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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2020年03月27日

ブレストに「否定しない」というルールは必要か?

長岡でカヤック柳沢さんの話を聞いてから、頭に残っていた問い。

http://hero.niiblo.jp/e490259.html
「OSとしてのカマコン」(20.1.31)

ブレストに「否定しない」というルールは必要なのか?

という問い。

通常、ブレスト(ブレーンストーミング:アイデアだし会議)や
ワークショップなどをを行う時に設定される4つのルール。

1 結論厳禁:否定しない
2 自由奔放:粗削りなアイデアを歓迎
3 質より量:量の重視
4 便乗歓迎:他人のアイデアに乗っかる

しかし。
会社において「ブレスト」を重要視する「面白法人カヤック」では
ルールは2つしかない

1 仲間のアイデアに乗っかる
2 とにかく数を出す

つまり、4つのルールのうち、最初の2つのルールはない。

いろいろと試した結果。
否定しないというルールにはあまり意味がないことがわかったのだという。
たしかに、「自由に考えて」って言われてもそれって前提だし、とは思う。
しかし、1 否定しないっていうのはかなり重要だと思っていたので衝撃だった。

一方でよく議論に上がる
日本の子どもたちの自己肯定感の低さ
https://www.blog.crn.or.jp/lab/11/03.html

非常に深刻な問題だよなあと僕も思っていました。

でも。
今回のカヤックのブレストの話を聞いて、
それって、「自己」「自分」っていう認識の違いでもあるのかもしれないなと。

落合陽一さんが「日本再興戦略」の中で、次のように言っています。

~~~以下引用

もうひとつ、欧州発で日本には向いていないものがあります。それは「近代的個人」です。

日本が「近代的個人」を目指し始めたのは1860年ごろで、それから150年以上経ちましたが、いまだに日本には「個人」によって成り立つ「国民国家」という感覚が薄いように感じます。むしろ個人に伴う孤独感のほうが強くなっているのではないでしょうか。これも日本人が「個人」を無理に目指してきたからだと思います。

(中略)

これからの本質的な問題は、「我々はコミュニティをどう変えたら、次の産業革命を乗り越えられるか」ということなのに、「どの職業が食いっぱぐれるのか」という議論ばかりしているのです。そうした「AI脅威論」は西洋の個人主義の文脈において出てくるものですから、本来の日本人がそうした問いに振り回される必要はありません。

これから日本が東洋的な感覚を土台としてテクノロジーを生かしていくためにも、まずは西洋的個人を超越しなければならないのです。一人がひとつの天職によって生きる世界観に我々はもともと住んでいませんでした。百姓とは100の生業を持ちうる職業のことです。

そもそも、アジアは昔から、言語によって何かを分断する考え方をよしとしません。荘子は言語による二分法でモノを語りません。個人と個人以外、対象と対象以外というように分断する行為は、世界が調和によって成り立っていた安定状態を破壊してしまう行為であると主張しています。

つまり、西洋思想の二分法の考え方は、アジア的な安寧に関する感覚、美的感覚や価値観とは合わないのです。

~~~ここまで引用

詳しくはnoteで
https://note.com/tsuruhashi/n/na877a201ab28?magazine_key=m21a04cf91a68

この日本的、アジア的価値観を考える3冊をnoteしました。

32機目:「日本人」という、うそ
https://note.com/tsuruhashi/n/n4f67b2047238?magazine_key=m21a04cf91a68

33機目:日本人は何を考えてきたのか
https://note.com/tsuruhashi/n/nd1ca9cf342a4?magazine_key=m21a04cf91a68

34機目:中動態の世界
https://note.com/tsuruhashi/n/n9d0d72ec796a?magazine_key=m21a04cf91a68

「自己」とか「自分」っていう枠組みで世の中をとらえること自体がしっくり来ないのではないか。

「日本人は何を考えてきたのか」で斉藤孝先生が引用している

~~~

ドイツの哲学者ヘルマン・シュミッツは、人の身体と感情はその人のいる空間と一体だと言います。

(中略)

このように考えていくと、「心の中」の感情とか、「私」みたいなものを前提とするよりも、場の雰囲気といったものを前提にしたほうが現実には即しているのではないかと思えてきます。

「私」というものがあって、その私が世界を認識するという構図自体がもしかしたら思い込みなのかもしれません。「私」を外して考えることで、芭蕉も生きてくるし、禅の伝統も生きてきます。

~~~

「私」なんてあり得ないのかもしれない、と思います。

そして、カヤックのブレストはまさに、「場」を磨いていくことで
新しい何かを生み出していくことなのではないか。

そもそも、「否定しない」の否定するっていうのは、
「自分」と「他者」が分かれているから「否定された」と思うわけですよね。

「乗っかる」「数を出す」にフォーカスすることで、
場に溶け出して、「否定」さえも「乗っかる」ことになったらいいのだと。

そしてさらに、子どもの「自己」肯定感をどのように高めるか?
という問いではなくて、

「場」にフォーカスし、「場」に自らを溶かすことで新しい価値(アイデア)を創造するような経験を積み重ねることで、

「自らもその場の構成員だった」というような感覚、
決して「自分」が価値を生み出したわけではないんだけど、
その場の構成員として確かに自分がいた、みたいな感覚こそ必要なのではないか。

極端に言えば、「個人」が自己を肯定する、あるいは自信を持つ必要なんてないのではないかと思う。

そのことと「承認」欲求は関連はしているけど、また別の話のように思う。

阿賀町は今日もきれいです。
  

Posted by ニシダタクジ at 08:51Comments(0)学び