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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2020年04月29日

共同体としての学びをつくる


「共感資本社会を生きる」(新井和宏・高橋博之 ダイヤモンド社)

流れがよい。

「共同体の基礎理論」
→「しょぼい生活革命」
→「共感資本社会を生きる」
この順番に読んで未来を展望したい。

鎌倉投信と東北食べる通信の
お二人の次なるステップのその先に見ているもの。

どきどきしながら読み終わりました。

~~~ここから引用とメモ

都会の人って、僕を含めて消費者でしかなくて、みんな割と「点」で生きている。自分の得になることしか考えていない。でも生産者ってすごいんです。亡くなったじいちゃん、ばあちゃんの話はするし、先祖の話、未来の孫子の話、そして動植物、森、海、山、川などの自然の話も。だから「面」なんですよ、あの人たち。あの人たちは面における自分っていうのをすごく意識していて、そこが個でしか生きられない都会の人と全然違うなと思っています。

「まきどき村」の「営み」っていうのもきっとそうだなと。地域には、「面」っていうのと、時間的な流れである「タテ軸」が流れている、つまり自らが3次元的な空間の中にある1つの点であることが感じられるのではないかな。

生きてる実感から遠ざかるっていうことが起こるのは、もはやいまを犠牲にする正当な理由がないにもかかわらず、なにかの目的や意味のために、いまを使えって言われているからです。

それって「学び」も同じだよな、と。
「志望校合格」や「将来のなりたい職業に就く」という目的のために今がまんして学べっていうのは、もう無理なんだよね。
そもそもその先の未来みたいなやつは失われちゃっているのだから。

なぜ「予定調和」、つまり「こうすればああなる」っていう考え方の中にいると安心で、自分のいまを犠牲にすることをいとわなくなるのか。この問いに、都会的な問題の本質があると思うんです。いわば人工物というのは人間がコントロールするために設計しているもの。

人間がコントロールできないものがあれば効率も落ちてよくないというので、徹底的に自然を排除してつくられているのが都会。その中で生きていれば、すごく予定調和な思考、「こうすればああなる」という考え方に染まってしまうのは当然です。

対して地方はどうか。都市に比べて、はるかに自然の残る田舎に帰ると、コントロールできないことが一気に増える。自然っていうのはやっぱり思い通りにはならないし、都会より地方のほうが予期せぬことは起きやすい。

「こうすればああなる」っていうことじゃなくて、生き物として、言葉の世界にない感覚的なもので、突如異質なものに遭遇したときにどう対応するかっていうときに必要になるのは、もはや意識的な思考じゃないと思うんですよ。

不確実なものはないほうがいいって、どんどん自然なものから自然でないものに切り替えていくことによって、効率を上げて、不確実性というものを排除する。

「複雑系」を生きていかなきゃいけない時代に、都市の図書館やスタバで大学受験勉強だけをする3年間という投資にどれほど価値があるのか?
「身体性」とか「感性」を磨かないとヤバいんじゃないの、って思う。

「間」っていう概念も大事ですよね。どっちかを取るってことではない。西洋って「間」がないので、あなたか私か、自然か人間か、みたいなどっちかを取るってなりがちです。だけど日本の面白いところは、間があるんですね。どっちかを取るということをしない。

間にフォーカスすれば、基本的に対立構造っていうのは生まれないんですよ。なぜかと言ったら、そこの間に存在しているのはあなたでもなく自分でもないものだから。でも、自分とあなたってなった瞬間に、壁をつくり対立が生まれるんですよ。

これからは共同体感覚の時代なので、お互いが交わる場所があって、お互いが当事者になれる場所が必要になる。その場所が、僕は「間」だと思っていて、あなたもこの間の当事者だし、自分も当事者であるっていう、お互いが当事者になったときには争いなんて起こらないんです。

この間にフォーカスするっていうことがすごく重要で、これが関係性の再構築なのかなと思っています。

「間」にできあがるものってお互いでつくるものだから、自分自身じゃない部分がある。そうしたときに自分という器の中ではできないことが、この「間」ではできるし、存在しうるわけですよ。

「間」を育むための必要な時間とか環境とかって、僕は地域にすごく存在していると見ている。

働きかけ、働きかけられる、動き、動かされるっていう、この相互作用の複雑系がまるっと「生きる」っていうことだとしたら、地域にはこれを感じやすい環境がありますよね。

人と人との関係性だけじゃなくて、人と自然との関係性もそこには存在していて、その「間」には対話があるじゃないですか。

~~~ここまで引用とメモ

キーワードでまくり。
そして、アイデンティティ問題への視点もありましたね。
「点」で生きてるのがつらいのではないか、ってね。

田舎に行くと、「面」で生きている人がたくさんいて、
もっと大きな時間軸での3次元空間の構成員としてそこに存在できることが
ある意味、幸せだったりする。

一方で、田舎にある関係性っていうのは
いわゆる「しがらみ」的なものでもあって、
そのあたりをどのようにデザインしていくのか?ってことなのだと思う。

昨日、いい問いをもらって、
「これからコーディネーターの役割は変わっていくのではないか?」

っていうのについて考えていたら、まさにここ1週間で読んできた3冊の本に
方向性へのヒントがあるなあと。

うまく説明するのが難しいのだけど、
「学びの共同体」と「共同体としての学び」をつくる。
っていうことなのかもしれない。

ここでいう「共同体」は、
内山さんの「共同体の基礎理論」で書いてあったような、
ヨーロッパ由来の人と人の共同体の意味ではなく、明治以前の日本的な共同体を意味する。
人と自然、人と宗教、都市と農村。それぞれが学びあうこと。感じあうこと。

3次元の、あるいは「シン・ニホン」的に言えば、複素数平面的な学びをつくっていくためには「身体性」は必須で。
さらに、コーディネーターがコーディネートするものは学校とまち、や、生徒と地域の人、とかではなくて、
自然や歴史や宗教や風土や、そういうあらゆる資源や課題なのだろうと思った。

そうやって、「学びの共同体」をつくること。
それにともなって「共同体としての学び」をつくっていくこと。

上に引用した「共感資本社会を生きる」にも書いてあったけど、

(目的に対する)「手段としての学び」は、ひたすら効率化されてしまう。
だから、探究学習に代表されるように「機会としての学び」にシフトしていくこと。
それこそが予測不可能性を高め、学びを面白くするって思う。

その「機会としての学び」を
地域全体から見れば、自然、歴史、宗教を含めた
「共同体としての学び」になっていくのではないか。

まだ、仮説の段階なのだけど、うっすら見えてきた気がします。
いい問いをありがとうございました。  

Posted by ニシダタクジ at 07:47Comments(0)学び