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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2019年07月04日

貨幣経済が「質」を「量」に還元した


「仕事なんか生きがいにするな」(泉谷閑示 幻冬舎新書)

今日がラストです。
エッセンスに詰まりすぎて、ほかの本も読んでみたくなりました。

エーリッヒ・フロム「自由からの逃走」から、はじまります。

~~~ここから本文より引用

「・・・からの自由」と「・・・への自由」か。

エーリッヒ・フロム「自由からの逃走」
「自由」という名の牢獄から抜け出そうとして、ふたたび服従を求めるという構図。

個人が解放される以前にあった地縁血縁などの「第一次的絆」を断ち切っていく個性化のプロセスの中で、孤独や不安、そして自らの無力感やのしかかってくる責任の重さなど、様々な困難に直面することになります。

個別化した人間を世界に結びつけるのに、ただ一つ有効な解決方法がある。すなわちすべての人間との積極的な連帯と愛情や仕事という自発的な行為である。それらは第一次的絆とは違って、人間を自由な独立した個人として、再び世界に結びつける。

しかし、個性化の過程をおし進めていく経済的、社会的、政治的諸条件が、いま述べたような意味での個性の実現を妨げるならば、一方ではひとびとにかつて安定を与えてくれた絆はすでに失われているから、このズレは自由をたえがたい重荷に変える。

そうなると自由は疑獄そのものとなり、意味と方向とを失った生活となる。こうして、たとえ自由を失っても、このような自由から逃れ、不安から救いだしてくれる人間や外界に服従し、それらと関係を結ぼうとする、強力な傾向が生まれてくる。

ちょうど肉体的に母親の胎内に二度と帰ることができないのと同じように、子どもは精神的にも個性化の過程を逆行することはできない。もし、あえてそうしようとすれば、それはどうしても服従の性格をおびることになる。

子どもは意識的には安定と満足を感ずるかもわからないが、無意識的には、自分の払っている対価が自分自身の強さと統一性の放棄であることを知っている。

~~~ここまで引用

「たとえ自由を失っても、このような自由から逃れ、不安から救いだしてくれる人間や外界に服従し、それらと関係を結ぼうとする、強力な傾向が生まれてくる。」

フロムはまさにそれがナチスを支持する人々を生んだのだと言う。その「人間」や「外界」が、今は、新興宗教だったり、他者評価だったり、カリスマやリーダーシップだったりするのだろうな。

じゃあ、どうすればいいのか?
フロムはそれが「自発的な活動」だと言い、それは「小児」や「芸術家」のことだと著者は説明する。

~~~ここから引用

自発的な活動がなぜ自由の問題にたいする答えになるのだろうか。自発的な活動は、人間が自我の統一を犠牲にすることなしに、孤独の恐怖を克服する一つの道である。というのは、ひとは自我の自発的な実現において、かれ自身を新しく外界にー人間、自然、自分自身にー結びつけるから。

愛はこのような自発性を構成するもっとも大切なものである。しかしその愛とは、自我を相手のうちに解消するものでもなく、相手を所有してしまうことでもなく、相手を自発的に肯定し、個人的自我の確保のうえに立って、個人を他者と結びつけるような愛である。

まず第一にわれわれは、自然で自発的であったひとたちを知っている。かれらの思考、感情、行為は、かれら自身の表現であり、自動人形のそれではない。これあらのひとびとは多くは芸術家としてわれわれに知られている。事実、芸術家は自分自身を自発的に表現することができる個人と定義することができる

小さな子どもたちは自発性のもうひとつの例である。かれらは本当に自分のものを感じ、考える能力を持っている。(中略)子どもの魅力がなんであるか問うならば、私はまさにこの自発性にちがいないと思う。この自発性は、それを感知する力を失うほどには死んでいないひとびとに、深く訴えていく。じっさい、子どもにせよ芸術家にせよ、あるいはこのような年齢や職業で分類することができないひとびとにせよ、かれらの自発性ほど、魅惑的説得的なものはない。

「芸術とは、邪なるものに曇らされた世俗に向かって決然と対峙して、そこで忘れ去られてしまった自然の本性、すなわち「美」を力強く表現するものです。真の芸術家の在り方というものは、子供の持つ純粋さや創造性を保ちつつ、そこに力強く成熟したものを兼ね備えた、ただならぬ「小児」と呼ぶべきものなのです。

しかし、これは芸術家に限った話ではありません。芸術とは人間であるために「不可欠なもの」であって、決して「剰余として」身にまとうような贅沢品ではないのです。

「真の藝術家は、藝術の条件のもとで人生をわれわれを見せてくれるのではあって、人生の形式の中で藝術を見せるのではない。(オスカーワイルド)

~~~ここまで引用

かつて、宮沢賢治先生が言っていた、

誰人もみな芸術家たる感受をなせ
個性の優れる方面に於て各々止むなき表現をなせ
然もめいめいそのときどきの芸術家である
(「農民芸術概論綱要」より)

まさにこれこそが「自由」への道だと説明するのです。
ここは僕としてはとても熱くなりました。

そして、ここからが、今日の一番のポイントです。
まずは「愛」の話から。

~~~ここから引用

「愛」とは、単に他の人に向かうものだけを指すのではなく、世界の様々な物事や人生そのものに向けられるもので、対象に潜む本質を深く知ろうとしたり、深く味わおうとしたりするものです。このように好奇心に満ちた、無邪気な子供のような性質。それが「愛」というものの大切な側面なのです。

「愛」が働く時、私たちは対象を深く見つめ、耳を澄まし、そこに潜む本質を感じ取ろうとします。これによって物事に秘められた真実が、見つめる者、耳を澄ますものに、静かに開示されてきます。その時、私たちに、あたかも対象と一体になったかのような至福の経験がもたらされます。「愛」の喜びとは、そのような経験です。

われわれ人間の「頭」は、そもそもは渾然一体となっている自他を、「観察する者」と「観察される対象」とに分ける働きがあります。そうして、本来は一元的である世界を自と他に分別して、二元論的世界に変えてしまいます。もちろん、この「頭」の働きがあったおかげで、私たちは対象を認識したり、思考したりできるようになって、それを意のままに操作することさえ可能になったわけです。

しかし私たちは、これによって世界との一体感を失ってしまったのです。つまり、世界を自分から切り離したつもりで、私たちがむしろ世界から切り離されてしまったのだと言えるでしょう。「自分」という言葉の中の「分」という文字は、私たち人間が、そういう悲劇的な宿命を負っていることを静かに教えてくれているかのように思われます。

このように世界から切り離された私たちが、しかし、もう一度世界と一体であることを思い起こすことができる経験。再び一元的な世界に立ち戻ることができる経験。それを「愛」の経験と呼ぶのです。

~~~ここまで引用

なるほど。
頭と心の二元論的分割は必然だったのだなあと。

世界から自分を切り離したつもりで、むしろ世界から自分が切り離されてしまった。
これですね。
なんとなくの不安の招待。

さらに、「日常」を「遊び」に変えよ、と続きます。

~~~ここから引用

何でもないように見える「日常」こそが私たちが「生きる意味」を感じるための重要な鍵を握っているのです。

「日常」を死んだ時間として過ごしてしまうと、その退屈で苦痛な時間を耐え忍ぶために感性を硬直化させることになってしまい、ある時にたとえ素晴らしい非日常的経験を得たとしても、もはやそこに十分な喜びを感じ取ることさえできなくなってしまうでしょう。

しかしそもそも、私たちがこんな風に「日常/非日常」を区別していること自体が問題なのかもしれません。私たちは「日常」という言葉に、ついつい「ルーチンでつまらない時間」というニュアンスを込めてしまいがちなのですから。

そこでまずは、この色あせたニュアンスをまとった「日常」というものをいかに非日常化して、区別なく味わい深いものにできるか。つまり、人生の時間を丸ごと「遊ぶ」ことができるかが、問われてくるのです。

ニーチェは人間の最も成熟した在り方を「小児」という象徴で語りました。この「小児」とは「創造という遊戯」に満ちた存在です。創造こそが最高の遊戯であり、「遊ぶ」とはすなわち創造的であることです。物事を深く「味わう」ためには、その物事に向かって「小児」のように創造的に「遊ぶ」ことが大切なのです。

~~~ここまで引用

そして、このあと、この本の中で一番衝撃を受けた、ロバート・ヘンライの言葉がつづきます。

「芸術家は人生についての考え方を世界に教えている。金だけが大事だと信じている人は自分を欺いている。芸術家が教えているのは、小さな子供が無心で遊ぶように、人生も熱中して遊ぶべきだということである。ただし、それは成熟した遊びである。人の頭脳を駆使した遊びである。それが芸術であり、革新である。」(ロバート・ヘンライ「アートスピリット」)

いいですね。
熱いですね。

高校生や大学生が「地域」で「探究」をやる本当の意味はここにあるのではないでしょうか。

大学の入試改革があったから、ではなく、
それが新しい学力観だから、でもなく、

ただただ「人生を熱中して遊ぶべきだ」というメッセージを伝えるためなのではないかと。
熱くなりました。

締めは、頭と心、量と質の二元論の説明。
僕はこういうのが好きです。

~~~ここから引用

「心=身体」が感じ取った感覚を「頭」がありのままに受け取って、それをもとに様々な好奇心を発動させたり、抽象化や概念化を行って、そこから普遍的真理を抽出したりすること。これが「意味」が析出してくれるプロセスです。ともすれば「心=身体」を抑え込み支配的に振る舞いがちな「頭」なのですが、このように協働的な「頭」の用い方ができた時、そこに至福の喜びが訪れます。古代ギリシア人が「観照生活」を最も人間らしい過ごし方と考えたのは、そのためでもありました。

このように「頭」と「心」が対立せずに、互いが相乗的に喜び合っている状態。これを、私たちは「遊び」と呼ぶのです。誰しも幼い子供時代には、自然に「遊び」に夢中になっていたはずなのですが、それがどうして、こんなにも縁遠いものになってしまったのでしょう。

物事の「質」を「量」に還元してしまう貨幣経済というものが、私たちの世界を動かす支配的な価値観になってしまったことが挙げられるでしょう。お金というツールはそもそも、物々交換の不便さを解消するものとして登場し、あらゆるものを「量」に還元して交換、つまり取引を可能にしました。「質」の異なる様々なものをすべて「量」に置き換えてしまうということは、本来は暫定的・便宜的なことであって、そこに無理があるのは当然です。

しかし、いつの間にか、経済原理が世の中を動かす中心的な力を持つようになってしまい、人々は「質」の大切さを犠牲にしてまでも経済価値を追い求めるようになってしまいました。その結果、様々な物事に対しても、プロセスよりも結果のほうを重視するような考え方が、広く世の中に蔓延するようになったのです。

さらにこの「量」的に傾斜した価値観は物事に最大限の効率を求めるようになり、ロジカルな戦略を立てて物事に取り組むスタイルを生み出しました。明確な目標設定、その実現可能性やリスクはどの程度で、勝算はどの程度見込めるのか、それに投入するコストはどこまで最小限にできるのか等々、人間の「頭」の算術的なシュミレーション機能を過大に評価した考え方が、子供の勉強から大人のビジネスまで、果ては「ライフプランニング」という言葉も登場するほどに、人生のあらゆる局面までも支配するようになってしまったのです。

この一見合理的に思える方法論には、致命的な欠陥があります。「質」は「量」に還元できないという基本的な問題を抱えてるのみならず、「頭」の行うシュミレーションは単純な算術レベルに留まるものであって、人間や社会さらには人生や運命といった「複雑系」にはまったく歯が立たないものなのです。

このような効率主義を含む合目的的な思考は、ビジネスのみならず、現代人の思考全般にすっかり浸透していて、私たちはどんな小さな選択であっても「それは何の役に立つのか?」「それは損なのか得なのか?」「コストパフォーマンスはどうなのか?」「メリットやデメリットはどうなっている?」「どんなリスクがどの程度の確率で起こり得るのか?」といったことを考える癖がついてしまいました。そして、「結局」「所詮」「面倒くさい」といった言葉が乱発されるようになり、「どうせ同じ結果が得られるのなら余計なことや無駄なことはしないのが賢明だ」と考えるようになってしまった。

~~~ここまで引用

貨幣経済が「質」の異なるものを貨幣価値という一元化したものに還元してしまった。そしてそれが究極的に進んだのが現代という時代であると僕も思います。「量」や「結果」で測るなら、最小限の努力で最大の価値を生み出したほうがいい、そのように思うのは当然です。

本当にそれで幸せになれるのでしょうか?

つづけます。

~~~

ところが、そもそも「遊び」というのは「無駄」の上にこそ成り立つのであって、その「結果」はあくまで二次的に過ぎないもので、「プロセス」のところにこそ面白味があるものです。

「頭」の計画性や合理性を回避するためには、その対極にある「即興」という概念を積極的に用いてみることがとても有効な方法です。

あえて無計画、無目的に、自分の行動を即興に委ねてみることによって、私たちの決まりきった日常が、ささやかながらもエキサイティングな発見と創意工夫に満ちたものに変貌するわけです。おれを私は「偶然に身を開く」と呼んでいます。

「即興性」に加えてもうひとつ大切なこととして「面倒くさい」と感じることを、むしろ積極的に歓迎してみるという考え方があります。

~~~

「即興」。
ここで出てくるんですか。
ツルハシブックス「劇団員」のコンセプトが。
読書って楽しいなあと思います。

キーワードだらけだな、と。
「頭=脳」と「心=身体」
あまりにも頭にシフトしすぎたんだなと。

キャリア的に言えば、未来が予測不可能になって、
「目標達成」から「機会提供」へと教育がシフトしているんだなと。

「目標達成」にとって、「機会」はノイズに過ぎなく、
「即興」は説明不可能であるから、排除すべきなのだろうと。

でも、人生を遊ぶためには、創造的でなければならないのだから、
そこには「機会」を得て「即興」してみることは必須だよね。

たぶん、ぼくが伝えたいのも、そういうこと。  

Posted by ニシダタクジ at 09:19Comments(0)