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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2020年09月29日

学びのスタートラインに立つ

阿賀黎明高校の学校運営協議会(コミュニティスクール)第2回でした。

地域団体「阿賀黎明探究パートナーズ」もオブザーブ参加して
「拡大熟議」をご一緒しました。

今回のお題は令和4年度からの教育課程(新カリキュラム)について。

校長先生の「求める生徒像」の話から。

1 地域を知ることを通じて、学ぶ姿勢を身につけ、自ら進路を切り開く生徒
2 教養を高め、人間性を磨くことを心がけ、人のために尽くす志をもつ生徒
3 学ぶことに意義を感じ、未知のものに勇気をもって向き合おうとする生徒

この特に2を強調して説明されていました。

・真摯に学ぶことに意義を見出すこと
・学ぶことは魅力的であると感じること
・学ぶ過程において教養を身に付ける

・人間性を磨くこと
・相手に対する配慮、いたわるやさしさ

・ノブレスオブリージュ(高貴なるものの義務)
・もっているものが贈与する

拡大熟議。
ここを工夫しました。
通常ですと、「育てたい生徒像」みたいな問いになってしまのだけど。
その問い方が違うなあと。

「育てたい生徒像」って問いかけた時に
・あいさつができる、服装がちゃんとしてる
みたいな具体的な話と
・好奇心を持って自ら学んでいく生徒
みたいな抽象的な話が混在しちゃって議論がかみ合わなくなるっていう。

だから、もうそれをお題にして議論するのはやめようと。
そもそも校長先生が提示した「求める生徒像」があるわけだから
それをどう達成していくかっていうのを考えた方が建設的だろうと。

というわけで考えたグループワーク。

求めたい生徒像を真ん中において
前半:そもそも学びとは何か?なんのために学ぶのか?
みたいにさらに抽象度を上げる質問。

後半:求めたい生徒像を実現するために、何をしたらいいのか?
という具体的な行動の話。

結果としては、前半がいわゆる「チューニング」みたいになっていた。

その時の冒頭の問いかけが、
「あなたの学びのスイッチが入った瞬間はいつですか?」
だった。

数学のM先生は、中学生の頃、数学で、「いろんな解き方があるんだ!」
と知ってから数学に目覚めていくプロセスを語ってくれた。
そうそう、そういうやつ。
「機会」があって、「好奇心」を刺激され、学びのスイッチが入る。
たぶんそういうことなのだろうなと。

まあでも、このワークいいなあと。
アイスブレイク不要になる。
ルーツと価値観の開示。
これができる問いが心を開くよね。

そのあと、ワークで、僕の入ったテーブルは、
進路指導部の先生だったので、進路の話になりました。

先生からは、
・「進路選択」というのは避けられない。
地域の方からは
・そもそも「就職・専門学校」と「大学進学」っていう分け方でいいのか?

「一生を通して学び続ける人」を輩出したいとするならば。
「学び」を再定義しないといけないな、と。
与えられて、教えられて、覚えて、テストを受ける「勉強」から
機会を得て、好奇心をくすぐられて、やってみて、発見する「学び」へとシフトしないといけない。

それを高校でやらないといけないのではないか。
言ってみれば「学びのスタートラインに立つ」ための準備期間。

就職も、専門学校進学も、大学進学も、
「学びのスタートラインに立つ」という意味ではまったく同じだ。

だって、人生は巨大な学び場なのだから。

「あなたは何を学びたいのか?」
という問いに答える高校3年間であってほしいし、
そのための機会として地域の人達と地域資源があるのだと思う。

あなた固有のその「学び」は就職によって深められるのか、
その舞台は、専門学校なのか、もしくは大学なのか?

そんな問いを地域と一緒に受けとめ、ともに育んでいくこと。
それは、実は地域の大人に向けられた問いでもある。

巨大な学び場としての人生を、地域社会をいかに生きるのか?
何を学びたいのか?探究したいのか?
その問いは大人にとっても、先生にとってもフラットに刺さってくる。

きっとそれが地域と連携した学びのスタートであり、ゴールになっていくのだろうなと。

生徒の「学びのスタートライン」(進路)を一緒に考え、ともにつくっていくこと。
地域の大人自身も学びのスタートラインに立つということ。

「学びとなんだろうか?」と問いかけるプロジェクトのスタート地点に立とうとしているのではないかと思うと、ワクワクしました。


  

Posted by ニシダタクジ at 08:13Comments(0)学び

2020年09月27日

2軸を行き来し、「余白」をつくる



「DOUBLE LOCAL ダブルローカル~複数の視点・なりわい・場をもつこと」
(gift_ 後藤寿和/池田史子 木楽舎)

の発刊記念イベントにお邪魔しに
新潟駅のニュースポット「MOYORe:」へ。







ステキな空間でステキな話を聞いたなあと。
一言一言に「美しさとは何か?」問い直される時間となりました。

いつものように、メモを。

~~~ここからメモ

90年代~00年代
東東京での様々なアート的プロジェクト
都市の空間を展示空間にする流れ
作家と作家を応援する人たちが東東京に集まってきた。

クリエイターたちがまちのレイヤーをつくっていった。
もともとあった町に新しい(複数の)レイヤーがかけられていった。
コトを起こすこと、ヨソモノ・ワカモンの目で再発見・再編集する。

そうやってできた新しいレイヤーと
もともとあったものが共鳴していく。

2011.3.11東日本大震災
「消費していくだけの大都会で住んでいるだけでいいのか?」
何かしないといけないんじゃないか?
2011.6「山ノ家」を借りる。

積極的なYesじゃなかった。
流されてプロジェクトの主語になっていった感。

十日町・松代・山ノ家:気兼ねなく泊まれてちょっとランチできる
1F:カフェ 2F:ドミトリー
なんとなく直感で都市とローカルを行き来する人が増えていく予感
⇒その活動拠点となるような場をつくる
★移住したいから場をつくったわけではないし、プランがあったわけでもない
何かできそうな物件があったから。

「消費するだけでいいのか?」という問いの中にいたときに
きっかけとしての山ノ家があった。
⇒2つの場を持つことを選択した「ダブルローカル」の誕生

ダブルローカル⇔二拠点居住

2つのジモトを持つこと。半分半分で暮らす。
どちらも「ただいま」「おかえり」と言える空間。
どちらにもなりわいがあって、住みかもある。近所の人もいる。

本業だと思っていたデザイン業としての自分と宿・カフェの店主としての自分。
2つの自分を行き来している⇒もうひとりの自分を手に入れる。
★もうひとりのわたし「アナザーセルフ」
都市圏にいるときの視点と、山ノ家にいるときの視点を得る。

~~~本ができるまで。

長野:瀧内さん(ダブルローカルの出版ディレクションをした)と一緒に、
2015「地域カフェのつくり方」を開催(山ノ家で開催)⇒対話を重ねていった。
地域にカフェをつくるというのはどういうことか?をみんなで考えた
gift_のふたりと何かやってみたいと持っていたのでとりあえずYesと言った。

いい話しているなあと。
使えるかもしれないから録画しておいた。
gift_のふたりとの関係性の中で普段と違う話が引き出されていた。

「対話」/明確にゴールがあるわけじゃなく。
もっと面白いことが見つかるかも。
結論を出すものではない。瞬間瞬間に思ったことを話していく。

2015年⇒2018年になって、今どうですか?
っていうのを清澄白河(gift_lab)でやった。
文字起こしした原稿を「公開赤入れ」した。
「対話」を本にした。
2019年プロローグとエピローグを録った。

内容があって、タイトル(ダブルローカル)があって、編集方針が決まった。

~~~ここまで出版の流れ

恵比寿の設計事務所を開かれたヒミツキチにしたかった。
山ノ家のカフェ⇒不特定の人が来るし、地元の人も気軽に来てくれる。

東京でヨコ文字の仕事をやっている人と
新潟の普通のおじちゃんおばちゃんが来るような開かれたカフェ
⇒東京ではできない

自分たちの活動拠点を人に使ってもらい、結節点とする。
場を開く。

もうひとりのわたしを持つこと。
今の私を、もうひとりのわたしが見ている。
現代の分身の術。

カフェだけの対話じゃないもうひとつのコミュニケーションスタイルとしての「小屋バー」

カフェと違い、必然的に放置される
⇒その時隣り合った人と自然と対話が始まる。
★無理に対話を生まなくてもいい。
なんとなくその場にいてもいい空気

「計画通りに成し遂げる」のではなく、
ハプニング・対話からきっかけを得て考えること。
結論を出さずに、「つづく」にすること。

場のつくり方:懐の深さとライブ感⇒余白・余地のデザイン。
「セッション」:即興の音楽をつくるように場をつくる
三味線とバイオリンでも角度を変えて聞くと音楽になる。

余白・余地の中に自分が存在する心地よさ
(可能性)
また話したいね、そうだね。⇒つづく

「ダブルローカル」もそういう本
読むときの状況によって残ることが違う。

⇒「現在地」をしゃべっているから。

ダブルローカル:2つじゃなくていいのか?
Having more than one perspective,life and home

身近なものの再発見・再構成・再編集。
(当たり前)

この本は「冒険の報告」です。

~~~ここまでメモ

「ダブルローカル」的な視点っていま、高校生・大学生にこそ必要なのではないかと強く思った。

僕の中で残ったキーワードは、
「対話」「余白(余地)」「現在地」かなあ。

「自分との対話」っていうけども、
その時に、「ダブルローカル」みたいに
ベースの違う「もうひとりの自分」と話せることって
とても大切かもしれないなあと。
なんか余裕とういうか「余白」が生まれるよね。

他者との対話だと、さらにワクワクする余白につながっている。
瀧内さんが言っていたけど、「懐の深さ」と「ライブ感」のあるような「場」で、対話することで、
発見があって、それがきっかけになって何か始まるのかもしれないと。
そんな「余白の中にいる」感覚っていうのがカフェの心地よさなのかもしれない。

「ダブルローカル」という
2つの視点を持つということ。

あ、視点っていうのは支点っていうことなのかもしれない。
考えるための軸足。
「自由」っていうのは、それをいくつも持つことなのかもしれないなあと。

最後に「現在地」。
こんなにも結論がない本もないかもしれない、と。
おじさんが読んだら「結局、何が言いたいの?」
ってレビューしちゃうかもしれない。

でもその「結局」とかっていう思想じゃない世界観で
書かれているんだなあと。

複数の視点であり、なりわいであり、場を行き来すること。
行き来し続けること。

そのある部分を切り取って言語化する。
それが今回の「ダブルローカル」。
話したとき、書かれたときの「現在地」に過ぎない。

そんな「現在地」を重ねていくような生き方。
たまたまそこに居合わせた人と「現在地」を共有していくような場。

うん、それ、やりたいです。

最高のタイミングでいい本に出会い、いい話を聞くことができました。
後藤さん、池田さん、MOYORe:のみなさん、ステキな企画をありがとうございました!

  

Posted by ニシダタクジ at 08:53Comments(0)学び日記

2020年09月26日

学びの主体を「個人」から「場」へ移行する

イナカレッジラボオンラインと探究学習コミュニティが2夜連続でした。
「つながっている!」かもしれないと思いました。

探究学習コミュニティのメモから。
(ゲストは米沢興譲館高校の廣瀬先生でした)

~~~ここからメモ

「進学指導」「学力向上」「キャリア教育」の真ん中に探究をつくっていく。

理念を共有しながらなぜその連携が必要なのか_を自分の言葉で語れる先生にならないと。

「始め方」:進学指導におけるわかりやすい課題を使うこと
・推薦・AOで志望理由が深まらない
・面接指導で本人が語るものが浅い
・小論文指導で、志望系統に関する知識が浅い
・これからも推薦・AO入試が減ることはないから、指導体制の構築が必要
○志望理由が明確な生徒が合格している、最後まで頑張りぬいている。
○今までの活動から志望理由書に書ききれないほど書きたいことがあった生徒がいる
⇒だから探究学習やったほうがいいよね。

困っていることを吐き出しやすい雰囲気づくり
研修:現在の実践をワールドカフェで共有する
職員研修でもふりかえりシートを各人が記入して終わる

コンピテンシーベースで教科・行事・探究を結びつける

ワンページポートフォリオ(OPP)

違いを認めてリスペクトし合う

ふりかえりでメタ認知させながら他教科につなげられるか?
⇒教員間もコンピテンシーベースで話ができるか。

~~~ここまでメモ。

そもそも「ふりかえり」とは何か?みたいな根源的な問い。
なぜふりかえるのか?
なぜ僕は、「感想は?」ではなく、「印象に残ったことは?」と投げかけるのか。

「ふりかえり」によって、「場」に出されたもの。
それは、自分とは切り離された「何か」だ。

そうして、少し離れたところから(上から)そのふりかえりを見てみる。
このことをいわゆる「メタ認知」と言うのかもしれないが。

それによって見えてくるものがある。
それは生徒だけではなく先生も含めて、だ。

ふりかえることでメタ認知が可能になり、
コンピテンシーベースで各教科をつなげることができ、
それが探究を核にした横断的カリキュラムの実践になる。

「学びの創造」がそこにある、と思った。

一方で、イナカレッジ・ラボ(オンライン開催)で思ったこと。

~~~ここからメモ

イナカレッジは、地方の暮らしという場に身を委ねる、という練習なのかもしれませんね。
ただ、ご飯食べて寝ているだけなのでは?という不安になるくらいの暮らしを経ることで得られること。

それは田舎のもっている共同体というか、自然や風土との一体感というか、そういう場を前提としているのかもなー。

ひきだしもイナカレッジもやっているのは場に一体化し、場のチカラを高めることで、新たな発見やアウトプットを出すこと。

ひきだしは、場にひとりひとりのベクトルを差し出すことで、その共通理解と共有によって、企業とともに価値の扉を開けていくような感覚があるし、イナカレッジは暮らしをする場そのものが地域の時間の愛に包まれるから、場に溶け出すことができる感覚がある。

「一緒に暮らすこと」と「(作ろうとしている冊子の)コンセプトさえも途中で変わる」
それって「場」に溶けだして、「場」と「心」がつながっているということなのかもしれない。

「感情を大切にして行動する」っていう行動原則の人は、「なんでするの?」っていうwhyの問いかけに対し、論理的に説明するのが難しく、葛藤することになるのかも。

~~~ここまでメモ

取材型インターンひきだしがオンラインになって、あらためて感じた「ベクトル性」というキーワード。

イナカレッジラボを繰り返す中で、体験者が感じている「場に溶けている」ような感覚。
それは共同体の「営み」のようなゆるやかなベクトルを前提としているのかもしれない。
そこに身を委ねてみるということ。

そして、「アウトプットをするのは場のチカラである」という前提で、
何かを場からアウトプットをしてみること。

それって、アイデンティティの問題にも有効なんじゃないかって。

若者たちが(いや、私たちもだ)抱える最大の課題は
アイデンティティの危機だと思うし、それを何とかする方法を探したいと思っている。
その危機をつくった大きな原因が適職思想を前提としたキャリア教育であり、
それによって、働く人たちの多くが、自らの誇りと他者へのリスペクトを失った。
当然、若者は仕事に対する希望を失うことになる。
あるいは、やりがいのある仕事という呪いにおびえることになる。

「学びの主体」を「場」にすることはできないだろうか?

個人戦でもチーム戦でもなく、瞬間瞬間の「場」の劇場なので、即興演劇のように役を演じることしかできない。そこでは登場人物に(人ではなくモノも含めて)意味がある、というか、意味を見出す人がいるかもしれない。そういう「場の即興性」に「学び」と「承認」を委ねてみたい。

「印象に残ったこと」を場に差し出し、その場にいる人たちが全員で、「なぜ、その人はそれが印象に残ったのだろう?」と振り返り、発見しあう場。
「場」を主体としてアウトプットをつくってみる実験の場。

思ったことを言ったり、あるいはその場に存在するだけで、場の構成員になり、それによって自分で自分を承認できるような積み重ね。

そんなことが可能なのではないか。

取材型インターン「ひきだし」とにいがたイナカレッジの田舎暮らしインターンの
「場」と「ベクトル感」を内包するような、学びの場をつくること。

たぶんそこ。
学びの主体を「個人」から「場」へ移行すること。
そんな実践ができると思うと、どんどん楽しくなってきます。

  

Posted by ニシダタクジ at 08:48Comments(0)学びイベント日記

2020年09月20日

二元論ではなく内包する


ティール組織(フレデリック・ラルー 英治出版)

2018年春、僕が茨城を出る時に、話題を席巻していたこの本。
ようやく読むタイミングが来たのかもしれません。
次は「インテグラル理論」かな。

まだ途中なのですが、
就活についてもやもやしている大学生に向けて、
部分的に抜粋してお伝えします。

本について、ざっと読みたい人はこちらのブログがよいかなあ。
https://nol-blog.com/what_is_teal_organization/

組織運営および経営は
「衝動型」(レッド):オオカミの群れ
「順応型」(アンバー):軍隊
「達成型」(オレンジ):機械
「多元型」(グリーン):家族
と進化してきたのだと。

その先に
「進化型」(ティール):生命体
があると。

そこでは、3つのブレイクスルーとして
・自主経営
・全体性
・存在目的(進化する目的)
が大切になるのだと。

まあ、まとめはそういう感じで、
今日は第1部第3章の「進化型(ティール)」の紹介から

~~~以下本文より抜粋&メモ

21世紀のもっとも輝かしい躍進は、テクノロジーではなく、人間とは何か、というコンセプトを拡大することによって成し遂げられるだろう。

私たちがエゴに埋没していると、外的な要因(ほかの人々は何を考えているのか、どのような結果が達成できるのか)によって判断が左右されがちになる。

衝動型(レッド)の観点では、自分の欲しい物を獲得できる判断こそが正しい。順応型(アンバー)では、判断を社会規範への順応度に照らして考える。家族、宗教、あるいは社会階層が正しいとみなす範囲を超える判断は、罪や恥になる。達成型(オレンジ)では、効果と成功が判断の基準だ。多元型(グリーン)の場合は(組織への)帰属意識と調和を基準に判断される。

進化型(ティール)では、意思決定の基準が外的なものから内的なものへと移行する。自分の内面に照らして正しいかどうか。「私は自分に正直になっているか」「自分がなりたいと思っている理想の人物は同じように考えるだろうか?」「私はこの世界の役に立っているのだろうか?」を重視する。エゴを失う恐れが少ないので、一見危険に見える意思決定ができる。どんな結果になるのかをすべて考慮しなくても、内面の奥底にある確信に沿っているからだ。

周囲からの反対に直面したり、成功しそうにないと思われたりしても、「誠実さ」や「自分らしさ」という感覚を出発点に、本当は正しいと思えない状況、自分が声を上げ、行動をおこさなければならない状況に対する感覚を養う。

進化型(ティール)では、他人から認められること、成功、富、帰属意識は快楽的な体験であり、エゴを充足させる甘酸っぱい「わな」だととらえられる。そのため、それ以前の段階(ステージ)とは対照的に、優先順位が入れ替わる。良い人生を送るためには他人からの評価や成功、富、帰属意識を求めず、充実した人生を送るよう努める。他人から認められることや成功、富、愛は結果に過ぎない。

これ以前の段階(ステージ)では、愛や名声や成功を追い求めていくと、ゆっくりと、しかし確実に、私たちが「他人の顔を身にまとう」ようになってしまう。進化型(ティール)パラダイムでは、内面の正しさを求める旅を続けると、自分が何者で、人生の目的は何か、という内省に駆り立てられる。

進化型(ティール)パラダイムでは、人生とは自分たちの本当の姿を明らかにしていく個人的・集団的行程と見られている。

「進化型(ティール)で行く」ことになると、人生の目標を設定して、どの方向に向かうべきかを決めるのではなく、人生を解放し、一体どのような人生を送りたいのかという内からの声に耳を傾けることを学ぶ。

パーカー・パーマーは著書「人生に語りかけてもらいなさい」で次のように言う。

「職業とは何かを突き詰めていくと、「エゴ」の本音を覗くことになる。それは、だれもが日々意識している「自分」ではなく、器としての「自分」を通して人生を送ろうとしている、という事実である。つまり私が「自分の人生」と呼ぶ、表面的な、職業の型(器)にはまった経験の下には、実はもっと深い、もっと真実の、本来なりたい自分が送るべき人生がある。この違いを感じ取るには、時間と過酷な経験が必要だ。」

進化型(ティール)パラダイムに従って活動している人は、「大志を抱いているが、野心的ではない」だ。自分の本質に迫り、自分の使命に向かって努力するというのが彼らの原動力で、同じ見方をできない他の人々にとってみると、進化型(ティール)パラダイムで行動する人は、自分の個人的な成長を邪魔する人を許せず、人生の目的と合わない状況を受け入れたくない人のように映るかもしれない。

人生を「自分の本当の姿を明らかにする行程」だととらえれば、自分の限界を現実のものとして冷静に見つめ、目に入るものを心穏やかにとらえることができる。人生とは、自分にもともと素養がないものに無理をしてなろうとすることではない。

私たちはまた、周囲の人々や状況には何が足りないか、あるいは何が間違っているか、といったことではなく、そこに存在するもの、美しいもの、可能性に注意を向けるようになる。決めつけよりも思いやりと感謝を優先する。

心理学者たちは、「欠点を見る」のではなく「長所を生かす」というパラダイム変化が起こっていると指摘する。これは経営から教育、心理学からヘルスケアなど、さまざまな分野でゆっくりと深く進行している。

その出発点は、自分は人として、他人や周囲から解決してもらうことを待っている「問題」なのではなく、本質が明らかになることを待っている「可能性」なのだ、という前提である。

人生を発見の行程だと考えれば、人生で出遭う挫折や失敗、さまざまな障害に潔く対処できる。「この世の中に失敗などは存在しない。ただ自分自身や世界の奥底にある本当の姿に近づくための経験にすぎない」という精神的な悟りへの入り口をつかむことができる。

進化型パラダイムでは、人生における障害物とは、自分自身とは何か、世界とは何かを学べるよい機会なのだ。

「AまたはB」から「AもBも」へ。
矛盾ではなく、互いに必要とする2つの要素ととらえる。

全体性(ホールネス)に対するあこがれと、職場の「分離」が対立する。

ほかの人々との関係性における全体性。

判断をしない世界では、他者との関係性は新たな形をとる。他者の話に耳を傾けるとき、それはもはやうまく説得し、状況を修正し、否定するための情報収集に限られるものではない。判断から解放された共有スペースを作り、相手の話にとことん耳を傾けることによって、ほかの人々が自分の声や真実を見つけられる手助けをする。もちろん、それはお互い様である。

達成型(オレンジ)パラダイムで、人々は順応型組織の抑圧された、規範に従うコミュニティーから解放された。今や、お互いに耳を傾けて自分らしさと全体性を得られるような、新しい下地の上にコミュニティを作りなおす機会を得たのだ。

人々は自己に誠実に向き合うほど、自分がもっと大きな何か、人生と意識がお互いに結びついた一つの織物ののようなものの一部、その一表現にすぎないことがわかってくる。

~~~ここまで本文より引用、メモ

これはすごい。
面白法人カヤックのブレストが「数を出す」と「乗っかる」しかない話とか、
ミーティングにおけるチューニングの重要性とか、
荻ノ島集落で感じた「地域の個性の構成員になる」というアイデンティティの形成方法とか。
全部進化型(ティール)で説明できるじゃないかと。

考えている人いるんだなあって。

そして今僕が直面している、
「まなびとは何か?」
という問いに対しても、

受験に向けての「5教科の学び」か、地域活動等による「探究的な学び」か?

という議論がされがちだけども、
そういう二元論の議論をしていてはいけないのだと。

学力試験か推薦・AO(総合型選抜)か、
っていうAかBか?の議論ではなくて、

AもBも必要で、
両方を内包する新たな学びを提示しないといけないのだと。

そしてそれには地域の人々の協力というより、
共に学ぶ同志としての地域の大人が必要不可欠なのだと。

地域の大人は外から支えるのではなく、
地域の大人を内包した学びの場をつくっていくこと。

たぶんそれだな、と。
経営学とか組織論って、人生に直結しているよなあって思う。

自らをティール組織のように経営していくこと。

むずかしいけど、おもしろそうだな、と。  

Posted by ニシダタクジ at 12:45Comments(0)

2020年09月18日

学校を変えるのではなく、演じるためのもうひとつの場をつくる

デンマークのフォルケホイスコーレ留学帰りの
大学生2名が阿賀町にやってきてました。
昨日はそのふりかえり。

公営塾スタッフやまちの人に
インタビューしてもらったので、
それがこれから記事になります。

なので、
取材型インターンひきだしの
フォーマットを使って振り返りました。

キーワードは
・場のチカラ
・魔法をかける編集
・予測不可能性
・解像度を上げる

などなど。

~~~以下ふりかえりメモ 
(フォルケホイスコーレ(ipc)留学経験の視点を入れつつ振り返りしました)

瞳の色が印象的。たどりついていない感じ。
まだ何かあるんじゃないか、と思わせる。

ipcも色で覚えている
コモンルームのオレンジ色の光と2つのソファー。
オンラインの画面では色が見えない。
リアルだと色が立体的に感じられる。

・関係性を鮮やかにしていくこと
ベクトル=問いの共有

その人が拡張されていく感じ。
面が増えていく。
人と一緒に旅をすることの醍醐味。

一緒に旅をする=自分を見つける/相手を見つける。
プロジェクト=小さな船旅

多様性を組み込んでいくコミュニティ。
年齢は数字でしかない。
その人のできないところ、ニガテなところもさらけ出して共有することでフラットになれる。
フラットに感じられる。
学びの場においてフラットであることが大切。

一緒に体を動かす。
「楽しさ」=身体性の共有

ipc:先生は「自分が分からないこと」も共有してくれるんだ!
一緒に考えてくれるんだ。

問いの共有

新型コロナウイルスの時の激動の2週間の後、
自分たちの気持ちを話し、また気持ちを聞いていく。
新型コロナウイルス=課題であると同時に機会でもある。

「感情」を出せる場が大切。
空間のデザインも重要。
共感・違和感をともにすることを大切にする。
リアルな不安も話せる場づくり。
「先生」でもあり、ひとりの市民でもある。

日本の「学校」=演じる場
ipc=さらけ出せる場。
学校をフィクションだと認識する。
先生の発言は仮説にすぎない。

他者と話す。紙に書くこと。
「体から切り離して」出してみる。
相手の言葉によって、自分を理解する。

~~~ここまでメモ

ああ、フォルケホイスコーレって
とっても素敵な「場」ができているんだな、と。
新型コロナウイルスでさえ、「機会として学ぶ」
に組み込まれているんだなと。

たぶん、高校における「探究」っていうのも、
大きな流れで言えば、そういうことなのだと思うのだけど。

僕の感想としては、
やっぱり「場」が大切なんだなと。

そして一気には変わらないし、
そもそもそういうエネルギーの使い方は
「創造的破壊」アプローチで、僕に向いてないなと。

フォルケホイスコーレ的な学びの場を日本にも作ろうって
動きが盛んだけれども、そしてそれはまたそれで理想的なのかもしれないけど、

僕のアプローチは、
「並行」「並列」「ハイブリッド」なのかもしれない。

と、打っていたら。
「へいこう」の変換が「平衡」になり。

!!!ってなった。

それだ!
「二元論」から「動的平衡」へ。
いま、僕の中でのキーワードなのだけど。

その「動的平衡」のためには、
2つの世界が必要で、

坂口恭平さん風に言えば(「独立国家のつくり方」より)、
「学校社会」と「放課後社会」なのだけど、
それを行き来すること、できることが大切なのだなと。

それはいわゆる「サードプレイス」とは少しニュアンスが違っていて、
「並列」なんだよね。

そしてそれはもしかすると、
高校生のための寮を併設しているからこそ、可能になるのかもしれないと思った。

生活とか暮らしの中で、経験し対話し、感性が磨かれて、
そして「感情」を「場」に出していくことで、相手を知り、また自分を知る。
学校にいる時間は学校にいる時間で、「学校にいる自分」を生きていく。

フォルケホイスコーレの先生たちは、ひとりの人間として、
感じたことを大切にして、時にそれをさらけ出して、学生たちと接していた。
それはそれで素晴らしいと思うのだけど。

僕は「並列する」っていう方法もあるのではないかと。
そしてその方法こそが、地域の力がより発揮できるのではないかと

「場」としてとらえるというか、
「学校」という場と並列する「場」をつくっていくこと。

もうひとつの「場」は学校とは違うシステムで動いていて、
関係性がフラットで、目標や評価が無く、機会から学んでいる。

両方を演じられたほうがいい。

いや、両方を動的平衡で行き来するのだ。

そういう世界をこれから実践・実現していくかと思うと、まあ、めちゃめちゃ楽しいですね。


写真は、大学生撮影のオラに力を分けてくれ、の図。  

Posted by ニシダタクジ at 06:41Comments(0)学び日記

2020年09月13日

ドリームチームのフリをしろ



「教育の島発 高校魅力化&島の仕事図鑑~地域とつくるこれからの高校教育」
(編著 大崎海星高校魅力化プロジェクト 文 松見敬彦 学事出版)

読み終わりました。
シビれまくりましたね。

僕は昨年11月に大崎海星高校におじゃましました。

「コーディネーターがつなぐのは」(19.11.20)
http://hero.niiblo.jp/e490014.html

今年2月に新潟で再会
「気が付くと地域と自らの人生の当事者になっている」(20.2.22)
http://hero.niiblo.jp/e490337.html

圧倒的な勝手な使命感、何度聞いてもアツいなあ。

ということで本を読んだメモを書きますが、
その前に、わかりやすく学校の現状がまとめられている部分を引用します

~~~

学びとは「日々の生活の中で生じる出来事や問題や課題を、家族や地域の人々と知恵を出し合い、話し合いを重ねることで(命をもかける)多くの失敗を繰り返しながら解決に向けて挑戦的に試行錯誤すること」でした。

では、そうした学びから学校教育への転換にあたり、最も重視されたことは何か。それは安全性と効率性でした。個々人による命をかけた挑戦的な試行錯誤ではなく、学術的な研究や探究の中から生まれた英知を領域ごとに区分けして、学科や教科という形で効率的に教え授ける機能や施設が近代的な学校の原点です。

このような学問的成果の効率的な伝達機能や施設が果たした来た役割はやはり絶大で、私たちはわずかな歴史的時間で、それまでの人類が長い年月かけても解決できなかったことさえも、学校の中でいとも簡単に学び取れるようになってきました。しかし、いまこのような学校の機能の限界性が突き付けられています。あまりにも学びの効率性を追い求めすぎた学校は人間が最も大切にするべき本能的な学びをも奪ってしまっている現状があります。

~~~広島大学大学院 永田忠道准教授より

まさにこれ。
こういう「本能的な学び」をつくっていくこと。
これが地方にある高校の使命だと思います。

じゃあ、どうしたらいいのか。
本書を読んでひとまずメモします。

~~~ここからメモ

「これってこうだよ」ではなく、「それってどうなの?」って訊いてくれるから。
よい教師は、生徒によい問いを発する。

校長から電話。でも、夜10時以降じゃないと時間が取れない。
校長は言った。「じゃあ、その時間で」
深夜に教頭を伴ってやってきた大林校長(当時)。

「ここまでやれる校長がおるんか!」
取釜さんのあの時の感動が、「直接会いに行く」という基本姿勢につながっているのだろうな。

「魅力化推進チーム」
ここから生まれてる。
取釜さんと先生方のチーム。
これ、大事かも。

「機会さえ与えてあげれば、自分たち大人がその環境を整えさえすれば、子どもたちは無限に伸びる。それを学校と地域が総力を結集してやっていくのが高校魅力化だ。」

「あれができない、これができない」という前に、機会を与えているのか?と問うこと。

「自分で自分を、『究極に承認』している人たちだと感じました」(新任教師 長門さん)

保護者(や地域の人々)が教育の当事者になればどうか。
「地域に暮らす全ての大人たちが先生になる」瞬間。

~~~ここまでメモ

エッセンスに詰まっているなあと。
魅力化3番手グループとしては、めちゃめちゃ響きます。

タイトルにもなっている「島の仕事図鑑」は
魅力化の初年度からスタートしたプロジェクト。
町と商工会との協力によりスタート。

地域の大人にインタビューをして冊子化する地域プロジェクト(有志の課外活動)

本書にコラムを寄せている東北芸術工科大学岡崎エミさんによれば、

「きく」という行為だけでも
1「じっくり聞く」 2「共感して聞く」 3「質問して聞く」 4「要約して聞く」
の4種類があり、依頼の時には自己との対話が不可欠だし
聞いた後に第三者に表現して伝えるアウトプットにもなる
コミュニケーション訓練のフルコースなのだという。

なるほど。
インタビュー冊子づくりやってみたいなと。

この冊子づくりが果たした役割はとてつもなく大きいと感じた。

1つめ、高校生の変化プロセスを可視化できたこと。

2つめ、高校魅力化、あるいは地域づくりの(地域、先生双方の)当事者を増やしたこと。

3つめ、根源的な問いを突き付けられることで、「承認」と「誇り」が生まれること。

特に、3つめの「承認」と「誇り」については、僕の長年のキーワードでもあるので、
ここに書いておきたい。

第4章「若手教員」
登場しているのは新任教員の長門先生。
仕事図鑑づくりに寄り添った。

~~~以下本文より引用

誰もが、いまの長門にないものを持っているような気がした。
きらきらと輝いてまぶしく映った。背景や想いは異なっても、
彼らはみな自分の意思で選択した「自分の人生」を生きていたのだ。

彼らの矜持は、生徒たちのインタビューに付き添って、
話を聞いていればすぐに分かった。

他者からの承認を求めたり、それを行動原理にしたりすることもない。
自分の中から突き上げる内なる声に正面から向き合い、その
野生が赴くまま正直に生きていた。

(中略)

「自分で自分を、『究極に承認』している人たちだと感じました」と長門。
羨ましかった。純粋に、心から憧れた。まさしく生徒たちに期待した
刺激や感動、変化を、長門も一緒に追体験していたのだ。
もしかすると、他でもない自分が最も強く影響を受けたかもしれないとさえ感じる。

~~~以上本文より引用

ふふふ。
すごいね。
笑ってしまう。

これが、デザインのチカラだと思った。
きっと、取釜さんは「結果的にそうなった」と言うだろう。
それが想いの力とふりかえりの成果なのだろう。

生徒も、先生も、地域の人たちも「機会」を起点にともに学ぶ。
大崎上島では「島の仕事図鑑」こそが「機会」だった。

そしてそれは同時に「承認」と「誇り」を生みだすプロジェクトとなった。

生徒たちにとっても、
地域の大人たちにとって、
いや、おそらく先生たちにとっても、
いま、必要なのは「承認」と「誇り」なのではないか。

「承認」も「誇り」も人から与えてもらうことはできない。
「機会」と「場」から、自らが感じ、つかむものだ。

そんな「機会」と「場」をつくること。
たぶんそれが、阿賀黎明高校魅力化プロジェクトに向けて、
もっとも大切になっていくのだろうと。

第6章で「島の仕事図鑑PJ」を立ち上げた
当時の商工会の総務企画課長、渡川さんは言う。

「すべてにおいてタイミングも良かったんじゃと思います」

自分が移住定住の担当者だった時に高校魅力化PJが始まったこと、
コーディネーターとなる取釜さんがいたこと、大林校長が赴任してきたこと。

「うまい時にうまいこと『変人』が三人集まったんですよ」と笑う。

そういう意味では、今の阿賀黎明高校魅力化チームも、
「ドリームチーム」ってのちに言われるくらいの人が集まってきているな、と。

Fake it till you make it
「実現するまでそのフリをしろ」
という言葉がある。

そうだ。
僕たちはドリームチームだ。

ドリームチームのフリをして、
本日も「まなび体験会」と「地域みらい留学フェスタ」でお待ちしています。


※写真は8月23日まなび体験会の様子です。  

Posted by ニシダタクジ at 07:46Comments(0)

2020年09月11日

もう出港しているんじゃけえ


「教育の島発! 高校魅力化&島の仕事図鑑」(大崎海星高校魅力化プロジェクト 学事出版)

やっと読み始めました。
最初から激アツな文章が続いて、朝からドキドキしています。
仕入れたいなあ、この本。

昨日の山形・新庄・最上ジモト大学を運営するとらいあさんが
主催する「学びの土壌づくり」のゲストにも登場していた
大崎海星高校魅力化推進コーディネーターの取釜さん。

取釜さんの一言一言に実践者としての重みを感じる。

ポイントは1~3年で取り組み「時代の航界士」となる「大崎上島学」と
島の大人たちを取材して冊子をつくる「島の仕事図鑑」だと。

~~~以下、イベントメモ

「地域と学校の連携」と、言葉で語るのはたやすいが、
それは1日1日の積み重ねの結果、ようやく実現するものだ。

「組織や行政はあとから付いてくる」

まずひとりが動き、そして地域が動く。
それから学校が変わり、行政が後追いしてくる。
「学校にとっての魅力化」と「地域にとっての魅力化」は
「生徒」「学校」「自分」「地域」の重要度が異なるが、重なる部分があり、
そこをやっていくこと。そのひとつが「島の仕事図鑑」だ、と。

そして、地域の人に対しては、
「(ゆくゆくは)地域にとってもプラスですよ」と語り続ける。
そして、目に見える成果物(印刷物など)を残していく。

始めるのはひとりの人だが、
続けていくには仕組みとかシステムにしていく必要がある。
⇒一般社団法人「まなびのみなと」設立

★どういう子を育てたいか?
⇒年々更新していってもいい。その更新システムがあることが大切。

高校生がプロジェクトに参加した時の
その日のリアルな声を積み重ねていく。

「協議会」⇔「分科会」
偉い人が入っている承認システムと役割ごとに動きが速い行動システムとの分業

★地域との接点:授業だけではなく授業外でも
・授業「大崎上島学」
・単発の「地域プロジェクト」(1~数か月)
・部活動「みりょくゆうびんきょく」
3パターンの地域との接点。

~~~ここまでメモ

取釜さんの話の後の参加者同士の対話の時間。

僕のキーワードは3つ

「講座」の終わり⇒誰かが何かを一方向的に教える「まなび方」は終わりに近づいている。

育てたい人物像⇒アップデートされ続ける。

「手段としての学び」から「機会としての学び」へ。

最後のはいつも言っていることだけども。
基本的には「対話」なんだなと。

ただひたすらに「対話」を積み重ねて、
今の大崎海星高校魅力化プロジェクトがある。

「対話」をするから、
異質な他者との協働の入り口が見えてくる。

「対話」によって「関係性の質」が高まり、「学びの質」も高まる。
だから、「ギャップ」は乗り越えるものではなく、活かすものなんだなと。
そのための対話。

話を聞いていて、
大崎海星高校のプロジェクトはよくデザインされているなと思った。

授業や授業外プロジェクト、部活動等との組み合わせによる
生徒たちの地域への「参画のハシゴ」のデザイン。

協議会と分科会といった「企画の実行」のデザイン。

島の仕事図鑑づくりという双方の「当事者意識の向上」のデザイン。

最後にそれを質問したのだけど、
取釜さんはそれを「結果」だという。

仕組み化のポイントは、
「目の前のことを大切にしながら先の話をすること」だと。

シンプルだなあと思った。
実は原則ってシンプルなのかもしれない。

目の前のこと、目の前の仲間(生徒やパートナー)を大切にして、
振り返りながら、先を見据えること。

「もう出港しているんじゃけえ」
(実際はこういう風には言ってない。笑)

そう。
船はもう、出港しているんだ。

いまいる乗組員と対話し、違いを楽しみ活かし、
目の前に来る自然条件に対応しながら、船を進めていく以外にない。

ラストは、取釜さんのモットーである「圧倒的勝手な使命感」で締められた。

「圧倒的勝手な使命感」を持ち、まだ、できることがあるんじゃないか?とひたすら考える。
そんなひとりひとりと船に乗り、船を進めていくこと。
そしてプロジェクトという船旅は続いていく。


※ 写真は昨年11月、大崎上島を訪れた際の行きの船から撮影したもの  

Posted by ニシダタクジ at 07:43Comments(0)学び

2020年09月07日

やりがいは何か?という愚問

9月4日
取材インターン「ひきだし」事後研修でした。

僕の興味は、取材を通して、
「オンラインの向こう側」を見てみたかった。

結論としては、
チューニングを強化してチャットと併用することで、
チームインタビューはうまくいくことが分かった。

実は「場」に差し出してるものが多くなるっていうこと。
それが場との一体感を生んでいる。
オンラインは、頭や気持ちの一部だけを取り出せるからかもしれない。

~~~ここからはメモ

「否定」ではなく、「違和感の表明」。
違和感を受け止める場があるかどうか?
自分にしかできない質問=いまこの瞬間に感じた違和感を問いに替えること
その質問がインタビューをドライブさせる。

「昭和のサラリーマンはお金のために好きでもない仕事をやっていた」は本当なのか?
⇒また行きたくなる「場」「一体感」があったのではないか。

好きなこと=doやwhatではなくbeやhowかも。
何をやるかではなく、状態や関係性が大切。

★「やりがい」問題
仕事人にインタビューをするとき、ついつい、
「この仕事のやりがいは何ですか?」と聞いてしまう。

今回インタビューした会社の中で、
「やりがいを感じるのは感謝されたとき」
との回答を得て、ひとりの大学生が違和感を持った。
感謝ってやりがいなの?って
それがふりかえりでホットな議論になった。

その違和感について、僕が感じたのは、
「やりがいは何か?」って仕事の目的を聞いているはずなのに、
「感謝されること」は結果であって、目的ではないから。

でも、そもそも仕事に目的は必要なのか?
そもそも普段「やりがい」なんて意識して仕事しているか?
もしかすると、経営者は必要なのかもしれないけど。

目の前の仕事に、お客様に、集中しているとき、
「やりがい」という言葉は頭から消えている。

大学生に質問されてはじめて意識する。
問われたから無理やり考える。

そしてそれは、研修でやったけど、
「内なる言葉」ではなく「外に向かう言葉」で答えてしまう。
「外に向かう言葉」=人に説明する言葉⇒見える化⇒計測可能(量的に語れる)
結果、「感謝」が出てくる。

1人が書いていたけど、
仕事の目的というかそもそもの成り立ちは「お客様に価値を届けること」であり、
「感謝されること」は結果である。

だから、やりがいは何か?という質問の仕方が間違っているのだ。

あなたが届けたい、届けられる価値は?
と聞かないといけないし、

「感謝」をもっと解像度を上げるには、
あなたが喜びを感じる瞬間は?
と質問しないといけない。

ただ、今回聞いていて思ったのは、
「感謝」によって思いやりと愛の循環が起こる
⇒「場」の空気がよくなる⇒明日も会社行こうと思う
っていうことなのかもしれない。

つまり。
モチベーションの源泉は、ゴール(目的)ではなく、
「場」から湧いているのではないか、と。

~~~ここまでメモ

いいですね。
やりがい問題。

タイトルの話に戻ると、
「仕事のやりがいは何か」という問いが適切じゃないということ。

それって、「働く目的は?」っていうのと
同じくらい難しく、哲学的な問いで、かつひとりひとり答えが違うし、
ふだんから考えていないから、質問されて「これです」って即答できるものではない。

だから答えとしては「やっててよかったこと」を答えてしまう。
例えば「お客様に感謝されること」
それは「目的」ではなく「結果」であるので、違和感を覚えてしまう。
しかし、それをうまいこと編集すると「やりがい」に聞こえる。

そもそも「やりがいは何か?」って考えることがないほど
夢中で仕事をしている人は本人的にはおそらく「やりがいのある仕事」をしている。

だから、質問を変えないといけない。
たとえば、「夢中になれる瞬間はいつか?」とか。

あとは、「外に向かう言葉」と「内なる言葉」の違い。
やりがいは何か?と聞かれて、
やりがいを言語化、見える化、計測可能にすると、わかりやすくはなるけど、
リアリティを失ってしまう。

「結果」を「やりがい」つまり「目的」に取り違えてしまう。

「近代」なる何か(資本主義や教育)の罠がここにある。

「近代」なる何か(資本主義や教育)は、
「結果」を「目的」のように見せかけてきたのではないか。

「評価」を「承認」に見せかけるように。
それが、「計測可能」という罠だ。
「学び」の目的は
「発見」ではなく「達成」なのだと思い込まされてきたのではないか。

かつてエジソンは言った
私は失敗したことがない。ただ、1万通りの、うまく行かない方法を見つけただけだ。(トーマス・エジソン)

これは、プラス思考であきらめないでチャレンジし続けるっていう風にとらえられているけど、
実は「発見」こそが喜びだということを言っているようにも思える。

大切なのは、「成長」ではなく「発見」と「変容」である。
「成長」は数値化できるが(そういうものを指標としているが)
「発見」「変容」は自身や周りの感性でしかキャッチできない。

9月4日を予言するかのように、9月3日にツイートしたもの

~~~
学びの構造そのものを変えたいんだ。
手段としての学びから、機会としての学びへ。
個人としての学びから、場としての学びへ。
再現性のある学びから、一回性の高い学びへ。
それによって、学びはもっと楽しくなるし、個人のアイデンティティ危機を乗り越えていくことが同時に可能になるという仮説
~~~

まさにこれだ。
ひとりひとりを大切にするために個人ではなく場にフォーカスしたい。

そして、「学び」を「遊び」にしたい。
その遊び、とは予測不可能性のことであり、その予測不可能性を高めるために、場として学び、振り返る。
遠くまで行きたければ、場のチカラを高めること。

だから。
目的・目標を分かりやすく設定することよりも、「場」にフォーカスすること。
でもそれには「見本」や「手本」や「正解」がないんだ。
「場」の見え方さえも個人によって異なるから。

たぶんそういうこと。

事後研修を終えて、数名の参加者が
ふりだしに戻った!と叫んでいた。(チャットで)

~~~
振り出しにもどった!!!!
OKいろいろあるのね、自分のとらえかた次第ね
業界や職種で絞れないね
→どう絞れば!?
スキを仕事にしなくてもいい
→楽になったけど、なにを軸にすればいいんだ!?
自分にできることって何
→やってからじゃないとわからない、最初どうすれば!?
~~~

いいなあ、内なる言葉が出てくる「チャット」という機能は。(笑)

ふりだしに戻る。
でも、それは戻ったわけではなく、螺旋階段を1段登っている。
そして、1段登った分、見える景色が変わっているはずだ。

そんな「機会提供」の場をつくりたかった。
たぶんそれが主催者である若松さんと僕の想い。
機会をどうとるかは参加者次第なのだけど。

今回の「ひきだし」も僕にとっても予測不可能な発見の連続で、
めちゃめちゃ楽しかったのです。ありがとうございました。  

Posted by ニシダタクジ at 06:24Comments(0)就職イベント日記