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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2018年03月02日

貨幣とメールの共通点


「21世紀の楕円幻想論」(平川克美 ミシマ社)

いったん中断していましたが、読み終えました。
うなる内容。

~~~以下引用

楕円は、焦点の位置次第で、無限に円に近づくこともできれば、
直線に近づくこともできようが、その形がいかに変化しようとも、
依然として、楕円が楕円である限り、
それは、醒めながら眠り、眠りながら覚め、泣きながら笑い、
笑いながら泣き、信じながら疑い、疑いながら信ずることを意味する。
(花田清輝 楕円幻想)

花田が言っていることの意味は、相反するかに見える二項、
これまでわたしが言及してきた言葉で言えば、
「縁」と「無縁」、田舎と都会、敬虔と猥雑、死と生、
あるいは権威主義と民主主義という二項は、
同じ一つのことの、異なる現れであり、
そのどちらもが反発しあいながら、必要としているということ

どちらか一方しか見ないというのは、ごまかしだということです。
ごまかしが言い過ぎだとすれば、知的怠慢といってもいいかもしれません。

真円的な思考は、楕円がもともと持っていたもう一つの焦点を隠蔽し、
初めからそんなものは存在していなかったかのように思考の外に追い出してしまいます。

真円的思考とは、すなわち二項対立的な思考であり、
それは田舎か都会か、科学か信仰か、権威主義か民主主義か、
個人主義か全体主義か、理想主義か現実主義か、
どちらかを選ぶのかと二者択一を迫ることです。

最大の変化は、全体給付モデルを
採用していた時代の相互負債関係のモラルから、
貨幣交換の時代の賃借関係のモラルへの
180度の転換でありました。
・贈与は義務である
・贈与に返礼してはいけない
・贈与物を退蔵してはならない
というモラルから、
・返礼を受けるのは当然の権利である
・賃借関係は等価交換によって清算されなければならない
・貯蓄は美徳である
というモラルへの転換したのです

「楕円も、円とおなじく、一つの中心と、
明確な輪郭を持つ堂々たる図形であり、
円は、むしろ楕円のなかのきわめて特殊な場合である」
と花田は言っています。
にも関わらず、ひとは真円の潔癖性に憧れる。

貨幣:非同期交換を可能にした、劣化しない価値の担い手(だと信じられた)
インターネットメール:非同期的コミュニケーションを可能にした

非同期的コミュニケーションの結果、
人々が、聞きたい声だけを聴き、読みたい記事だけを読み、
連絡したい仲間とだけ交信することが可能になり、
その結果、社会が、世代間や、趣味や、嗜好によって、
分断されてしまったことです。

コミュニケーションのツールを手にしたゆえに、
社会が、言葉が通じないグループに色分けされることになったのです。

貨幣が、社会を富者と貧者に分割したように、
コンピューターもまた、情報格差の問題を生み、
さらには、それぞれの趣味や嗜好や政治思想ごとの小さなグループへ
分断してしまったのです。

その一番大きな問題は、
一度グループに分断されてしまうと、
もう、ほかのグループとは
コミュニケーションをしなくなってしまうことです。
回復の回路が切断されてしまうということです。

SNSでほかのグループにいる人間と出会うときは、
罵倒するか、冷笑するか、無関心かのいずれかの
態度しかとれなくなる。

そもそも、関心がない相手との回路は、
断ち切ることが可能になっているツールなので、
必然的に、同じような価値観をもった人間ばかりが集まることになります。

どちらのツールも、
コミュニケーションの必要性から生まれてきましたが、
結局、どちらもコミュニケーションツールを断絶する道具として、
社会に機能してしまっているからです。

その結果、人々は自由を手にするわけですが、
自由を手にした分だけ孤立化し、分断されることに
なっていったのではないか。

現代という時代ほど、金銭の万能性が強まった時代は
ないように思えます。
世の中には「等価交換のモラル」だけしか、
なくなっているかのように見える。
しかし、それは、「贈与のモラル」が消え去ったということではないのです。

日蝕、あるいは月蝕のように、
二つの焦点が重なってしまい、
「贈与のモラル」が「等価交換のモラル」の
背後に隠されてしまって見えなくなっている
ということにすぎません。

わたしたち現代人が陥っている陥穽は、
こうした楕円的で両義的な構造を持つ、
異なる経済・社会システムや、
モラルの体系というものを、
二者択一の問題であるかのように錯覚してしまうことです。

現代社会を覆っているのは、
むしろ、この「これだけしかない」という
見方の硬直性であると言えるかもしれません。

~~~ここまで引用

うわー、引用しすぎた。
全部読んだ人はご購入ください。(笑)

そっか!って。

貨幣とメールは、
「非同期交換」っていう共通点があるんだ。

それによって、貨幣は貯めこむことが価値ができて、
メールやSNSは、志向性が近い人と知り合える、逆に言えば
自分が望む人としかコミュニケーションしないようにできる。
そうやって人と人が分断されていく。

そして、最近起こっている、
贈与経済の胎動のような動きは、
そのもうひとつの軸を示しているのではないか。

そしてそれは、
「貨幣経済」か「贈与経済」か
というような二元論ではなく、
楕円のように2つの焦点を持ちながら共存していく、
そんな社会を実現していかなきゃいけないんじゃないか。

うんうん。
ホント、そうだなあと思う。

若者の生きづらさの深いところには、
「二元論」的な社会の雰囲気があるのだと思う。

就職するか、起業するか。
みたいな。

本当は、ぜんぜんそんなことない。
贈与の仕組みの中に入ってしまえば、
どちらもする必要がない。

「正解」なんてない。
そんなことみんな分かっているはずなのに、
二元論で考えてしまう。
そうやって分断が起こり、冷たい社会になっていく。

本のある空間のひとつの使命は、

世の中には多様な価値があり、
二元論では説明、解釈できないのだという
メッセージを放つこと。

それはそのままその人を
問いの海に放り込むことになるのだけど。

「価値とはいったいなんだろうか?」
と問いかけるような場をつくらないといけない。  

Posted by ニシダタクジ at 06:52Comments(0)