2019年07月06日
「手段」としての学びから「機会」としての学びへ
「挑戦」という言葉に対する違和感。
それは前からあったのだけど。
かつて僕は、
「地域に挑戦の連鎖を」とかって言っていたんだけどね。
「地域」「挑戦」というキーワードに
20代がヒットしなくなっているという現実も肌で感じる。
「ありえたかもしれない、もうひとつの近代」(19.4.18)
http://hero.niiblo.jp/e489179.html
スピノザ「エチカ」の解説をする
国分功一郎さんの言葉。
「思考のOSを入れ替える。」
近代社会で培われてきた思考。
それは一言でいえば、「目的・目標は何か?」
「どうやってそれを最短距離・時間で達成するか?」
という思考だった。
それはおそらく、国民国家というシステムと工業社会の宿命だったのだろう。
それを支えたのがデカルト的哲学だったと國分先生は解説する。
だとしたら、
工業社会から次の社会へとシフトしている中で、
国民国家という仕組みそのものがグローバル企業の登場などによって
揺らいでいる中で、
「思考のOSを入れ替える」必要があるのではないか。
西洋的近代とは、
二元論であり、わかりやすさであり、目標逆算型システムであり、、、
しかし、スピノザは、
本質は自分自身がらしくあろうとする力「コナトゥス」のことであり、
「自由であるとは能動的であることであり、能動的であることはとは自らが原因であるような行為を作り出すことであり、そのような行為とは自らの力が表現されている行為を言います。ですから、どうすれば自らの力がうまく表現される行為をつくり出せるのかが、自由であるために一番大切なことになります。」(100分de名著 スピノザ「エチカ」より)
もうひとつブログ読み直し
「やりたいことは何か?」「何になりたいのか?」への違和感(18.8.20)
http://hero.niiblo.jp/e487965.html
「やりたいことは何か?」「何になりたいのか?」この二つはまさに「意志」と「未来」を問う質問なのではないか。
あたりまえだけど、「言葉」と「世界」は相互に作用している。「言葉」が「世界」を規定し、「世界」が「言葉」を規定している。
だから、「やりたいことは何か?」と問われれば、「やりたいことは何だろう?」と考え、それに答えようとしてしまう。
でもさ、そもそも、「意志」や「未来」が存在しないとしたら。能動態と受動態の対立の世界に生きていなかったとしたら。
~~~ここまでブログから引用
もし、「意志」も「未来」も存在しないとしたら。
そんな仮定。
アホらしいと思うだろうか。
僕はそこにこそ、「挑戦」という言葉への違和感の原因がある、と思っている。
(戦争に強かった)国民国家と(世界を貨幣経済という色に染めてしまった)工業社会は、「学校」という効率的な人材育成システムを生み出した。それによって、「いま」は将来という目的のための手段となった。たぶん、その思想の転換が必要だったのだろう。
そして、「意志」という概念も合わせて導入された。
目的・目標を決めて、「挑戦」する個人が素晴らしい、とされた。
いま、ぼくたちの生活は、「手段」にあふれている。
いや、「手段」にあふれてなければならない、とさえ思っているのではないか。
〇〇のために勉強する。
〇〇のために資格を取る。
インスタ映えする写真を撮るためにタピオカミルクティーを買う。(ちょっと違うか)
「学校」は、その特質上、「手段」しか提供できない。
教育目標があり、それを達成することがそもそもの設置の意義だからだ。
この前の「意味」と「意義」の話じゃないけど、
「意義」と「意味」
http://hero.niiblo.jp/e489514.html (19.7.2)
で言えば、「意義」だらけの空間だ。
僕は2005年に玉川大学の通信教育課程に編入し、中学社会の教員免許取得を目指した。
2007年に新潟県内の中学校に教育実習に2週間いった。
僕のポジションは学校ではないんじゃないか。
って思った。
2011年、僕は本屋になった。
地下に古本コーナーHAKKUTSUを作り、暗やみで本を探せるようにした。
ハックツのコンセプトは「偶然」であり、ツルハシブックスのコンセプトは「劇場」である。
一言でいえば、「機会」提供である。
ハックツは数々のメディアに掲載されたが、そのたびに答えられなかった質問がある。
「本をハックツした子どもたちに、どうなってほしいですか?」
どうなってほしくもない。
僕の役割は本を提供した時点で、すでに終わっているのだ。
ただ、機会を提供することには価値がある、と僕は思っているのだ。
いま。
2019年現在。
「手段」としての学びから「機会」としての学びへのシフトが起こっている、
と僕は思っている。
2020年の大学入試改革を含む
文部科学省「高大接続システム改革」で説明されている、学力の3要素は
①知識・技能の確実な習得(狭義の学力)
②(①を基に)思考力、判断力、表現力
③主体性を持ち、多様な人々と協働し学修する態度(主体性、多様性、協働性)
であり、それらは、「探究」学習によって可能になると言っている。
では「探究」はどのように駆動するのだろうか?
「機会」提供からこそ始まるのではないか。
人は「機会」を目前にして、心が反応する。
「共感」や「違和感」、様々な感情が起こる。
特にその「違和感」こそが、「探究」の出発点になるのではないか。
では、だれが機会を提供するのだろうか。
それは学校外の機関、多くの場合つまり地域(民間企業・NPOなどを含む)
だろうと思う。
「機会」の提供。
それによってどう心が動いたのか?動かなかったのか?
そういう意味で言えば、
「目標達成」も「機会」のひとつだ。
大切なのは、達成したかしなかったか、ではなくて、
達成しようとしているあいだに心がどのように動いたか。
どんな「違和感」を感じたのか。
その「機会」をつかみ、自分なりに仮説を立てることから
「探究」が始まっていくのだろうと思う。
ひとたび「探究」が始まってしまえば、あとは自走していく。
内発的動機付けによって駆動していく。
なんらかの成果、結果が出る。
それを外から見ている人は「挑戦」だと思う。
でも、本人は挑戦なんてしていない。
機会から得た違和感を好奇心から探究したかったのだ。
「挑戦しろ」という人は、
意志という神話を信じているかのように見える。
「意志なんて存在しない。」
僕はスピノザの考え方を支持する。
「挑戦」しなくていい。
厳しい言い方をすれば、「意志」の弱さのせいにするな。
「環境」を抜け出し、「機会」をつかみ、「違和感」をキャッチする。
そこから湧き上がる好奇心を大切に、「探究」を始めよう。
そこにこそ、本当の「遊び」が待っている。
それは前からあったのだけど。
かつて僕は、
「地域に挑戦の連鎖を」とかって言っていたんだけどね。
「地域」「挑戦」というキーワードに
20代がヒットしなくなっているという現実も肌で感じる。
「ありえたかもしれない、もうひとつの近代」(19.4.18)
http://hero.niiblo.jp/e489179.html
スピノザ「エチカ」の解説をする
国分功一郎さんの言葉。
「思考のOSを入れ替える。」
近代社会で培われてきた思考。
それは一言でいえば、「目的・目標は何か?」
「どうやってそれを最短距離・時間で達成するか?」
という思考だった。
それはおそらく、国民国家というシステムと工業社会の宿命だったのだろう。
それを支えたのがデカルト的哲学だったと國分先生は解説する。
だとしたら、
工業社会から次の社会へとシフトしている中で、
国民国家という仕組みそのものがグローバル企業の登場などによって
揺らいでいる中で、
「思考のOSを入れ替える」必要があるのではないか。
西洋的近代とは、
二元論であり、わかりやすさであり、目標逆算型システムであり、、、
しかし、スピノザは、
本質は自分自身がらしくあろうとする力「コナトゥス」のことであり、
「自由であるとは能動的であることであり、能動的であることはとは自らが原因であるような行為を作り出すことであり、そのような行為とは自らの力が表現されている行為を言います。ですから、どうすれば自らの力がうまく表現される行為をつくり出せるのかが、自由であるために一番大切なことになります。」(100分de名著 スピノザ「エチカ」より)
もうひとつブログ読み直し
「やりたいことは何か?」「何になりたいのか?」への違和感(18.8.20)
http://hero.niiblo.jp/e487965.html
「やりたいことは何か?」「何になりたいのか?」この二つはまさに「意志」と「未来」を問う質問なのではないか。
あたりまえだけど、「言葉」と「世界」は相互に作用している。「言葉」が「世界」を規定し、「世界」が「言葉」を規定している。
だから、「やりたいことは何か?」と問われれば、「やりたいことは何だろう?」と考え、それに答えようとしてしまう。
でもさ、そもそも、「意志」や「未来」が存在しないとしたら。能動態と受動態の対立の世界に生きていなかったとしたら。
~~~ここまでブログから引用
もし、「意志」も「未来」も存在しないとしたら。
そんな仮定。
アホらしいと思うだろうか。
僕はそこにこそ、「挑戦」という言葉への違和感の原因がある、と思っている。
(戦争に強かった)国民国家と(世界を貨幣経済という色に染めてしまった)工業社会は、「学校」という効率的な人材育成システムを生み出した。それによって、「いま」は将来という目的のための手段となった。たぶん、その思想の転換が必要だったのだろう。
そして、「意志」という概念も合わせて導入された。
目的・目標を決めて、「挑戦」する個人が素晴らしい、とされた。
いま、ぼくたちの生活は、「手段」にあふれている。
いや、「手段」にあふれてなければならない、とさえ思っているのではないか。
〇〇のために勉強する。
〇〇のために資格を取る。
インスタ映えする写真を撮るためにタピオカミルクティーを買う。(ちょっと違うか)
「学校」は、その特質上、「手段」しか提供できない。
教育目標があり、それを達成することがそもそもの設置の意義だからだ。
この前の「意味」と「意義」の話じゃないけど、
「意義」と「意味」
http://hero.niiblo.jp/e489514.html (19.7.2)
で言えば、「意義」だらけの空間だ。
僕は2005年に玉川大学の通信教育課程に編入し、中学社会の教員免許取得を目指した。
2007年に新潟県内の中学校に教育実習に2週間いった。
僕のポジションは学校ではないんじゃないか。
って思った。
2011年、僕は本屋になった。
地下に古本コーナーHAKKUTSUを作り、暗やみで本を探せるようにした。
ハックツのコンセプトは「偶然」であり、ツルハシブックスのコンセプトは「劇場」である。
一言でいえば、「機会」提供である。
ハックツは数々のメディアに掲載されたが、そのたびに答えられなかった質問がある。
「本をハックツした子どもたちに、どうなってほしいですか?」
どうなってほしくもない。
僕の役割は本を提供した時点で、すでに終わっているのだ。
ただ、機会を提供することには価値がある、と僕は思っているのだ。
いま。
2019年現在。
「手段」としての学びから「機会」としての学びへのシフトが起こっている、
と僕は思っている。
2020年の大学入試改革を含む
文部科学省「高大接続システム改革」で説明されている、学力の3要素は
①知識・技能の確実な習得(狭義の学力)
②(①を基に)思考力、判断力、表現力
③主体性を持ち、多様な人々と協働し学修する態度(主体性、多様性、協働性)
であり、それらは、「探究」学習によって可能になると言っている。
では「探究」はどのように駆動するのだろうか?
「機会」提供からこそ始まるのではないか。
人は「機会」を目前にして、心が反応する。
「共感」や「違和感」、様々な感情が起こる。
特にその「違和感」こそが、「探究」の出発点になるのではないか。
では、だれが機会を提供するのだろうか。
それは学校外の機関、多くの場合つまり地域(民間企業・NPOなどを含む)
だろうと思う。
「機会」の提供。
それによってどう心が動いたのか?動かなかったのか?
そういう意味で言えば、
「目標達成」も「機会」のひとつだ。
大切なのは、達成したかしなかったか、ではなくて、
達成しようとしているあいだに心がどのように動いたか。
どんな「違和感」を感じたのか。
その「機会」をつかみ、自分なりに仮説を立てることから
「探究」が始まっていくのだろうと思う。
ひとたび「探究」が始まってしまえば、あとは自走していく。
内発的動機付けによって駆動していく。
なんらかの成果、結果が出る。
それを外から見ている人は「挑戦」だと思う。
でも、本人は挑戦なんてしていない。
機会から得た違和感を好奇心から探究したかったのだ。
「挑戦しろ」という人は、
意志という神話を信じているかのように見える。
「意志なんて存在しない。」
僕はスピノザの考え方を支持する。
「挑戦」しなくていい。
厳しい言い方をすれば、「意志」の弱さのせいにするな。
「環境」を抜け出し、「機会」をつかみ、「違和感」をキャッチする。
そこから湧き上がる好奇心を大切に、「探究」を始めよう。
そこにこそ、本当の「遊び」が待っている。