2019年07月02日
「意義」と「意味」
「仕事なんか生きがいにするな」(泉谷閑示 幻冬舎新書)
「生きづらさ」というモンスターの正体がまたひとつ、
わかりました。
それは「意義」というモンスターです。
まずは、夏目漱石先生とニーチェ先生から学ぶ、「本当の自分」探しについて。
~~~ここからメモ
「本当の自分」「自分探し」問題をどうするか。
「自分探し」への批判は
1 「労働教」による「自分探しなんて甘えだ、働け」という道徳的な説
2 そもそも「本当の自分」を知ることはできないから考えても無駄という合理的な説
両方とも、当事者本人を救うことができない。
生まれ育ってくる中で避け難く曇らされてしまい、「頭」でっかちで神経症にならざるを得ないわれわれの感覚や認識というものを、「心」を中心に回復させることができた時、人は「本当の自分」になったという内的感覚を抱きます。これは、生まれ直したかのような新鮮さと歓びに満ちたものであり、「第二の誕生」とも呼ばれます。
夏目漱石は「私の個人主義」(1914年@学習院大学の講演録)で、「ああここにおれの進むべき道があった!ようやく掘り当てた!こういう感投詞を心の底から叫び出される時、あなたがたははじめて心を安んずることができるのでしょう。」と語った。
このように「本当の自分」になる経験が起こると、必ずや一定期間の後に、「自分」への執着が消えるという新たな段階に入っていきます。
それが漱石の言う「則天去私」か。天に則り私を去る。自分という一人称への執着が消えた「超越的0人称」の境地を表している。
ニーチェはそれを、「駱駝」(未熟な0人称)→「獅子」(1人称)→「小児」(超越的0人称)という三様の変化と比喩的に述べている。
ただし、誤解してはならないのは、この駱駝として象徴されている「未熟な0人称」というものは、決して未成年のような未熟な状態を指しているわけではなく、むしろ私たちが「一人前の社会人」と呼んでいるような社会適応的な状態のことだという点です。
~~~ここまでメモ
「自分とは何か」という問いの後に、それを掘り当てると、自分への執着が消えていくという。
ニーチェの定義に従うならば、私たちはほとんどが「駱駝」(未熟な0人称)の段階にあるなと。
「何者でもない」という状態から、一瞬、何者かになって、そしてまた超越的0人称という自分への執着を超えた存在になるのだ。
そして、今日の本題、「意義」と「意味」の話に突入していきます。
~~~ここから引用とメモ
「意義」という思想が私たちを苦しめているのではないか。うつ状態に陥った人たちが、療養せざるを得なくなり、「有意義」な過ごし方ができなくなってしまうと、自らを「価値のない存在」として責めてしまう。
私たち現代人は「いつでも有意義に過ごすべきだ」と思い込んでいる、一種の「有意義病」にかかっているようなところがあります。
「意義」とは、何かの役に立つ、など、「価値」を生みことにつながるもの。
「意味」とは「意義」のような「価値」の有無を必ずしも問うものでありません。
しかも、他人にそれがどう思われるかに関係なく、本人さえそこに「意味」を感じられたのなら「意味がある」ということになる。つまり、ひたすら主観的で感覚的な満足によって決まるのが「意味」なのです。
現代では「価値」というものが「お金になる」「知識が増える」「スキルが身につく」「次の仕事への英気を養う」等々、何かの役に立つことに極端に傾斜してしまっているので、「意義」という言葉もそういう類の「価値」を生むことにつながるものを指すニュアンスになっているのです。
「意味」というものは、「意義」のような「価値」の有無を必ずしも問うものではありません。しかも、他人にそれがどう思われるかに関係なく、本人さえそこに「意味」を感じられたのなら「意味がある」ということになる。つまりひたすら主観的で感覚的な満足によって決まるのが「意味」なのです。
「意義」とは、われわれの「頭」の損得勘定に関係しているものなのですが、他方の「意味」とは、「心=身体」による感覚や感情の喜びによって捉えられるものであり、そこには「味わう」というニュアンスが込められています。
このように整理してみますと、「意義」と「意味」とは、かなり異なった概念であることがはっきりしてきます。
しかし、現代人が「生きる意味」を問う時には、ともすればつい、この「意味」と「意義」を混同してしまって、結局「生きる意義」や「価値」を問うてしまっていることが少なくないのです。そしてこれが、問題を余計難しくしてしまっているのです。
生産マシーンのごとく、常に「価値」を生むことを求められてきた私たちは、「有意義」という呪縛の中でもがき続けていて、大切な「意味」を感じるような生き方を想像する余裕すらない状態に陥ってしまっているのです。
まだ私たちが幼かった頃、一日がとても長く感じられ、未知な世界に向かって好奇心を向け、自由な空想にひたり制約のない夢を育んでいた頃、生きることは「意味」に満ち溢れていました。
当然のことながら、子供の世界から「意味」などすっかり消え去ってしまい、生きる喜びとは無関係な「意義」だけが、彼らの中に空しく積み上げられていくようになってしまったのです。
~~~ここまで引用とメモ
生きづらさの正体、見つけた。
「意義」は何か?
その行為の「目的」は?
と聞いてくる家族、学校、社会だ。
「意義」に満たされた生活は、一見充実しているように見えるが、余裕がなく、つまらない。
だからこそ、「にいがたイナカレッジ」には1か月という時間の投資が必要なのだ。
1か月の暮らしと余裕の中で「意味」を問いかける。
「価値」というものが、本来は他者評価を前提としていないことを知る。
自分たち自身(だけ)が感じられる価値。
それを追いかけていくこと。
それはまるで、子どもが自然の中で遊ぶように、夢中になること。
その前提として、自らの存在承認を得ること。
ここにいていいんだ。
若いだけで自分は価値があるんだ。
という感情から出発すること。
たぶん、そういうことのために、
1か月が必要なのだなあと改めて思いました。
まだ、夏の予定が決まっていない人は新潟という選択肢もあります。
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