2019年08月24日
後期近代と「何者~ナニモノ」問題
「上級国民/下級国民」(橘玲 小学館新書)
ツタヤのランキングで本を買ったの久しぶりだなと。
ちょっとタイムリーだったので、購入。
アメリカやイギリス、いや今まさに
日本や韓国で起こっていることが
いったいなんなのか。
世界の「分断」はどこから始まっているのか。
そんな問いにひとつの視座を与えてくれる1冊だった。
フリーター⇒パラサイト・シングル⇒ひきこもり
という流れは1990年半ばを起点として一直線につながっている。
「失われた平成」はおっさん(団塊の世代)の既得権を守るためだった。
たぶんそうなんだろうと。
「リストラの嵐が吹き荒れている」
ってテレビは言っていたけど、本当は若者が正社員になるチャンスが
ものすごく減ったのだと、橘さんがデータで示してくれている。
それは「ニート」説(玄田さんはそのような意図で書いてないのに)
などによる若者自身の変化が主因ではないのだ。
とまあ、本文前半にはこれでもか、というくらい
データが示されているので、
日本経済を30年スパンで見たい人には一読の価値があります。
さて、僕は、若者の生きづらさ研究をしているので、
そこにフォーカスして本文より引用します。
~~~ここより本文からメモ
「産業革命」とは何か。
産業革命は科学技術(テクノロジー)の革命であり、知識革命でもありました。私たちが生きている近代(モダン)とは、それまでの歴史世界とは異なる「アナザーワールド」なのです。
産業革命後の18世紀半ばから20世紀初頭までが「前期近代」で、その特徴は強大な科学技術による豊かさの追求でした。
こうして植民地主義(帝国主義)がふたつの大きな戦争を引き起こし、数千万という戦死者を出し、アウシュビッツとヒロシマを経験してようやく終わります。
第二次大戦後の西側諸国は、アメリカを中心とする自由主義諸国間の貿易によって空前の繁栄を実現します。1960年代になると、ごく普通の庶民まで、数百万年の人類の歴史のなかで王侯貴族ですら想像できなかったとてつもないゆたかさを手にすることになりました。
そしてゆたかさを背景に価値観の大きな転換が起こります。それをひと言でいうなら、「私の人生は私が自由に選択する」です。「そんなの当たり前じゃないか」と思うでしょうが、それは私たちが「後期近代」に生きているからです。
中世や近世はもちろん、日本では戦前(前期昭和)ですら、「人生を選択する」などという奇妙奇天烈な思想を持つひとはほとんどいませんでした。
1960年代になると、前期近代の価値観(生き方)は、「過去の歴史」と見なされるようになり、古代や中世と区別がつかなくなります。好きな職業を選び、好きな相手と結婚し、自由に生きることは当たり前になったのです。
政治的な自由はリバティで自由な社会を目指す運動がリベラルです。自由化とは、リベラル化のことであり、とてつもないゆたかさを背景に若者たちはますます自由=リベラルになっていきました。
~~~ここまで引用
というふうに始まって、そのあと、「自由」そのものが若者を苦しめていると説明する。
~~~ここから引用
リベラルな社会の負の側面は、自己実現と自己責任がコインの裏表であることと、自由が共同体を解体することです。つまり「能力主義(メリトクラシー)」です。
リスク社会:個人がリスクを背負わなければならない社会
リスク:利益と損失のばらつきの大きさ
「再帰的近代」
再帰的:あるものを定義するにあたって、それ自身を定義に含むこと
前近代的な身分制社会では、自分が何者かの定義は「貴族」や「農民」「奴隷」などの身分によって決まっていました。しかし「身分」のなくなった後期近代では、「自分を定義するにあたって自分を参照する」のです。
「自分が何者か」と問うとき、外部の基準がなくなってしまえば、あとは内部(自分自身)を基準にする以外にありません。
こうして「自分で自分を参照する」再帰的近代では、ひとびとは「自分らしさ」にこだわり、「ほんとうの自分」を探しつづけることになります。
前期近代では、「資本」と「労働」が対立しているとされ、失業は「階級問題」で、個人的な問題ではありませんでした。「君が失業しているのは搾取された労働者」だからで、失業から抜け出すには革命によって社会の仕組みを変えるしかない」-このマルクス主義の物語が広く受け入れられたのは、正しいかどうか別として、君には何の責任もないと告げたからです。
ところが「リベラル化」が進んだ後期(再帰的)近代では、労働者は一人ひとりが自由な意思をもつ「個人」になり、自分を「労働者階級」とは見なさなくなります。そうなると、経済的な成功と同じく失敗(失業)も個人の責任で(中略)、経済的な苦境は個人の生き方の問題とされ、本人たちも「自己責任」を内面化していきます。
「液状化する近代」(ジークムンド・バウマン):リベラルな社会ではコミュニティ(共同体)は解体し、ひとびとは液状化する。
~~~ここまで引用
そして、
「リスク社会」「再帰的近代」「液状化する近代」は「近代(モダン)」という理念(自己実現と自己責任)の完成形だからです。
という。
「知識社会化」「リベラル化」「グローバル化」の三位一体の巨大な潮流に投げ込まれた世界。
そこではマジョリティが分断される。
トランプ大統領を生み出したとされるホワイトプア層は
それに対する反発があるという。
リアル。
後期近代のリアルがあった。
大学生が、20代が、いや団塊ジュニア、氷河期元年である自分自身が抱える
「何者~ナニモノ」問題の原因がここにあるのではないかと思う。
それを知った上で、そこに個人として適応するのか。
適応できない、あるいは適応したくない人はどうするのか。
それを「新たな共同体」でフォローすることはできないか。
「分人」としてそのような場を複数持つことはできないか。
「ふるさと」もそのひとつになるのではないか。
そんなアイデンティティ問題を考えるうえで、
非常に示唆に富んだ1冊だなあと。
「哲学」「歴史」そして「社会学」
それを構造的に自分なりに理解しないと、
これから生きていくことは難しいのではないかと思った1冊だった。