2019年02月07日
予測不可能な未来に対してフラットであること
「ワークショップをとらえなおす」(加藤文俊 ひつじ書房)
あ、あの「つながるカレー」の加藤先生、こんな本を!
と思って購入。
まだ読み途中なのだけど、
ビビビって来るキーワードと記述が多い。
P29の
フィールド(フィールドワーク)とコンセプト(コンセプトワーク)のあいだにある
メディア、ラボラトリーワークとしてのワークショップ
という表現にはめちゃめちゃしっくりくるし、
現代の安易なワークショップ型イベントに対して、
警鐘を鳴らしているというか、問いを投げかけている。
たとえば、
「こなすだけ」のワークショップ
「アリバイ」としてのワークショップ
この2つのワードだけとっても、
僕が大学生の終わりごろに2年連続で参加した
ワークショップの違和感をめちゃめちゃ表現している。
あれ、このワークショップ、
去年と同じことを、同じ人が、同じ手法でやっている、
と、強烈な違和感を感じて、
僕はその業界から距離を置くようになった。
というわけで、
本文を読みながらメモの途中経過
~~~ここから
ひとりひとりを「個人」として大事にするんじゃなくて、「存在」として大事にする。
場を主、人を従としてみる。
でも、場を構成するもっとも大きな要素は人なのだ。
そうすると、何が起こるか。
フラットっていうのは、上下関係だけのことじゃないのかもな。
時間軸とかもめっちゃ重要。
僕は答えを知ってて、君は知らないみたいなのってフラットじゃないよね。
映画の結末を知ってる人と知らない人、みたいな関係性とか。
ワークショップでさえ、企画者、設計者と参加者は時間軸においては、フラットではないよね。
「させられる」ことによって、予測不可能性が生まれ、そこに創造の種が蒔かれる、ようなことは起こらないのか?
ほめるという行為は人を評価者と被評価者に分ける。
~~~ここまでメモ
この本を読みながら、
「フラットな関係性」についてあらためて考えていたようだ。(笑)
フラットな関係性というのを
時間軸でとらえる、っていうのが最近気になることで、
予測不可能な未来に対して、人はフラットになるし、
いま終わったばかりのイベントに対しても、人はフラットになる。
だから、企画会議(キカクカイギ)とか、
ふりかえりとかっていうコンテンツを充実させようとしているのかも。
うんうん。
もしかしたら、そういうところが「フラット」の入り口なのかもしれません。
読み進めます。