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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2019年02月12日

なんのために、この船に乗ったんだっけ?


「常識的で何か問題でも?」(内田樹 朝日新書)

これは、だいぶ、きますね。
きてますね。

AERAの連載の再編集。
いちばん印象に残ったのは、
戦時中の太宰治の話。

P85「戦時下、太宰の文学的抵抗が見せたもの」

~~~以下引用

でも、私がもっとも興味を引かれたのは、多くの作家が書くことをやめてしまった戦時下に太宰が「駈込み訴へ」「津軽」「新釈諸国噺」「お伽草紙」など代表作のほとんどを書いていたという歴史的事実のほうである。

高橋によれば、それは作家がいったい何を言いたくてそんなことを書いたのか、韜晦なのか、迂回的な戦意高揚なのか、さっぱり底の読めないこれらの作品群こそが文学の独壇場だったからだ。

戦争とは、すべてのものを敵か味方かに切り分け、その上で「敵を殺す」という恐ろしいほど単純な枠組みの中に世界を縮減する企てだ。

戦争に真に反対できるのは「個別性」と「複雑性」の原理だけだと私も思う。それは「私が何ものであり、私が何を言いたいのか」を誰にも決定させないという太宰の文学的抵抗のうちにひとつの理想を見出すことである。文学に一票。

~~~以上引用

太宰の文章は、「よくわからなかった」。
戦争に反対なのか、戦意高揚なのか、
まったくわからなかった。
そこが文学の奥深さだった。

戦争とは究極の二元論、単純化である。
その反対を行こうとすれば、
多元で、複雑系の中に身を置くことだと。

なるほど。
まさにこれは現代とは逆だなあと思った。

そして、この本のラストのあとがきに、内田さんは書いている。

~~~ここからさらに引用

官邸が熟知しており、僕が過小評価していたのは、現代日本人が厳密で客観的な格付けシステムに嗜癖しているということでした。

入力と出力の間にシンプルな相関関係がある仕組みは、「ペニー・ガム・システム」とも呼ばれます。ペニー硬貨を投じると必ずガムが出て来る自動販売機の仕組みです。このシステムを現代人は偏愛しております。特に若い人たちにこの傾向が顕著である。

若い世代に「格付けシステム」への偏愛があることをはじめて僕が感じたのは、20年ほど前のフランス文学会のことでした。
フランス文学会では、その頃から研究発表が「19世紀文学」の分科会に異常に集中するようになりました。

この3分野には世界的なレベルの日本人の「大家」がそろっていたということです。ですから、その分野での研究発表に対する客観的評価はたいへん信頼性が高かった。

そして若手の研究者にとっては、これらの分野の世界的権威の諸先生に高く評価されたら、大学のテニュアのポストに指先がかかったということを意味します。

査定の厳正さを優先的に配慮すると、若手の研究者は「できるだけみんながよく知っている分野」を選択することになります。でも、学問研究においてそれをやってしまうと、研究領域の多様性・豊饒性を考えるとよいことではありません。

でも、研究についての精度の高い格付けを優先させると、そうせざるを得ない。その結果、「みんなができることを、みんなよりうまくできるようになること」を若手の研究者たちが競うようになった。

そうして、仏文学は素人から見ると、面白くもおかしくもない「内輪のパーティ」になってしまった。気が付いたら、大学の仏文科に進学してくる学生がいなくなってしまった。

研究者たちが精度の高い格付けシステムを要請したのは、フェアなポスト配分という点では合理的な解でした。でも、格付けの安定性だけを配慮しているうちに、按分されるもともとの原資は、誰がどうやって創り出すかについては考えるのをやめてしまった。

フランス文学研究の原資とは何でしょうか。
それは、「フランス文学って面白い。もっと知りたい。専門家の話を聴きたい」という大量の「非専門家」たちです。それ以外にありません。

そのような素朴な心情を軽んじて、専門家同士の競争に熱中していたら、ある時点で奪い合うリソースそのものがなくなってしまった。「誰かがみんなのためにそのような特異な専門分野を担当する必要がある。」という集団的合意の大切さを忘れてしまっていたからです。

精度の高い格付けを求める心性が過度になると、専門家たちが「誰のために・誰に代わって」この仕事をしているのかという問いを自分に向けることができなくなってしまうという痛ましい事実を教えられました。

人間はひとりひとり特異な個性と才能に恵まれている。それを生かして「余人をもって代え難い」タスクを引き受けることが人としての生き甲斐じゃないかということです。

全員が「他の人ができないことができる」ようにばらけている集団では、たしかにメンバーの格付けはむずかしい(というか不可能)でしょう。でも、そういう集団はさまざまなタイプの危機に対応できます。危機耐性ではすぐれています。

その逆に、メンバーの全員が同じ種類の知識や技能しか持たず、量的な差があるだけの集団を考えてみてください。たしかに全員が規格化されていれば、集団内部での格付けは簡単です。

でも、集団として生き延びる力は弱くなる。「みんなができること」以外の知識や技能を要求する問題には誰も対応できないからです。

僕は集団として生き延びるためにさまざまな社会的能力は開発されるべきであると信じています。ですから、集団内部的な格付けを容易にするために成員を規格化することにはつよく反対します。集団が弱くなるからです。

でも、僕のように考える人は今の日本では圧倒的な少数意見です。ほとんどの人は「誰でもできることを他の人よりうまくできる」という相対的な優劣の競争で上位にランクされることに熱中している。

~~~ここまでさらに引用

いやあ、抜粋できなくて、
またしても全文書いてしまった。

これはリアルだなあと。

そしてわかりやすい他者評価を過度に求めてしまう
大学生の不安にも当てはまるなあと。

アイデンティティの不安と、他者評価への依存。
これには相関関係があると思う。

自らのアイデンティティを
他者からの、それも権威ある何者かからの評価に
頼ってしまうこと。

そのスパイラルこそが、
大学生を生きづらくしているのだと僕は思う。
上記のフランス文学会で起こっていること。

「評価しないと出世できない」
これはある意味事実なのだろう。

そしてその環境に適応する人々は、
「お客はだれか?」という問いをだんだんと失わせていった。
いつのまにか、お客(幸せにする対象)がいなくなっていた。

「課題解決」や「目標達成」は予測可能な未来である。
僕はエンターテイメントの本質は「予測不可能性」にあると思っていて、
だからこそ「課題解決」や「目標達成」そのものは
つまらないのだと思う。

達成した先にある未来が、
せいぜい「予想以上にほめられる」ことくらいだからだ。

日曜日のOMOのプレゼンテーションでも、
その先にある未来に予測不可能なワクワクがあった
新潟の水の上を生かすプランがグランプリをとった。

なんのために、この船に乗ったんだっけ?という問いと、
その先にある予測不可能な何かに対して、人はワクワクするのだろうと思った。

僕たちは生き延びるために、何をするのか?
そんな問いをあらためて考えた1冊となった。  

Posted by ニシダタクジ at 13:13Comments(0)