プロフィール
ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2019年08月31日

「ともに学ぶ」ためのチューニング・コミュニケーション

僕、西田卓司は、

現代美術家でジャンルはリレーショナル・アートで、
主なアウトプットは本屋さんや本のある空間で、
得意なのは、フラットな関係性をつくるコミュニケーションのデザインで、

基本信条は
吉田松陰先生の野山獄エピソードから学んだ「学びあいで希望は生まれる」っていう学びあいの場づくりと
宮沢賢治先生の農民芸術概論綱要の「誰もが芸術家であれ」っていう創作への意志と
岡倉天心先生の茶の本による「まあ、茶でも飲もうじゃないか?」っていう対話のデザイン。
の真ん中のプロジェクトを作っていくこと、なのだろう。

アートと、デザインと、ビジネスのあいだ。
そのあいだをゆらゆらと漂っている船のようなプロジェクトをつくっていくこと。
中途半端だとか言われながらも、そんな問いを放っていきたい。

時にはヘリに乗って、そんな海の様子を
上から眺めてみるような、そんな本を提供したい。

っていう自己紹介文の練習。
28日はイナカレッジ研修のふりかえり。

いくつかのチームで起こっている
大学生同士のコミュニケーションの問題。

ミーティングがうまくいかない。
すれ違う意思。

「コミュニケーション・デザイン」
の話を、プロジェクトが始まった段階で
力を入れてやらないといけないのかもしれない。

「今までしゃべったことのないタイプの人なので、言葉が通じない」
それって、「スクール・カースト」とか、
「陰キャ」とか「陽キャ」とかの話なのかも、って思った。


「桐島、部活やめるってよ」(朝井リョウ)

に描かれた世界。
この本を読んだときに、
うわー、こんなつらい世界を高校生(特に女子)は生きてるのか、と。

同質性集団だからこそ起こる序列化、そしてグループ化。
そしてそれがいじめにつながっていく。
いや、同質性集団だから、ではないのだ。

いじめが起こらない方法を聞いたことがある。
クラスが1つの目標(たとえば合唱コンクールで優勝するとか文化祭で1番を取るとか)
に向かっているときに、いじめは起こらないのだという。

そうか。
やっぱり「向き合わない」ってことが大切なのだと思った。

イナカレッジもそうなのかも、と。
3人が向き合いすぎているんだ。

お互いを理解しようとしてはいけないのかもしれない。

昨日、イナカレッジ井上さんと話していて気付いたこと。
コミュニケーションは、人間関係をよくするためにあるのではなくて、
「ともに学ぶ」っていうためにあるんだということ。

去年、感じたこと。
アウトプットを出すのは、個人のチカラでも、チームの力でもなく、
場のチカラであるっていうこと。

そのために場のチカラを高める必要があること。
場のチカラを高めるために「チューニング」っていう方法があること。

たとえば、柏崎矢田集落チームは、
毎朝、朝ごはんの時に、「昨日あったよかったこと」を話し出す子がいて、
それにつられて、みんながそれを話すのだという。
あ、それって「チューニング」だよねって。

ワークショップ用語で、「アイスブレイク」と呼ばれているものに、
少しだけ違和感があった。

「最近あったよかったこと」
これは、アイスブレイクの定番だと言われている。

それは、どんなネタよりも「準備ができない」からだ。
人は「準備できない」つまり「予測不可能」なことが起こった時に心が開く。

そして、「よかったこと」はその人がよかったと感じることなので、
そこにその人の価値観が現れることになる。
さらに、それは否定されることが決してない。
だって、その人がよかったと思ったことを言っているだけだから。

だから、心が開く、
だから、場が安心空間になる。
本当は毎日やってもいいくらいだ。
たぶんそれをもっとも短い時間でできるのが「最近あったよかったこと」なのだと思う。

僕がそれを「アイスブレイク」ではなく「チューニング」と呼ぶのは、
「ひとり」にフォーカスしているからだ。
この人は今日、どんな音が出ているのかなあ?って
そこに関心を持つことというか、感じることが必要だからだ。

ミーティングも同じなのかもしれない。
「場のチカラがアウトプットする」
という前提で考えると、

「KJ法」という付箋を使ったワークショップ手法は、
書いた人と意見を「分離する」という効果がある。
つまり、発言者の立場や地位や影響力に
左右されずに、付箋や、それによる場にアウトプットを委ねるということ。

たぶん、イナカレッジのプロジェクトも同じなのかもしれない。
必要なのは、「チューニング」だ。

その前提として、「ともに学ぶ」ひとりひとりが集まったのだと、

そしてそれは「場」から学ぶのだと。
「場」にそれぞれが感じること、思うことを
付箋を通して、出していくのだ。
そして付箋をひとりひとりから分離して、
「場のチカラ」でアウトプットをするんだ。

そもそも、その人を理解する必要なんてないんだ。
それは即興演奏をするジャズバンドと同じだ。
曲の途中だけど、客席から突然入ってくるサックスのお兄ちゃんがいたとして、
その人が演奏する「音」に合わせて、自分たちも音を出すんだ。

そのときに
「そもそもサックスってどんな楽器なんだっけ?」
みたいなことを考えない。

あるいは、そのお兄ちゃんの過去はどんなことがあって、
いまは普段の仕事は何をしている人で、なんでサックス始めたんだっけ?
みたいなことって聞かないでしょ。

相手を理解しようとしないで、相手が出す「音」に関心を向ける。
3人の「音」を合わせて、音楽(場)をつくる。

その音楽(場)から、自らが学ぶ。
新しい「音楽」を生み出す。
そうやってプロジェクトを前に進めていく。
そのために、付箋を使ったKJ法があるのかもしれない。

「ともに学ぶ」そして、「新しいものを生み出す」ために、
コミュニケーションがあり、ミーティングがある。
そのためには、チューニングというコミュニケーションが必要なのだ。

あー、研修もう一回やらせてください、ごめんなさい。  

Posted by ニシダタクジ at 08:06Comments(0)学び

2019年08月29日

イナカレッジ集合研修2019

イナカレッジ集合研修2019ふりかえり。
自分のためのふりかえり。

ひとまず、全体的な感想。

・そもそも何のために中間研修があり、その目的のために講座はどうあったほうがいいのか?

・伝えたい思いが先行しすぎて、ともに学ぶ場を作れなかった。

・コンテンツの詰め込み過ぎ。エッセンスが多すぎた。いちばん大切なことは何?

・体育館という空間のデザイン。話が飛んでしまう。一体感がありすぎる?

・モチベーショングラフからキーワード・トークにしたことで自己開示が減った?

ということで、内容の整理。

~~~ここから内容確認

・バースデーリングでチーム分け(3人1チーム)
・キーワード・トーク「イナカレッジをやってみて感じること)

講座
・「固定的知能観」「成長的知能観」の話
・「人生は経営である」って話
・どのように、だけでなく行き先となぜを決めること。
・ドラッカーの5つの質問
・田坂広志の仕事の5つの報酬
・場のチカラの7要素
・魔法をかける編集
・振り返りのポイント(予想しなかったよかったこと)

・各地域の活動紹介

~~~ここまで内容確認

~~~参加学生の感想

・行き先や目的を先に考えることは、私にとって難しいと感じた。
行き先を考えることは20歳の自分には怖くてためらってしまいます。

・これからの人生に向けてのものなのか、このインターンに向けてのものなのか。

・感じたことを人に話していくことがが大事だと思った。

・×自分にしかかけないこと⇒〇自分たちにしかかけないこと。

・キーワードトークで、みんなが共感してくれたのがうれしかった。

・その人その人の感性を知る重要性を学んだ

・すべての話がつながっているのか?

・「田舎」のイメージ通りの暮らしをしていたことに気づいた。
「暮らし」という大きな枠でもう一度考え直したい。

・誰のために、その誰が個別具体的な人であれば、あるほど面白いし、楽しい。

・「なにを」「どのように」よりも根本を考えることはやっぱり大事なんだと再認識できた。

~~~

なんだかうまくいっていないのは、どうしてなのだろう?と。
大学生は率直に書いてくれるからありがたい。

そうそう。
なぜ、この研修があるのか?
っていう目的から考えないといけないよね。

そして、懇親会、夜の部。
いくつかの地域で起こっている、学生同士のコミュニケーションのすれ違い。
そこにフォーカスしてもよかったなと。

イナカレッジのアウトプットのための講座と個人の人生のための講座が一緒になっていたな、と。

イナカレッジのアウトプットのためには、
・イナカレッジ=ともに学ぶ場
・「価値」って何?(価値は流動している)⇒3人でそれを暫定で決めること。
・「場のチカラ」の話
・「魔法をかける編集」の話
・そもそも「コミュニケーション・デザイン」の話(キーワード・トーク、ふりかえりの手法)
あたりでよかったのかもいしれない。

個人に向けての話はオプションにするとかね。

・成長的知能観と固定的知能観
・仕事の5つの報酬
・人生は経営である、ただし個人戦ではない。
・哲学入門「スピノザ」
・「やりたいことはわからない」のはなぜ苦しいのか?
・「何者」問題について。

このあたりを、事前にメニュー提示。(キーワード提示とか)
しておいて、別時間にやってみる、とかね。

場についての話は、
「体育館」のデメリットは、プレイヤーと見学者を分けにくい。
その結果か、単に広すぎるからか、一体感が出にくい。

角や端っこを使ってやるとか、視野を狭める必要があるのかも。

僕にとっては、不完全燃焼な、もやもやした機会となりました。
もう1回やらせてほしいっす。  

Posted by ニシダタクジ at 05:59Comments(0)日記

2019年08月25日

人生は経営である。ただし個人戦ではない。


株式会社えぽっくのチーム「ひきだし」の事前研修でした。

朝8時からお昼ごはんのカレー作り。
辛口は食べられないっていう大学生が
発生したので急きょ甘口のルーを追加。
9時半から研修スタート。

まずはヒキダシのポーズ練習から。(笑)
体を一緒に動かすって大事だな、と。
からの自己紹介(名前、出身、参加のきっかけ、最近会ったよかったこと)

そして代表若松さんによる
ひきだし研修の概要説明と
参加意図(動機)の確認。

今回は教育学部の大学生が何人かいて、
印象的な参加動機があった。

「将来に迷っている。教員になるか民間で働くか。
いずれにしても企業のことを知ることが大事。」

ああ。
その通りだなと。

教員になったとしても、企業で働く、
とくに地方の中小企業で働くことのイメージができているか。
どんな思いで働いているのかっていうイメージをもっているかどうかって重要だよなと。
教員志望の人向けのチラシ(ウェブ)を作ってもいいのかもしれない。

あるいは直線的に教師に向かっていくことへの違和感とか。
そういうのもあるよね、と。

その後、だったら企業はどうしてこのインターンを受け入れるのか?
という視点の移動。

・企業を知ってほしいから
・若者の感性を知りたいから

そうそう。
この問い、めちゃめちゃ大切だなあと。
企業の立場に立ってみる、ということ。

数ある「インターンシップ」に大学生も参加しているだろうけど、
そういう視点の移動があるかどうか。

ということで僕のパート。

まずはライフチャートを書いて、8分間インタビューのあと、
ペアになった人の他己紹介2分。
これがなかなか難易度が高い。

2分というハードル。
まあこれはやってみて、でいいのかもな。

・フォーカス
・ワンフレーズ
・ストーリー
・結論ファースト
みたいなキーワードで、説明する。

まあ何度もやってみればいいと思う。

そして講座。

今回のテーマは「経営」。
ひきだしがインタビューするのは、中小企業の経営者。

じゃあ、経営者って何?
そもそも「経営」って何?

教育学部の学生がいるから、
「学級経営」ってなんだっけ?
みたいな。

先生は学級は経営するけど、自分の人生は経営しなくていいの?
って。

「ひとりひとりの人生も経営である」とする。

ひきだしという5日間のプログラムへの投資価値は?
何をリターンで得るのか?
みたいな話。

ドラッカーの5つの質問と田坂広志の仕事の5つの報酬
を説明

1 マネーリターン お金
2 ナレッジリターン 知識
3 リレーションリターン 関係
4 ブランドリターン 評判
5 グロースリターン 成長

このプロジェクト中の目標を決める、というより、
5つの報酬の意識を高めることのほうが重要なのかなと思った。

そして何より、ドラッカーの
2 お客はだれか?
3 お客にとって価値は何か?

という2つの質問に答えていくこと。
そして場のチカラ。

1 だれと
2 いつ
3 どこで
4 なぜ
5 誰のために
6 なにを
7 どのように

これを高めていくことでよいアウトプットが出る。
そして場に溶けていくこと。
場の構成員(原材料)になって溶け出すこと。

ラストに「魔法をかける編集」
いましか、あなたにしか、このチームにしか
書けない記事に価値がある。
届けたい相手に届けられるようになる。

っていうような話。
大学生の感想。

・慣れていないからこそ生み出せる価値があるのだと思った
・価値というのは自分の中からも出てくる。過去にお客がいる。
・過去を知ることの重要性
・何者なのだろう?って

ということで
最後に自分が最近感じている違和感をお話しした。

「適応」は必要だけど、そんなに強く生きられないんじゃないかって。
個人戦じゃなくて、場のチカラが価値が生む経験をしてみること。
それが僕が「ひきだし」に込めた思い。

東京へ移動中に水戸駅の川又書店で購入したこれ。

「ニュータイプの時代」(山口周)

これ、ほんと、読んだほうがいいわ。
大学生こそ読んだほうがいい。
時代は大きく変わっている。
「正解を出す力」に、もはや用はないのだ。

必要なのは、問いを、課題を発見する力。
そのために経験をすること。
多くの人に出会うこと。

そしてお客に出会うこと、見つけること。
そこから自分の人生経営が始まっていく。  

Posted by ニシダタクジ at 05:56Comments(0)学び

2019年08月24日

後期近代と「何者~ナニモノ」問題


「上級国民/下級国民」(橘玲 小学館新書)

ツタヤのランキングで本を買ったの久しぶりだなと。
ちょっとタイムリーだったので、購入。

アメリカやイギリス、いや今まさに
日本や韓国で起こっていることが
いったいなんなのか。
世界の「分断」はどこから始まっているのか。

そんな問いにひとつの視座を与えてくれる1冊だった。

フリーター⇒パラサイト・シングル⇒ひきこもり
という流れは1990年半ばを起点として一直線につながっている。
「失われた平成」はおっさん(団塊の世代)の既得権を守るためだった。

たぶんそうなんだろうと。

「リストラの嵐が吹き荒れている」
ってテレビは言っていたけど、本当は若者が正社員になるチャンスが
ものすごく減ったのだと、橘さんがデータで示してくれている。

それは「ニート」説(玄田さんはそのような意図で書いてないのに)
などによる若者自身の変化が主因ではないのだ。

とまあ、本文前半にはこれでもか、というくらい
データが示されているので、
日本経済を30年スパンで見たい人には一読の価値があります。

さて、僕は、若者の生きづらさ研究をしているので、
そこにフォーカスして本文より引用します。

~~~ここより本文からメモ

「産業革命」とは何か。

産業革命は科学技術(テクノロジー)の革命であり、知識革命でもありました。私たちが生きている近代(モダン)とは、それまでの歴史世界とは異なる「アナザーワールド」なのです。

産業革命後の18世紀半ばから20世紀初頭までが「前期近代」で、その特徴は強大な科学技術による豊かさの追求でした。

こうして植民地主義(帝国主義)がふたつの大きな戦争を引き起こし、数千万という戦死者を出し、アウシュビッツとヒロシマを経験してようやく終わります。

第二次大戦後の西側諸国は、アメリカを中心とする自由主義諸国間の貿易によって空前の繁栄を実現します。1960年代になると、ごく普通の庶民まで、数百万年の人類の歴史のなかで王侯貴族ですら想像できなかったとてつもないゆたかさを手にすることになりました。

そしてゆたかさを背景に価値観の大きな転換が起こります。それをひと言でいうなら、「私の人生は私が自由に選択する」です。「そんなの当たり前じゃないか」と思うでしょうが、それは私たちが「後期近代」に生きているからです。

中世や近世はもちろん、日本では戦前(前期昭和)ですら、「人生を選択する」などという奇妙奇天烈な思想を持つひとはほとんどいませんでした。

1960年代になると、前期近代の価値観(生き方)は、「過去の歴史」と見なされるようになり、古代や中世と区別がつかなくなります。好きな職業を選び、好きな相手と結婚し、自由に生きることは当たり前になったのです。

政治的な自由はリバティで自由な社会を目指す運動がリベラルです。自由化とは、リベラル化のことであり、とてつもないゆたかさを背景に若者たちはますます自由=リベラルになっていきました。

~~~ここまで引用

というふうに始まって、そのあと、「自由」そのものが若者を苦しめていると説明する。

~~~ここから引用

リベラルな社会の負の側面は、自己実現と自己責任がコインの裏表であることと、自由が共同体を解体することです。つまり「能力主義(メリトクラシー)」です。

リスク社会:個人がリスクを背負わなければならない社会
リスク:利益と損失のばらつきの大きさ

「再帰的近代」
再帰的:あるものを定義するにあたって、それ自身を定義に含むこと

前近代的な身分制社会では、自分が何者かの定義は「貴族」や「農民」「奴隷」などの身分によって決まっていました。しかし「身分」のなくなった後期近代では、「自分を定義するにあたって自分を参照する」のです。

「自分が何者か」と問うとき、外部の基準がなくなってしまえば、あとは内部(自分自身)を基準にする以外にありません。

こうして「自分で自分を参照する」再帰的近代では、ひとびとは「自分らしさ」にこだわり、「ほんとうの自分」を探しつづけることになります。

前期近代では、「資本」と「労働」が対立しているとされ、失業は「階級問題」で、個人的な問題ではありませんでした。「君が失業しているのは搾取された労働者」だからで、失業から抜け出すには革命によって社会の仕組みを変えるしかない」-このマルクス主義の物語が広く受け入れられたのは、正しいかどうか別として、君には何の責任もないと告げたからです。

ところが「リベラル化」が進んだ後期(再帰的)近代では、労働者は一人ひとりが自由な意思をもつ「個人」になり、自分を「労働者階級」とは見なさなくなります。そうなると、経済的な成功と同じく失敗(失業)も個人の責任で(中略)、経済的な苦境は個人の生き方の問題とされ、本人たちも「自己責任」を内面化していきます。

「液状化する近代」(ジークムンド・バウマン):リベラルな社会ではコミュニティ(共同体)は解体し、ひとびとは液状化する。

~~~ここまで引用

そして、
「リスク社会」「再帰的近代」「液状化する近代」は「近代(モダン)」という理念(自己実現と自己責任)の完成形だからです。
という。

「知識社会化」「リベラル化」「グローバル化」の三位一体の巨大な潮流に投げ込まれた世界。
そこではマジョリティが分断される。

トランプ大統領を生み出したとされるホワイトプア層は
それに対する反発があるという。

リアル。
後期近代のリアルがあった。

大学生が、20代が、いや団塊ジュニア、氷河期元年である自分自身が抱える
「何者~ナニモノ」問題の原因がここにあるのではないかと思う。

それを知った上で、そこに個人として適応するのか。
適応できない、あるいは適応したくない人はどうするのか。

それを「新たな共同体」でフォローすることはできないか。
「分人」としてそのような場を複数持つことはできないか。
「ふるさと」もそのひとつになるのではないか。

そんなアイデンティティ問題を考えるうえで、
非常に示唆に富んだ1冊だなあと。

「哲学」「歴史」そして「社会学」

それを構造的に自分なりに理解しないと、
これから生きていくことは難しいのではないかと思った1冊だった。  

Posted by ニシダタクジ at 06:22Comments(0)

2019年08月23日

僕たちはダーウィンを誤解している

もっとも強い者が生き残るのではなく
もっとも賢い者が生き延びるのではもない。
唯一生き残るのは、変化できる者である。

って。
僕も言ってたわ。

誤解していた。
僕は、ダーウィンを誤解していた。


「武器になる哲学」(山口周 KADOKAWA)

哲学書なのにダーウィンですよ。
山口さん、やっぱスゲーなあ。

これの29講「自然淘汰」より

~~~以下本文よりメモ

「自然淘汰」とは何なのか?

1 生物の個体には、同じ種に属していても、様々な変異が見られる。(突然変異)
2 そのような変異の中には、親から子へ伝えられるものがある。(遺伝)
3 変異の中には、自身の生存や繁殖に有利な差を与えるものがある(自然選択)

ポイントはむしろ「自然選択」よりも「突然変異」にあります。突然変異によって獲得される形質は、当たり前のことですが、予定調和しません。変異の方向性は極めて多様で、確率的には生存や繁殖に有利な差を与えるものと、不利な差を与えるものが、中央値を挟んで正規分布していたはずです。

おそらく、これまでの歴史を振り返れば、突然変異によってオレンジ色のトカゲもグリーンのトカゲも生まれてきたはずです。しかし、そういった形質はむしろ、自身の生存や繁殖に不利な差となります。砂漠地帯において、オレンジやグリーンという色はたいへん目立つわけですから、天敵に狙われやすい。そのような形質を突然変異によって獲得してしまった個体は、天敵に捕食される確率が相対的に高く、結果としてその形質は次世代へと遺伝されません。

どのような形質がより有利なのかを事前に知ることはできません。自然淘汰という仕組みは、いわばサイコロを振るようにして起きた様々な形質の突然変異のうち、「たまたま」より有利な形質を持った個体が、遺伝によってその形質を次世代に残し、より不利な形質を持った個体は淘汰されていくという、膨大な時間を必要とする過程であるということです。

~~~以上本文よりメモ

ここで、山口さんは、
「自然淘汰」のメカニズムのカギは、
「適応力の差は突然変異によって偶発的に生み出される」
ことにあると言います。

「私たちは一般に、エラーというものをネガティブなものとして排除しようとします。しかし、自然淘汰のメカニズムには「エラー」が必須の条件として組み込まれている。なんらかのポイティブなエラーが発生することによって、システムのパフォーマンスが向上するからです。」

「偶発的なエラーによって進化が駆動される」

「自然界において、適応能力の差分は計画や意図によるものではなく、一種の偶然によって生まれているのだということを知れば、組織運営や社会運営においても、私たちはそれを計画的・意図的により良いものに変えていけるのだという傲慢な考えを改め、自分の意図よりもむしろポジティブな偶然を生み出す仕組みを作ることに注力したほうがいいのかもしれません。」

なるほど~。
って。

僕たちはダーウィンを誤解している。
って。

生物はすべて「集団が生き延びること」を最大の価値として存在しているんだろうと思う。
そのために「自然淘汰」というメカニズムがあるのだと。
そのメカニズムは、突然変異というエラーから始まるのだと。

「環境」は変わる。

環境が変化したときに、適応できる(生き残る)のかどうか、は、
変化後の環境に適応し得る突然変異を継承しているかどうか。

集団が生き延びること
この「集団」を「組織」あるいは「会社」にしても、同じことなのだと。

突然変異(エラー)を組織内(会社内)に許容できないと、
外部環境が変化したとき、生き残る可能性が下がる。

これは、人材においてもそうだろうと思う。
「異端」と呼ばれる人たちを許容できるか。

昔はよかったけど、今はそんな余裕はない。
っていうかもしれない。

環境が、社会が変化し続けている中で、
「価値」や「イノベーション」がどこから生まれるのか。

それをダーウィンから学ぶとすれば、
「突然変異」つまりエラーの許容。
むしろそれをいかに強みに変えていくか、っていうところだし。

それは、個体ごとに考えなくていいのだと。
「集団が生き延びること」
を考えていくことが必要なのではないかと。

エラーをエラーとして
「価値があるかもしれない」個体として集団に受け入れていくこと。

たぶんそういうことなのではないかな。  

Posted by ニシダタクジ at 08:28Comments(0)

2019年08月18日

人生は経営であると伝えること



内田樹さんの「下流志向」(講談社文庫 2007年)を読んだのは
2011年だった。

なぜ、地域コミュニティは崩壊したのか?

なぜ、子どもは学ばなくなったのか?

は共通する1つの原因があるのだと言う。

~~~以下、「教育は等価交換ビジネスではない」(2011.10.28ブログ)より引用
http://hero.niiblo.jp/e139329.html

子どもたちの社会参加は「家の仕事の手伝い」をする労働主体としてではなく、「モノを買う」という消費主体として社会に接するようになった。
世の中からは「賢い消費者」になれ、と要求され、幼いながら「費用対効果」の波にさらされる。

消費主体として、学校というシステムに対してするべき、最初の質問はこれだ。

「なんのために勉強するんですか?」

つまり。授業を受けるという苦痛の対価として何が得られるか?が理解できないと、私はその苦痛を提供しませんよ、取引不成立ですよ。と。

~~~

地域コミュニティに関しても同じだ。
草刈りやお祭りなどの対価に対して何を返してくれるんだ?
と問いかけた時点で、コミュニティの崩壊は始まるのだ。

そこに等価交換の原則はそもそもなかったからだ。
その受益者は、何代もあとの者や
目に見えない安心・安全などだからだ。

そして、世の中がそうであるように、新・自由主義的な、
「等価交換」「実力主義」「自己責任」という世界は、
教育の現場にも、ますます押し寄せてきている。

そして、子どもたちは問われる。

「やりたいことは何か?」
「あなたのできることは何か?」

しかし。
その「問い」以前に、子どもたち(というより大学生、20代、もっとか)が抱えているのは、

「自分はこの世に存在していていいのか?」
言い換えれば、
「自分は存在する価値があるのか?」
という問いだと思う。

その「存在承認」や「存在価値」
に対して、SNSやオンラインゲームは、サービスを提供する。
だからこそ、ビジネスが成立している。

しかし、オンライン上の
「存在承認」や「存在価値」の実感では十分ではない。

こうした、土台がはっきりとしないまま、
「キャリア教育」という名の何かが始まる。

そしてそれは、2000年代前半の
村上龍・幻冬舎の「13歳のハローワーク」
SMAPの「世界にひとつだけの花」
NHK「プロジェクトX」から「プロフェッショナル」へと

という3つの要素から
「自分は何者か?」問題が深刻さを増している。

~~参考
http://hero.niiblo.jp/e488809.html
「何者かにならなくてもいい」(2019.1.30)
~~~

じゃあ、どうすればいいのか?

何事もチャレンジして
さまざまなスキルを磨いて、
自分の得意を見つけて、
オンリーワンになって、
3つの仕事を組み合わせて100万人に1人の人材になって、
自らの存在価値を上げていけ。

その通りだと思う。
世の中で活躍している人は、そんな生き方をしている人たちだ。

「そんなのできない。」

と放棄した人たち、あるいは違和感を感じる人たちが
不登校になり、その後も家に引きこもっているのがこの国の現実だと思う。

「存在承認」を得られるチャンスをつくること。
それは、田舎に行くことだ。
「若いだけで自分は価値があるのではないか?」
と思うことだ。

僕がかかわっている大学生向けの新潟の田舎での1か月プログラム
「にいがたイナカレッジ」の大きな目的のひとつはそこにあるのだろうと思う。
そして3人の力を合わせて、「魔法をかける編集」を駆使して、
ひとつの創造的な何かを生み出すこと。

それを繰り返すことで、
その場が、そのメンバーがその人にとってのふるさとになっていく。
価値とは何か?を問い、
その設定した価値に向かってアクションすること。

それって、
大げさに言えば、「人生を経営する」っていうことになるのだと思う。

大学生に、高校生に、中学生にまず伝えたいこと。
「人生は経営である」ということ。
ドラッカーの経営者が答えなければならない5つの質問に答えること。

1 ミッションは何か
2 顧客は誰か
3 顧客にとって価値は何か
4 成果は何か
5 計画は何か

この5つに答えること。

特に2と3
顧客はだれで、顧客にとって価値は何か?

という問いに対して挑んでいくこと。
それこそがあなた自身の「価値観」を形成していく。
それは、人生が船旅だとしたら、コンパスのようなものだ。

コンパスを手に入れること。
その前に、まず人生が船旅の経営だと知ること。
それを始めていかないといけない。

「勉強しろ」と親や学校の先生から言われるから勉強する。
それは、「経営」じゃない。

村上龍が「13歳のハローワーク」で伝えたかったのは、
本当はこれだけの選択肢があるのだから意思を持って生きろっていうことんだったんじゃないのか。

「プロフェッショナル」とは、
精神的に独立した人たちのことなのではないか。

SMAPや楽曲を提供した槙原敬之は、
あなたの価値はもともと存在し、
それをただ表現することをすればいい、と言っていたのではないか。

本当はみんな「人生の経営者になれ」と言っていたんじゃないのか。

人生を経営する。
自らの人生の価値は自らが決める。

2000年代前半、
「平日は市役所でボチボチ働いて、夜と週末に好きなことするんです。」
と言い切っていた25歳女子がまきどき村の人生最高の朝ごはんに通ってきていた。

彼女は自分の人生を経営していたと思う。

どこに投資し、どういう価値を生み出していくか。
自分がもっとも輝ける瞬間をどう設計するか。

なんのために大学に行くのか。
どういう学びを手に入れるのか。
あるいは、大学生という身分で試行錯誤する4年間という時間を手に入れるのか。
そのためにやっている受験勉強にどれほどの投資価値があるのか。

人生が経営だとしたら、その質問に答えなきゃいけないんだ。

新潟の市民映画館「シネウインド」創設者の斉藤正行さんが言っていた。

「人はみな、人生の初心者なんさ」

そう。
やってみる以外にない。
でも、だからこそ、人生を経営する、という視点を手に入れて、
ふりかえり、試行錯誤すること。
顧客を設定し、その幸せのために全力を尽くすこと。

そしてそれは、必ずしも、「仕事」というカタチの表現方法による必要はないということ。
家庭でも、プライベートでも、人生は「経営」できるということ。

そういうことを、僕は伝えたい。

「強く生きろ、さもなくば奴隷になるぞ」

そんな風潮を僕は信じてもいないし、流されたくはない。

強く生きなくても奴隷にならない方法、
あるいはその方法を考えること。
それが人生を経営するということだと思う。

人生は経営である、と自覚すること。
そこから、「あなたの人生」がスタートする。  

Posted by ニシダタクジ at 07:58Comments(0)思い

2019年08月13日

「ひとり」に出会うこと

9月から始まるプロジェクトの準備ミーティング。



その前に新川漁港の夕日。

大学生と一人暮らしのお年寄りのシェアハウス。
それを「食」をキーワードにしてつなげていくプロジェクト。

僕自身がプロジェクトの先にあるゴールを考えすぎてしまっていることに気がつく。

目の前のひとりと話をすること。
目の前のひとりに関心を持つこと。

そこからしか始まらないし、その方法でしか到達できない。

それは、「ひとり」に出会うこと。
ドラッカー風に言えば、「お客」に出会うことだ。

地域の人への調査。
「どんな食事のシーンなのか?」
それをまず、聞き出すこと。

その先に、ご飯を一緒に食べたり、
それが発展してシェアハウスになったりする。

でも、大切なことは、
「この人と一緒にご飯を食べたい」
「この人と一緒にシェアハウスつくりたい」
と思える「ひとり」に出会うことだ。

「キャリアデザイン」という思想は、
「価値」(特に数値化できる経済的価値)
に重きを置きすぎた。

「やりたいことは何か?」
「自分に向いてる仕事は何か?」
とか
「好きなことを仕事にする。」
とか。

プロジェクトの生まれ方には2通りあると思っている。
「価値」アプローチと「顧客」アプローチだ。

キャリアデザインは、
「価値」とは何か?を問い、そこで目標設定し、
そこに向かって進んでいくようなキャリア設計だ。

クランボルツ博士のいう、
「計画された偶発性理論=いわゆるキャリアドリフト(川流れ型キャリア)」
は、
「顧客は誰か?」という問いをコンパスに、
目の前にくる激流に対峙し、流れに乗っていくようなキャリア設計(設計と呼べないかもしれないが)だ。

その第1歩。
それは、「ひとり」に出会うこと。

ああ、この人のためにがんばりたい。
あるいは
この人と一緒に何かしたい。

感性をひらいて、その人を感じることだ。

そんな風に思った。
コーディネーターの有紀ちゃんすげーな、と。あらためて。

そんなタイミングで購入した1冊の本。


「アート・スピリット」(ロバート・ヘンライ 国書刊行会)

アメリカの伝説の美術教師、ロバートヘンライが語る。
もうね、前書きからシビれるんですよ。

~~~ちょっとだけ引用

ある人の内部に芸術家の魂が息づいているとき、創作のジャンルにかかわらず、その人はおのずと創意にあふれ、探究心をもち、大胆に自己表現しようとするはずだ。そして他人に興味をもつだろう。周囲に混乱をもたらし、悩ませ、啓蒙し、よりよい理解に向かって道を切り開く。

芸術家であるには、画家や彫刻家になる必要はない。どんな素材でも作品はできる。外の世界ではなく、作品そのもののなかに価値を見出せばよいのだ。

自分の正直な感情を大切にし、見過ごさないこと。

われわれがここにいるのは、誰かがすでになしとげたことをなぞるためではない。

芸術を学ぶ者は最初から巨匠であるべきだ。つまり、自分らしくあるという点で誰よりも抜きんでていなければならない。いま現在、自分らしさを保っていられれば、将来かならず巨匠になれるだろう。

~~~ここまで引用

うわーって。
宮澤賢治先生の「農民芸術概論綱要」(1926)のような
心揺さぶられるメッセージ。

つくりたいのは、こういう世界だし、こういうキャリア形成の方法だと思った。

誰もが芸術家であれ。

自分であれ。

そんな思いがあふれてくるような「ひとり」との出会い、
そこから始まるプロジェクトをまたひとつ始めたいと思った。

2009年、大学生アーティスト北川拓未が始め、
いまでは恒例行事となった、「新川ほたる」の光がまた綺麗だった。

  

Posted by ニシダタクジ at 08:27Comments(0)学び

2019年08月03日

「機会」としての「学び」をつくる



黎明学舎で、7月30日、8月1日と
中学2年生の職場体験の受け入れ。

8月2日、昨日は栃木県立図書館で、
高校生図書委員向けの
「読書コンシェルジュ」研修の最終日の
講座を担当しました。

講師紹介が、
「西田卓司さんは、現代美術家として・・・」
と始まる初の体験。
ああ、俺もついに現代美術家になったんだな、と。(笑)

冒頭で、
「デザイン」とは課題を解決することで
「アート」とは問いを投げかけることの説明。

前半、中盤、後半の3つに分けて、

前半は、ツルハシブックスやかえるライブラリー、
地下古本コーナーHAKKUTSUのビデオ紹介
を行い、感想シェア。

中盤は、暗やみ本屋ハックツについての紹介、
フローの紹介、この時にふりかえりのこと、
「予想しなかったよかったこと」の話をしました。

後半は、茅ケ崎市美術館と、明秀学園日立高等学校で行った
「ハックツ展示バージョン」が生んだ新たな価値の説明と、
「スターバックスはコーヒーを売っているのではない」
のつかみからのドラッカーの5つの質問、
「顧客はだれか?」「顧客にとって価値は何か?」
の説明を行いました。

全体を通して、やはり、僕がいまテーマにしている、
「機会」としての「学び」というテーマに収束していったのかもしれません。

学校教育ではない、社会教育の目的ってなんだっけ?
みたいなテーマにもつながるような話になったのではないかなと。

ということで、
僕が高校生図書委員に向けてお話しするという機会、
あるいは中学2年生に職場体験で黎明学舎の説明をするという機会から学んだ
「予想しなかったよかったこと」

高校生にも、中学生にも、
「機会」としての「学び」の話はかなり響くんだなと思いました。

みんな目的に向かっていくっていうのしかない教育への
違和感を持っているのではないかなと。

高校生に書いてもらった付箋を読み直していると、
・「誰に」「何を」提供するのか?っていうドラッカーの質問
・当日のふりかえりで「予想しなかったよかったこと」を話す
・直感で決める重要性
・「偶然」という「機会」を届けることは価値がある

☆これ、回収を前提に書いてもらっていないので、
リアルな感想がかけていいかも、と思いました。

「機会」としての「学び」。
たぶんそこに集約されていくのだろうなと思いました。

思い返せば、
2004年秋に教員になろうと思って、玉川大学の通信に編入し、
中学校社会の教員免許を目指していたとき、
2005年夏はスクーリングで町田に通っていました。
(サンクチュアリ出版の寮的なところに寝泊まりさせてもらった)

「教育の原理」っていう熱い授業があって、
何のために教育はあるのか?
って授業が終わってからも夜までずっと考えてました。

その時に直感したこと。
「あ、ぼくのポジションは学校じゃないじゃないか」

それは、直感でした。
それがなぜなのか言語化できていませんでした。

そして2007年の5月、2週間の教育実習に行きました。

いちばん驚いたのは、
教室にいるときと部活動をしているときの
音楽部と美術部の生徒の顔の違いでした。

それが決定的になったのは、
体育大会で運動部の生徒が全員不在だったときです。
教室にいる音楽部美術部の生徒たちが、
部活にいるときのような生き生きとした顔をしているのです。

ああ、こんな顔するんやって。
教室でもできるんやって。

あのとき。あの瞬間。
僕は学校の外に、そんな顔ができる場所をつくろうって思いました。

その直感と、「教育の原理」の授業での違和感の意味が、
14年の時を経て、いまなら少しだけ説明ができます。

「機会」としての「学び」をつくる。

たぶんそれです。

目的・目標を持って学ぶ。
これは、学校が始まった時からの原則です。
そもそも学校とは、
何かの目的のために作られた制度だからです。

2005年に
「遊びと学びの寺子屋 虹のひろば」を始めてから、
大学生の地域企業や商店街でのインターンシップを設計し、
ツルハシブックスで本屋という空間をつくり、
茨城大学では大学生の地域活動をフォローしてきました。

それは「機会」を提供することでした。

高校生も感想に書いてくれましたが、
「暗やみ本屋ハックツ」は「偶然」という「機会」を
提供する象徴のような活動です。

「機会」から学ぶ。
だからこそ、ふりかえりをデザインしなければならない。
まず、直感で動き、機会を得ること。

そんな「機会」を、これからも創っていくこと。
そして僕自身が機会から学んでいくこと。

そんなことを創っていきたいと思います。
よろしくお願いします。  

Posted by ニシダタクジ at 08:42Comments(0)学び