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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



新潟市西区内野町431-2
TEL 025-261-3188

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土曜 7:00~21:00
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2017年03月31日

「コラボレーション」より「一体化」


「日本人は何を考えて生きてきたのか(斎藤孝 洋伝社)

面白かったので、もういちど読み直す。

最初は日本語の話。

~~~ここから引用

日本人とは、日本語を母語にしている人

日本語は、私、やあなた、と言いたがらない。
古典が難しいのは、主語がわからないから。

日本人は気が小さいから、主語をあきらかにしない。

和歌や俳句の世界では、自然に仮託して
心情を表わすという表現方法を生み出し、その中で感性を鍛錬してきた。

自然と自分を区別するのではなく、
自分を自然に溶け込ませることをよしとする。

西洋は自然環境が厳しいために、人間的なるものを打ち立て、
自分たち自然の猛威から隔絶する形で自己了解してきた。

日本人は、自分の存在が自然に溶け込んだ状態を好み、
自然に溶け込んでいる自分がうれしいという感覚を持っている。

~~~ここまで引用

このあと、連歌や、
日本語が外国語をうまく取り込んだり
省略や造語がやさしいことなど、
日本語の「懐の深さ」などが書かれています。

連歌っていう文化。
大阪の陸奥くんが言っていたけど、
平安時代は、連歌を送りあって、
男女は恋をしたのだという。

問われたのは、
容姿ではなく教養。

なるほどな~。

なんていうか、
コラボレーションというより、一体化なんだろうね。

日本的な何か。
それはキャリアにも言えるのかもしれないな。  

Posted by ニシダタクジ at 07:51Comments(0)

2017年03月30日

「諸行無常」


「日本人は何を考えて生きてきたのか(斎藤孝 洋伝社)

東洋的キャリアを考えるで外せないと思うのが
日本人と宗教である。

日本ほど、宗教に関して
いい加減な国はないだろう。

クリスマスを盛大に祝ったと思ったら、
正月は神社に初詣に行き、
バレンタインにはプレゼントを贈り合い、
お彼岸にはおはぎを供えてお祈りし、
ハロウィンもすっかり定着した。

でも、それでいいのだ、と斉藤さんは言う。

仏教の教えとは、
現世をよりよく、より幸せに生きるためのものだからと。

「諸行無常」
すべてのものは移り変わっていく。

だから、だれが世界を創ったとか、
考える必要はないのだと。

なるほど。

「空」もそんな感じだもんね。
出来事はすべて空であって、
良いことも悪いことも存在しない。
そう思う自分の心があるだけ。

そんな、今風に言えば
「ゆるい感じの」宗教だからこそ、
日本では受け入れられたのではないか。

厳しい修行なんかしないで、
念仏だけ唱えるだけで極楽浄土にいけるなら
それはそれでいいかな。

みたいな感じで仏教を受け入れた。
つまり、八百万の神の
ひとつくらいの感覚で仏教を受け入れた。
そんな仮説が本当っぽく感じます。

それが明治時代に、富国強兵のために
「国家神道」で統一されたあと、
それが敗戦でひと段落してる。
というのが今の状況ではないかと思います。

諸行無常だから、今を楽しむ。
まあ、細かいことを言わなくてもいいじゃないか。
というのが仏教の教えです。

そういうのがいいんでしょうね。

キリスト教とか
イスラム教のように
日曜日に礼拝とか、豚肉食べちゃダメ、
とか、そういうのがあんまり合わないのでしょう。

そういう意味では今の子どもたちは、
(というか僕のころからですけど)
「夢」という一神教を背負わされてきたのではないかと思います。

夢や目標のために
今の楽しみを犠牲にする。
わき目も振らずそこへ向かっていくこと
が良しとされる。

それって、今を楽しむ
日本人の生き方とはマッチしてないのでは、と思います。

「諸行無常」
「空」

そんなことを学んでいくことも、
大切なのかもしれませんね。  

Posted by ニシダタクジ at 06:54Comments(0)

2017年03月29日

市場の倫理 統治の倫理


「日本人」という、うそ: 武士道精神は日本を復活させるか(山岸俊男 ちくま文庫)

古本屋さんで目に留まって、買いました。
セレクトされている本屋って素敵だな、と。

さて、
「安心社会」と「信頼社会」
というキーワードで知られる
社会心理学者の山岸先生。

僕はたぶん中公新書の本を
買ってはいたけど、ちゃんと読んでなかった。
ようやく読むべき時が来ました。
先生、遅くなってすみません。

この本の前半は、
道徳というか、倫理教育が機能しないこと、
そして、「日本人らしさ」という幻想を徹底的に斬ります。

まずは、「タブラ・ラサの神話」といって、
生まれたての赤ちゃんは、
タブラ・ラサ(白板)のようなもので、
そこに適切な教育をすれば「立派な人間」が
作れるはずだという説。

しかし、この仮説は20世紀の中国や旧ソ連の
社会主義国家を目指すという壮大な実験によって、
覆されていると山岸さんは言います。

何の見返りがなくても、同胞に奉仕するような
立派な人間はできずに、同じ給料ならサボる、
というメンタリティがはびこっていたので、
経済力、国力が減退し、旧ソ連はついに無くなり、
中国も方針転換をします。
つまり、「人間性」を無視した教育は機能しないということです。

つづいて、「日本人らしさ」について。

「日本人は集団主義で欧米人は個人主義だ」
というのはよく言われていることですが、

これを心理学実験によって、
次々と覆していきます。
実は集団主義的社会に暮らしている日本人が
他人を信頼していない個人主義者であり、
「人を見たら泥棒と思え」というメンタリティの持ち主
なのだという実験結果が出ます。

逆に西洋人は、
相手をまず信頼し、その後の観察によって、
信頼に足る人物かを測っていく、という方法を取るのだそうです。

そして、社会環境の差異から、
それが起こっていると説明します。
ここで「安心」と「信頼」というキーワードが出てきます。

「集団主義社会とは、信頼を本質的に必要としない社会である」
と説明します。

農村では家に鍵をかけなかったり、
共同作業に皆で参加したりということが行われます。

それはみんなが信頼し合っている、
とか心がキレイだから、というわけではなく、
そのように振る舞うほうがトクだから
(悪いことをしたり、非協力的だったりすると制裁を受ける)
という理由であると説明します。

ところが、都会では、見知らぬ人ばかりだから、
悪事や非協力的なことに対しての制裁を
加えるようなシステムがないので、
目の前の人を自分で判断しなければなりません。

それは活動的には大きなコストがかかります。
日本社会が高度経済成長を遂げたのは、
経済社会に、集団主義が機能した、「安心社会」をつくりあげた
ためではないかと言います。

しかし。
その安心社会は今や終わりを告げたのだと。
経済のグローバル化など、
「安心社会」から「信頼社会」への移行期を生きているのだと。

そして、いま、世の中で起きている問題が
企業の不祥事やいじめ問題をなんとかするために、
「道徳」を強化して、あるいは「武士道精神」などを
持ち出して、いくというのは根本的に解決しないと言います。

「信頼社会」への移行をしていく上で、
重要な示唆がヨーロッパ中世の地中海貿易の
覇権を競い合っていたマグレブ商人とジェノア商人の逸話です。

貿易を行う上で人類を悩ませてきたのは
「エージェント問題」、つまり代理人の問題でした。

代理人が自分の利益のためにちゃんと働いてくれるか
利益を途中で吸い上げたり、相手側に味方をしていたりしないか
というのをチェックする機能がなかったからです。

マグレブ商人は、徹底して身内との取引を選びました。
そして、エージェントが裏切った場合、取引停止などの厳しい措置を取りました。

ジェノア商人は、身内、よそ者に関係なく
その時々で必要なエージェントを立てました。
当然、ジェノア商人のほうがコストもリスクも高くなります。
トラブルが起こった時のために裁判所を整備せざるを得ませんでした。
それでさらなるコストは上昇します。

結果、どうなったか。

マグレブ商人は地中海から姿を消し、
ジェノア商人が覇権を握ったのです。

そして、まちから評判も、
「ジェノアは正直者を守る」というふうになっていったのです。
つまり、これが「信頼社会」の作り方です。
法制度がちゃんと機能していることで、
他人とビジネスしても裏切られない、あるいは裏切られても法が守ってくれる。

そういう「評判」がジェノア商人を押し上げていったのです。

そして、最終章。
「武士道精神が日本のモラルを破壊する」
と題された第10章で、「市場の倫理 統治の倫理」がでてきます。

まずはおさらいで
この地球上には「安心社会」と「信頼社会」
という二種類の社会が存在し、

集団主義社会が「安心社会」に
個人主義社会が「信頼社会」に寄っていきます。

「安心社会」は社会が安心を提供してくれます。
それに反すると制裁が待っているからです。
よそ者は裏切るかもしれないので歓迎されません。

「信頼社会」は、社会が提供する「安心」に
頼るのではなく、自らの責任で、
リスクを覚悟で他者と人間関係を結んでいこうとする
人々の集まりです。

これはどちらがいいというわけでもなく、
飢饉や戦争などが起これば、
「安心社会」のメリットは大きくなります。

そこで、表題の
「市場の倫理 統治の倫理」です。

アメリカ系カナダ人の学者、
ジェイン・ジェイコブズが指摘したものです。

市場の倫理をわかりやすく言えば「商人道」
統治の倫理をわかりやすく言えば「武士道」だと
著者は言います。

「市場の倫理=商人道」は信頼社会において有効なモラル体系であって、
「統治の倫理=武士道」は安心社会におけるモラルの体系であると言うことができるのです。

市場の倫理 15か条は
「他人や外国人とも気やすく協力せよ」
「正直たれ」「契約尊重」「勤勉なれ」「楽観せよ」
など、他者との協力関係を結び、
常に自己変革するために「競争せよ」「創意工夫の発揮」
などが必要とされます。

一方、統治の倫理 15か条は
「規律遵守」「位階尊重」「忠実たれ」
と集団内の秩序を保つことが大切であり、
外部からの敵から集団を守るために、
「勇敢であれ」「排他的であれ」という道徳律が必要で、
裏切られないために「復讐せよ」という道徳律も必要になります。

そして、ジェイコブズの指摘は、
この2つのモラルの混用が「救いがたい腐敗」を
もたらすと言うのです。

その理由は
この二つのモラル体系が目指す世界は
まったく対立するものであって、
混ぜることは大いなる矛盾と混乱を招き、
最終的には「何をやってもかまわない」という
究極的な堕落を生み出すと言います。

商人たちの信頼社会では、
正直であることは重要な道徳律ですが、
江戸時代の武家社会では、主君(属している藩や幕府)
を守ることに価値があり、「嘘も方便」とされるのです。

もし、商人の世界に
「嘘も方便」のモラルが混入してきたら
どのようなことが起きるでしょう。

口先では「お客様が大事」「正直が一番」
と言いながら、ホンネは自分たちの組織を
守るためには客を騙しても許されるという考えたり
儲けのためなら偽物を売ってもよい
というダブル・スタンダードが生まれてしまいます。

と、続いていきます。
これは、面白い。

おそらくは今、
「安心社会」から「信頼社会」への移行期を
生きているのだろうと思います。

その時に、
「武士道」と「商人道」を混同しないこと。

どちらかと言えば、
商人道を生きていくこと。

これ、きっと大切なことなんだと思います。

まちゼミの松井さんの本、読まないと。  

Posted by ニシダタクジ at 08:24Comments(0)

2017年03月28日

「私」を外す、という美学

読書運があるような気がする。


「すべての教育は洗脳である~21世紀の脱・学校論」(堀江貴文 光文社新書)

に衝撃を受け、

次に、手に取ったのは3月頭に買っていた本


「日本人」という、うそ: 武士道精神は日本を復活させるか(山岸俊男 ちくま文庫)

からの、
ちくさ正文館でビビっときたこの本。


「日本人は何を考えて生きてきたのか(斎藤孝 洋伝社)

謎がだんだんと解けていく感じ。
これが僕の読書の醍醐味なのだけど、
そんな幸せな読書時間を過ごした。

堀江さんから
まずはこんなイントロ。

「常識への信仰だけはおすすめしない。
はっきり言って、幸せになれる確率が低すぎる。」

ガツーンとくる。

そして、
「つまり学校はもともと、子どもという原材料を使って、
産業社会に適応した大人を大量生産する工場のひとつだったのである。」
とバッサリ。

「N(国民国家)幻想がなくなり、誰もが共有する幸せの正解がなくなった現在、
人は国民ではない民のひとりとして、自分だけの幸せを探し、
生き方を探し、働き方を探さなければならない。
それは、画一的な学校で教えられるものではない。」

とつづく。

そして、ITで一世を風靡した堀江さんの一言

「インターネットの恩恵は、他者と通信できることではなく、
所有の価値を著しく下げたこと。」
なるほど。
これはたしかに革命だ。

そして、次の本につながっていく一言は、

~~~ここから

逆算をすればするほど、人の可能性は狭まっていくと思っている。
100点というゴールを最初に設定し、それに向かって突き進んでも、
あなたはどんなに頑張ったところで100点までしか取れない。
100点以上を取れる確率はゼロだ。

でも逆算をやめ、1点1点を楽しみながら積み上げていけば、
無我夢中で動いている間に、200点、300点と
その点が膨れ上がっていく可能性が開かれる。

この場合、取れる点数の上限はない。
目標からの逆算を思い切ってやめたほうが、
得られるものの可能性は大きく膨らむのである。

~~~ここまで

なるほど。
逆算じゃなくて、没頭すること。
そこから人生は開かれていくのだと堀江さんは言う。
その通りだな。

次に、「日本人というウソ」の山岸さん
「安心社会」と「信頼社会」というキーワードで
日本を読み解く。

日本人が集団に合わせて自己主張をあまりしないのは
そのような態度をとっていたほうが結果として得だから、
つまり、「情けは人のためならず」というのは、
結局そっちのほうが得だから、っていう理由である。

この本の中で、いちばん印象に残ったのは
「武士道」と「商人道」の違いだ。
それは閉鎖型社会と開放型社会
とパラレルにつながっている。

武士道の倫理は閉鎖型社会をうまく生きるための倫理だ
それに対して商人道は、開放型社会を生きるための倫理だ

たとえるなら、
武士道では、
忠実であること、規律を遵守すること、名誉を尊ぶことがよしとされるが、
商人道では、
目的のために異説を唱えること、創意工夫、正直であることたよしとされる。

この2つは両立しない、
というのが筆者と、そしてジェイン・ジェイコブズの意見だ。

しかも、この2つを混用してしまうと、
「救い難い腐敗」が進んでしまうのだという。

あ~。
これはなかなか、鋭い。

最後に、斉藤孝さんのこれ。
いまこそ、のタイミングってある。
この本を読むために、っていうやつ。

~~~ここから

日本人は、神がいろいろあるなかで、
今日はこの神に手を合わせようというのならいいのですが、
この神しかいない、という強い信仰を強制されるのが
息苦しく感じられて嫌なのです。

なぜ息苦しく感じられるかというと、日本人にとって神というのは、
実は概念に過ぎないからです。天の恵み、地の恵み、
そうした概念に神の姿を与え、現実に合わせて便利に使いたいという、
非常に現実的な思考が日本人の心情にはあるのです。

捨てる神あれば拾う神あり、という諺があるように、
万が一、神の怒りに触れたとしても逃げ場があります。

~~~ここまで

そして、西田幾多郎のこの言葉

「主客があるかのように思うのは、私たちの思い込みにすぎない。
実は主客未分のほうが本来の姿であり、純粋な経験である。
経験の大もとを純粋な経験だとすると、純粋経験は主客未分でおこっているはずだ
本質を捉えようとするならば、私というものを前提として考えるのではなく、
むしろ主客を分けることができない純粋経験こそを追求するべきだと考えたのです。」

そして、鈴木大拙がつづく

「禅は科学、または科学の名によって行われる一切の事物とは反対である。
禅は体験的であり、科学は非体験的である。非体験的なるものは抽象的であり、
個人的経験に対してはあまり関心を持たぬ。
体験的なるものはまったく個人に属し、その体験を背景としなくては意義を持たぬ。
科学は系統化(システマゼーション)を意味し、禅はまさにその反対である。
言葉は科学と哲学には要るが、禅の場合には妨げとなる。
なぜであるか。言葉は代表するものであって、実体そのものではない。
実体こそ、禅においてもっとも高く評価されるものなのである。」

これだね。
これをキャリア理論に落とし込んでみる。

そもそも。
日本文化はそうやって、
自分を持たず、目標を持たず、
目の前にいる人と、目の前の時間を
共につくってきたのではないか?

そしてそれは、科学ではなくむしろ禅のようなものだったのではないのか。
身体性を重んじ、体験を重んじてきたのではないか。

キャリアデザインという一神教に
違和感を感じるのは当然なのではないか。

もっと状況に身を委ねてもよい。

この本の冒頭で、
「私」と言わない日本人、という項目が出てくる。

とくに俳句は、
5・7・5というシンプルな構成に奥深さがある。

松尾芭蕉は詠んだ。

五月雨を集めて早し最上川
荒海や佐渡に横たふ天の河
静かさや岩にしみ入る蝉の声
古池や蛙飛び込む水の音

西洋では、自然と自分を明確に分け、
あくまで自然ではない自分というものを表現するが、

日本では自然と自分を区別することなく、
自分を自然に溶け込ませることをよしとする。

それのようが心地よく、
それのほうが美しいと感じているのだと。

私を外し、自然と一体化する。
目の前を感じ、動き、振り返る。
きっとそうやって自分のキャリアも作られていくのだろうと思いました。

東洋的キャリア、だんだんと見えてくる3冊でした。  

Posted by ニシダタクジ at 05:18Comments(0)

2017年03月26日

夢を語れ

どうやるか?
ではなくて、
なぜやるか?

方法を語るのではなく、
夢を語れ。

きっとそのフェーズに戻したほうがいいのだろうね。

描く未来にワクワクしていないと、
仕事は作業になる。

その未来を描くところから、
もう一度やり直しだなと思った。

1人のリーダーにに求心力を期待するのではなく、
コンセプトに求心力を持たせること。
それをやらなければいけないのだな。

誰かが人生を賭けないプロジェクトは
成功しない。

いや、人生賭けたって、
うまくいかないプロジェクトはある。

それを誰かに期待するのではなく、
自分が動くしかないのかもしれないなと。

もう一回、
ワクワクする未来を描くところから、やり直そうかな、と。  

Posted by ニシダタクジ at 05:52Comments(0)日記

2017年03月25日

The great teacher inspires.

日本経済新聞社主催の
大学改革シンポジウム
改革はどこまで進んだか?

ノーベル生理学・医学賞の大隅良典・東京工業大学栄誉教授に
聞き手、池上彰さん(同じく東工大特命教授という豪華な対談から始まり、

関西学院大学の村田学長
芝浦工業大学の村上学長
(株)ワークスアプリケーションズの牧野CEO
のパネルディスカッション。

あんなに熱いシンポジウムは
ここ10年記憶がないくらいの熱気。
パネルディスカッションがディスカッションになってたし。

ということで、少しメモを。

~~~以下対談メモ

新しい学問には権威がないから、自由な発想が受け入れられやすい

1人の研究より共同研究。
違う方法論でアプローチしてくれる人がいるという価値

異質な存在があってこその発見。

役に立つとは何か?
2.3年後に企業で役に立つことか?
20.30年後に役に立つ、かもしれないか?

28年前にはガンの研究の役に立つなんて思っていなかった。

役に立つという概念を社会がもうちょっと考える。
短期的に役に立つか立たないかの二軸で判断していいのか?

科学は文化になってほしい。
役に立つか立たないかという視点で評価しないでほしい。

サイエンスを文化として楽しもう

~~~以上対談メモ

いいですね。
まずは大隅先生から「役に立つ」ということへの問いがなげかけられる。

役に立つか立たないか?
という視点を短期的なものとしてとらえすぎていないか?

そうそう。
「効率的」なことを重視しすぎていないか?

昨日のブログで書いた没頭する、っていう
堀江さんの言葉を思い出した。

そして、さらにシビれたのは、パネルディスカッション。

▽▽▽ここからパネルのメモ

何を教えたか、ではなく、何を学んだか。

卒論は最高のアクティブラーニングだ

The great teacher inspires.
偉大な教師は学びの心に火を灯す。

知識ではなく、行動力、態度、価値観。

大学が単なるラベルであった時代には遊んでいてもよかった。
しかしこれからは主体性と多様性とコラボレーションの時代だから、
大学名に関わらず、やらないと。

高校までは文科省の検定済の教科書で学んできた。
それはだいたい正しいことが書いてある。
しかし、大学で研究されていることは最先端だから、
間違っているかもしれない。
だから、鵜呑みにせずにクリティカルシンキングしないと。

って言ったら、池上彰先生に苦情
クリティカルシンキングが大事だ、を
あまりに素直に受け取りすぎだよ。(笑)

コミットメントするということ。
期限を決めて、全力でやるということ。

教育と研究の関係。
研究で知った喜びを、熱を伝達していく。
それがインスパイアを呼ぶ。

よい研究者は、よい教育者だ。熱を伝えられるから。
研究してなければ、教育はできない。

△△△ここまでパネルメモ

うんうん。
特に芝浦工業大学の村上学長の言った
The great teacher inspires.

教員も職員も学生もgreat teacher
を目指していくというのが芝浦イズムだという。

気になったので、検索した。
この言葉は、
ウイリアム・アーサー・ワード(William Arthur Ward, 1921-1994)が言った

The mediocre teacher tells.
The good teacher explains.
The superior teacher demonstrates.
The great teacher inspires.

凡庸な教師はただしゃべる
よい教師は説明する
すぐれた教師は自らやってみせる
偉大な教師は心に火を灯す

だったことを知る。
なるほど。

インスパイア。

それかもな。
堀江さんの言う「没頭する」の
前段階にある、「衝動」を起こさせる何か。

それをgreat teacher と呼ぶのだろうと。

だとすると、
それは「誰か」じゃなくて、
「何か」であるかもしれないなと。

2008年、ナカムラノリカズくんと一緒にやっていた
起業家留学プログラムの研修を思い出した。

心に火を灯す。

彼の司会や、ほかの研修生とつくる場のチカラが
宮澤くんたちの心に火を灯すのを目の前で見た。

インターンシップに必要なのは、
きっとそういうことなのだろう。
インスパイア。
それこそが必須の条件だ。

それは、受け入れ先の企業の人、
プログラムの設計、そして場のチカラ。
この3つが必要なのだろうと思った。

インスパイアなきインターンは今すぐに
やめたほうがいいと思った。

そして、インターンをはじめ、
学校外で、地域で、あるいは外国で何かやってみるというのは、
「インスパイア」を得るための機会なのかもしれないと思った。

いや、そもそも。
The great teacher inspires.

を逆から読んでみると、
インスパイアさせるものが偉大な教師である、
とするならば、

「機会」そのものが偉大な教師なのではないか。
という仮説ができる。

それだ、と思った。

僕が本屋をやったのも、
地下にハックツをつくったのも、
劇団員というシステムをつくったのも、
そこに「インスパイア」の機会が生まれるからなのではないか。
「心に火が灯る」瞬間が生まれるからではないか。

great teacher とは、機会であり、場であり、コミュニティなのではないか。

きっとこれからも、
それをやっていくのだろう。

たった一言で「インスパイア」は起こる。

僕にとって、昨日のシンポジウムの場はそんな機会となりました。
ありがとうございました。  

Posted by ニシダタクジ at 08:11Comments(0)学び

2017年03月23日

「没頭」して、「磨く」、ということ

友人が何人かシェアしていた
「教育改革最前線#1」
https://newspicks.com/news/2129062/

スライドになっていてわかりやすい。
ちょうどタイミングよく、
旅読書で、藤原さんと堀江さんの本を読んでいたので、
ふむふむと思った。


「藤原先生、これからの働き方について教えてください。」(藤原和博 ディスカバー21)


「すべての教育は洗脳である~21世紀の脱・学校論」(堀江貴文 光文社新書)

この2冊。
大学生、20代で進路とか
仕事とか、働き方とか考えている人は読んでほしい本だ。

まずは藤原さんの本から一部引用

~~~ここから。

ひとりひとりが自分独自の幸福論を持たないと、
幸せになれない時代になりました。

与えられた選択肢の中に必ず正解があるという前提はもはやない

コミュニケーションとは、伝達することではなく、共有することである。

自己紹介から、自己プレゼンへ。
相手の脳の中にどんな像を浮かばせるか。

会社も個人もエネルギー体。
ベクトルの和の最大化を目指す。

自分にぴったりの正解の仕事なんてないと知る

人と企業という変化するもの同士が、
無限に考えられる組み合わせの中で、
日々、ベクトル合わせをし続けること。
21世紀の働き方はこれに尽きる。

毎日カスタマイズして、
お互いにベクトル合わせを続けていける会社を探しましょう

富士山型でなく、八ヶ岳型連峰主義。

~~~ここまで引用

スライドにも出てくる、藤原節の炸裂に、
久々、熱い気持ちになった。

そして昨日からワクワクしながら読んでいる本。
ちくさ正文館で購入した本が堀江さんの本。

冒頭からガンガンとくる。
でも、なんというか、痛快な、
「学校」システムそのものへの疑問。

▽▽▽ここから一部引用

常識への信仰だけはおすすめしない。
はっきり言って、幸せになれる確率が低すぎる

つまり学校はもともと、子どもという原材料を使って、
産業社会に適応した大人を大量生産する工場のひとつだったのである。

国家は想像上の産物である。モノとしての国家があるわけではない。

もう、国民国家というフィクションは力を持っていない。国家はなくなりつつある。

インターネットがもたらした本当の衝撃は、国家がなくなることなのだ。

明治時代の日本が一気に列強にのし上がれたのも、
国民国家というフィクションの創作に成功したからに他ならない。

更新するべきフィクションはどんどんアップデートしなければならない。

僕たちの周りにはびこっているフィクションは、とうに古び始めている。
そろそろ、新しい時代のための、新しいフィクションが必要だろう。

時代に合った良質なフィクションは、人々に居場所を提供してくれる

インターネットの恩恵は、他者と通信できることではなく、
所有の価値を著しく下げたこと。

国民国家というシステムには、
もはや、個人の人生を左右する力はないからだ。

今を生きる人たちが向き合うべき課題は、いかにいい大学に入るか、
ではなく、いかに自分だけの幸福を見つけ、追求するか、なのである。

必要なのは、セミナーでも勉強でもない、没頭する力の解放だ

学びとは、没頭のこと。

今学問と呼ばれている領域だって、
言ってしまえば誰かの没頭体験のアーカイブだ。

逆算をすればするほど、人の可能性は狭まっていくと思っている。

100点というゴールを最初に設定し、それに向かって突き進んでも、
あなたはどんなに頑張ったところで100点までしか取れない。
100点以上を取れる確率はゼロだ。

でも逆算をやめ、1点1点を楽しみながら積み上げていけば、
無我夢中で動いている間に、
200点、300点とその点が膨れ上がっていく可能性が開かれる。

この場合、取れる点数の上限はない。
目標からの逆算を思い切ってやめたほうが、
得られるものの可能性は大きく膨らむのである。

△△△ここまで引用

あ、しまった。
また引用し過ぎた。
買ってください。(笑)

この前書いていた、
東洋的キャリアに非常に親和性が高い
2人の本を読んでいて、うれしくなりました。
この2冊の世界観に賛同する。

そして、堀江さんの言うように、
「やってみる」がすべてだ。

やってみて、没頭する。
そこから始まっていくのだと思う。

知識を得る。
経験をする。

そういうことじゃなくて、
「没頭」して、「磨く」ってことなんじゃないかな、と思う。

それはきっと、
学校の外にあるのだろうと。

しかもしれを周りの人との合作でつくっていくこと。
そんなキャリアのつくり方がきっとあるのだろうと、
予感している。

さて、理論化しなきゃな。  

Posted by ニシダタクジ at 07:57Comments(0)

2017年03月20日

作品と文化のあいだ

アーティストと作品の関係。のつづき。
「作品」と「文化」の関係。

まきどき村も
ツルハシブックスも
コメタクも

共通しているのは、
「効率化」そのものに抗っているということかな。
それは、結果論なのだけど。

まきどき村は
「豊かさとは何か?」という問いへのひとつのアプローチだった。
ツルハシブックスは、
「若者地域拠点としての本屋」という方法論だった。
そしてコメタクは、
「米を炊く」という具体的方法による世の中に好きと隙を増やす活動だった。

その中に共通して流れているもの。
それは、「効率化に抗う」ということ。
なのかもしれないな、と思った。

そして、それは、
クルミドコーヒーやカキモリやタルマーリーみたいな、
経済社会そのものへの問いよりは
少し小さいのかもしれないけど、
結構共感度の高いプロジェクトなのかもしれない。

目標を決めず、セッションを楽しむ。

「目的」は究極、今日を楽しむということ。
本日この時間を楽しむということ。

そこでは周りを見渡して、
みんながどんな楽器を手に持っているかを見ながら、
新しい演者が向こうからやってくるかもしれないと思いながら、
自分の楽器を打ち鳴らすか、あるいはそこで踊るのだ。

そうして、できていくもの。
それが、作品であり文化であり、自らのキャリアであるのかもしれない。

昨日、かなちゃんが言った言葉に、ドキっとした。

「日本語がYes Noを最初に言わないのは、
結論を急がなくてもいいからだ。」

まず理由を述べて、最後に結論を述べる。
聞いているほうは、「結論はどっちなんだろう」
と想像しなければならない。

それは、話を聞くということ、
相手を理解するということなのかもしれない。
もっとセッションを楽しむ。
温暖な我が国では、そんな余裕があったのかもしれない。

セッションを繰り返し、
プロジェクトが生まれ、
作品が生まれる。
その作品がいつしか文化に変わっていく。

さくらちゃんも言っていた。
「個人に依存しているうちは、まだ文化になっていない。」

なるほど。
「この文化の期限には、諸説ありますが、」
と言われて初めてそれが「文化」になっているのだと。
面白いなあ。

しかし、
さくらちゃんがやっている「聞き書き」は、
個人が大切なのだという。

ライブなのだと。
誰と誰が聞き書きという場を共有したのか、
というのが大切で、そこからどんな言葉が出てきたのか。
そんな関係性が大切なのだと。

僕たちは、周りを見渡して、ライブを生きながら、
一方でそれをいろんな人が始められるように、
「文化」をつくっていくようなことを望む。
ひとつのプロジェクトが共感の連鎖でつながり、広がっていく。

きっと、そうやって、
作品と文化のあいだを、
ぐるぐるしながら、
未来と自分ができていく。

そんなことを感じた、いい夜でした。  

Posted by ニシダタクジ at 07:07Comments(0)学び

2017年03月19日

アーティストと作品の関係

アーティストは最初、作品によって見出される。

いい作品を何作か続けると、
そのアーティストの名前が売れる。

すると、そのアーティストの
名前で、作品を鑑賞したくなる人が増えてくる。

本で言えば、
有名著者の作品は発売前に
たくさんの予約が入る。

一方で、
一作品しかヒット作を生み出せなかった人は、
「一発屋」と称される。

その人の名前は、
すぐに消えてなくなる。

でも、作品は残る。
記憶にも残る。

アーティストの名前が売れてくると、
極端な話、作品の良さに関わらず売れる、という現象がおきる。

その人の作品だから買おう、ということが起こる。

著名な画家の無名時代の作品に、
何億円もの値段がつくような現象だ。

それは作品というよりは、
ネームバリュー、つまり世間的価値を
買おうということなのだろう。

アーティスト<作品
だったのが
だんだんとアーティスト=作品
になり、いつのまにかアーティスト>作品となるのだ。

しかし、それは、
アーティストの本望なのだろうか?

岡本太郎は、
「今日の芸術」(光文社知恵の森文庫)の中で、
芸術はわかろうとするものではないと説く。

そして、今日の芸術は、
うまくあってはならない。
きれいであってはならない。
ここちよくあってはならない。

と言う。
目の前の作品と対峙せよ。
対峙し、感じること。
そこから芸術鑑賞は始まるのだと。

「わからなさ」と向き合い、
自分なりの答えを出していくこと。
そんなことを説いた。

岡本太郎からすれば、おそらくは、
作品ではなく、名前が注目されることは、
あまり好ましいことではない。

アーティストであるならば、
作品を見て、作品を味わってほしいと思うはずだ。
そこに「作家の名前」は邪魔になる。

しかし。
作家にも「承認欲求」がある。
いい作品を書いたら、それを承認されたいし、賞賛されたい。

それは個人に向かってくるものであるから、
そこに、ジレンマがある。

作品を純粋に見てほしい。
でも、作家としての自分を認めてほしい。

その壁を作家自身が超えられるかどうか。
あるいは、世間が作家の名前を超えて、
作品を見ることができるか。

そんなことをふと考えたいい時間をもらった。  

Posted by ニシダタクジ at 06:55Comments(0)日記

2017年03月14日

世界という、わけのわからないワンダーランド


「自分の仕事を考える3日間」(西村佳哲 弘文堂)

以前に読んでいたはずなのだけど、
まったく色褪せない1冊。

今年の元日から続く、
西村佳哲キャンペーン。
今の自分に響くなあと。

あらためて「自分の仕事」ってなんだろう?
って考える。

この本もたくさんのエッセンスに
詰まっているのだけど、
特にシビれたのは、3番目に出てくる
秋田光彦さん。

浄土宗大蓮寺・慶典院住職。
情報誌の編集や映画プロデュースを経て住職へ。

実は僕も、新潟の浄土真宗のお寺の孫なので、
生まれた時から葬式は身近なものとしてあった。

お寺は葬式をするところ、
という常識が冒頭から揺さぶられる。

「お寺が葬式をするようになった歴史は、寛文4年(1664年)に
江戸時代が制定した檀家制度にさかのぼる。」

えっ。
そうなんだ。

江戸時代以前には、お寺で葬式してなかったんや。
わずか350年の歴史でしかないのか。

そして江戸幕府がそれを制定した理由が
キリスト教の禁制だったというから面白い。

~~~ここから一部引用

それからお寺は檀家の戸籍も管理する
幕府の出先機関となり、代償として
信徒の数と収入が安定した。
こうして仏事に依存する仏教の形が始まる。

そして200年後、
明治維新の流れの中で神道を国家統合の
柱に据えようとした政府は、
禁じられていた僧侶の肉食・妻帯を意図的に自由化。

世襲制度の一般化などを通じて、
僧侶を質的に破戒させ、人々の不満を募らせて、
人民の心を仏教から引き離そうと目論みる。
この動きは廃仏毀釈まで至った。

~~~ここまで一部引用

そうなんだ~。
お寺で葬式とかって誰かの仮説なんだな、と。

慶典院というお寺は小さな劇団による演劇や
市民たちによるワークショップが日々重ねられている。
檀家はなく、葬式をあげないお寺だ。

秋田さんは、現在の仏教に納得できず、
「こんなん辞めた」と国際NGOで活動し、タイに行く。
そこで、定住せずにさすらいながら、痩せた農地を開墾し、
学校をつくるといった、民のために尽くす
お坊さんの原点を見ることになり衝撃を受けて帰国。

そんなときに阪神淡路大震災が起こる。
お坊さんの格好をして歩いていたら
どこの寺だとか、どこの宗派だとか関係なく、
「うちの爺さんの供養をしてやれん。なんとかしてくれっ」
と声をかけられる。

それは秋田さんにとって人生の衝撃だった。
お寺の囲い込みをとったときに初めて、
「Who are you?」と問われた。

そこから秋田さんは
市民が知と情を編み出していく、
今の場をつくるに至る。

~~~ここからキーワード抜粋

今の都市や社会では、すべての場所にあらかじめ意味が付与されています。
その多くは効率や機能性の追求で、場の意味を自分で探したり、検証する機会がない。

場と関係はセットなんです。

「住職」っていうのは住むのが仕事

仏教に、正しい導きとか正解を期待する人がいるけど、それは難しいと思います。
仏教というのは、非常に大きな仮説を提示しているに過ぎない。

それを受け止めて、思考して、
実際の人生の中で答えを出そうと努力するのはあなたなんだ、ってことなんでよね。

あなたを差し置いて、お経を読んでもお坊さんに聞いても、どこにも答えはない。
あるのは、お前はどう思うんだっていう、この問い直しなんですよ。

そういうテレビ的なわかりやすさにいかに抗うかがテーマです。
問いというのはものすごく創造的な行為ですから。

わけがわからない、ということが大事なんです。
わかっていないから、一緒にわかっていこうというベクトルが生まれる。
わからないところから出発することで、
存在の尊さや、いのちの大きな豊かさにふれていくことができる、と。

「考える」とは、答えを得るというプロセスだけでなく、
「絶えず調節をしてゆく」こと。
そのためには「わからなさ」を手放さずに生きてゆく必要がある。

~~~ここまでキーワード抜粋

このあと、秋田さんの章は、
小学校高学年対象の
オーロラの学習教材をつくる話で締めくくられる。

そこで、小学校5年生~中学校3年生までに
「オーロラはなぜできると思いますか?」
という問いを投げかけると、

大半の小学生が自分なりの答えを書いてきたという。
「あれは夜の雲で、地球の反対側にまわった太陽の光を映している」とか
「暗くなると地面の中の鉱脈の光がもれて出てくるのだ」とか、いろいろな答えがでてくる。

ところが、中学生になると、
同じ問いに、「自然現象」の4文字で記入を済ませる子どもが
急増するのだという。

彼らの頭の中には、
自然現象というラベルの付いたフォルダがあり、
考えてもわからないことをそこにいれるようにしておけるようになるのだ。

それは処理能力の進化なのか、
それとも一種の思考停止なのだろうか。
その両方だと思う、と西村さんは言う。

「世界を、未だに知りもしなければわかってもいない、
初々しい状態にしつづけるには、知恵と精神的な体力がいる。」

そうそう。
でも、その状態のほうが、
生きるってもっと楽しくなるような気がする。

世界というワンダーランドを、
もっと楽しんでいこう。  

Posted by ニシダタクジ at 08:18Comments(0)

2017年03月13日

かつての市場が交換していたもの

かつての市場が
交換していたものは、
モノだったのだろうか。

小阪裕司さんの
「心の時代にモノを売る方法」(角川ONEテーマ21)を思い出す。



http://hero.niiblo.jp/e386148.html
200年隠れていた「贈与と交換」の経済
(2014.3.23 20代の宿題)

この本に引用されている山崎正和氏の本
「社交する人間」(中公文庫)

「経済の第一の系統は生産と分配の経済であって、
これは同質的で均一的な集団を形成しながら、
それによって生産物の効率的な増産を目標としてきた。

これに対して第二の系統をつくるのが贈与と交換の経済であって、
言葉を換えれば社交と商業の経済だといえる。」
(社交する人間より)

この第1の系統である
「生産と分配の経済」は、
共同体が「生き延びる」ために必要な経済であったと言えるだろう。

それに対して、
第2の系統である「贈与と交換の経済」は、
個人が楽しく豊かに「生きる」ための経済だったと言えるだろう。

なるほど。
そもそも市場の起源は、
贈与と交換の経済の実現場所だったのではないか。

かつて、コミュニティは基本的に
家族を単位とし、「自給自足」してきたはずだ。

そのあいだに「市場(いちば)」が成立していったのだと思う。
その市場で最初に取引されたものは、
おそらくは生活必需品というか、
生きるのに必須のものではなかっただろう。

すでに生きていくだけの何かはあった。
その余剰物を、交換するところから市場は始まっているはずだ。

そしてそこに旅人としての商人の存在があり、
旅先で手に入れた様々な珍しいものを売ったのだろう。

「商人はめぐりあった消費者に商品の物語を説き、
その心を魅惑する会話の成功とともに需要を創造したのであった。」

きっとそうだ。
かつて市場は、そもそも商品というよりも、
共感や驚きを売ってきたのではないか。
物語を売ってきたのではないか。

未知なるものを、共感という舞台を
出現させることで売る。それが市場なのではないか。
商人はそこで学び、技を磨く。

市場は、劇場であり、また学びの場であった。
未知なるものを知る場所であった。

「小商いをやってみる」
っていうのが少し流行っているようだけど、
もしかしたらそこには、根源的な「生」があるのではないか。

未知のものばかりが売っている市場では、
まずは感性がヒットする。
おや?と心が奪われる。
そこで商人が語る。

その物語や人の魅力に心惹かれて、
人はモノを買ったのではないか。

そのときに買っていたのは、
モノではなかったのだろう。
「共感」だったのだろう。

そういう意味では、
いま、世の中で動いている
「クラウドファンディング」は文字通り
「共感」を介して、お金が動いている。
つまり、共感を取引していると言えるのではないか。

「小商い」や「ナリワイ」と呼ばれるものは、
まさに生命的な本能がそちらに向かわせているのではないか。

「市場(いちば)」は交換の場であり、
エンターテイメントの場であり、学びの場でもあったのだろう。

たぶん、これから始まるプロジェクトって
そういうのをやりたいのだろうな、って思っている。

次のステージがだんだんと見えてくる。  

Posted by ニシダタクジ at 07:59Comments(0)日記

2017年03月09日

バットを振らせてくれ

イケダチカオ。
熊本のプロデューサー。

熱かった。
「バットを振らせてくれ」
という名言。

自分の感性を信じ、バットを振ってみること。
バッターボックスに立たせてもらうこと。

もちろん、当たるときも当たらない時もある。
それでも、バットを振ってみることが大切なんじゃないか。

クラウドファンディングっていうのは、
そういう機会なのかもしれない。

バットを振ってみる。
それから考える。

そういう文化を
つくっていくことにつながるのかもしれないと
思いました。

イケダチカオ。
ムツサトシ以来の一緒に飲みたいおっさん。(まだ超若いけど)

また会いたい。  

Posted by ニシダタクジ at 07:53Comments(0)

2017年03月05日

人の魅力からコンセプトの魅力へ

プロジェクトが始まるとき。
そこには「人の魅力」が重要である。

その人に吸い寄せられるようにして、
人が集まってくる。

ほぼ「プロジェクト=人」である状態。

「〇〇プロジェクトをやっている〇〇さん。」
に会いに行く。
会いに行きたくなる。

そうしないと、
小さな事業は始まってはいかないと思う。
特に非営利事業はそうであると思う。

コンセプトももちろん大事だけど、
誰が語ったか、によって、
プロジェクトの成否が決まる。

それが第1フェーズ。

だんだんと
「プロジェクト>人」にしていかないといけない。

そうしないと、
その人がいなくなったらどうなるのか?
という問題が生じる。

そこで、必要になってくるのがコンセプトの力だ。

何が大切なのか、何が提供している価値なのか。
それを参加している人たちが共有していること。
(必ずしも「言語化」されている必要はない)

それができてくると、
「場のチカラ」が形成されてくる。
すると、最初の発起人の存在感が薄れてくる。
それが第2フェーズ

そして、最後には、その場やコンセプトに対して、
人が集まってくるようになる。
そのとき、発起人の存在は不要になる。

まきどき村もツルハシブックスも
そのようなフェーズをたどってきたように思う。

現代は、ソーシャルネットワークサービスなどの影響で、
「個」に重きを置きすぎる傾向がある。

これまでの工業社会で、
「個」が疎外されてきたというか、
アイデンティティの発揮を限りなく少なくする方向に
動いてきた。(昨日の属人的な話のような)
その反動であるのかもしれないが。

ただ、コンセプトではなく、「個」に注目しすぎると、
その活動は一般化しないというか、
継続性と再現性(だれでもどこでもいつでもできる)がなくなっていく。

だから、コンセプトをもっと大事にしていく必要がある。
きっと、コメタクはそういう過渡期にあるのだろうな。

人からコンセプトへ。
第2フェーズが始まろうとしている。  

Posted by ニシダタクジ at 08:50Comments(0)日記

2017年03月04日

システム化はひとりひとりを幸せにするのか

属人的なシステムは継続しない。

だから、情報を共有し、
その人がいなくなったときでも、
誰かが替わりをできるようなシステムを
つくらなければいけない。

これはそのとおりだろうと思う。

しかし、システム化するということは、
ひとりひとりにフォーカスしないということ
なのではないか?

その人じゃなくてもできる、
というシステムをつくることなのではないか。

それはひとりひとりを幸せにするのか。
交換可能な部品にしてしまうのではないか。

ふと、北九州市立大学の竹川先生の言葉を
思い出す。

「優れたシステムは自律的に動く」

そうそう。
そういうやつ。

自律的に動くシステムをつくる。
ひとりひとりにフォーカスされるような。
ひとりひとりを大切にできるような。

そんなシステムをつくること。

継続することが目的ではなく、
ひとりひとりにフォーカスされ、
力が発揮できるようにするために、
システムをつくっていく。

それがこれからやることなのかな。  

Posted by ニシダタクジ at 07:45Comments(0)日記