2019年02月04日
「自己開示する」と「自己開示させられる」のあいだ
「続・ゆっくり、いそげの朝」@胡桃堂喫茶店(2019.2.3)
※新潟内野・「ウチノ食堂藤蔵」内の「APARTMENT BOOKS」でも販売しています。
新年に「続・ゆっくり、いそげ」を読んでから
心地よい敗北感(この場合の敗北ってなんでしょうね。言語化やコンセプト化への敗北感なのか)
に浸っている中でも何かムズムズとしていたところ、
影山知明さんにお誘いいただき、国分寺・胡桃堂喫茶店での
「続・ゆっくり、いそげの朝」で対談してきました。
テーマは「場」ということだったのですが。
面白かったのは、
影山さんがいう場の力(影山さんは漢字表記)は、
「空間」×「関係性」×「記憶」
っていうことで、
だんだんと積み重なっていくものという感覚だったのに対して
僕が昨年考えたのは。
1 誰とやるか
2 いつやるか
3 どこでやるか
っていう比較的インスタントというか、
その瞬間の場のチカラ(カタカナ表記)について
考えているのだなあと。
影山さんの言葉を借りれば、
僕は「場」へのインプットに力点を置いていて
影山さんは「場」からのアウトプットを大事にしている。
それは、
「土になりたい」「土でありたい」
という言葉にも表されているけど、
植物を育てるように、
種を蒔き、水をあげ、コンディションを整えて、
目を出してくれるのを待つ、というもの。
それが「続・ゆっくり、いそげ」のテーマである
△を▽に。だ。
文字にすればリザルト・パラダイムからプロセス・パラダイムへ
人を手段化するのではなく、ひとりひとりの人から始まる経済、世の中。
僕のワークショップの時の肩書は、チューニング・ファシリテーター。
影山さんは、そのようなファシリテーションがあまりしっくりこない、という。
無理やり「自己開示させられている」のはないか、と思うからだという。
なるほど!
と思った。
たしかに、「自己開示させられている」と不快(大げさに言えば)
に思った人が何人かいた場合、
その場の雰囲気は、なんかおかしなものになるのではないか。
その通りだなあと思った。
そして、
「自己開示する」と「自己開示させられる」のあいだ
そこには無数のグラデーションがあるのではないかと思った。
ある1冊の本を思い出した。
「中動態の世界」(國分功一郎 医学書院)。
http://hero.niiblo.jp/e487965.html
(「やりたいことは何か?」「何になりたいのか?」への違和感 18.8.20)
一部だけ抜粋すると
~~~
能動と受動を対立させる言語は、行為にかかわる複数の要素にとっての共有財産とでも言うべきこの過程を、もっぱら私の行為として、すなわち、私に帰属させるものとして記述する。出来事を私有化すると言ってもよい。
「する」か「される」かで考える言語、能動態と受動態を対立させる言語は、ただ、「この行為は誰のものか」と問う。
出来事を描写する言語から、行為を行為者へと帰属させる言語への移行。
意志とは行動や技術をある主体に所属させるのを可能にしている装置。
私は姿を現す。つまり、私は現れ、私の姿が現される。そのことについて現在の言語は、「お前の意志は?」と尋問してくるのだ。それは言わば、尋問する言語である。
~~~
「自己開示する」と「自己開示される」
の差は、実はあいまいなものだと思った。
影山さんが「続・ゆっくり、いそげ」の中で一貫して言っている
「リザルト・パラダイム」に組み込まれ、人が手段化されることへの違和感。
それは、「させられる」ことへの違和感、なのかもしれない。
~~~
P197
サポートする側としても、支援「させられる」のではなく、
自己決定に基づいて支援「する」のであれば、
それはギブし合う(支援し合う)関係となる。
~~~
それにはめちゃめちゃ同意できるし、その通りだと思うのだけど、
「させられる」と「する」の差は、紙一重なのではないか、と思うのだ。
同じ行為であっても、「セクハラ・パワハラ」に該当するかどうかは、
当人たちがそれをどのように捉えるか、にかかっているように、
発言や行動などの事実のみで、それを判断することはできない。
「支援させられる」のか、「支援する」のか、
「自己開示させられる」のか、「自己開示する」のか、
っていうのも、非常に線引きが難しいところだと思う。
たとえば、
「自己開示させられている」と認識した上で、
あえて、ここはそういう場だから、そういう場づくりに向けて、
「自己開示する自分を演じよう」と思ったとき、
それは「自己開示している」のか、「自己開示させられている」のか。
おそらくは、本屋である、ということは、
そのあいだをつくろうとしているのではないかと思っている。
たとえば、「本の処方箋」。
あなたの悩みを聞いて、本を3冊、処方します。
問診票を書いてもらい、話を聞く。
聞いている僕がびっくりするようなリアルな悩みを話してくれる。
それはマクロでみれば、「自己開示させられている」
自己開示をさせる手法として、見ることもできる。
しかし、ミクロで見れば、
その「場」には、自ら「自己開示する」あるいは「自己開示してしまう」
ような何かが存在している。
ひとつめに、僕が初対面の本屋のおじさんであること。
ふたつめに、本を処方したくらいでは、その悩みは到底解決しないということ。
この2つが、自己開示を促すことになる。
もしくは、
本屋さんの店内で、飲み会をしている。(営業時間中)
とある中学2年生女子がお姉ちゃんの塾の送り迎えの合間に、
お父さんと一緒に立ち寄ったら、なんか、飲み会してる。
「部活なにやってるの?」と聞かれる。
「実は、部活やめてやることがないんです。」と答える。
「屋台をやってみたら?」と言われて、友達をお菓子の屋台をやってみる。
(ツルハシブックスで実際に起こった話)
つまり、「する」と「される」のあいだは非常にあいまいなんだということ。
僕はそれが「場」なのだろうと思う。
「続・ゆっくり、いそげ」の中で影山さんは場が力を持つときの
5つの条件を紹介していて、
4つ目に「主客同一の要素があること」
が出てくるのだけど、
僕としては、
「主客同一」というより、西田幾多郎風に
「主客未分」な状態なのだと思う。
そして、「主客未分」とは、
「する」と「される」の境目があいまいな状態なのではないかと思う。
「支援する」と「支援される」があいまいな状態。
そういう場こそが場のチカラを発揮するのではないかと思う。
昨日の話で言えば、「参加」と「ケア」が同時に起こるということ。
本屋さんっていう空間は、それが作りやすいのではないかと思った。
今回のトークでの一番の問いはここでした。
「問いを得られる場」「問いをつかめる場」って大切だなあとあらためて。
「続・ゆっくり、いそげ」のラストに、こう書いてある。
~~~
システムをつくるには、それをつくるための原初的な問いがいる。
現代はそれが「生産性の高い社会をつくるには」なのであり、
その問いに答えようとしていると考えれば、
今の経済も政治も教育も、ある意味よくできていると言える。
~~~
新しいシステムをつくるには、「問い」がいる。
1999年、24歳の時に始めた「まきどき村」は、
僕の中の「豊かさってなんだ?」っていう問いへのアウトプットだし。
ツルハシブックスの地下古本コーナーHAKKUTSUだって、
「15歳と地域の多様な大人に出会わせるには?」という問いから始まっている。
昨日もトーク終了後に、たくさんの人が
会場にそのまま残ってランチやお茶を楽しみながら、
延長戦として話していた。
投げ込まれた問い、あるいは自分の中で生まれた問いを
そのまま自分の中だけで消化できず、みんなでシェアしていたのかもしれない。
そういう問いから、システムは生まれていくし
「システム」っていう言い方が大袈裟ならば、
仕組みやプロジェクトが生まれていく。
そういう「場」を僕はつくりたいし、
それが「本屋」だったら素敵だなあと思う。
そうやって生まれてくる「問い」に対して、
人はフラットになれると思う。
今回影山さんと話して僕が確認したのは、
・僕が「いま」にフォーカスしているということ。
・僕が主客未分、あるいは「する」「される」という概念があいまいであることを望んでいること。
「本屋のような劇場」
を目指していたのは、おそらくはそういうことなのだろうと思った。
影山さん、今田さん、参加されたみなさん、
素敵な「場」をありがとうございました。
※新潟内野・「ウチノ食堂藤蔵」内の「APARTMENT BOOKS」でも販売しています。
新年に「続・ゆっくり、いそげ」を読んでから
心地よい敗北感(この場合の敗北ってなんでしょうね。言語化やコンセプト化への敗北感なのか)
に浸っている中でも何かムズムズとしていたところ、
影山知明さんにお誘いいただき、国分寺・胡桃堂喫茶店での
「続・ゆっくり、いそげの朝」で対談してきました。
テーマは「場」ということだったのですが。
面白かったのは、
影山さんがいう場の力(影山さんは漢字表記)は、
「空間」×「関係性」×「記憶」
っていうことで、
だんだんと積み重なっていくものという感覚だったのに対して
僕が昨年考えたのは。
1 誰とやるか
2 いつやるか
3 どこでやるか
っていう比較的インスタントというか、
その瞬間の場のチカラ(カタカナ表記)について
考えているのだなあと。
影山さんの言葉を借りれば、
僕は「場」へのインプットに力点を置いていて
影山さんは「場」からのアウトプットを大事にしている。
それは、
「土になりたい」「土でありたい」
という言葉にも表されているけど、
植物を育てるように、
種を蒔き、水をあげ、コンディションを整えて、
目を出してくれるのを待つ、というもの。
それが「続・ゆっくり、いそげ」のテーマである
△を▽に。だ。
文字にすればリザルト・パラダイムからプロセス・パラダイムへ
人を手段化するのではなく、ひとりひとりの人から始まる経済、世の中。
僕のワークショップの時の肩書は、チューニング・ファシリテーター。
影山さんは、そのようなファシリテーションがあまりしっくりこない、という。
無理やり「自己開示させられている」のはないか、と思うからだという。
なるほど!
と思った。
たしかに、「自己開示させられている」と不快(大げさに言えば)
に思った人が何人かいた場合、
その場の雰囲気は、なんかおかしなものになるのではないか。
その通りだなあと思った。
そして、
「自己開示する」と「自己開示させられる」のあいだ
そこには無数のグラデーションがあるのではないかと思った。
ある1冊の本を思い出した。
「中動態の世界」(國分功一郎 医学書院)。
http://hero.niiblo.jp/e487965.html
(「やりたいことは何か?」「何になりたいのか?」への違和感 18.8.20)
一部だけ抜粋すると
~~~
能動と受動を対立させる言語は、行為にかかわる複数の要素にとっての共有財産とでも言うべきこの過程を、もっぱら私の行為として、すなわち、私に帰属させるものとして記述する。出来事を私有化すると言ってもよい。
「する」か「される」かで考える言語、能動態と受動態を対立させる言語は、ただ、「この行為は誰のものか」と問う。
出来事を描写する言語から、行為を行為者へと帰属させる言語への移行。
意志とは行動や技術をある主体に所属させるのを可能にしている装置。
私は姿を現す。つまり、私は現れ、私の姿が現される。そのことについて現在の言語は、「お前の意志は?」と尋問してくるのだ。それは言わば、尋問する言語である。
~~~
「自己開示する」と「自己開示される」
の差は、実はあいまいなものだと思った。
影山さんが「続・ゆっくり、いそげ」の中で一貫して言っている
「リザルト・パラダイム」に組み込まれ、人が手段化されることへの違和感。
それは、「させられる」ことへの違和感、なのかもしれない。
~~~
P197
サポートする側としても、支援「させられる」のではなく、
自己決定に基づいて支援「する」のであれば、
それはギブし合う(支援し合う)関係となる。
~~~
それにはめちゃめちゃ同意できるし、その通りだと思うのだけど、
「させられる」と「する」の差は、紙一重なのではないか、と思うのだ。
同じ行為であっても、「セクハラ・パワハラ」に該当するかどうかは、
当人たちがそれをどのように捉えるか、にかかっているように、
発言や行動などの事実のみで、それを判断することはできない。
「支援させられる」のか、「支援する」のか、
「自己開示させられる」のか、「自己開示する」のか、
っていうのも、非常に線引きが難しいところだと思う。
たとえば、
「自己開示させられている」と認識した上で、
あえて、ここはそういう場だから、そういう場づくりに向けて、
「自己開示する自分を演じよう」と思ったとき、
それは「自己開示している」のか、「自己開示させられている」のか。
おそらくは、本屋である、ということは、
そのあいだをつくろうとしているのではないかと思っている。
たとえば、「本の処方箋」。
あなたの悩みを聞いて、本を3冊、処方します。
問診票を書いてもらい、話を聞く。
聞いている僕がびっくりするようなリアルな悩みを話してくれる。
それはマクロでみれば、「自己開示させられている」
自己開示をさせる手法として、見ることもできる。
しかし、ミクロで見れば、
その「場」には、自ら「自己開示する」あるいは「自己開示してしまう」
ような何かが存在している。
ひとつめに、僕が初対面の本屋のおじさんであること。
ふたつめに、本を処方したくらいでは、その悩みは到底解決しないということ。
この2つが、自己開示を促すことになる。
もしくは、
本屋さんの店内で、飲み会をしている。(営業時間中)
とある中学2年生女子がお姉ちゃんの塾の送り迎えの合間に、
お父さんと一緒に立ち寄ったら、なんか、飲み会してる。
「部活なにやってるの?」と聞かれる。
「実は、部活やめてやることがないんです。」と答える。
「屋台をやってみたら?」と言われて、友達をお菓子の屋台をやってみる。
(ツルハシブックスで実際に起こった話)
つまり、「する」と「される」のあいだは非常にあいまいなんだということ。
僕はそれが「場」なのだろうと思う。
「続・ゆっくり、いそげ」の中で影山さんは場が力を持つときの
5つの条件を紹介していて、
4つ目に「主客同一の要素があること」
が出てくるのだけど、
僕としては、
「主客同一」というより、西田幾多郎風に
「主客未分」な状態なのだと思う。
そして、「主客未分」とは、
「する」と「される」の境目があいまいな状態なのではないかと思う。
「支援する」と「支援される」があいまいな状態。
そういう場こそが場のチカラを発揮するのではないかと思う。
昨日の話で言えば、「参加」と「ケア」が同時に起こるということ。
本屋さんっていう空間は、それが作りやすいのではないかと思った。
今回のトークでの一番の問いはここでした。
「問いを得られる場」「問いをつかめる場」って大切だなあとあらためて。
「続・ゆっくり、いそげ」のラストに、こう書いてある。
~~~
システムをつくるには、それをつくるための原初的な問いがいる。
現代はそれが「生産性の高い社会をつくるには」なのであり、
その問いに答えようとしていると考えれば、
今の経済も政治も教育も、ある意味よくできていると言える。
~~~
新しいシステムをつくるには、「問い」がいる。
1999年、24歳の時に始めた「まきどき村」は、
僕の中の「豊かさってなんだ?」っていう問いへのアウトプットだし。
ツルハシブックスの地下古本コーナーHAKKUTSUだって、
「15歳と地域の多様な大人に出会わせるには?」という問いから始まっている。
昨日もトーク終了後に、たくさんの人が
会場にそのまま残ってランチやお茶を楽しみながら、
延長戦として話していた。
投げ込まれた問い、あるいは自分の中で生まれた問いを
そのまま自分の中だけで消化できず、みんなでシェアしていたのかもしれない。
そういう問いから、システムは生まれていくし
「システム」っていう言い方が大袈裟ならば、
仕組みやプロジェクトが生まれていく。
そういう「場」を僕はつくりたいし、
それが「本屋」だったら素敵だなあと思う。
そうやって生まれてくる「問い」に対して、
人はフラットになれると思う。
今回影山さんと話して僕が確認したのは、
・僕が「いま」にフォーカスしているということ。
・僕が主客未分、あるいは「する」「される」という概念があいまいであることを望んでいること。
「本屋のような劇場」
を目指していたのは、おそらくはそういうことなのだろうと思った。
影山さん、今田さん、参加されたみなさん、
素敵な「場」をありがとうございました。