2019年12月19日
若者が地域から出て行ってしまう理由
南魚沼・六日町で
「Niigata高校生マイプロジェクトラボ」が開催。
歓迎されてます。笑
一番衝撃だったのは、高校生から地域の人への質問の時間。
~~~ここからメモ
「若者が都会に出て行ってしまうのは、地方には魅力ある仕事が少ないからだ。それについてどう考えるか?」
こんな質問だった。衝撃を受けた。それって本当に地方の大人たちのせいなのだろうか?と。それはある意味、そうなのかもしれないけど、地方、特に雪国にはそもそも「雇用される仕事」っていうのはなかなか少なかった。みんな百姓だったのだ。
そもそも、「やりたいことは何か?」という質問で、雇用される職業を説明してもらうというその質問がぜんぜん違うと思う。
副業、複業を前提としたキャリア教育が必要なのだと思う。就職する会社だって、1つの仕事(業種)で成り立っている会社より、様々なビジネスを組み合わせて成り立っている会社が経営は安定しているはずだ。
そもそも、その軸で考えると、東京にはもっと魅力的な仕事があるから、みんな出ていくよね。
「やりたいことは何か?」っていう問いは、当事者にならないまま、地方からの人材の流失を招いている。
必要なのは、地域でプロジェクトを行う(参加する)ことの先に、経営者体験、つまり利益を生み給与を払うことの難しさのリアルを感じる機会がどうしても必要になる。
高校生が「この地域には魅力的な仕事がない」って、対立構造で言うのではなく、高校生も大人も、「仕事」そのものを哲学し、この地域で生きていくにあたって、仕事はどうするか?みたいな問いにフラットな立場で向かわなければならない。
そういう意味では、大学生チーム「このめ」が語っていた。「何を仕事にするか?」よりも「誰と働きたいのか?」が大切だ、っていうメッセージは心に残った。そのためにコミュニケーションの機会、それもフラットな関係性で語れるコミュニケーションの機会を作っていくことが大切なのだと思う。
~~~とまあこんな感じ。
第1部の山本さんの講演メモ
~~~ここから
20年後の世界を想像する。
1 少子化と超高齢化
2 人生100年時代(生産性資産、活力資産、変身資産)
3 society5.0
4 仕事・働き方の変化(VUCAの時代)
5 グローバル化
・テストや入試ではなく社会に出ても一生使える学び(継続する学び)
・自分の興味関心から出発する学び(好きだから集中できる)
・答えが一つとは限らない問題に向き合う学び(社会課題の解はひとつではない)
探究的な学びはスパイラルで学ぶ。
1 少し高い目標「ストレッチゾーン」に挑戦する。
2 社会とつながることの大切さ。自転車に乗ることは目的じゃない。
3 自分のワクワクに詳しくなる。何に揺さぶられるか、そこから何を学んだか。
インナーワーズ。内なる声を脳が変換してタテマエが出てくる。
生徒にどう教えるか?何をやるか?っていうto doよりも、教師・関わる人のあり方to beが問われている。
インナーワーズ+5W1Hで問いを深める。
whyという魔法の質問。何度でも使える。
お客は誰か?という問いでチームを分ける。
伴走者として当事者を支援するのではなく、伴奏者として、その一曲をともに奏でたい。
「校風」=「伝統」って大事だな、と。
酒づくりも思ったようにならない。
杜氏さんの「いい酒を提供したい」という思いをみんなで共有できているか?
学校にとっての「校風」まちにとっての「文化」がとても大切だなあと。
若者がまちを出て行ってしまうのは、
仕事がないからではない。
そこに誇りや愛着がないから。
そこがふるさとになっていないから。
~~~ここまで
「学び」とは、いったいなんだろうか?
いまなぜ、探究的な学びなのか?
問いかけてくる。
そして、2日目のふりかえりセッション
~~~ふりかえりメモ
「ちょっと難しいこと、新しいこと、やったことがないことに挑戦する」→「挑戦したことを振り返る」(出来事+感情)→「経験の中から新しい考え方や次に活かせること(教訓)を引き出す。:自分なりのやりがい(エンジョイメント)が見つかる。→さらなる難しいことに挑戦する
そもそも楽しさは「予測不可能性」にあるのではないか。だから「挑戦」じゃなく「実験」してどんな結果が出るのか楽しみたい。探究は、再現不能なフィールド実験なのだ。ふりかえるのは、次に生かすためではなくて、予測不可能なことのふりかえりそのものがエンターテイメントなのだ。
KPLTふりかえり。
K=keep:上手くいったこと、今後も継続したいこと
P=problem:上手くいかなかったこと、課題だったこと
L=learn:このプロジェクトを通じて学んだこと
T=try:これからやってみたいこと
自分とチーム両方の視点で書いてみる。
この付箋に出てくるのは、自分の脳で編集した後のこと。その編集以前のキーワードを考えた方がいいのではないか。
Lは「場」で生み出してもいいのかもしれない。
よかった、悪かった
予想できた、できなかった
のマトリクスワークからの学びを深める手法も試してみたい。
「自分と仲間の変化」
挑戦する前の自分と比べて変わったことは?
「新たな気づき・発見」
活動を通して見つけた、自分や仲間の新たな面は?
「活動の価値」
マイプロに取り組んできた経験は、自分・チームにとってどんな価値や意義があったか?
~~~ここまで
僕としての1日目の第2ラウンドのアウトプットで出た。
個人を尊重しつつ場の「共感」からプロジェクトを始められないだろうか?
たぶんそこから。
講演すると、多くの人から質問が出る、「始められない」悩みは、どのように解決したらいいのだろう?
って思っていたし、それを意志のせいにするのは違うと思ってた。
共感から、場のチカラから始めるプロジェクトがあっていい。
そこに返っていくなあと。
「学び」も含めて、その場にゆだねてみることが
大切なのではないかなあと思う。
そうやって、その「場」が、場から始まったプロジェクトが
創造的なものを生んでいくこと。
それを積み重ねて、
高校生にとってその場所は「ふるさと」になっていく。
「Niigata高校生マイプロジェクトラボ」が開催。
歓迎されてます。笑
一番衝撃だったのは、高校生から地域の人への質問の時間。
~~~ここからメモ
「若者が都会に出て行ってしまうのは、地方には魅力ある仕事が少ないからだ。それについてどう考えるか?」
こんな質問だった。衝撃を受けた。それって本当に地方の大人たちのせいなのだろうか?と。それはある意味、そうなのかもしれないけど、地方、特に雪国にはそもそも「雇用される仕事」っていうのはなかなか少なかった。みんな百姓だったのだ。
そもそも、「やりたいことは何か?」という質問で、雇用される職業を説明してもらうというその質問がぜんぜん違うと思う。
副業、複業を前提としたキャリア教育が必要なのだと思う。就職する会社だって、1つの仕事(業種)で成り立っている会社より、様々なビジネスを組み合わせて成り立っている会社が経営は安定しているはずだ。
そもそも、その軸で考えると、東京にはもっと魅力的な仕事があるから、みんな出ていくよね。
「やりたいことは何か?」っていう問いは、当事者にならないまま、地方からの人材の流失を招いている。
必要なのは、地域でプロジェクトを行う(参加する)ことの先に、経営者体験、つまり利益を生み給与を払うことの難しさのリアルを感じる機会がどうしても必要になる。
高校生が「この地域には魅力的な仕事がない」って、対立構造で言うのではなく、高校生も大人も、「仕事」そのものを哲学し、この地域で生きていくにあたって、仕事はどうするか?みたいな問いにフラットな立場で向かわなければならない。
そういう意味では、大学生チーム「このめ」が語っていた。「何を仕事にするか?」よりも「誰と働きたいのか?」が大切だ、っていうメッセージは心に残った。そのためにコミュニケーションの機会、それもフラットな関係性で語れるコミュニケーションの機会を作っていくことが大切なのだと思う。
~~~とまあこんな感じ。
第1部の山本さんの講演メモ
~~~ここから
20年後の世界を想像する。
1 少子化と超高齢化
2 人生100年時代(生産性資産、活力資産、変身資産)
3 society5.0
4 仕事・働き方の変化(VUCAの時代)
5 グローバル化
・テストや入試ではなく社会に出ても一生使える学び(継続する学び)
・自分の興味関心から出発する学び(好きだから集中できる)
・答えが一つとは限らない問題に向き合う学び(社会課題の解はひとつではない)
探究的な学びはスパイラルで学ぶ。
1 少し高い目標「ストレッチゾーン」に挑戦する。
2 社会とつながることの大切さ。自転車に乗ることは目的じゃない。
3 自分のワクワクに詳しくなる。何に揺さぶられるか、そこから何を学んだか。
インナーワーズ。内なる声を脳が変換してタテマエが出てくる。
生徒にどう教えるか?何をやるか?っていうto doよりも、教師・関わる人のあり方to beが問われている。
インナーワーズ+5W1Hで問いを深める。
whyという魔法の質問。何度でも使える。
お客は誰か?という問いでチームを分ける。
伴走者として当事者を支援するのではなく、伴奏者として、その一曲をともに奏でたい。
「校風」=「伝統」って大事だな、と。
酒づくりも思ったようにならない。
杜氏さんの「いい酒を提供したい」という思いをみんなで共有できているか?
学校にとっての「校風」まちにとっての「文化」がとても大切だなあと。
若者がまちを出て行ってしまうのは、
仕事がないからではない。
そこに誇りや愛着がないから。
そこがふるさとになっていないから。
~~~ここまで
「学び」とは、いったいなんだろうか?
いまなぜ、探究的な学びなのか?
問いかけてくる。
そして、2日目のふりかえりセッション
~~~ふりかえりメモ
「ちょっと難しいこと、新しいこと、やったことがないことに挑戦する」→「挑戦したことを振り返る」(出来事+感情)→「経験の中から新しい考え方や次に活かせること(教訓)を引き出す。:自分なりのやりがい(エンジョイメント)が見つかる。→さらなる難しいことに挑戦する
そもそも楽しさは「予測不可能性」にあるのではないか。だから「挑戦」じゃなく「実験」してどんな結果が出るのか楽しみたい。探究は、再現不能なフィールド実験なのだ。ふりかえるのは、次に生かすためではなくて、予測不可能なことのふりかえりそのものがエンターテイメントなのだ。
KPLTふりかえり。
K=keep:上手くいったこと、今後も継続したいこと
P=problem:上手くいかなかったこと、課題だったこと
L=learn:このプロジェクトを通じて学んだこと
T=try:これからやってみたいこと
自分とチーム両方の視点で書いてみる。
この付箋に出てくるのは、自分の脳で編集した後のこと。その編集以前のキーワードを考えた方がいいのではないか。
Lは「場」で生み出してもいいのかもしれない。
よかった、悪かった
予想できた、できなかった
のマトリクスワークからの学びを深める手法も試してみたい。
「自分と仲間の変化」
挑戦する前の自分と比べて変わったことは?
「新たな気づき・発見」
活動を通して見つけた、自分や仲間の新たな面は?
「活動の価値」
マイプロに取り組んできた経験は、自分・チームにとってどんな価値や意義があったか?
~~~ここまで
僕としての1日目の第2ラウンドのアウトプットで出た。
個人を尊重しつつ場の「共感」からプロジェクトを始められないだろうか?
たぶんそこから。
講演すると、多くの人から質問が出る、「始められない」悩みは、どのように解決したらいいのだろう?
って思っていたし、それを意志のせいにするのは違うと思ってた。
共感から、場のチカラから始めるプロジェクトがあっていい。
そこに返っていくなあと。
「学び」も含めて、その場にゆだねてみることが
大切なのではないかなあと思う。
そうやって、その「場」が、場から始まったプロジェクトが
創造的なものを生んでいくこと。
それを積み重ねて、
高校生にとってその場所は「ふるさと」になっていく。
2019年12月19日
学校教育と社会教育の潮目に浮かぶ船
福島県立ふたば未来学園高校訪問メモ
~~~ここから
ルーブリックで自己評価して、ルーブリック面談でルーブリックをコミュニケーションツールとして使う。行動の背景が理解できる。
ルーブリック面談は進路に直結している。ルーブリックをチームでやるっていうのもありかも。
生徒を立体的に見ること。数字だけでなく。
学校教育と社会教育の「潮目」に立っている。
電話でアポとって話を聞くだけで高校生は変わる。
社会へのドアを開ける。
「はじめてのおつかい」みたいなもんか。
ルーブリックをつくること、そのものよりも、ルーブリックをつくるプロセスを共有していること。それが教育目標に向かっていること。
高校との関わり合いの「帯」をつくる。「探究」などの授業カリキュラムに入り込んでいることの強さ。
カリキュラムもコンソーシアムもコミュニティスクールも、高校生の探究的学びに向かっていくこと。
まかせてもらう
→参画してもらう
→気づいたら先生自身がやっている
みたいなプロセス。
授業時間数がボトルネックになっている。
「未来創造探究」は毎週何か必ずある。
「地域系部活動」で重要なこと
・関係性:関係の質にこだわっていくこと
・ゴールの設定:ゴールが見えているか?
体育会系部活の一体感:ゴールを共有していること。
ふたば未来ラボ:公営塾のクリエイティブ版
コーディネーターの聖域
カリキュラムは企画研究開発部が担当。教務・進路ではない。
校内のどこにポジショニングするか?
1 教育目標
2 カリキュラム
3 校務分掌
をどう設計するか?
育てたい資質・能力は何か?
「対話」してそれをつくる。
→文字にして使いまくる。
コミュニティスクールのタイミングでそれをつくること。
「教育目標」と「教育課程」(カリキュラム)がつながらないと機能しない。
学校と地域の真ん中に教育目標をつくること。
~~~ここまでメモ
「高校魅力化」は、
学校教育と社会教育の潮目に浮かぶ船のようなもの。
この船はどこに向かっていくのか?
それを共有しなければ船は進めない。
まずは教育目標づくり、そこに行くための設計としての
カリキュラムづくり、そのカリキュラムを評価するためのルーブリック。
カリキュラムを補完・発展させるための地域系部活動。
それらのすべてが高校生自身の、
あるいは教員・関係者自身の探究的学びにつながっていくこと。
それが必要なのだろうとおもう。
2019年12月19日
「学び」はこの直線上にない。
「学び」がこの直線上に、あるいは平面上に無い。
という仮定。
立体的な、3次元的な、あるいは4次元的な場に「学び」は創造される。
とする。
「先生」「教育」「成長」という言葉への違和感の正体が少しだけ見える。
川喜田二郎さんの発想法としての「KJ法」を学ぶと、
そこにこれからの「学び」の本質が見えてくるような気がする。
50年前の先見の明に驚く。
学びが「学校での学び」の直線上(延長上)に存在しないから、学べば学ぶほどゴールに近づいていく、という実感が得られない。
それが日々の虚しさにもつながっているのではないか。目標を設定し過ぎなのかも。
目標達成が喜びであるというのは、むしろレアケースなのではないか。
そういう人は成功すると思うのだけど、そこに「学ぶ喜び」はあるのだろうか。
エンターテイメントの本質が「予測不可能性」にあるとしたら、
「学び」とは、予定外、予想外のことを学んだときに喜びが生まれるのではないか。
大切なのは好奇心のスイッチをオンにすることなのだけど、
オンにさせることができるのは教師や講師ではなくて、環境というか、機会なのだと思う。
まあ、教師も講師も機会に過ぎないのだけど。
他者がそのスイッチをオンにさせることはできない。
あくまで自ら押さないと。
探究的な学びって、キャリアドリフト的に学ぶということ。
機会から学ぶ。つまり、学びが直線上にないってこと。
だから、「キャリアデザイン」とか「目標」とかと相性が悪い気がする。
川喜田さんは言う。
実験科学は仮説を検証するところに重要な性格があるのに対して、野外科学はむしろその仮説をどうして思いつけばよいのか、という、仮説を発想させる方法と結びついているのである。(「発想法」川喜田二郎)
仮説を生み出す。
昨今言われている「問題解決」能力というより、
「問題発見」能力っていうことなのかもしれない。
あるテーマに対して、「課題」と「仮説」を自ら設定することは、
川喜田さん的に言えば、「実験科学」から「野外科学」へのシフトなのだろうと。
そんなことを考えていたら、ある芸術家の発言にヒントをもらった。
そして思ったのが「道」という概念。
技術としての師匠と、姿勢としての師匠と。両方が必要なのだろうと。
その両方が重なるところに「道」ができるのだろう。
「道」には終わりがない。
「道」における師匠とは、到達点ではなく、ひたすら先に行ってしまう人のこと。
「学び」は「道」だけど、「教育」は「道」じゃないのかもしれないと思った。
「道」を生きる人っていうのは自分の人生よりはるか長いリレーのバトンを、駅伝のタスキを、今受け取って、次につなげないといけないと思って必死に走っている人のこと。
自分はいま中継者なのだという自覚。しかもその行き先は見えていないということ。それが「道」の強さ。
「校風」とか「文化」を大切にするっていうのは、自分が大いなる「営み」(プロセス)の一部であるっていう自覚を持つことができる。
「自我」や「意志」より、よっぽどそのほうが大切なのではないか。プロセスと切り離されてない自分に気づくこと。
師を通して「道」を学ぶ。
「道」っていうのは、目に見えては存在しないのだけど、たしかにそこにあるもの。
「学校」と「師弟関係」の違い。
学校を作るときにのコンセプトは「効率化」だと思う。
短期間で先進国に肩を並べる必要があった。
なにより「日本人」を作らなければならなかった。
学校での勉強は、明確なゴールを設定し、その達成度によって、生徒も、先生も評価された。
それは「学び」を根本的に変えてしまった。
「道」ではなくなってしまった。
師匠というのは、
この道をひとまず歩んでみようとすることのこと。
師匠の背中を追い求め、道を歩んでみること。
そこには本質的に到達点がない。
そして、「学び」は都度、創造される。
探究学習でテーマを決め、現場を観察し、
課題と仮説を生み出すこと。
その仮説を実践すること。
その繰り返し。
そこに予想できなかった「学び」が発生する。
それを喜びとして学びのエンジンを駆動させていくこと。
それがつくりたい「学び」の場なのだろう。
という仮定。
立体的な、3次元的な、あるいは4次元的な場に「学び」は創造される。
とする。
「先生」「教育」「成長」という言葉への違和感の正体が少しだけ見える。
川喜田二郎さんの発想法としての「KJ法」を学ぶと、
そこにこれからの「学び」の本質が見えてくるような気がする。
50年前の先見の明に驚く。
学びが「学校での学び」の直線上(延長上)に存在しないから、学べば学ぶほどゴールに近づいていく、という実感が得られない。
それが日々の虚しさにもつながっているのではないか。目標を設定し過ぎなのかも。
目標達成が喜びであるというのは、むしろレアケースなのではないか。
そういう人は成功すると思うのだけど、そこに「学ぶ喜び」はあるのだろうか。
エンターテイメントの本質が「予測不可能性」にあるとしたら、
「学び」とは、予定外、予想外のことを学んだときに喜びが生まれるのではないか。
大切なのは好奇心のスイッチをオンにすることなのだけど、
オンにさせることができるのは教師や講師ではなくて、環境というか、機会なのだと思う。
まあ、教師も講師も機会に過ぎないのだけど。
他者がそのスイッチをオンにさせることはできない。
あくまで自ら押さないと。
探究的な学びって、キャリアドリフト的に学ぶということ。
機会から学ぶ。つまり、学びが直線上にないってこと。
だから、「キャリアデザイン」とか「目標」とかと相性が悪い気がする。
川喜田さんは言う。
実験科学は仮説を検証するところに重要な性格があるのに対して、野外科学はむしろその仮説をどうして思いつけばよいのか、という、仮説を発想させる方法と結びついているのである。(「発想法」川喜田二郎)
仮説を生み出す。
昨今言われている「問題解決」能力というより、
「問題発見」能力っていうことなのかもしれない。
あるテーマに対して、「課題」と「仮説」を自ら設定することは、
川喜田さん的に言えば、「実験科学」から「野外科学」へのシフトなのだろうと。
そんなことを考えていたら、ある芸術家の発言にヒントをもらった。
そして思ったのが「道」という概念。
技術としての師匠と、姿勢としての師匠と。両方が必要なのだろうと。
その両方が重なるところに「道」ができるのだろう。
「道」には終わりがない。
「道」における師匠とは、到達点ではなく、ひたすら先に行ってしまう人のこと。
「学び」は「道」だけど、「教育」は「道」じゃないのかもしれないと思った。
「道」を生きる人っていうのは自分の人生よりはるか長いリレーのバトンを、駅伝のタスキを、今受け取って、次につなげないといけないと思って必死に走っている人のこと。
自分はいま中継者なのだという自覚。しかもその行き先は見えていないということ。それが「道」の強さ。
「校風」とか「文化」を大切にするっていうのは、自分が大いなる「営み」(プロセス)の一部であるっていう自覚を持つことができる。
「自我」や「意志」より、よっぽどそのほうが大切なのではないか。プロセスと切り離されてない自分に気づくこと。
師を通して「道」を学ぶ。
「道」っていうのは、目に見えては存在しないのだけど、たしかにそこにあるもの。
「学校」と「師弟関係」の違い。
学校を作るときにのコンセプトは「効率化」だと思う。
短期間で先進国に肩を並べる必要があった。
なにより「日本人」を作らなければならなかった。
学校での勉強は、明確なゴールを設定し、その達成度によって、生徒も、先生も評価された。
それは「学び」を根本的に変えてしまった。
「道」ではなくなってしまった。
師匠というのは、
この道をひとまず歩んでみようとすることのこと。
師匠の背中を追い求め、道を歩んでみること。
そこには本質的に到達点がない。
そして、「学び」は都度、創造される。
探究学習でテーマを決め、現場を観察し、
課題と仮説を生み出すこと。
その仮説を実践すること。
その繰り返し。
そこに予想できなかった「学び」が発生する。
それを喜びとして学びのエンジンを駆動させていくこと。
それがつくりたい「学び」の場なのだろう。