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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2020年03月31日

「学びの土壌」に「興味のタネ」を蒔き「探究の根」を伸ばす


「13歳からのアート思考」(末永幸歩 ダイヤモンド社)

読書月間にするしかないので、読んでいきます。
買いだめしてたわけじゃないけど積読を読むのです。

この本。
まえがきから非常に本質的な問いを投げかけてくれます。

小学校の時の「図工」から中学生に上がった時に「美術」に
なった途端に人気は急落してしまいます。

まあ、僕なんかは最初から
絵を描くのが苦手中の苦手で、3次元を描くことでできず、
数学の空間図形もまったく解けなくて、
そういうセンスがないんだなあと思い込んでいました。

30歳過ぎて、岡本太郎の「今日の芸術」(光文社文庫)を読むまでは
美術館なんて、自分には関係のないところだと思っていました。
「美術教育」によって、僕は完全に苦手意識を持ってしまいました。

ところが末永さんによれば、
こうした意識を植え付けてしまうのは「技術・知識」偏重型の授業スタイルに原因があるということです。

「アート思考」、つまりアーティストのように考えるとはどういうことか。
末永さんによれば、
1 「自分なりのものの見方」で世界を見つめ
2 「自分なりの答え」を生み出し
3 それによって「新たな問い」を生み出す
このような思考プロセスを生むための作法を「アート思考」と呼ぶそうです。

そして、この本のハイライトは、
冒頭の「オリエンテーション」にあると感じています。(まだ読み終わってませんが)

ここでは、「アートという植物」をテーマに説明します。

~~~以下、一部引用

地表面には黄色い可憐な花を咲かせているタンポポは、地中かなり深くに根を伸ばしています。
「アート」というのはタンポポに似ています。

地表部分には花が咲いています。これはアートの「作品」にあたります
この花の色や形には、規則性や共通項がなく、じつに多様です。
本書ではこの花を「表現の花」と呼ぶことにしましょう。

この植物の根元には、大きな丸い種があり、
「興味」や「好奇心」「疑問」が詰まっています。
アート活動の源となるこのタネは、「興味のタネ」と呼びたいと思います。

「興味のタネ」からは無数の根が生えています。
複雑に絡み合い結合しながら、なんの脈絡もなく広がっているように見えますが、じつのところ、これらや地中深くで1つにつながっています。
これが「探究の根」です。

「アートという植物」は「表現の花」「興味のタネ」「探究の根」の3つからできています。
しかし、タンポポのときと同様、空間的にも時間的にもこの植物の大部分を占めるのは、
目に見える「表現の花」ではなく、地表に顔を出さない「探究の根」の部分です。

(中略)

「アートという植物」は「興味のタネ」からすべてがはじまります。「

「アートという植物」が地下世界でじっくりとその根を伸ばしているあいだ、
「地上」ではほかの人たちが次々ときれいな花を咲かせていきます。
なかには人々をあっといわせるようなユニークな花や、誰もが称賛する見事な花もあります。
しかし、「アートという植物」は、地上の流行・批評・環境変化などをまったく気にかけません。
それらとは無関係なところで「地下世界の冒険」に夢中になっています。

不思議なことに、なんの脈絡もなく生えていた根たちは、あるときどこかで1つにつながります。
それはまるで事前に計画されていたかのようです。
そして、根がつながった瞬間、誰も予期していなかったようなタイミングで、
突然「表現の花」が開花します。大きさも色も形もさまざまなですが、
地上にいるどの人がつくった花よりも、堂々と輝いています。

~~~ここまで一部引用

いやあ、それだよって。
「世界のひとつだけの花」って本当はそういうことじゃないかって。
まず、「探究の根」を伸ばすことからだって。
そういう意味では、この町は学びの土壌があるまちだなって。

「学びの土壌」のあるこの町で、「探究の根」を伸ばす3年間を。
阿賀黎明高校with阿賀町。
そんなキャッチコピーどうかな。

そして、このオリエンテーションのラストを締めくくる問いかけが熱い。

誰かに頼まれた「花」ばかりつくってはいないか?
「探究の根」を伸ばすことを途中で諦めていないか?
自分の内側にあったはずの「興味のタネ」を放置していないか?

いいですね。
グサッと来ます。

中学時代に聞いたHOUND DOG「AMBITIOUS」を思い出します。

昨日とおんなじ地図をひらいて旅をあきらめてないか?
時に流されてるだけでいまを忘れかけていないか?
傷だらけの膝が輝いてる少年でいられるか?
まちがいをおそれてばかりいて立ち止まっていないか?
(HOUND DOG「AMBITIOUS」88.4.1 歌詞は2番)

いいですねえ。
まさに13歳でしたよ、僕。笑

アーティストに限らず、自らの「興味のタネ」から「探究の根」を伸ばすこと。
これって、これからの時代、みんなに必要なことなんだよね。
「共通の答え」なんて存在しなくて、
「自分なりの答え」「自分たちなりの答え」で生きていくしかないんですもん。

そういう意味では、学びの環境として、この町は最高だなと、僕は思うのです。  

Posted by ニシダタクジ at 08:32Comments(0)

2020年03月29日

教育の主体は集団であり、教育活動から受益するのも集団である。


「サル化する世界」(内田樹 文藝春秋)

2週間前にジュンク堂でスルスルと引き込まれてかった1冊。
このご時世で本をたくさん買いすぎて、後回しになっていましたが
ようやく佳境へと入ってきました。

第4章 AI時代の教育論 「AI時代の英語教育について」

なんというか、本質だなと。
えぐるような本質を突いてくる。

まずは、自動翻訳機の進歩について。
もはや日常会話に困らないほどに、
ドラえもんの夢の機械「ほんやくコンニャク」が
すでに手のひらサイズで実現しているのだという。

~~~以下引用

科学技術は進化して、場合によっては英語教育の根幹部分についてのこれまでの工夫や議論を無効化してしまうような変化が起きている。

(中略)

日本の小・中・高の先生方は、「何のために英語を学ぶのか?」ということについて、今や根源的な省察を要求されています。これまではそんなことを考える必要がなかった。英語を学ぶことの必然性・有用性は自明のものだと思われていた。でも、それが揺らいできた。

~~~以上引用

そして、内田さんは外国語学習について語るときの「目標言語」と「目標文化」という言葉について説明します。内田さんの世代の英語学習の動機は、その向こう側にある「アメリカ文化」だったといいます。英米のポップ・カルチャーという「目標文化」があって、それにアクセスするための回路して英語という「目標言語」を学んだというわけです。そして、今の英語教育には、目標文化が存在しない。英語という目標言語だけはあるけれど、その言語を経由して、いったいどこに向かおうとしているのか、わからないのだと言います。

文科省が「英語が使える日本人」を言い出してから、英語を勉強することの目標が、同学齢集団内部での格付けのためになった。低く査定されて資源分配において不利になることに対する恐怖をインセンティブにして英語学習に子どもたちを向けようとしている。

文科省の「英語が使える日本人」の育成のための計画の冒頭で、経済、競争、そして格付けの話が来る。

「ここには学校教育とは、一人一人の子どもたちが持っている個性的で豊かな資質が開花するのを支援するプロセスであるという発想が決定的に欠落しています。子どもたちの知性的・感性的な成熟を支援するのが学校教育でしょう。自然に個性や才能が開花してゆくことを支援する作業に、どうして恐怖や不安や脅迫が必要なんです。勉強しないと『ひどい目に遭うぞ』というようなことを教師は決して口にしてはならないと僕は思います。学ぶことは子どもたちにとって『喜び』でなければならない。学校というのは、自分の知的な限界を踏み出してゆくことは「気分のいいこと」だということを発見するための場でなければならない。」

さらに、英語教育のゴールが「ユニクロのシンガポール支店長」であるような時に何が起こるのか?について以下のように断じています。

「達成目標があらかじめ開示された場合に、子どもたちの学習努力は大きく殺がれます。教育のプロセスをまじめに観察したことのある人間なら、誰でもわかることです。「勉強するとこんないいことがある」とか、勉強しないとこんなひどい目に遭う」というようなことをあらかじめ子どもに開示すると、子どもたちの学習意欲はあきらかに減退する。というのは、努力した先に得られるものが決まっていたら、子どもたちは最小の努力でそれを獲得しようとするに決まっているからです。」

そう。
「下流志向」(内田樹 講談社文庫)に詳しく書かれているように、教育はいつの間にか「お買いもの」になってしまった。単位や学位や資格は「商品」で学習努力が「貨幣」である。「よい消費者であること」に教育された子どもたちは、最小の努力で最大の単位をほしがる。

こうやって教育は劣化していくのだと内田さんは言います。

じゃあ、どうすればいいのか?

内田さんは「成績をつけない」教育のすすめと続けます。
成績をつけない。生徒たちを格付けしない。教えたいことがあるので教える。聞きたい人は聞いてくれ。そういう授業をする。

~~~以下引用

同年齢集団の中で相対的な優劣を競わせるのは「促成栽培」です。農作物を育てるときに、農薬や肥料を大量に投与したり、人工的な環境で育てるのと同じです。すぐに効果は出るけれど、それは本当に力がついたわけじゃない。

(中略)

同年齢集団内の相対的な優劣を競わせて、お互いの知性が活性化するのを邪魔し合ってゆけば、子どもたちの生きる知恵と力はどんどん減退していく。それは今の日本の現実を見ればわかるはずです。

(中略)

優劣を比較する対象があるとしたら、それは「昨日の自分」だけです。「昨日の自分」と比べて「今日の自分」がどう変化したのか、それは精密に観察しなければなりません。昨日まで気づかなかったどういう感覚が芽生えたか。昨日までできなかったどういう動きができるようになったか。そこには注意を向けなければいけない。でも、同門の他人と自分を比べて、その強弱や巧拙などを論じても何の意味もない。本当に何の意味もないのです。修行の妨げにしかならない。

(中略)

われわれは子どもたちを格付けして資源分配するために教育をしているのか、それとも子どもたち一人一人のうちの生きる知恵と力を育てるために教育しているのか、そんなことは考えるまでもないことです。そして、一人一人の生きる知恵と力を高めるためには他人と比べて優劣を論じることには何の意味もありません。まったく、何の意味もないのです。

(中略)

集団を存続させるためには、子どもたちに、ある年齢に達したら「生き延びるための知識と技術」を教え込む。それが教育です。教育する主体は集団なのです。そして、教育の受益者も集団なのです。集団が存続していくというしかたで集団が受益する。

(中略)

教育の受益者は子どもたち個人ではなく、共同体そのものです。共同体がこれからも継続して、人々が健康で文化的な生活ができるように、われわれは子どもを教育する。

(中略)

教育の主体は集団です。教育は集団で行うものであり、教育を受けるのは個人ですけれど、その個人の活動から受益するのは集団です。「ファカルティ(faculty)」というのは「教師団」という意味です。教育活動を行うのは「ファカルティー」であって、教員個人ではありません。

(中略)

「教師団」には、今この学校で一緒に働いている人々だけではなく、過去の教師たちも未来の教師たちも含まれている。そういう広々とした時間と空間の中で、教育活動は行われている。そして、そういうような時代を超えた集団的活動が可能なのは、教育事業の究極の目的が「われわれの共同体の存続」を目指すものだからです。

~~~以上引用

長文を引用しました。
そして、この後、内田さんは、オーラル・コミュニケーション偏重の教育は「植民地言語教育」だと言い、母語を豊かにすることの重要性を説きます。すべての知的イノベーションは母語で行われるのだと。江藤淳と村上春樹がアメリカから帰ってきた後、ふたりとも「雨月物語」の上田秋成の後継者を目指すと言ったそうです。二人ともに自国文化の「近代以前」の深い闇の中に降りてゆくことが新しいものを創造するためには必要なのだと書いているのだそうです、

私たちは「母語の檻」の中にいる。その檻から出るには2つの方法がある。1つは外国語を学ぶこと、もう1つは母語を共にする死者たちへの回路をみつけること。これはとても大切な教えだと、内田さんは言います。


▽▽▽以下引用

子どもたちが閉じ込められている狭苦しい「檻」、彼らが「これが全世界だ」と思い込んでいる閉所から、彼らを外に連れ出し、「世界はもっと広く、多様だ」ということを教えること、これが教育において最も大切なことだと僕は思います。

△△△以上引用

「僕たちはなぜ学ぶのか?」という根源的な問いをもらいまくる一節だらけ。(引用しすぎた)

僕がこれまで感じてきた
「英語を使う仕事に就きたい」というキャリア目標の違和感だったり、
学校における勉強が個人戦であることへの違和感だったり、
そもそも学びの動機づけが「いい学校や職業」への手段だということへの違和感だったり。
そして何より、僕がなぜ、ここにいるのか?っていう問いだったり。

その違和感や問いに、一筋の光をもらえる1冊。

教育の主体は集団であり、
教育の受け手は1人1人の個人であるかもしれないが、
教育活動の受益者は集団である。

そんな、有史以来続いてきた本来の「教育」。

学ぶ理由は、その先にある何かにアクセスしたいから。
かつての昭和の音楽少年が心を揺さぶるビートルズとは何なのか?
を知りたくて、英語を夢中で学んだように。

そんな「学び」や「教育」の原点に返りたくて、
僕はいまここにいるのではないか、と誤読してしまう、
すてきな示唆に富んだ1冊でした。

内田先生、ありがとう。  

Posted by ニシダタクジ at 17:43Comments(0)学び

2020年03月27日

ブレストに「否定しない」というルールは必要か?

長岡でカヤック柳沢さんの話を聞いてから、頭に残っていた問い。

http://hero.niiblo.jp/e490259.html
「OSとしてのカマコン」(20.1.31)

ブレストに「否定しない」というルールは必要なのか?

という問い。

通常、ブレスト(ブレーンストーミング:アイデアだし会議)や
ワークショップなどをを行う時に設定される4つのルール。

1 結論厳禁:否定しない
2 自由奔放:粗削りなアイデアを歓迎
3 質より量:量の重視
4 便乗歓迎:他人のアイデアに乗っかる

しかし。
会社において「ブレスト」を重要視する「面白法人カヤック」では
ルールは2つしかない

1 仲間のアイデアに乗っかる
2 とにかく数を出す

つまり、4つのルールのうち、最初の2つのルールはない。

いろいろと試した結果。
否定しないというルールにはあまり意味がないことがわかったのだという。
たしかに、「自由に考えて」って言われてもそれって前提だし、とは思う。
しかし、1 否定しないっていうのはかなり重要だと思っていたので衝撃だった。

一方でよく議論に上がる
日本の子どもたちの自己肯定感の低さ
https://www.blog.crn.or.jp/lab/11/03.html

非常に深刻な問題だよなあと僕も思っていました。

でも。
今回のカヤックのブレストの話を聞いて、
それって、「自己」「自分」っていう認識の違いでもあるのかもしれないなと。

落合陽一さんが「日本再興戦略」の中で、次のように言っています。

~~~以下引用

もうひとつ、欧州発で日本には向いていないものがあります。それは「近代的個人」です。

日本が「近代的個人」を目指し始めたのは1860年ごろで、それから150年以上経ちましたが、いまだに日本には「個人」によって成り立つ「国民国家」という感覚が薄いように感じます。むしろ個人に伴う孤独感のほうが強くなっているのではないでしょうか。これも日本人が「個人」を無理に目指してきたからだと思います。

(中略)

これからの本質的な問題は、「我々はコミュニティをどう変えたら、次の産業革命を乗り越えられるか」ということなのに、「どの職業が食いっぱぐれるのか」という議論ばかりしているのです。そうした「AI脅威論」は西洋の個人主義の文脈において出てくるものですから、本来の日本人がそうした問いに振り回される必要はありません。

これから日本が東洋的な感覚を土台としてテクノロジーを生かしていくためにも、まずは西洋的個人を超越しなければならないのです。一人がひとつの天職によって生きる世界観に我々はもともと住んでいませんでした。百姓とは100の生業を持ちうる職業のことです。

そもそも、アジアは昔から、言語によって何かを分断する考え方をよしとしません。荘子は言語による二分法でモノを語りません。個人と個人以外、対象と対象以外というように分断する行為は、世界が調和によって成り立っていた安定状態を破壊してしまう行為であると主張しています。

つまり、西洋思想の二分法の考え方は、アジア的な安寧に関する感覚、美的感覚や価値観とは合わないのです。

~~~ここまで引用

詳しくはnoteで
https://note.com/tsuruhashi/n/na877a201ab28?magazine_key=m21a04cf91a68

この日本的、アジア的価値観を考える3冊をnoteしました。

32機目:「日本人」という、うそ
https://note.com/tsuruhashi/n/n4f67b2047238?magazine_key=m21a04cf91a68

33機目:日本人は何を考えてきたのか
https://note.com/tsuruhashi/n/nd1ca9cf342a4?magazine_key=m21a04cf91a68

34機目:中動態の世界
https://note.com/tsuruhashi/n/n9d0d72ec796a?magazine_key=m21a04cf91a68

「自己」とか「自分」っていう枠組みで世の中をとらえること自体がしっくり来ないのではないか。

「日本人は何を考えてきたのか」で斉藤孝先生が引用している

~~~

ドイツの哲学者ヘルマン・シュミッツは、人の身体と感情はその人のいる空間と一体だと言います。

(中略)

このように考えていくと、「心の中」の感情とか、「私」みたいなものを前提とするよりも、場の雰囲気といったものを前提にしたほうが現実には即しているのではないかと思えてきます。

「私」というものがあって、その私が世界を認識するという構図自体がもしかしたら思い込みなのかもしれません。「私」を外して考えることで、芭蕉も生きてくるし、禅の伝統も生きてきます。

~~~

「私」なんてあり得ないのかもしれない、と思います。

そして、カヤックのブレストはまさに、「場」を磨いていくことで
新しい何かを生み出していくことなのではないか。

そもそも、「否定しない」の否定するっていうのは、
「自分」と「他者」が分かれているから「否定された」と思うわけですよね。

「乗っかる」「数を出す」にフォーカスすることで、
場に溶け出して、「否定」さえも「乗っかる」ことになったらいいのだと。

そしてさらに、子どもの「自己」肯定感をどのように高めるか?
という問いではなくて、

「場」にフォーカスし、「場」に自らを溶かすことで新しい価値(アイデア)を創造するような経験を積み重ねることで、

「自らもその場の構成員だった」というような感覚、
決して「自分」が価値を生み出したわけではないんだけど、
その場の構成員として確かに自分がいた、みたいな感覚こそ必要なのではないか。

極端に言えば、「個人」が自己を肯定する、あるいは自信を持つ必要なんてないのではないかと思う。

そのことと「承認」欲求は関連はしているけど、また別の話のように思う。

阿賀町は今日もきれいです。
  

Posted by ニシダタクジ at 08:51Comments(0)学び

2020年03月18日

学びの報酬は達成感ではなく、違和感を得て、問いが新たに始まること

人は、他者や社会とのかかわりの中で、職業人、家庭人、地域社会の一員等、様々な役割を担いながら生きている。これらの役割は、生涯という時間的な流れの中で変化しつつ積み重なり、つながっていくものである。また、このような役割の中には、所属する集団や組織から与えられたものや日常生活の中で特に意識せず習慣的に行っているものもあるが、人はこれらを含めた様々な役割の関係や価値を自ら判断し、取捨選択や創造を重ねながら取り組んでいる。 人は、このような自分の役割を果たして活動すること、つまり「働くこと」を通して、人や社会にかかわることになり、そのかかわり方の違いが「自分らしい生き方」となっていくものである。

このように,人が,生涯の中で様々な役割を果たす過程で,自らの役割の価値や自分と役割との関係を見いだしていく連なりや積み重ねが,「キャリア」の意味するところである。

社会の中で自分の役割を果たしながら,自分らしい生き方を実現していく過程を「キャリア発達」という。

(中央教育審議会「今後の学校におけるキャリア教育・職業教育の在り方について(答申)」(平成 23 年1月 31 日))

違和感、感じますよね。
「人と社会のあいだに仕事がある」っていうのはわかるんですけど。

特に「役割を果たす」と「自分らしい生き方」
っていうのがものすごい呪縛を生んでいるように思う。

特に以下の二つ。
「役割を果たさなければいけない(役に立つ人間でなければならない)」
「自分らしさを働くこと(つまり仕事)で表現しなければいけない」
この二つの呪縛こそが大学生を苦しめてきたし、それを肌で実感してきた。

しかもそのベースには、学校的(近代社会的)思考行動特性、
つまり目標設定・達成というパラダイムがある。いわゆるキャリアデザイン的価値観だ。

いま、「探究的学び」がテーマになって、キャリアドリフト的な価値観へとシフトしつつあるように思う。
「役割」とか「自分らしさ」という言葉への違和感。

それは「役割を果たす」という考え方そのものが、
あなたはそこに存在するだけで価値があるという「存在承認」を奪う。
「自分らしい仕事」を求めて、アイデンティティ不安な日々を生きるようになる。

そうじゃない。
とひらめいて、今朝、ツイッターでつぶやいていたこと。(一部編集)

「自分らしさ」は職業の中にあるのではなくて、問いの中にある。
その問いを駆動させるのが機会で、その機会が、田舎という環境と対話の中にはたくさんある。それをたまに「地域の課題」と呼ぶこともある。

「問い」を駆動するのが「違和感」であり、学びにおいては「共感」よりもずっと大事で、共感を強制する同調圧力は学びの敵となる。

いわゆる「安心・安全の土壌」とか、思ったことを言える関係性っていうのは、違和感をキャッチする上で極めて重要で、しかもそれは身体的なもの。

学びの報酬は、達成の瞬間(達成感)にあるのではなくて、機会から問いが生まれる瞬間(違和感⇒問い)にある。それはさらなる行動(つまり学び)を駆動してくれる。

~~~ここまでツイッターより。



図解途中ですが、こういう感じ。
地域に開かれた学びっていうのは、そういうことなのではないか。

そう考えると阿賀町、学びのフィールドとして、めちゃめちゃ魅力的だなあと。


写真は旧日出谷小学校の裏です。  

Posted by ニシダタクジ at 07:33Comments(0)学び

2020年03月15日

士別れて三日ならば、即ち更に括目して相待すべし


「サル化する世界」(内田樹 文藝春秋)

ジュンク堂で話題書コーナーから本に呼ばれて立ち読みしていたら、
スルスル入ってくるのでうっかり購入。

まえがき。
もうこれでOK。
1650円の元は取った。

違和感の正体のひとつ、見つけた。
そんな感じ。

本文中にも何度も出てきますが、
「サル化する」っていうのは、故事「朝三暮四」からきている。

~~~
中国、宋の狙公(そこう)が、飼っている猿にトチの実を与えるのに、朝に三つ、暮れに四つやると言うと猿が少ないと怒ったため、朝に四つ、暮れに三つやると言うと、たいそう喜んだという(コトバンクより)
~~~

まあ、そういうかんじです。
まえがきに本質的な何か、があったので、引用します。

~~~ここから引用

そうか、今の日本人たちは「身のほど」を知ることが端的に「よいこと」だと思うようになったのか。

身のほどを知り、分際をわきまえ、身の丈にあった生き方をすることが強く推奨されており、それから外れて、おのれの分際をわきまえずに、身の丈を超えた生き方をする人間は批判と処罰の対象になる、と。

「身のほどを知れ、分際をわきまえろ」という圧力が日本社会のすみずみに行き渡っていて、しかもこの「身のほどを知れ」という圧力は、表面的には「自分らしく生きる」という教化的なメッセージの美辞麗句をまとって登場してくる。

「自分らしく生きろ」という、一見すると子どもたちを勇気づけるように聞こえるメッセージは、実は、その本音のところでは、「はやく『自分らしさ』というタコツボを見つけて、そこに入って、二度と出て来るな」といっているのじゃないでしょうか。

「自分らしさ」とか「個性」とか「本当にやりたいこと」とかいう言葉で装飾されていても、子どもたちは直感的にそれが「罠にはめられて」「息ができなくなって」「身動きできなくなる」状態へ誘導するものだということを感じている。

今の日本社会は「成熟する」ということが「複雑化」することだということを認めていない。逆に成熟することは「定型に収まって、それ以上変化しなくなること」だと思って、そう教えている。

~~~ここまで引用

その後、内田さんは、そんなわけないじゃないか、って説きます。

生物は単細胞の生物が細胞分裂してどんどん複雑なものに変わっていく。それが成長であり、進化である。人間だって同じで、成長するにつれて、どんどん複雑な生き物になるに決まっている。考え方が深まり、感情の分節がきめ細かくなり、語彙が豊かになり、判断が変わり、ふるまいが変わる。そういうものでしょう、と。

そして、三国志の逸話をひき、
「士別れて三日ならば、即ち更に括目して相待すべし」と。

しかしながら、この30年のあいだのどこかで「成熟する」ということの意味に変化があったのでしょう。

成熟するとは変化することである、三日前とは別人になることである、という古代からの知見が捨てられて、変化しないこと、ずっと「自分らしく」あり続けることがこの社会の中に居場所を得て、社会的承認を得るための必須の条件になった。

~~~ここからさらに引用

アクターのふるまいが絶えず変化すると、システムの制御がむずかしくなる。だから、システムの管理コストを最小化するために、人間たちは「成熟するな」という命令を下されている。知識や技能を量的に拡大するのは構わない、生産性を上げたり、効率的に働いたりすることは構わない。でも、自分に割り振られた「分際」から踏み出すことは許さない。ましてや別人になることは絶対に許さない。人をして「括目」せしめるような生き方をすることは許さない。

システムの効率的な管理が大切な仕事であることを僕はもちろん認めます。でも、システム管理の効率化を急ぐあまり、アクターである人間たちを同一的なままにとどめておくというのは長期的にはシステムの自殺行為ではないかという気がします。もし、国民が成熟を止め、変化を止め、どれほど時間を経過しても「括目して相待つ」必要がなくなったら、その国ではもういかなるイノベーションも、どのようなブレークスルーも起こらないからです。

~~~ここまでさらに引用

うう。
ううう。
うなるしかない。
教育の現場で起こっていることもまさにこういうことなのではないかと。

そしてまえがきのラストに内田さんからの提案。

「僕から皆さんへの個人的な提案は、『自分の身のほど』なんか知らなくてもいいんじゃないですかということです。『自分らしさ』なんかあわてて確定することはないです。三日前とぜんぜん違う人間になっても、それは順調に成長しているということですから、気にすることないです・・・というようなことです。みなさんが罠から這い出して、深く呼吸ができて、身動きが自由になった気がすること、それが一番大切なことです。僕はそう思います。いかがでしょう。」

あ~、ほとんど写経してしまった。

読書の醍醐味のひとつは
「違和感の言語化」にあると僕は思ってます。

「自分らしさ」
「自分さがし」
「本当の自分」
って言葉たちから感じていた違和感。

「学ぶ」っていうのは、いままで5分かかっていた計算が3分でできる、みたいに量的に何かができるようになることではなくて、ビフォアアフターで違う自分に変容するということ。

そして学びの醍醐味というのは、まさに3日経ったら別人になっている、ということ。

新型コロナウイルスによる休校措置の先に全くの別人と出会えるような
「士別れて三日ならば、即ち更に括目して相待すべし」な世界を実現していくこと。

2月のSCHシンポジウムでも言っていたけど、
「探究的な学び」っていうのは、「変態する」っていうこと。
それは、生徒に限らず、その周りの人たちも含めて。

そんな「学びの場」を実験・実践してみようか。  

Posted by ニシダタクジ at 05:49Comments(0)学び

2020年03月08日

僕は何のためにこの船に乗ったんだっけ?

3月5日6日、全国公営塾ネットワーク会議。
コロナウイルス騒ぎのため、オンライン開催。
zoomににらめっこしながらの会議は
初体験だったけど、時間はあっという間に過ぎた。

1日目のグループセッション

【M高校】
・「地域みらい留学」で初年度17名入学希望
・「地域みらい留学フェスタ」で募集して、メールでフォローアップ
⇒学校見学と現地見学ツアーを開催。
・現地ツアーはクイズなどエンタメ性:楽しそうな雰囲気を出すこと
・まずは先生方のニーズ把握して学校の負担にならないように。

【Y高校】
・定期テスト後の「KPTA面談」
・3つのグループに分けて、指導する。
・会議を工夫する(月曜日の進捗報告、月に1度の問題解決会議)
⇒ブレスト、議論、対処、検証
・スタディサプリを活用した反転授業

【ポスターセッション(黎明学舎)】
・親との関係性
1 公営塾の活動内容、目的について知ってもらう(ニュースレター等)
2 本人との対話時間をさらに強化していく。(KPTAふりかえり等)
3 学校との関係(保健室、カウンセラー、ソーシャルワーカー等)

【講演(N高 園さん)】
・汎用性に寄せるか、特殊性に寄せるか
★ネット時代のコラボレーションスキルの育成

・高校(と地域)の境界線があいまいになっていく
・コーディネート:「越境」+「コーチング(ふりかえり)」

・コーディネーターが第3者であるほど言いやすい
・高校卒業の先に何があるのか?を学校が定義しなければならない。
「学び方」は、あり方、生き方の問題。美しく学ぶこと。

【分科会(教育目標について)】
・2022年学習指導要領の改訂:「探究的学び」が前提となる。
★探究だけではなく教科も社会との接続を考えないといけない。
大学入試という直線的なゴールに向かっていけばいいという時代の終わり。
⇒すなわち、学習到達度が単一の指標で測れないことを意味する。
⇒だとすれば、今やっている学び、これからやろうとしている学びが目標に向かっているのか?常に検証する必要がある。
⇒仮説としての目標設定だから短いスパンで見直しが必要。
⇒だからと言って、目標を立てなくてよいわけではない。目標を立てなければ、たくさん湧いてくるアイデアや地域からの要望に対して取捨選択できない。

【分科会2(N高と地域全日制)】
・「個別最適化」というキーワードに対して、N高の総拘束時間は300時間。全日制高校の拘束時間は10倍の3000時間。
・「やりたいことがある」人にはN高に最適。
★「個別最適化」時代に、全日制高校(あるいは地域)の役割は?

★「存在承認」をどのように得ていくか。
「やりたいことがある」と「主体性がある」って違うのではないか?やりたいことは特にないけど、「他者や構成する場に貢献するスタイル」の主体性っていうのがあると思う。さらに言えば「手段として学ぶ」っていうのと「機会として学ぶ」の違いか。

★ふりかえりを「評価」の場ではなく「承認」の場にすること。
「評価」と離れたところで「ふりかえり」ができるかどうか。「評価」を前提としたふりかえりでは、ふりかえりができない。だからこそ、第3者としての(評価者ではない)コーディネーターが必要。「評価」と「ふりかえり」を切り離せるかどうか、は、質の高いふりかえりにとって重要。主体性があり行動できる2割ではなく、才能も自信もない8割の子がどうやって生きていくか?を場のチカラでデザインできるかどうか?存在承認を得つつ、アイデンティティをチームや場や地域に求められるか。

【アクション】
・「個別最適化」ができることをアピールする(中学校の説明会等)
・「こういう人に合ってます」をアピールする(ワークショップスキル・マインドを学べるなど)

・「地域みらい留学」:ブースでの楽しさ演出→連絡先をとる
⇒メールでのフォロー
⇒学校見学と現地見学ツアーの企画をする。
⇒エンタメ性の高い説明・ツアーをつくる。

・「楽しそうであること」が伝わるパンフレット、ウェブ

★「公営塾まつり」的なオープンデイのイベント検討。(ひとはこ古本市とか)
・大学希望者みたいなコミュニティで集まって相互刺激をあたえる。
・「音楽」など言語・数字以外のコミュニケーションを強化する。

・面談にワークシート導入する
・大学進学、就職・専門学校など、「個別最適化できる」ことをアピールする。

・親との関係づくり:ニュースレター、本人との面談、学校との関係を強化する。
・N高とのコラボレーションが可能か検討する。

・コーディネート:「越境」と「ふりかえり」:評価を離れた商人の場をつくる

・教育目標の設定のとき、意識すること
なぜ、目標を立てるのか?⇒取捨選択できるため。
学校卒業のその先に何があるのか?
短いスパンで見直す前提で設定する。

・C目標(必達スキル、あいさつなど)⇒B目標(3年間で身につける力)⇒A目標(将来そんな人材になってほしい)というのができていること。

・地域にある全日制の意義についてまとめる

・「存在承認」について、「評価」「承認」「ふりかえり」をキーワードにあらためてまとめる。

~~~ここまでまとめ

次のアクションにつながる2日間のインプット。

今後のアクションとして

1 公営塾としてのスタイルと生徒、学校、地域とのコミュニケーションデザイン
2 教育目標などビジョンの策定のスタイル、決める内容の決定
3 そもそもの地域全日制高校ができること(N高との違い)を問い直す

このあたりをやっていこうと思う。

気づいたこととして大きかったのは、
・「楽しそうである」と、右脳に訴える告知方法をもっと考えること。
・「学び方」と「あり方、生き方」が直結しているということ。
・コーディネートとは「越境」+「ふりかえり」。ふりかえるためには「評価しない」第3者が必要。
・教育目標を何のために立てるのか?⇒先のわからない時代に向けて、仮説を設定し、事業を取捨選択するため。
・地域にある全日制はなぜ必要なのか?⇒「個別最適化」には場としての地域が必要なんだ。

いい問いをもらいまくる2日間でした。

事務局のみなさま、全国のみなさま、
素晴らしい学びをありがとうございました。

会議後、北千住・ブックスナックで
「ちいさなゆうびんせん」のお披露目。
2年半越しの絵本の第2弾の完成。



げんさく にしだたくじ
ぶんとえ たかやりょうこ

素敵な作品ができました。

この本が問いかけるメッセージは、
「僕はなんのためにこの船に乗ったんだっけ?」

そんな問いに迫るような2日間のネットワーク会議だったし、
ブックスナックでたくさんの人に見てもらえてよかったです。

吉満さん、すてきな発表の場をありがとうございます。
藤原(弟)さん、今年中にあらためて印刷相談に行きますので待っててください。



  

Posted by ニシダタクジ at 14:58Comments(0)学び日記

2020年03月02日

アイデアが生まれる場所

人とアイデアをかきまぜる「スクランブルエッグ」@柏崎市民活動センターまちから
にお邪魔してきました。


(講演中)


(出張ツルハシブックスもやらせてもらいました)


(集合写真)

第1部で「学ぶからはじまる、アイデア生まれる関係性とは」
というタイトルでお話させてもらった後、
5つのプロジェクトのアイデア出しワークショップ。

講演に関しては少し盛り込みすぎたかもしれないなと。

もっとシンプルにいけたかも、と。

1 導入:自己紹介:チューニング
2 活動紹介:これまでの活動紹介
3 印象に残ったこと、質問(心でふりかえる)
4 本の処方箋の紹介
5 アイデアが生まれるには?向き合わないこと
6 場のチカラとプロジェクトの7要素
7 ふりかえり手法「予想できなかったよかったこと」
8 予測不可能性と「学び」
9 アイデンティティ問題と「場」
10 愛すること→伴奏型チームをつくる

と眺めてみると10個ものコンテンツを入れてしまったのだなあと。
アイデンティティ問題の話は不要だったかもしれないけど、
そこに私の「WHY」があるのだなと改めて確認できた。

ワークショップでは、
10名程度の人たちでファシリテーターがいて、
アイデアだしのワークショップ。


(僕も矢田集落に「究極のモツ煮込み」を提案しました)

カヤック柳澤さんが言っていたような、
「人の意見に乗っかる」っていうのはなかなか難しいなと。
参考:OSとしてのカマコン
http://hero.niiblo.jp/e490259.html

どうしても、WHATとHOWの出し合いになってしまう。
まあ、アイデアなのだから、そうかもしれないけど。

その中で、出雲崎の「海まちLINK」さんのお題
「子どもの心に残る体験はどんなこと?」という問いは、
参加者ひとりひとりが自分の子どものころを思い出して、
共感が生まれることで、「それいいかも」って思えるような問いになっていたと思う。

場のチカラ理論で言えば、
「HOW」「WHAT」
の下にある「for whom」と「WHY」
に迫っていく質問だったように思う。

参考:場のチカラ理論
http://hero.niiblo.jp/e489531.html

今から7年ほど前に新潟日報メディアシップ内の
「4大学メディアキャンパス」とコラボした「にいがた未来考房」
のワークショップでも、ずっと考えてきた問い。

「現状の課題」と「未来思考」をどう両立させていくか?

あまりにも当事者をゲストにして語ってもらうと、
その現状に引っ張られて、未来の絵が浮かばない。
また、当事者がいないところでの議論は、
未来の話になりすぎて実現可能性が下がる。

それはどう両立させていくのか?

帰りの車の中で、また家に帰ってからも問いが残り、
そもそも「アイデア」はどこにあるんだろう?って考えていた。



そんな中で、「WHYから始めよ!」(サイモン・シネック 日本経済新聞出版社)を読み進め、
WHYの「生物学的」大切さを知る。

「アイデア」はどこにあるのだろうか?

さっきの場のチカラ理論で言えば、
「HOW」「WHAT」と「for whom」「WHY」のあいだにあるのではないか?と。

つまり、
言語化以前と言語化以後。
何をどうやるか、と、なぜ誰のために。

そのあいだにあるのではないか。

あるいは、
一回性と再現性
予測可能性と予測不可能性。
美しさと楽しさ。
そのあいだにこそアイデアがあるのではないか?
という仮説が生まれた。

だから、アイデアだしのワークショップにおいて、
「ファシリテーターの技術」があるとすれば、「WHYに迫る質問」ができることなのかもしれない。
あるいは場のチカラが高まっているときは、そういう質問で場から出てくるのかもしれない、と。

それは、プロジェクト当事者だけではなく、
集まった人たち(今回で言えばイベント参加者)の発言に対しての
WHYであり、for whomであるのかもしれない。

今回の講演冒頭に話した「チューニング」というのは、
「WHY」「for whom」をチューニングしていくこと、なのではないか。

「アイデアだし会議」がwhat と howに終始するから上滑りになって、「やったほうがいい」けれど「やるべき理由がない」ことになる。
その先の「誰のために」と「なぜ」に切り込んでいける場を作らないといけない。
そこで前提が覆されたり、新たな発見、学びがあれば、その場に再び集まりたくなる。

多くの人には、言語領域しか見えないから、WHATやHOWに目が行ってしまう。
しかし、本来一貫しているべきはWHATやHOWではなくWHYだ。WHATもHOWも手段にすぎないのだから。

この問いは、僕自身にも当てはまっている。

今回のお題、「アイデアが生まれる場づくり」ってHOWの話だ。
WHAT、HOWの前に、WHYを語らないと。
なぜ僕はコミュニケーション・デザインのHOWを人に伝えたかったのか。

ひとつは、社会的に言えば、コミュニティ・デザイン、つまり課題と課題を組み合わせて解決するために対話が必要だから。
もうひとつは、個人としては、というより、本線は、高校生大学生を含む私たちが「アイデンティティ・クライシス時代」を生きるために必要な方法論だから、だと思う。

そして僕はその先にパラダイム・シフトを見る

パラダイムシフト。それは、「手段として学ぶ」から「機会として学ぶ」へのシフト。
その「機会」を楽しみ、「機会」を起こし、「学び」をつかむために、「予測不可能性」と「一回性」を高め、感じることができればいい。

その先に、アイデンティティ(自分らしさ)の発見があると僕は思っている。

場と一体化し、場に溶けて、アイデアを出す。
その場の当事者になっていること。
場や団体の個性の構成員となっていること。
そのひとつひとつがその人らしさだ。

「自分」という他者と異なる何かを確立する必要などない。
たくさんの個性の構成員となればいい。
場に溶けていれば、それは複数あるあなたの個性と同一である。

僕がここにいる理由は、そんなところにあるのかもしれない。

「学校」を、そして「地域」を、ふたたびアイデンティティの構成要素、誇りの製造装置とする。
それには、部活などリーダーシップによる一体感と成功体験ではなく、個別のプロジェクトという場と、地域の人との関わりの中で生まれるふるさと感が重要なのではないか。

それを仮に伴奏型チームと呼んでみる。
多ジャンルの音楽を生み出す伴奏型チームに複数属してみること。
その繰り返しにより、人はミッション、つまりWHY、そしてfor whomに出会える。

高校生の探究活動の祭典「マイプロジェクトサミット」を見学して、
「自己の在り方生き方と一体的で不可分な課題」という言葉の意味が分かった。

WHYに、そしてfor whomに出会えた人生は幸せな人生だと思う。
じゃあ、それをどうやって見つけるのか?

実は、「自己の在り方生き方と一体的で不可分な課題」は最初から分かるのではなくて、共感とか違和感とか、そういう非言語領域を大切に抱え続けて行動することで、次第に見えてくるのではないか。
そして、その課題こそが自己のアイデンティティとなる。

具体的事象を題材にしたアイデア出しのワークショップには、
そんな要素が詰まっているのかもしれないと感じた企画となりました。

柏崎まちづくりネットあいさの宮さん、お誘いいただきありがとうございました。
考えさせられる時間となりました。
終了後、柏崎の海には夕景が広がっていました。

  

Posted by ニシダタクジ at 10:16Comments(0)学び