司 世界文化社)

実は宮台先生の本、初めてです。
なんていうか、食わず嫌い王でした。

いきない第1章<自分>と<他人>のところから
ガツンと来ます。

~~~ここから一部引用

「尊厳」と「承認」のメカニズム

実は、君が他者に対して自由にふるまえるためには
「尊厳」が必要だ。

「尊厳」は、君以外の人(他者)から「承認」される経験を必要としている。
逆にたどれば、他者から「承認」された経験があるからこそ、「尊厳」(「失敗しても大丈夫」感)
が得られ、それをベースに君は自由にふるまえるんだ。

1 君が「試行錯誤」する(「自由」
2 それを他者が認めてくれる(「承認」)
3 「失敗しても大丈夫」感をいだける(「尊厳」)
⇒1 安心してさらに「試行錯誤」する⇒2・・・

という循環が、人間を社会的に成長させる。

たとえば

1 学校で君がある授業を選んで「この選択はよかった/失敗した」と思う
2 他者が「よかったね。次もがんばって」/「残念だったね。でも次がんばればいいじゃん」と君にいう
3 君は「次もがんばるぞ」/「次はがんばるぞ」と意欲を出す

子どもが大人になるとは、他者たちと交流する中で、
「試行錯誤」をくり返し、「みんなはこういうことを『承認』するんだ」
ということを学んで経験値を高め、「自分はたいてい大丈夫」という
「尊厳」を得ていくことだ。

ところがいまの社会で問題なのは、
「みんな」がよくわからなくなっていること。

「みんな(他者)」は、「ぼく」や「君」に承認をあたえてくれる
大切な存在だ。それが誰だかわからなくなると、
「ぼく」や「君」の「尊厳」は望みうすになる。

すると、今度は悪循環が始まる。
「承認」を与えてくれる「みんな(他者)」がよくわからない
⇒安定した「承認」を得られない
⇒安定した「尊厳」も得られない
⇒自由に試行錯誤できない
⇒ますます「みんな」がよくわからなくなるという悪循環だ

悪循環に陥った結果として3つのタイプがある。
1 他者に「承認」してほしいあまりいい子を演じる、遠慮して意見を言わない
2 まわりの期待と自分の能力の落差に怯え、試行錯誤に踏み出せない
3 承認されない環境に適応して、尊厳を投げ出す

この3つ目のタイプが
宮台さんのいう「脱社会的存在」であるという。

~~~ここまで引用

なるほど~。
これは14歳にもわかるような文章だなあ、素晴らしい。

これを大学生になってから
リハビリするとしたら、やはり、
田舎で地域系の何かに出て、「承認」を得ることが
近道なのだろうなと思う。

承認⇒試行錯誤⇒承認⇒尊厳

のサイクルを回し始めること。
これが地域コミュニティ、特に田舎の地域コミュニティの役割なのでは
ないかと思うし、それがもっとも、効率的な「尊厳」の回復方法ではないかと
僕は思っている。

茨城・常陸太田の里美とか、新潟の粟島とか、かなりいいと思います。  

Posted by ニシダタクジ at 08:02Comments(0)日記

2016年11月16日

「成人式」と「社会人」を問う

「これからの成人式」を売りたい。
本を通じてって思う。

大人になるとは、
社会人になるとは、

そんな問いを投げかけたい。

20歳になることが大人になることではない。
会社に入ることが社会人になることではない。

そんなことはみんな分かっているはずなのに、

世間では、成人式が行われ、
大学生は、就職活動を行っている。

いや、それ自体が悪いわけではないのだけど。

大人になるとは?
社会人になるとは?

の問いを投げかけたい。

本を通じて。
それがこれからのツルハシブックスではないかと思う。

自分と社会とのコミュニケーションをどのようにとっていくか。

自分サイドとしては、
「承認欲求」の原因を知り、それを相対化し、
たとえば、「分人主義」のような、
劇団員的な生き方を。

社会サイドとしては、
歴史を知り、資本主義を相対化し、
これからの世の中を展望していく。

その上で、
自分と社会のあいだをコミュニケーションする方法と、
自らを表現しながら生きる方法を探る。

その上で就職・あるいは起業していくような、
感性を大切にして、キャリアドリフトをしていくような、

そんな20代の助けになるような
本屋をやりたいなあと思う。

そうすると、
本屋としての顧客は主に大学生~20代。
コンテンツとしては「本の処方箋」

ハックツという古本プロジェクトとしての
顧客は10代ということになるだろうか。

それらを組み合わせて、世の中に、
ツルハシブックス店員サムライのような、
「松下村塾的な」場やチームを生み出していくこと。

それ、これからもやっていきたいです。  

Posted by ニシダタクジ at 08:08Comments(0)日記

2016年11月14日

何を表現するか?ではなく、何「で」表現するか?


「まだ会社にいるの?~独立前夜にしておきたいこと」(山口揚平 大和書房)

山口揚平さんの本、おもしろいわ。
全部面白い。
20代社会人、就活前の人に激オススメ。

さて、今日は
読み終えたばかりの第4章と第6章から抜粋。

~~~ここから引用メモ

▽まずは第4章

そもそも「仕事」とは何か?
それは「才能やミッションを貢献に変換すること」です。

学生と社会人の違いは何ですか?
「社会人には「他者」がいる」ということです。
つまり、「貢献すべき、価値を提供すべき対象があるかないか」
が学生と社会人をわける本質的な境界線なのです。

自分の才能を表現する媒体はどんなものでもよいのでしょうか?

夏目漱石は本当に文豪だったのか?
朝日新聞に連載を持ち、それに合わせた形式で文章を書いたからではないか?

ZARDは、カセットテープからCDの移行期に爆発的に売れたのは、
頭出しが容易な時代に、「サビアタマ」だったからではないか?

ミクシィに対してグリーが巻き返したのは、
携帯電話でのSNS利用に着目したからではないか?

つまり、仕事において、自分を表現することは
とても大切なことだが、より大事なことは、
「何“を”表現するか?」ではなく、「何“で”表現するか?
を考えるということです。

自分独自の才能やミッション、メッセージは大切にしつつ、
その表現手段は時代に合わせることを考えてみてはいかがでしょうか?

次の時代の主要デバイスは5インチ、7インチの
タブレットではないかと思われます。

「市場性」と「社会性」の両立

▽ここから第6章

イギリスのある調査機関が調べたところによると、
もっとも幸せな職業は、ガーディナー(庭師)だそうです。
決して、お金が沢山もらえる職業とは思えませんよね?
これは、幸せな仕事には2つの要素、

・目の前の人に感謝されること
・目に見える価値を提供すること

があるからだと言われています。
(ちなみにこの調査では幸福度最下位の仕事は金融業界らしい)
すなわち、お金と幸せは必ずしも相関しません。

人生のシナリオを複数持つ。
⇒たしかに!これ、キャリアデザインを選択するなら必須かも

子どもを観察すること

「承認欲求」がビジネスの主役になる。

グリーやディー・エヌ・エーなどに
代表される企業が提供しているものの本質はゲームではありません。
彼らが提供しているのは、人に認められたいという
「承認欲求」に対する満足です。

SNSのゲームを通して、武器などのアイテム、アバターを
着飾るものですが、それらはゲームの世界において、
他者に認められるための道具にすぎません。

~~~ここまで引用メモ

なるほど。

これが前段。

圧巻なのは、クックパッドがレシピポータルサイトとして、
なぜヤフーや楽天の追随を寄せ付けないのか、についての考察。

~~~ここから一部引用

クックパッド上場後、ヤフーと楽天が
レシピポータルサイトに参入しました。

ヤフーという会社のそもそもの目的は、
利用者をたくさん集め、広告で収益を出すことにあります。

楽天の目的は、ポイント会員を増やして、
楽天の経済圏でもっと買い物をしてもらうことです。

楽天に至っては、投稿者には50円相当の
ポイント付与の仕組みまで導入しました。

クックパッドは、
投稿されているレシピを見て、
利用者がそれを参考に料理をつくってアップする
「つくれぽ」というものがあります。

それを見た投稿者が自分のレシピが評価され
認められたとして、満足感が高まり、
さらにレシピを公開しようとするモチベーションが高まるのです。

クックパッドは人気レシピのランキングを
あえて非公開にして有料会員だけがみられるようにしています。
これには投稿者ひとりひとりを大事にするという
戦略に適合しています。

楽天がポイントという利益的なインセンティブを用意したのに対し、
クックパッドは、承認欲求という、根本的でありながら、
なかなか満たされにくい欲求に基づいた事業展開をしていることが、
現在クックパッドを優位に働いている理由なのです。

~~~ここまで一部引用

うわ~~~って
叫びたくなります、山口さん。

そうそう。
そうそう。

コミュニケーション産業ではなく、正しくは
「承認欲求」産業なんですよね、きっと。

地域コミュニティや会社コミュニティの束縛からの解放と
承認欲求を満たすことは、おそらくはトレードオフ(交換不可能)
なんだろうと思います。

「自由」か?「承認」か?

承認欲求が満たされない。
そこに巧みにビジネスが入り込んできている。
それがたとえばソーシャルゲーム市場なんですね。

ツルハシブックスは、
「劇場としての本屋」を目指したけど、
結局「居場所」になってしまい、
「居場所」を必要としている人たちが集まってきた。

「居場所」とは、
おそらくは「承認」される場所なのだろうと。

大阪・千林商店街の
もりさわ珈琲店くらいのおばちゃんの
勢いがあれば、モーニングをサクッと食べる
という文化ができるのだろうけど。


昨日は、渋谷ヒカリエの
ソーシャルインパクトフォー2020アンドビヨンドっていう
「意識高い系タイトル」(笑)に出てきたけど、
その中で森のプログラムをやっている人と同じ分科会に入って、

今の世の中は考えすぎだと、
森の中に入って、何もしない、
それだけで、自己肯定感は高まっていくと言っていた。

ああ、きっとそうだなと。

真ん中に火があるコミュニケーションの大切さ、とか、
考えるのではなく、感じること。
そして暮らしをつくる人が増えること。

そうそう。
そうそう。

最初の
何を表現するか?
ではなくて、
何で表現するか?

っていう問いに戻ると、
やっぱり「ブックカフェ」ではなくて、
「米屋本屋」なのだろうなと思いました。

いいタイミングでいい出会いをもらいました。  

Posted by ニシダタクジ at 08:06Comments(0)

2016年11月10日

「何をやるか?」ではなく、「なぜやるのか?」


「まだ会社にいるの?」(山口揚平 大和書房)

山口さんの本って読みやすい。
文章が平易だし、
なによりも、世の中の切れ味が素敵。

他の本についてはこちらから
http://hero.niiblo.jp/e277800.html
(2013.8.17)

http://hero.niiblo.jp/e284920.html
(2013.9.23)

http://hero.niiblo.jp/e471864.html
(2015.8.19)

一番下の本にも書いてあるのだけど、
重要なことなので、ここでも引用する。

~~~ここから引用

今の会社は、一言で言えば、
「事業を土台とした共同体」です。

戦後に現在の日本を代表する企業が
生まれはじめたときは、会社は純粋に利潤を
追求する経済体でした。

しかし、高度経済成長のなかで、
事業を拡大し、国を豊かにしようとする過程で、
会社の内側にある種の一体感や「文化」が
生まれていきました。

その結果、社会に価値を提供して生まれる
「利潤」の追求ではなく、会社という「共同体」の
維持が目的となってしまうのです。

会社という組織は常に、
社会に向けた「遠心力(価値の提供)」と
会社内部への「求心力(組織の維持)」のバランスで
成り立っているのです。

そして、社会に対する遠心力を失った組織は、
外側への力を失い、必然的に内側へと縮こまって、
保身に走るのです。

企業は、近い将来
「価値観を共有する経済体」へと進化していく

「何をやるか?」が問題ではなく、
「どうあるべきか?」が会社のアイデンティティになる。

やっている内容(事業)はどんどん変化させていきつつ、
企業内での規律的な文化と価値観だけは一貫性を
維持することが求められているのです。

価値観という、一見曖昧で言語化しにくいものが
会社の中心的な軸になるのです。

この背景には、
産業の大きなパラダイムシフトがあります。

工業社会では、
「何をやるか?」が先に決められ、つぎに
「どうやるか?」に集中し、効率を高めていきます。

成熟した国の人が次に求めているものは、
「つながり」といった社会的欲求や、
心を満たす「物語」などの精神的充足、
そしてそれを叶えるサービスやシステムです。

もちろん、これからもモノは生産されます。
ですが、その多くは、機能として求められるのではなく、
これら社会的・精神的価値を満たすための「媒介物」
としての役割に過ぎません。

たとえば、野菜の有機栽培などは、
消費者に「安心」という感情を売っているという意味においては、
農業よりは保険業に近いのです。

「何をするか?(事業・製品)」や
「どうやるか?(効率)」よりも、
「なぜやるのか?」「どうあるべきか?」
といった意味や価値観が、企業という組織の軸の中心となるのです。

10年度、僕たちは会社を選ぶときに、
ますます、「何をやっているか?」ではなく、
「何を考え、何を本当に大事にしているのか?」
をベースに決めるようになるでしょう。

また、そのような組織に進化できなかった会社は淘汰される運命にあるでしょう

「独立」とは、ひとりで食べていくことやその状態を指し、
「起業」とは、新しいビジネスを創ることです。

「今から20年後あるいは25年後に、組織のために働く者の半数は、
フルタイムどころか、いかなる雇用関係にもない人たちとなる。
特に高年者がそうなる」(P・F・ドラッカー 歴史の哲学)

総務省統計局によれば、
1960年、50年前には、約60%が
自営業者か家族従業者、つまり独立事業者、
つまり半数以上の人が独立して食べていた、ということです。

今では独立や起業というと、
選ばれた人や何か特殊なスキルが
ないとできないように思われていますが、
約50年前は、独立していることは極めて普通のことだったということです。

ここからわかることは、
独立とは、「向き・不向き」の問題ではなく、
誰でもできる単なるスキル・技術、そして姿勢の問題にすぎない
ということです。

~~~ここまで引用

前半部分は、「会社」を「個人」に置き換えてもいいなあと。

すべての会社は、
「価値観を共有する経営体」になっていく。

いや、そうでなければ、支持されない。

これはホントにその通りだと思う。

そして後半は、
まさに、大学生や20代が心に留めておく
必要がある「独立」のこと。

「会社員」という生き方が
スタンダードになったのは、
わずかこの50年に過ぎない。

そしてそもそも、自らを「会社=経営体」として
経営していくという精神をもって、人生を歩んでいくことが
求められている。

「就職」とは、
「経営体」(企業)と「経営体」(個人)
との一時的な契約関係に過ぎない。

そんな風に思った。

これを読んであらためて
大学時代に、経営の本を読んでおくって大切だなと。

田坂広志さんの
仕事の5つの報酬とか。

1 マネーリターン:働いた対価としてお金をもらう。
2 ナレッジリターン:業界の知識、働くときの知恵、経験を得る。
3 リレーションリターン:間関係、人脈が将来役立つ可能性がある。
4 ブランドリターン:個人がひとつのブランドとして、どんな仕事をしてきたか?のひとつになる。
5 グロースリターン:人間としての成長が得られる。

こういう視点を持って、
プロジェクトやその他の活動を
考えてみるのもとても大切だなあと。

「独立」するということ、
そして組織は、価値観を共有する共同体
になっていくということ。

これを大学時代から始めないとね。  

Posted by ニシダタクジ at 08:08Comments(0)

2016年11月08日

「やりたいことは何か?」ではなく「顧客は誰か?」

問いって大事だ。
どんな問いを立てるかで人生は決まる。

その最初の問いが、
あまりにも一元化しているのではないか。

「やりたいことは何か?」

多くの人が人生をここから入ってしまう。

それは、学校教育や家庭での、
「将来、何になりたいんだ?」という問いかけと
「13歳のハローワーク」や、
マスコミによる「ひとつのことをやり続けることがカッコイイ」
的な価値観によって、半ば脅迫のように機能している。

中学生のときにぼんやりと「おれ、なにやりたいんだろ?」と問いが始まり、
ひとまず先延ばしにして受験勉強頑張って、
大学生になって、もやもやしながら3年間をすごし、
いざ、就職活動になって、たまたまツルハシブックスに来て、

「やりたいことがわからないんです」

と悩みを打ち明ける。

それ、たぶん、問いが違うんです。
出発点が違うんです。

「13歳のハローワークの呪い」
http://hero.niiblo.jp/e482630.html
(2016.11.1 20代の宿題)

に紹介したように、

職業は、ごくシンプルに、人間社会の役割分担の結果として、
社会の必要を満たすためにそこにあるものだ。
ゴミを拾うのが大好きな人間がいるからゴミが生まれているのではない。
ゴミ愛好家のために廃品回収業という職業が考案されたわけでもない。

それなんだよね。
そんなことをぼんやりと考えながら昨夜、本屋さんで見つけた本。


「ドラッカー 時代を超える言葉ー洞察力を鍛える160の英知」(上田惇夫 ダイヤモンド社)

53番目。
いつも引用しているドラッカーの5つの質問。

1 われわれのミッションは何か
2 われわれの顧客は誰か
3 顧客にとっての価値は何か
4 われわれにとって成果は何か
5 われわれの計画は何か

ツルハシブックスサムライ合宿で確認している
5つの質問。

そして54番目
「事業を決めるのはあなたではない」

事業が何かを決めるのは顧客である。
社名や定款ではない。
顧客が満足する欲求が事業を決める。
事業の目的は顧客の創造である。

さらに57番目
「事業が何かを知る第一歩が、顧客は誰かを考えることである。
次に、顧客はどこにいるか、顧客はいかに買うか、
顧客はいかに到達するかを考えることである。」

ドラッカーは「経営の神様」と呼ばれたが、
先行きの不透明なこの時代においては、
誰もが「自らの人生を経営する」という気持ちを
持つ必要がある。

つまり、キャリア=仕事を考える上で、
ドラッカーの経営の視点というのは、
非常に有意義であると言えるだろう。

ここで冒頭の問いに戻る。

「やりたいことは何か?」
という問いは、事業を立案するうえで、
重要な問いではない。

事業を決定するのは顧客であるからだ。

ツルハシブックスにとって、顧客とは、
人生に悩む中学生高校生大学生だった。

それを「本屋のような劇場」を通して、
「きっかけ」を提供していくこと。
そんなことを目指していた。

2002年、27歳の時に、
不登校の中学3年生の家庭教師をして、
僕は「顧客」に出会った。

まったく話をしてくれなかった彼が、
だんだんと笑顔になり、話をするようになった。
中学生には、「地域の多様な大人」が
必要なのだと思った。

10年の時が過ぎ、
2011年にツルハシブックスが開業。
7月には地下古本コーナー「HAKKUTSU」が誕生。
地域の大人と中高生をつなぐ方法を手に入れた。

そして実際に中高生や悩める大学生・20代の若者が
集まってきた。

そして、その次の問いに進む。
「顧客にとっての価値は何か?」

そうして、気がついたことがある。
ツルハシブックスというか、僕自身の提供価値は、
「共に悩む」なのではないかと。

「共に悩む」という提供価値
http://hero.niiblo.jp/e475287.html
(2015.12.13 20代の宿題)

その場を提供するのに、
「本屋」という空間が最適なのではないかと感じた。
もちろん、結果論なのだけれども。

そして、偶然にも、「本の処方箋」というツールを手に入れた。

それによって、お客さんの心が開き、
悩みを話してくれることを知った。

そして、その「空間」が保てなくなったからこそ、
ツルハシブックスは閉店したのではないだろうか。

大学時代、誰もが
「自分の仕事探しの旅」に出る。

その出発点で問うべきは、
「やりたいことは何か?」ではなくて、
「顧客は誰か?」だ。

そして、その仮説としての顧客に対して、
サービス提供を行い、
「顧客にとっての価値」を考え続ける。

そうやって、自らの人生を経営し始めるのではないか。

僕が伝えたいのは、きっとそういうこと。  

Posted by ニシダタクジ at 07:53Comments(0)言葉

2016年11月07日

居場所のジレンマ



ツルハシブックス閉店。
5年半という期間、たくさんの人に支えていただいた。

ふりかえると、
山田店長の名言
「これがツルハシブックスの日常です」が出た
2015年12月のテレビ放送の時が最高値で、
ラストの1年は、「居場所のジレンマ」に苦しむ日々だった。

「居場所のジレンマ」

それは、居心地のいい場所は、
誰かにとっての「居場所」になる。

そしてその「居場所」を享受する人が増えすぎると、
その場所は、初めて来店する人にとっては、
「居心地の悪い場所」に感じられる。

「常連さん」
と呼ばれる人が増えてきたら、注意が必要だ。

ツルハシブックスの店員サムライには
わずかな決め事があった。

・レジに必ず1人は立っている。
・来店したお客さん全てに話しかける。
・「こんにちは」「近くからですか?遠くからですか?」
そのあと、話の流れは個々に委ねられる。

この会話が成立するには、
本屋という空間に人が多すぎてはいけない。

せいぜい、3人。
いや、8人いてもいいけど、その8人は
1人で本を見ている人が3人、
2人で話している人と3人で話している人が1組ずつ
というように、なっていなければならない。

ソファ席を廃止したのは、
大人数で集まることを防ぐためだ。

「お客はだれか?」
ツルハシブックスの店員サムライが
合宿で問われる重要な問い。

ツルハシブックスにとって、「お客」とは
自動ドアに見えるけど実は手動の、
あの重い扉を勇気を出して開けてきた
中学生高校生大学生のことだった。

だから、彼らが来た時に、
店員サムライだけではなく、
その場にいるお客さんも、
みな、その瞬間、「演じ」なければならない。

店員役を、
そして、お客の役を。

それを目指し、「劇団員」という制度をつくり、
それはツルハシブックスという場所でなくても、
「日常」を「劇場」に変えていく、という思いを込めた。

常連さんたちのためには「三階」をつくった。
「居場所」は三階で、一階の空間はツルハシブックスとして残したかった。

しかし、その試みは、失敗した。
「居場所のジレンマ」の壁は超えられなかった。

11月3日も、同じことが起こった。
ツルハシブックスで知り合ったお客さん同士で
遊びに行った後の午後6時前に、
ふたたび「ただいま」ともどってきた。

10人ほどのお客さんが、テーブル席に集まっていた。

そうなると、もう、
その空間は「劇場」としての緊張感を失う。
初めて来店したお客さんへの対応も、
まずは「うるさくってすみません」という言葉から入るようになる。

それが決して悪いわけではないという人もいるかもしれない。

でも、僕がツルハシブックスで創りたかったのは、
劇場としての本屋であって、「居場所」ではない。

「コミュニティ難民のススメ」(アサダワタル 木楽舎)を読んで、
「居場所とは瞬間のことだ」という言葉にインスパイアされた。

ツルハシブックスは、アートプロジェクトだった。
「アートとデザインとビジネスのあいだ」というアートを
目指す活動だった。

「中高生のための本屋づくり」
をコンテンツとして集まった、
「サムライ」と呼ばれる人たちによる
アートプロジェクトだった。

アートプロジェクトで大切にすべきは
当然、「美しさ」である。

「居場所のジレンマ」をどうやって超えるのか?

本屋、あるいはブックカフェという具体的な「場」を
持ってしまったら、それは避けられないのか。

何十年も続いている喫茶店やショットバーのような空間
が「居場所のジレンマ」をどのように超えているのか?
については、「お客を育てる」というところがポイントらしいが、
それができていなかったのか。

スターバックスコーヒーで朝活を続ける土屋さんの
つくる「場」のようなものは、固定した場所ではできないのか。

そんな大きな問いが残ったツルハシブックス閉店だった。

山田店長がいうように、
ツルハシブックスはこれから、「ハード」ではなく、「ソフト」として
活動していくことになる。

「居場所のジレンマ」をどう超えるか?

これを一緒に考えてくれる方、
あなたも「ツルハシブックス」劇団員になりませんか?

「ツルハシブックス劇団員」募集
http://www.tsuruhashibooks.com/gekidan.html  

Posted by ニシダタクジ at 07:13Comments(0)学び

2016年11月04日

ツルハシブックスラスト3DAYS


新潟の朝。
今日は朝から登記など、いろいろ事務手続きをして、
午後からツルハシブックスにいます。

昨日は、なつかしいみなさんが
家に来てくれました。





2004年の中越地震のときに
一緒にボランティアをした当時新潟大学経済学部だった
ようちゃんとちーちゃん。
すっかりママになっていた!


1998年に山梨・キープ協会での学生向けの
「森の人づくり講座」で講師だった前澤さんご一家。
夫婦デュオの「亀工房」としてご活躍です。


2014年、当時中学校2年生だっためいちゃんは
お父さんと一緒にうっかりとツルハシブックスにやってきました。
鶴酒場の最中で飲み会状態でしたが、話の流れで、屋台をやることに。
あと、一箱古本市も一緒に出ましたね。

めいちゃんのおかげで、
お店をやってよかったな、と思いました。
素敵な1日をありがとうございました。  

Posted by ニシダタクジ at 09:42Comments(0)

2016年11月02日

「敗北感」や「怒り」を行動に変える

健全な敗北感や怒りって大事だなって思った。
そして、そういった感情を感知・自覚することって大切だなと。


「なぜ美少女図鑑は7日で街から消えるのか」(丸坊主社長こと近藤大輔 PHP)

ヒーローズファームの企画「社長に挑戦セヨ」にもご登場
いただいたことがある近藤社長の本。(2010年発行)

まだ2章なんだけど、
ほとばしる情熱に胸が熱くなるし、
僕自身が「敗北感」を感じるし、
こんなチームつくりたいなあって思う。

「新潟美少女図鑑」に込められた思い。
それまでの経緯。

近藤さんは、かつて洋服屋をやっていたころ、
オリジナルなTシャツブランドを立ち上げ、売りまくったのだけど、
その一方で東京から発信されるブランド品への
漠然とした違和感が少しずつ少しずつ、胸の中に積み重なっていったのだという。

ただ無地のTシャツに簡単なプリントを
施しただけの商品が有名ブランドのタグが付いている
という、ただそれだけで、1枚9800円という
非常識な値段で売られている。
そしてそれが実際、飛ぶように売れている。

「僕にしてみれば、はっきり言って「冗談じゃねーよ」という事態。」
「あんなのでいいのかよ・・・」

怒りにも似た強い感情だったと近藤さんは書いていますが、
おそらくそういうことだったんだろうなあと。
こういうのがヒット企画につながっていくんだなと。

そして、「美少女図鑑」クリエイティブディレクターの
小林さんも、そんな感情を行動に変えた人だ。

テクスファームが最初に手掛けた
フリーペーパー「SODA」を見たときのショックは大きかったという。

大学で映画研究会に所属していて、
自分のやりたいことを仕事にしたいと
東京の映画制作会社にアプローチをかけたが、
クリエイティブとはまったく関係のない職業に就いていた。(本人の談)

「SODA」を見て、
「なんだ、自分たちの手で面白いものが作れるんじゃないか。作ればよかった。」

とおおきな影響を受け、
大学の後輩たちに、
「お前は悔しくないのか?俺は悔しいよ」と言って
「SODA」をわざわざ配って歩くほどだった。

そして、そのあと「SODA」の一ファンとして、
読者投稿のコーナーに投稿していた。

職場でそれをやっていたら上司に見つかり、
「お前、会社辞めるか?」と言われ、辞めることになり、
その日のうちに近藤社長に連絡をとり、転職。

こうして「美少女図鑑」が世に出ていくことになる。

やっぱり、「敗北感」とか「怒り」を行動に変えていくって大事だなと。
まずはその感情をキャッチすることなのかも。  

Posted by ニシダタクジ at 08:10Comments(0)

2016年11月01日

「13歳のハローワーク」の呪い


「転換期を生きる君たちへ~中高生に伝えておきたいたいせつなこと」(内田樹編 晶文社)
より、小田嶋隆さんの「13歳のハードワーク」。

2003年12月に発売された「13歳のハローワーク」(村上龍 幻冬舎)

小田嶋さんは、この本を「呪いの本」だと断じる。
そうそう、そうそうって。

僕が持っていた違和感を表現された素晴らしい文だったので、
備忘録を兼ねて、引用する。

~~~ここから一部引用

この本の問題点は、
まず「職業」を、「職種」で説明しきろうとしたその編集方針にある。

「13歳のハローワーク」を作ったスタッフは、
「職業」を勤労者が担当している「作業内容」ないしは
「仕事内容」に沿って分類したわけだ。

しかし、有業者の53.69%は正社員、
非正規も入れると82.78%が被雇用者すなわち「会社員」ということになる。
要するに、現状、多数派の有業者は「まあ、強いていえば会社員かな」
ぐらいな分類の中に含まれているということだ。

ところが、「13歳のハローワーク」には、
「会社員」という分類項目はない。
というよりも、編集方針からすると、
自分の「所属先」を言明したに過ぎない
「会社員」という働き方は、そもそも存在しない建前になるのだろう。

まえがきで村上氏はこう呼びかけている。
「自分に『向いている』仕事があるはずだと、
心のどこかで、強く思うようにしてください。」

私は、個人的に、本書が「会社員」という
巨大な集合をあえて無視したことを、
単なる編集方針の問題だとは考えていない。
もっと底深い「思想」のようなものを仮定しないと、
この謎は解けないと思っている。

村上龍氏の考えでは、
「会社に魂を売って」「組織の言いなりになって」
「ネクタイを首輪代わりにした犬みたいな社員として」
働きたがる「社畜ワナビー」の就活生になる前の、
もっと若くて純粋な13歳の子供たちに、

「自分の裁量で判断し」「自分の名前と責任において自活し」
「己のリスクによって行動し」「己の才覚で勝負し」
「自分の能力と意欲を武器に社会と対峙している」
「フリーランスの」「一所懸命の」「独立自尊の」職業観を
ぜひ植え付けたいというふうに考えたのだと思う。

彼はサラリーマン根性と役人根性が大嫌いで、
役職と肩書でものを言う組織人間の考え方に
我慢がならないのだと思う。

「13歳のハローワーク」を鵜呑みにして、
サラリーマン蔑視と一匹狼への強烈な憧れを
抱くことになった何十万人かの子供たちの中から、
村上龍に匹敵する才能を発揮するクリエイターが、
三人か四人くらいは現れるかもしれない。
であるのなら、その彼らにとって、
13歳のハローワークはバイブルだっということになるのだろう。

が、若気の至りで、新卒一括採用の就活を蹴とばした結果、
不利な条件の非正規労働に甘んじることになっていたり、
いつ終わるともしれない親がかりの失業生活の中に
沈み込む羽目に陥ったより多い若者たちにとって、
本書は、結果的には、逸脱へのパスポートだったということになる。

サラリーマン蔑視以上に有害なのが、
この本の中で度々登場する、
「職業こそが人間に生きがいと存在証明と自由を与える最重要な要素だ」
という思想だ。

村上氏はそう考えているのだろう。
そのこと自体はかまわない。
誰であれ、アタマの中で考えることは自由だ。

とはいえ、ぶっちゃけた話をすれば、
村上龍氏が「職業こそが人間の第二の顔なのだ」と
考えているのは、彼自身が思い描いた通りの職業で、
望んだ通りの成功をおさめた人間だからなのだと思う。

彼は「特例」なのだ。
ということは、あの分厚い大型本を要約すると、
「おまえも村上龍になりたいだろ?」というお話になる。

いや、誰もが村上龍になれるのであれば、
それはちょっと魅力的な取引かもしれない。
でも、社会の職域分布はそういうふうにはできあがっていない。

六人のメンバーで演奏するロックバンドに
一万人の観客が押し寄せるからこそ
ロックンローラーは食べていけるわけだし、
一人の小説家に対して数万人の読者が想定できるからこそ、
小説家というビジネスモデルが成立している。

これが逆だったらお話にならない。
一万人のロケンローラーが六人の観客しか集められなかったら、
ロケンローラーは誰一人として食べていけない。あたりまえの話だ。

私自身が子供だった頃、私の親の世代の人間は、
職業についてあまり難しいことを言わなかった。
「食っていくためには働かないといけない」
というシンプルな断言が、彼らの職業観を物語るほとんどすべてだった。

夢がないと言えば実に夢のない話だが、
当時、仕事と夢は、同じどころか、むしろ正反対の言葉だったのだから仕方がない。

何でもいいから職について、
とにかく食えるだけのカネが稼げれば上等じゃないか、
という、その一見夢のない見込みの持ち方が、
逆に昭和の人間の楽観性を支えていた。

いまの若い人たちを見ていてあわれに思うのは、
就業ということについてあまりにも悲壮な考えを
抱いているように見える点だ。

彼らは、自分の望む職業に就けなかったら、
自分の人生は失敗だというふうに考えていたりする。

その一方で、サラリーマンをバカにしていて、
企業の従業員になることを、
魂を売り飛ばすことだと、いとも簡単に短絡していたりする。

「違うぞ」と、
私は「13歳のハローワーク」の呪いを解くために
声を大にして言いたい。

「生きがい」やら「自己実現」やら「アイデンティティー」やら
「自己表現」を、「職業」の中に求めるのは、筋違いだということを、
はっきり申し上げておく。

たしかに「13歳のハローワーク」を読むと、
職業こそが社会とつながる唯一の接点であり、
働くことが最も真率な自己表現であるという旨の
お話が繰り返し強調されている。
が、実際のところ、この見方には、さしたる根拠があるわけではない。

言ってみれば、世の中には、
自己表現がそのまま仕事になるタイプの稀有な職業もあります
というだけの話だ。

現実の社会を見れば、多くの人々が、
職業とは別のところに生きがいを見出している。

13歳の少年少女が、自分の将来を職業という
分類だけでイメージすることは、危険だ。
自分が何かに向いていると思い込んでいる
その何かが、本当に自分に向いているのかどうかは
実際には誰にもわからない。

むしろ、職業の入り口に立つ前の段階で、
自分の向き不向きを決めつけてしまうこと
自体が無謀だと考えるほうがマトモだろう。

「この広い世界には、
きっと自分に向いた仕事があるはずだ。」

という思い込みを抱くことは、夢を持つこととは違う。
それは人生の選択を狭めかねない。
その意味で、あまりおすすめできない。

そもそも職業は、
その職に就きたい誰かのために考案されたものでもなければ、
その職に向いた資質を備えた若者にふさわしい職場を
与えるべく用意されたものでもない。

職業は、ごくシンプルに、
人間社会の役割分担の結果として、
社会の必要を満たすためにそこにあるものだ。

ゴミを拾うのが大好きな人間がいるからゴミが生まれているのではない。
ゴミ愛好家のために廃品回収業という職業が考案されたわけでもない。

「たいていの仕事に向いている人間もいれば、
ほとんどの仕事に向かない人間もいる」
というのが本当だ。
全世界の人間に、ひとつずつ、その人だけに向いた仕事が
用意されているわけではない。そんなのはまやかしだ。

職業の肩書で人間を評価する考え方を
全員が受け入れる必要は無いぞということを申し上げようとしている。

職業信仰は、ある意味で、偏差値信仰と学歴信仰よりタチが悪い。
というのも、学歴や偏差値が、しょせんは数値化された
一面的な能力の指標であるのに比べて、「職業」が物語る「能力」は、
ずっと多岐にわたるからだ。

だから、職業を背景とした肩書信仰は、特定の職業に就いている者
(あるいは職業についていない人間)への差別を生じさせる。

それ以上に、職業信仰は、
「どこかに青い鳥(自分に向いた楽しくてやりがいのある仕事)がいる」
という空虚な不遇感の温床になる。その意味で実に厄介だ。

多くのベテランがいうように、
仕事の素晴らしさやくだらなさは、
ある程度の期間それに携わってみないと
わからないということだ。

であれば、職業の名前で他人の能力を判断したり、
自分に与えられている肩書きで自分の幸福度やプライドを
計測することは、テストの点数で他人を値踏みすること以上に
空しいということがわかるはずだ。

13歳の君たちはとてもアタマが良い。
それだけに、アタマで何かを判断することには
慎重にならなければならない。

仕事はいずれ向こうからやってくる。
それまでの間は、なるべくバカな夢を見ておくことをおすすめする。

~~~ここまで一部引用

そうそう、そうそう。
もう、これは呪いだよ、って。

ツルハシブックスに暗い顔して入ってくる
就活生の多くが、この「呪い」に侵されていた。
「やりたいことがわからないんです」

これに対する回答は、きっと以下のようになる。

「この広い世界には、
きっと自分に向いた仕事があるはずだ。」
という思い込みを抱くことは、夢を持つこととは違う。
それは人生の選択を狭めかねない。
その意味で、あまりおすすめできない。

そもそも職業は、
その職に就きたい誰かのために考案されたものでもなければ、
その職に向いた資質を備えた若者にふさわしい職場を
与えるべく用意されたものでもない。

職業は、ごくシンプルに、
人間社会の役割分担の結果として、
社会の必要を満たすためにそこにあるものだ。

ゴミを拾うのが大好きな人間がいるからゴミが生まれているのではない。
ゴミ愛好家のために廃品回収業という職業が考案されたわけでもない。

職業は、職業であって、それ以外でもない。
職業で、自己表現をする方法もある、だけで、
それが唯一の方法ではない。

そう言えば、
まきどき村の最初のころのメンバーは、
市役所に勤めながら、土日で、楽しそうに遊びまわっている
人たちがいたなあと。
それはそれでカッコよかったなあと。

頭で考えるのではなくて、
もっと、肌で感じることなのかもしれないな、と。

仕事が向こうからやってくるまで、
感性を磨くことなのかもしれないね。  

Posted by ニシダタクジ at 08:45Comments(0)