2020年09月26日
学びの主体を「個人」から「場」へ移行する
イナカレッジラボオンラインと探究学習コミュニティが2夜連続でした。
「つながっている!」かもしれないと思いました。
探究学習コミュニティのメモから。
(ゲストは米沢興譲館高校の廣瀬先生でした)
~~~ここからメモ
「進学指導」「学力向上」「キャリア教育」の真ん中に探究をつくっていく。
理念を共有しながらなぜその連携が必要なのか_を自分の言葉で語れる先生にならないと。
「始め方」:進学指導におけるわかりやすい課題を使うこと
・推薦・AOで志望理由が深まらない
・面接指導で本人が語るものが浅い
・小論文指導で、志望系統に関する知識が浅い
・これからも推薦・AO入試が減ることはないから、指導体制の構築が必要
○志望理由が明確な生徒が合格している、最後まで頑張りぬいている。
○今までの活動から志望理由書に書ききれないほど書きたいことがあった生徒がいる
⇒だから探究学習やったほうがいいよね。
困っていることを吐き出しやすい雰囲気づくり
研修:現在の実践をワールドカフェで共有する
職員研修でもふりかえりシートを各人が記入して終わる
コンピテンシーベースで教科・行事・探究を結びつける
ワンページポートフォリオ(OPP)
違いを認めてリスペクトし合う
ふりかえりでメタ認知させながら他教科につなげられるか?
⇒教員間もコンピテンシーベースで話ができるか。
~~~ここまでメモ。
そもそも「ふりかえり」とは何か?みたいな根源的な問い。
なぜふりかえるのか?
なぜ僕は、「感想は?」ではなく、「印象に残ったことは?」と投げかけるのか。
「ふりかえり」によって、「場」に出されたもの。
それは、自分とは切り離された「何か」だ。
そうして、少し離れたところから(上から)そのふりかえりを見てみる。
このことをいわゆる「メタ認知」と言うのかもしれないが。
それによって見えてくるものがある。
それは生徒だけではなく先生も含めて、だ。
ふりかえることでメタ認知が可能になり、
コンピテンシーベースで各教科をつなげることができ、
それが探究を核にした横断的カリキュラムの実践になる。
「学びの創造」がそこにある、と思った。
一方で、イナカレッジ・ラボ(オンライン開催)で思ったこと。
~~~ここからメモ
イナカレッジは、地方の暮らしという場に身を委ねる、という練習なのかもしれませんね。
ただ、ご飯食べて寝ているだけなのでは?という不安になるくらいの暮らしを経ることで得られること。
それは田舎のもっている共同体というか、自然や風土との一体感というか、そういう場を前提としているのかもなー。
ひきだしもイナカレッジもやっているのは場に一体化し、場のチカラを高めることで、新たな発見やアウトプットを出すこと。
ひきだしは、場にひとりひとりのベクトルを差し出すことで、その共通理解と共有によって、企業とともに価値の扉を開けていくような感覚があるし、イナカレッジは暮らしをする場そのものが地域の時間の愛に包まれるから、場に溶け出すことができる感覚がある。
「一緒に暮らすこと」と「(作ろうとしている冊子の)コンセプトさえも途中で変わる」
それって「場」に溶けだして、「場」と「心」がつながっているということなのかもしれない。
「感情を大切にして行動する」っていう行動原則の人は、「なんでするの?」っていうwhyの問いかけに対し、論理的に説明するのが難しく、葛藤することになるのかも。
~~~ここまでメモ
取材型インターンひきだしがオンラインになって、あらためて感じた「ベクトル性」というキーワード。
イナカレッジラボを繰り返す中で、体験者が感じている「場に溶けている」ような感覚。
それは共同体の「営み」のようなゆるやかなベクトルを前提としているのかもしれない。
そこに身を委ねてみるということ。
そして、「アウトプットをするのは場のチカラである」という前提で、
何かを場からアウトプットをしてみること。
それって、アイデンティティの問題にも有効なんじゃないかって。
若者たちが(いや、私たちもだ)抱える最大の課題は
アイデンティティの危機だと思うし、それを何とかする方法を探したいと思っている。
その危機をつくった大きな原因が適職思想を前提としたキャリア教育であり、
それによって、働く人たちの多くが、自らの誇りと他者へのリスペクトを失った。
当然、若者は仕事に対する希望を失うことになる。
あるいは、やりがいのある仕事という呪いにおびえることになる。
「学びの主体」を「場」にすることはできないだろうか?
個人戦でもチーム戦でもなく、瞬間瞬間の「場」の劇場なので、即興演劇のように役を演じることしかできない。そこでは登場人物に(人ではなくモノも含めて)意味がある、というか、意味を見出す人がいるかもしれない。そういう「場の即興性」に「学び」と「承認」を委ねてみたい。
「印象に残ったこと」を場に差し出し、その場にいる人たちが全員で、「なぜ、その人はそれが印象に残ったのだろう?」と振り返り、発見しあう場。
「場」を主体としてアウトプットをつくってみる実験の場。
思ったことを言ったり、あるいはその場に存在するだけで、場の構成員になり、それによって自分で自分を承認できるような積み重ね。
そんなことが可能なのではないか。
取材型インターン「ひきだし」とにいがたイナカレッジの田舎暮らしインターンの
「場」と「ベクトル感」を内包するような、学びの場をつくること。
たぶんそこ。
学びの主体を「個人」から「場」へ移行すること。
そんな実践ができると思うと、どんどん楽しくなってきます。
「つながっている!」かもしれないと思いました。
探究学習コミュニティのメモから。
(ゲストは米沢興譲館高校の廣瀬先生でした)
~~~ここからメモ
「進学指導」「学力向上」「キャリア教育」の真ん中に探究をつくっていく。
理念を共有しながらなぜその連携が必要なのか_を自分の言葉で語れる先生にならないと。
「始め方」:進学指導におけるわかりやすい課題を使うこと
・推薦・AOで志望理由が深まらない
・面接指導で本人が語るものが浅い
・小論文指導で、志望系統に関する知識が浅い
・これからも推薦・AO入試が減ることはないから、指導体制の構築が必要
○志望理由が明確な生徒が合格している、最後まで頑張りぬいている。
○今までの活動から志望理由書に書ききれないほど書きたいことがあった生徒がいる
⇒だから探究学習やったほうがいいよね。
困っていることを吐き出しやすい雰囲気づくり
研修:現在の実践をワールドカフェで共有する
職員研修でもふりかえりシートを各人が記入して終わる
コンピテンシーベースで教科・行事・探究を結びつける
ワンページポートフォリオ(OPP)
違いを認めてリスペクトし合う
ふりかえりでメタ認知させながら他教科につなげられるか?
⇒教員間もコンピテンシーベースで話ができるか。
~~~ここまでメモ。
そもそも「ふりかえり」とは何か?みたいな根源的な問い。
なぜふりかえるのか?
なぜ僕は、「感想は?」ではなく、「印象に残ったことは?」と投げかけるのか。
「ふりかえり」によって、「場」に出されたもの。
それは、自分とは切り離された「何か」だ。
そうして、少し離れたところから(上から)そのふりかえりを見てみる。
このことをいわゆる「メタ認知」と言うのかもしれないが。
それによって見えてくるものがある。
それは生徒だけではなく先生も含めて、だ。
ふりかえることでメタ認知が可能になり、
コンピテンシーベースで各教科をつなげることができ、
それが探究を核にした横断的カリキュラムの実践になる。
「学びの創造」がそこにある、と思った。
一方で、イナカレッジ・ラボ(オンライン開催)で思ったこと。
~~~ここからメモ
イナカレッジは、地方の暮らしという場に身を委ねる、という練習なのかもしれませんね。
ただ、ご飯食べて寝ているだけなのでは?という不安になるくらいの暮らしを経ることで得られること。
それは田舎のもっている共同体というか、自然や風土との一体感というか、そういう場を前提としているのかもなー。
ひきだしもイナカレッジもやっているのは場に一体化し、場のチカラを高めることで、新たな発見やアウトプットを出すこと。
ひきだしは、場にひとりひとりのベクトルを差し出すことで、その共通理解と共有によって、企業とともに価値の扉を開けていくような感覚があるし、イナカレッジは暮らしをする場そのものが地域の時間の愛に包まれるから、場に溶け出すことができる感覚がある。
「一緒に暮らすこと」と「(作ろうとしている冊子の)コンセプトさえも途中で変わる」
それって「場」に溶けだして、「場」と「心」がつながっているということなのかもしれない。
「感情を大切にして行動する」っていう行動原則の人は、「なんでするの?」っていうwhyの問いかけに対し、論理的に説明するのが難しく、葛藤することになるのかも。
~~~ここまでメモ
取材型インターンひきだしがオンラインになって、あらためて感じた「ベクトル性」というキーワード。
イナカレッジラボを繰り返す中で、体験者が感じている「場に溶けている」ような感覚。
それは共同体の「営み」のようなゆるやかなベクトルを前提としているのかもしれない。
そこに身を委ねてみるということ。
そして、「アウトプットをするのは場のチカラである」という前提で、
何かを場からアウトプットをしてみること。
それって、アイデンティティの問題にも有効なんじゃないかって。
若者たちが(いや、私たちもだ)抱える最大の課題は
アイデンティティの危機だと思うし、それを何とかする方法を探したいと思っている。
その危機をつくった大きな原因が適職思想を前提としたキャリア教育であり、
それによって、働く人たちの多くが、自らの誇りと他者へのリスペクトを失った。
当然、若者は仕事に対する希望を失うことになる。
あるいは、やりがいのある仕事という呪いにおびえることになる。
「学びの主体」を「場」にすることはできないだろうか?
個人戦でもチーム戦でもなく、瞬間瞬間の「場」の劇場なので、即興演劇のように役を演じることしかできない。そこでは登場人物に(人ではなくモノも含めて)意味がある、というか、意味を見出す人がいるかもしれない。そういう「場の即興性」に「学び」と「承認」を委ねてみたい。
「印象に残ったこと」を場に差し出し、その場にいる人たちが全員で、「なぜ、その人はそれが印象に残ったのだろう?」と振り返り、発見しあう場。
「場」を主体としてアウトプットをつくってみる実験の場。
思ったことを言ったり、あるいはその場に存在するだけで、場の構成員になり、それによって自分で自分を承認できるような積み重ね。
そんなことが可能なのではないか。
取材型インターン「ひきだし」とにいがたイナカレッジの田舎暮らしインターンの
「場」と「ベクトル感」を内包するような、学びの場をつくること。
たぶんそこ。
学びの主体を「個人」から「場」へ移行すること。
そんな実践ができると思うと、どんどん楽しくなってきます。