2018年09月22日
個性を生み出す「場」の構成員となる
地域実習3日目。
今日は柏崎のまちづくりネットあいさの
水戸部さんに話を聞く。
2007年の中越沖地震のときに
大学3年生で建築を学んでいた水戸部さんは
中越沖復興支援ネットワークの
立ち上げにかかわる。
これがきっかけとなって、
現在の「柏崎まちづくりネットあいさ」
「市民活動センターまちから」につながっている。
~~~ここからメモ
町:AREA・・・区域のこと 柏崎市
街:HARD・・・建物のあつまり 中心市街地
まち:SOFT・・・人と人との関係、暮らし
ミッション:
自分たちの地域を
自分たちの手で
よくしていくこと
よくしていこうとしている人をバックアップする。
挑戦したいという志に火をつける。
挑戦の循環によって躍動する地域
縮小の時代:地域に挑戦が必要
事業を通じて社会に貢献するプレイヤーを増殖させる。
都会:消費するものがコンテンツ化されている。
3段階のステップ
1 任意団体:中越沖復興支援ネットワーク
2 NPO法人柏崎まちづくりネットあいさ
3 市民活動センター「まちから」
家族以外の最小単位のコミュニティ
「ディス柏」:若者が集う場
「Okinet press」の発行
おもしろい人がいる
→取材にいけるし、深く知れる
話聞いてくれる人=向かい側
となりにたまにいる人
ピストルの弾=事業をどこに打ち込むか
※総合計画をちゃんと読む
やりたいことがやれて自己満足している状態
→
隣の友達を助けられる
やりたいことを応援していく
→
やりたいことをやっている
→
ハッピーになる
→
まわりをHappyにしていく
まちからはみんなと楽しめるまちを目指して、
あなたとやりたいことをカタチにします。
※会議体の役割を明確にする
主体性・高
A:立ち上げ・中心メンバー
B:参画メンバー
C:参加してみたい
D:関心がない
主体性・低
A~Bをあいさが支援
C~Dをまちから:応援する、つながる、つたわるで支援
東京にはないものがない
地方にはないものがある
地域にないことをやれれば仕事になる。
相談される。メシが食える。地方はパラダイス。
今正しいと思っていることが
明日正しいとは限らない
ビジネス=仮説の検証
あのころの自分(の直観)が正しかったかかどうかわかる。
金もうけの勉強していない
→22歳から金もうけが問われる
100点とれるやつ=みんなと同じことができる
みんなができないことがやれる
どっちに価値があるか?
~~~ここまでメモ
あいさ~市民活動センターの取り組み。
10年でここまでなるか、っていう驚き。
地震という強いインパクトがあって、
復旧、復興、そしてその先、どうするか。
そんな問いの中で、
参加型まちづくり、ひとりひとりが主役であるような、
そんな場を「よりそう支援」をしながらつくっていた。
市施設を活用した
市場のような市民団体がお金を稼げるような
取り組みも素晴らしかった。
「学校では金もうけをやり方を習わない。」
そんな、伝えたい思いがあふれていた。
僕が話を聞いていて思ったこと。
それは昨日の続きだ。
ひとりひとりが
個性を発揮する必要はないのではないか、
ということ。
「個性」とは、「役割」のことではないのではないか。
ましてや「能力」のことではないのではないか。
ということ。
個性(アイデンティティ)≠役割 ≠能力
水戸部さんが言っていたように、
「今正しいと思っていることが
明日正しいとは限らない」
そうそう。
正しさも、価値も、流動している。
だから。
もっと場に溶け出していいと思った。
昨日と一昨日のブログ
http://hero.niiblo.jp/e488131.html
地域の「個性」の構成員となる(18.9.19)
http://hero.niiblo.jp/e488136.html
「主客未分」で場に溶けていく(18.9.20)
これを合わせて、
個性(を生み出す「場」)の構成員になる
っていうのが可能なのではないか、
「日本人は何を考えてきたのか~日本の思想1300年を読み直す」(斉藤孝 洋伝社)
「中動態の世界」のあと、
読み直したくなった1冊。
これもまた、めちゃタイムリー。
昨日は西田幾多郎について書いたのだけど、
今日は「禅」を研究した鈴木大拙の言葉から。
「禅は科学、または科学の名によって行われる一切の事物とは反対である。禅は体験的であり、科学は非体験的である。非体験的なるものは抽象的であり、個人的経験に対してはあまり関心を持たぬ。体験的なるものはまったく個人に属し、その体験を背景としなくては意義を持たぬ。科学は系統化(システマゼーション)を意味し、禅はまさにその反対である。言葉は科学と哲学には要るが、禅の場合には妨げとなる。なぜであるか。言葉は代表するものであって、実体そのものではない。実体こそ、禅においてもっとも高く評価されるものなのである。」(禅と日本文化)
禅においては「体験」が重要であり、
「言葉」はむしろ妨げになる。
「日本人は、自分たちが最も激しい興奮の状態に置かれることがあっても、そこから自己を引き離す一瞬の余裕を見つけるように教えられ、また、鍛錬されてきた」
自分を囚われから引き離すことが大切である、ということ。
自己が囚われるということは、心が何かにとどまるということです。
そこから、「心をとどめぬが肝要」と言います。
心がとどまってしまうと人は反応できなくなります。
「あのとき、ああすればよかった」と思っていると
また失敗してしまいます。
また先のことを思って、
「こうすればほめられるだろう」と先回りすると、
やはりこれも失敗してしまいます。
「石火の機」というのは、まさに火花が飛ぶ瞬間のように、
いまその瞬間にきちんと反応する、ということですが、
反応するためには、常に心を無にしていなければいけません。
そして極めつけは
この2つあとに出てくる、
大森荘蔵の言葉。
「簡単に云えば、世界は感情的なのであり、天地有情なのである。其の天地に地続きの我々人間も又、其の微小な前景として、其の有情に参加する。それが我々が「心の中」にしまい込まれていると思い込んでいる感情に他ならない。」
(大森荘蔵セレクション・平凡社より)
感情というものは心の中にあるのではない、そもそも心の中というものはなくて、天地がすでに感情を持っていて、そこに自分は参加しているのだ、ということです。
大森は
「心の中」とか「意識」という言葉は危険なワードだと言います。
なぜなら、この「意識」という言葉が世界と人間を隔ててしまっているからです。
この後、斉藤孝さんはこのように解説します。
~~~ここからさらに引用
ドイツの哲学者ヘルマン・シュミッツは、
人の身体と感情はその人のいる空間と一体だと言います。
(中略)
このように考えていくと、「心の中」の感情とか、「私」みたいなものを
前提とするよりも、場の雰囲気といったものを
前提にしたほうが現実には即しているのではないかと思えてきます。
「私」というものがあって、
その私が世界を認識するという構図自体がもしかしたら
思い込みなのかもしれません。
「私」を外して考えることで、芭蕉も生きてくるし、
禅の伝統も生きてきます。
~~~ここまで引用
うわ~!って
日本の哲学スゲーって。
うなっちゃいました。
そして、僕のコンセプト「場に溶ける」なんて、
全然新しくないんだって。(笑)
「個性」とか「私」とか
そもそも幻想なんじゃないか。
もともと、「私」は世界に、というか場に溶けているんだ。
「場」から生み出される「価値」を「個性」と呼ぶのだと。
だからさ、個人が個性を発揮する必要なんて必要なくて、
「場」の構成員になればいい、というか、すでになっているんだって。
「やりたいこと」とか「夢」って「囚われ」のひとつだって思った。
自分なんてない。
水戸部さんは、長野市から柏崎市へ進学し、
3年次に震災が起こった。
その「場」に溶けていったのではないか。
震災復興から、まちづくりへ。
ひとりひとりがやりたいことを実現できるサポートを。
Happyの連鎖を。
そして、「あいさ」や「まちから」がそこにあることが
柏崎市の個性になっていく。
場に溶けていく。
そこから始まっていく。
それがいつのまにか「個性」となる。
私のやりたいことは何か?
私のビジョンは何で、いまどこのプロセスにあるのか?
そんなことを考えるよりも、
場に溶けていく。「場」に委ねてみる。
そんなほうが楽なんじゃないですかね。
楽に生きたい。ただそれだけなのかもしれないですが。
今日は柏崎のまちづくりネットあいさの
水戸部さんに話を聞く。
2007年の中越沖地震のときに
大学3年生で建築を学んでいた水戸部さんは
中越沖復興支援ネットワークの
立ち上げにかかわる。
これがきっかけとなって、
現在の「柏崎まちづくりネットあいさ」
「市民活動センターまちから」につながっている。
~~~ここからメモ
町:AREA・・・区域のこと 柏崎市
街:HARD・・・建物のあつまり 中心市街地
まち:SOFT・・・人と人との関係、暮らし
ミッション:
自分たちの地域を
自分たちの手で
よくしていくこと
よくしていこうとしている人をバックアップする。
挑戦したいという志に火をつける。
挑戦の循環によって躍動する地域
縮小の時代:地域に挑戦が必要
事業を通じて社会に貢献するプレイヤーを増殖させる。
都会:消費するものがコンテンツ化されている。
3段階のステップ
1 任意団体:中越沖復興支援ネットワーク
2 NPO法人柏崎まちづくりネットあいさ
3 市民活動センター「まちから」
家族以外の最小単位のコミュニティ
「ディス柏」:若者が集う場
「Okinet press」の発行
おもしろい人がいる
→取材にいけるし、深く知れる
話聞いてくれる人=向かい側
となりにたまにいる人
ピストルの弾=事業をどこに打ち込むか
※総合計画をちゃんと読む
やりたいことがやれて自己満足している状態
→
隣の友達を助けられる
やりたいことを応援していく
→
やりたいことをやっている
→
ハッピーになる
→
まわりをHappyにしていく
まちからはみんなと楽しめるまちを目指して、
あなたとやりたいことをカタチにします。
※会議体の役割を明確にする
主体性・高
A:立ち上げ・中心メンバー
B:参画メンバー
C:参加してみたい
D:関心がない
主体性・低
A~Bをあいさが支援
C~Dをまちから:応援する、つながる、つたわるで支援
東京にはないものがない
地方にはないものがある
地域にないことをやれれば仕事になる。
相談される。メシが食える。地方はパラダイス。
今正しいと思っていることが
明日正しいとは限らない
ビジネス=仮説の検証
あのころの自分(の直観)が正しかったかかどうかわかる。
金もうけの勉強していない
→22歳から金もうけが問われる
100点とれるやつ=みんなと同じことができる
みんなができないことがやれる
どっちに価値があるか?
~~~ここまでメモ
あいさ~市民活動センターの取り組み。
10年でここまでなるか、っていう驚き。
地震という強いインパクトがあって、
復旧、復興、そしてその先、どうするか。
そんな問いの中で、
参加型まちづくり、ひとりひとりが主役であるような、
そんな場を「よりそう支援」をしながらつくっていた。
市施設を活用した
市場のような市民団体がお金を稼げるような
取り組みも素晴らしかった。
「学校では金もうけをやり方を習わない。」
そんな、伝えたい思いがあふれていた。
僕が話を聞いていて思ったこと。
それは昨日の続きだ。
ひとりひとりが
個性を発揮する必要はないのではないか、
ということ。
「個性」とは、「役割」のことではないのではないか。
ましてや「能力」のことではないのではないか。
ということ。
個性(アイデンティティ)≠役割 ≠能力
水戸部さんが言っていたように、
「今正しいと思っていることが
明日正しいとは限らない」
そうそう。
正しさも、価値も、流動している。
だから。
もっと場に溶け出していいと思った。
昨日と一昨日のブログ
http://hero.niiblo.jp/e488131.html
地域の「個性」の構成員となる(18.9.19)
http://hero.niiblo.jp/e488136.html
「主客未分」で場に溶けていく(18.9.20)
これを合わせて、
個性(を生み出す「場」)の構成員になる
っていうのが可能なのではないか、
「日本人は何を考えてきたのか~日本の思想1300年を読み直す」(斉藤孝 洋伝社)
「中動態の世界」のあと、
読み直したくなった1冊。
これもまた、めちゃタイムリー。
昨日は西田幾多郎について書いたのだけど、
今日は「禅」を研究した鈴木大拙の言葉から。
「禅は科学、または科学の名によって行われる一切の事物とは反対である。禅は体験的であり、科学は非体験的である。非体験的なるものは抽象的であり、個人的経験に対してはあまり関心を持たぬ。体験的なるものはまったく個人に属し、その体験を背景としなくては意義を持たぬ。科学は系統化(システマゼーション)を意味し、禅はまさにその反対である。言葉は科学と哲学には要るが、禅の場合には妨げとなる。なぜであるか。言葉は代表するものであって、実体そのものではない。実体こそ、禅においてもっとも高く評価されるものなのである。」(禅と日本文化)
禅においては「体験」が重要であり、
「言葉」はむしろ妨げになる。
「日本人は、自分たちが最も激しい興奮の状態に置かれることがあっても、そこから自己を引き離す一瞬の余裕を見つけるように教えられ、また、鍛錬されてきた」
自分を囚われから引き離すことが大切である、ということ。
自己が囚われるということは、心が何かにとどまるということです。
そこから、「心をとどめぬが肝要」と言います。
心がとどまってしまうと人は反応できなくなります。
「あのとき、ああすればよかった」と思っていると
また失敗してしまいます。
また先のことを思って、
「こうすればほめられるだろう」と先回りすると、
やはりこれも失敗してしまいます。
「石火の機」というのは、まさに火花が飛ぶ瞬間のように、
いまその瞬間にきちんと反応する、ということですが、
反応するためには、常に心を無にしていなければいけません。
そして極めつけは
この2つあとに出てくる、
大森荘蔵の言葉。
「簡単に云えば、世界は感情的なのであり、天地有情なのである。其の天地に地続きの我々人間も又、其の微小な前景として、其の有情に参加する。それが我々が「心の中」にしまい込まれていると思い込んでいる感情に他ならない。」
(大森荘蔵セレクション・平凡社より)
感情というものは心の中にあるのではない、そもそも心の中というものはなくて、天地がすでに感情を持っていて、そこに自分は参加しているのだ、ということです。
大森は
「心の中」とか「意識」という言葉は危険なワードだと言います。
なぜなら、この「意識」という言葉が世界と人間を隔ててしまっているからです。
この後、斉藤孝さんはこのように解説します。
~~~ここからさらに引用
ドイツの哲学者ヘルマン・シュミッツは、
人の身体と感情はその人のいる空間と一体だと言います。
(中略)
このように考えていくと、「心の中」の感情とか、「私」みたいなものを
前提とするよりも、場の雰囲気といったものを
前提にしたほうが現実には即しているのではないかと思えてきます。
「私」というものがあって、
その私が世界を認識するという構図自体がもしかしたら
思い込みなのかもしれません。
「私」を外して考えることで、芭蕉も生きてくるし、
禅の伝統も生きてきます。
~~~ここまで引用
うわ~!って
日本の哲学スゲーって。
うなっちゃいました。
そして、僕のコンセプト「場に溶ける」なんて、
全然新しくないんだって。(笑)
「個性」とか「私」とか
そもそも幻想なんじゃないか。
もともと、「私」は世界に、というか場に溶けているんだ。
「場」から生み出される「価値」を「個性」と呼ぶのだと。
だからさ、個人が個性を発揮する必要なんて必要なくて、
「場」の構成員になればいい、というか、すでになっているんだって。
「やりたいこと」とか「夢」って「囚われ」のひとつだって思った。
自分なんてない。
水戸部さんは、長野市から柏崎市へ進学し、
3年次に震災が起こった。
その「場」に溶けていったのではないか。
震災復興から、まちづくりへ。
ひとりひとりがやりたいことを実現できるサポートを。
Happyの連鎖を。
そして、「あいさ」や「まちから」がそこにあることが
柏崎市の個性になっていく。
場に溶けていく。
そこから始まっていく。
それがいつのまにか「個性」となる。
私のやりたいことは何か?
私のビジョンは何で、いまどこのプロセスにあるのか?
そんなことを考えるよりも、
場に溶けていく。「場」に委ねてみる。
そんなほうが楽なんじゃないですかね。
楽に生きたい。ただそれだけなのかもしれないですが。