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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2017年01月06日

神は「空白」に舞い降りる


「当事者の時代」(佐々木俊尚 光文社新書)

先月に引き続き佐々木俊尚ウィーク継続中。
「当事者の時代」

戦後の
被害者と加害者の意識の変遷を
全共闘などの事例を通して、斬る
っていう、めっちゃ難しい本。(笑)

338ページ読んできて、
ようやく第5章。

「穢れ」からの退避
ここからいきなり熱くてワクワクした。

ここでは日本の神道がどのように神をとらえているか、
が鋭くつっこまれている。

~~~ここから引用

神々は、どんな場所に降りてくるのだろうか。
どこか岩の上。あるいは、人の手で掃き清められた清浄な場所。
そういう場に、神々は降りてくると古代の人は考えていた。

だから神社のような永続的な建物は
もともと日本の神道には存在せず、
まつりのたびに人々はその場に神に降りてきてもらい、
そこでさまざまな儀式を行っていたのだ。

神々はいたるところに偏在する存在で、
そこに意図的に空白の場所「しろ」を
つくっておけば、そこに神がやってくるというのだ。

つまりは、神社は神社の建物そのものが神々しいのではなく、
その中心に神がやってくる空白の何もない空間が
つくられていることが神々しいのだ。

日本の神々は、いろんな場所をふわふわと浮遊している。
そして、人間が身を清めて一心に祈ると、
目の前に用意されている「空白」の場所へと舞い降りてきてくれるのだ。

ただその「場」を用意する。それこそが人間のできる唯一のこと、
というのがもともとのこの日本列島の島々の信仰心だったということなのだ。

神をまつる神社は、つねにそこに座っている神をまつる固定化されたものではなく、
そこに空白をつくって神を呼び寄せる場所として機能してきたのである。

この何もない空間、空白こそが、「絶対」にほかならない。
この「絶対」は空白であるがゆえに傷つけられず、汚されることもない。

伊勢神宮の式年遷宮の意味。
建物は神ではない。神は空白そのものなのだ。

日本人は、どこかからやってきた神様をお迎えし、丁重に応対し、
そして最後はお帰りいただくということをつねに続けてきた。
この三つの過程のどれが欠けても、神様の送り迎えを無事に終わらせることはできない。

神様はあくまでも私たちの日常の外からやってきて、
一時的に滞在して、いつかは帰っていく人たち。
つまり言ってしまえば、「異邦人」でもあったのだ。

ハレの日に客が来て、
私たちの日常は賑やかで新鮮な空気に一変する。

ふだんは食べられないようなご馳走が並べられる。
そして旅人でもある来客は、珍しく面白い話をもたらしてくれる。

来客の話は、新鮮な活気を私たちの
退屈な日常へと吹き込んでくれるからだ。

しかしこの新鮮な活気、新たな刺激は、
実のところ彼ら来客が私たちとはまったく違う「異邦人」で
あるからこそ表現できるものなのだ。

謎めいていて不透明で、
何か暗い異空間のようなものを背負った異物であるからこそ、
私たちの退屈な日常は刺激を受けるのだ。

~~~ここまで引用

この章を当然、著者の佐々木さんは、
「当事者」という視点から描いているわけで、

この後に、
「絶対」でアウトサイダーとしての視点を持つことで、
戦後の「運動」は当事者性を失い、衰退していく。
という仕組みが考察されている。

しかし、この章だけを、
「場」という視点から見てみるとどうだろう。

「場」に必要なエッセンスが含まれているのではないか。

「場」に必要なのは神が降りるための「空白」であり、
「異邦人」としての神であるのではないか。

「場のチカラ」とは、
「空白」が存在すること、
「異邦人」を受け入れられることではないか。

お店に例えれば、
「異邦人」として店にやってきて、
つかのま滞在し、新しい風を吹き込み、
非日常空間を生み出し、そして去っていく。

そんなまつりのような「店」ができないだろうか。

いや、
そんな店こそが、「場のチカラ」を有する、
素敵な場所なのではないか。

そんな空間をつくりたい、
そしてその空間は「日本人」という言い方が正しいかどうかわからないけど、
われらの先祖が古来から、持っていた意識にあっているのではないだろうか。  

Posted by ニシダタクジ at 08:26Comments(0)学び