2020年11月08日
探究の森の子どもたち
昨日は、「学校見学&まなび体験会」の午前中に
「一生学び続ける力をつけるには?」と題して
「これからの学び座談会」を行いました。
講師は(株)prima pinguinoプロジェクトマネージャー跡見愛美さん。
中学生の保護者をはじめ、12名の参加者がありました。
~~~以下講演メモ
まずは動画。
https://www.youtube.com/watch?v=59d3UZTUFQ0
AIにより次々にオートメーション化される世の中に対して
「WIll Our Chiidren Be Ready?」と問いかける。
私たちの子どもたちは準備できていますか?と。
社会に出て必要な力とは?
経済産業省「人生100年時代の社会人基礎力」
https://www.meti.go.jp/policy/kisoryoku/index.html#:~:text=%E3%80%8C%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%BA%BA%E5%9F%BA%E7%A4%8E%E5%8A%9B%E3%80%8D%E3%81%A8,%E5%B9%B4%E3%81%AB%E6%8F%90%E5%94%B1%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82
2006年に発表された社会人基礎力:
前に踏み出す力(アクション)考え抜く力(シンキング)チームで働く力(チームワーク)
をさらに12の能力要素に分解して定義した。(いわゆるコンピテンシー)
それを平成29年(2017年)にアップデートし、
その力をつけるための3つの視点として以下のものを上げた。
1 どう活躍するか(目的)
2 どのように学ぶか(統合)
3 何を学ぶか(学び)
これらをリフレクション(ふりかえり)しながら、1~3のバランスを図ることで
自らキャリアを切り開いていく上で必要だと位置づける。
そんな中で、「教育」が変わりつつある。
■小中高校:教育機関
すでにあることを教えてもらい(指導され)学んでいく場所。
「達成」のパラダイム
■大学:研究機関
答えがない、まだ分かっていないことの答えを見つける場所。
「発見」のパラダイム
高校⇒大学⇒社会の「学び」(教育)が一致していない
=このままの教育では社会に対応できない
学力の3要素
「知識・技能」「思考力・判断力・表現力」・・・リテラシー
「主体性・協働性・多様性」・・・コンピテンシー
だけど、高校⇒大学の入試制度が「知識・技能」を測るだけでは、
教育は改革されない⇒大学入試改革へ
「大学入試改革」:
高大接続で問われる学力の3要素を多様な視点で評価する入試形態
思考コード
https://www.syutoken-mosi.co.jp/column/entry/entry000668.php
https://www.syutoken-mosi.co.jp/upload/images/siko_cp_.pdf
フランシスコザビエルの写真を見て、
「この人物の名前を答えなさい」とか、
「ザビエルがしたこととして正しい選択肢をすべて選び、年代の古い順にならべなさい。」とかは
これまでのセンター試験で問われた。
あれだけもめた「記述式」問題とは何かっていうと、
「ザビエルが日本に来た目的はなんですか?50字以内で書きなさい」とか
「キリスト教の本伝来は当時の日本にどのような影響を及ぼしたのか200字以内で説明しなさい」となってくる。
さらにC創造的思考となると
「もしあなたが、ザビエルのように知らない土地に行って、その土地の人々に何かを広めようとする場合、どのようなことをしますか、600字以内で答えなさい」とかっていう小論文の問題になる。
「知識・理解思考」から「論理的思考」さらに「創造的思考」という流れと
「単純関係」(単純)から「カテゴライズ」(複雑)そして「全体関係」(変容)と難化していく。
小論文ではさらに、「課題発見能力」と「課題解決能力」が問われる。
つまり、大学に入ったら、自力で研究サイクルを回していけるか?ということ。
最近は志望理由書が「なぜ、この大学を志望しますか?」という単純なものではなくなってきた。
志望理由書で問われているのは、
「学びの履歴(これまで学んだことや自分の強みとしてアピールできる点を具体的に記入してください)」と
「将来の計画(本学で何を学び将来にどうつなげるか、現在考えていることを具体的に記入してください)」
という2つになる。
経済産業省:多様な年代、人々と関わっているか?がどのように学ぶかにおいて大切
★自分の得手不得手を踏まえて、どのように社会と折り合っていくか?⇒キャリア教育そのもの
「総合学習」⇒「総合的探究の時間」へ
「問い」を見つけ、それに答えていくこと。
活動すると「問い」が生まれ、「問い」が変わる。
※同じ活動(例えばかき氷販売)をしていても浮かぶ問いが違う
(売りたい⇒マーケティング、ごみ⇒環境、体にいい⇒栄養、こども⇒保育・教育)
「問い」を見つけるには「違和感」をキャッチすること。その前に印象的だったことを言う。
さらにその前に思ったことを言う。
活動を通して「問い」を得ることで自分を知る。
探究学習サイクル
課題設定⇒情報収集⇒整理分析⇒まとめ・表現⇒課題設定
このサイクルを何度も回していくこと。
★ふりかえりが大切
経験学習サイクル(デービット・コルブ)
行動⇒振り返り⇒本質の気づき⇒将来の目標設定
経験の振り返り
×あるあるふりかえり(喜怒哀楽感想)
衝撃を受けました!心が現れました。強く感じた。ためになった。⇒なぜ?がない⇒ふりかえりできてない
○どう変わったか、何を学んだか、何が課題?、どんな努力⇒言葉にできて、自分なりの教訓・理論に落とし込めるか
語彙力と言語化する練習をふりかえりで行うこと。
~~~ここまで講演メモ
そのあと座談会へ
「問い」を立てることが大事だ。
しかし、問いを立てるには、違和感のキャッチと、それを言語化することの2つが必要になっていく。
思考コードの一番高度なところの評価はルーブリック評価になっていく。
親をどう変えるか?
⇒子どもにアプローチしていくしかない。
⇒自ら探究的に学ぶ子を見て親が変わる
小学生等初級段階においては、
「どうやったらモテるのか?」のような探究もあり。
観察から始まるのもいい。
強い動機付けは小さな問いから始まる。
好奇心は「面白がること」「疑問を持つこと」
つながりを知ることで
自分は点だと思っていたのが線になってきた。
~~~ここまで座談会メモ
「問いを立てる」から始まる「探究サイクル」。
その「問いを立てる」前の
「違和感」のキャッチと言語化、そして思ったことを言えるような「場」
それは「対話」の場づくりによって可能になるのかもしれない。
それは「問いを立てる」以前の課題である(と僕は思っている)承認欲求の課題に対しても有効なのではないか。
学びの主体を、いったん個人から場へとシフトする。
問いを見つけ合う。そのために違和感を見つけ合う。
「なんでそう思ったのか?」と問いかける。
それはもちろん大人のファシリテーター、コーディネーター、あるいは先生でもいいのかもしれない。
でも、それが「場」だとすると、
生徒同士が、心を開き、場に溶けだして、見つけ合うことのほうが価値があるのではないか。
地域の大人も、共に探究するパートナーとして、その場に存在するということ。
阿賀探究の森構想(仮)
そんな妄想が生まれた。
小学校高学年からの探究サイクルの回し方。
はじめは、自分を知るという世界の中で、
違和感をキャッチし、問いを立て、探究する。
たとえば、「モテるにはどうしたらいいか?」だ。
モテているヤツを観察し、要素分解し、まとめる。
一度、探究サイクルを回してしまえば、
あとはそれをまとめて終わらず、さらなる問いにつなげることだ。
スポーツできるヤツや面白いこと言うやつもモテるけど、
結局、頭のいいヤツがモテるらしい。そしたら、
「頭のいいヤツになるにはどうしたらいいか?」
と問いを立てることだ。
そうやって、サイクルを回して行くうちに、
いつしか問いに遠心力が働き、少し広くなる。
家族や友達、学校のこと、地域のことなどに問いが広がってくるのだ。
おばあちゃんが言っていた猿による畑の農作物被害はどうやったら防げるのだろうか?
そうなると、事象が複雑にかかわってくるので、
たくさんの人に話を聴く必要がある。
実践と対話の中で、さらなる問いが生まれ、
次の学びの「場」へと向かう。
その「場」や「サイクル」そのものを地域(の大人たち)が支えること、
いや、支えるのではなく、大人たちも探究するメンバーである(という意識をもつ)こと。
ああ、それが、5月に読んだ「先端教育」の
「雑木林」を見守るっていことか。
杉林を育てるのではなく、雑木林を見守る。(2020年5月14日)
http://hero.niiblo.jp/e490656.html
「見守る」というよりも、
みずからも雑木林の一部になるって感じかもなあと。
「未来をつくる言葉~わかりあえなさをつなぐために」(ドミニク・チェン 新潮社)
第7章にこんな一節がある。
~~~ここから引用
自然史は、遺伝子複製のエラーを許容することによって駆動されてきた。つまり生命はそれ自体が非生産的な現象として進化してきたのだ。自分の領域が侵犯されるという認知によって、「わたし」と「他者」を区別しようとする防衛本能が働くことは、身体の免疫系と同様の働きだといっていいだろう。生物学的にいえば、これは原初のレベルの自己同一性(アイデンティティ)である。しかし、連綿とつながる進化の鎖に注意を向ければ、種の系統発生という個体の寿命よりも長い時間軸の中で、より高次な自己同一性が発現してきた。
先に見た遺伝子の交配とは、個々にとっての自己、つまり究極的な「わたし」に、「他者」のものが混ざることで個がゆるやかに変容していくプロセスなのだ。短期的な個体発生の時間の上に、より長期的な系統発生の時間が重畳している。この二つのリアリティを架橋するための認識が必要とされていないだろうか。
~~~
「他者」と混ざりあい、自己が変容していくプロセスは、これまでの歴史そのものではなかったか、と問う。それは自然との関係性でも同じだ。常に変容し続ける自然に対し、種は遺伝子エラーを許容することによって生き延びてきた。
さらにこの章は「ぬか床」を引き合いに出しながら続く。
~~~ここからさらに引用
ぬか床と人間はひとつのホロビオントを形成していると言える。
ホロビオント:複数の異なる生物種が共生関係を結び、一個の不可分の全体を形成すること。(リン・マーギュラス 1991)
標準的なぬか床にの内部には100種類ほどの菌類が棲息しているが、この多様性こそがぬか床の成立条件だろう。なかでも、一般には悪臭の原因だとされるグラム陰性菌は、ぬか床の初期段階では抑制される必要があるが、最終的には彼らが「復活」しないと、ぬか床独特の豊かな風味が生まれない。
システムの構成要素を善と悪、効率と非効率で区分する思想からは、ぬか床の豊潤な発酵状態には到達できない。造礁サンゴやぬか床のように、複雑な要素が互いに排除し合うのではなく、絶妙なバランスの上で共生するシステムの姿から、人間の社会の在り方を考えることはできないだろうか。
~~~ここまでさらに引用
ここで言う、ぬか床のような、もしくはサンゴ礁や雑木林のような。
そんな共生関係のある学びの場が可能なのではないか?
名付けて
「阿賀探究の森構想」(仮)だ。
この町を舞台に、いくつもの探究サイクルが回っている。
その真ん中には、子どもたちがいる。
そして、それはひとりではないかもしれない。
町の大人たちもいつのまにか、そのサイクルに巻き込まれ、
サイクルの規模(対象範囲)がだんだん広くなっていく。
子どもはじきにそのサイクルを卒業し、次のサイクルへと歩みを進める。
大人達も刺激を受け、自ら探究サイクルを回す大人もいる。
そのサイクル全体を多方向から支える人たちがいる。
学校システムや行政システムがある。
まちと探究サイクルも「ホロビオント」(共生関係)を形成しながら、
まちそのものも元気になっていく。
気がついたら子どもは18歳になっていて、
自らつくった新しい問い、新しい探究サイクルに向かうべく、旅立っていく。
ある人は大学で、ある人は専門学校で、またある人は就職先で、サイクルを回す。
探究の森の子どもたち。
それは保育園児、小中学生、高校生だけのことじゃない。
この町で探究サイクルを回す人はみんな、子どもたちだ。
20年後、みんながハタチになったら、同窓会でもやろうかな。
「一生学び続ける力をつけるには?」と題して
「これからの学び座談会」を行いました。
講師は(株)prima pinguinoプロジェクトマネージャー跡見愛美さん。
中学生の保護者をはじめ、12名の参加者がありました。
~~~以下講演メモ
まずは動画。
https://www.youtube.com/watch?v=59d3UZTUFQ0
AIにより次々にオートメーション化される世の中に対して
「WIll Our Chiidren Be Ready?」と問いかける。
私たちの子どもたちは準備できていますか?と。
社会に出て必要な力とは?
経済産業省「人生100年時代の社会人基礎力」
https://www.meti.go.jp/policy/kisoryoku/index.html#:~:text=%E3%80%8C%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%BA%BA%E5%9F%BA%E7%A4%8E%E5%8A%9B%E3%80%8D%E3%81%A8,%E5%B9%B4%E3%81%AB%E6%8F%90%E5%94%B1%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82
2006年に発表された社会人基礎力:
前に踏み出す力(アクション)考え抜く力(シンキング)チームで働く力(チームワーク)
をさらに12の能力要素に分解して定義した。(いわゆるコンピテンシー)
それを平成29年(2017年)にアップデートし、
その力をつけるための3つの視点として以下のものを上げた。
1 どう活躍するか(目的)
2 どのように学ぶか(統合)
3 何を学ぶか(学び)
これらをリフレクション(ふりかえり)しながら、1~3のバランスを図ることで
自らキャリアを切り開いていく上で必要だと位置づける。
そんな中で、「教育」が変わりつつある。
■小中高校:教育機関
すでにあることを教えてもらい(指導され)学んでいく場所。
「達成」のパラダイム
■大学:研究機関
答えがない、まだ分かっていないことの答えを見つける場所。
「発見」のパラダイム
高校⇒大学⇒社会の「学び」(教育)が一致していない
=このままの教育では社会に対応できない
学力の3要素
「知識・技能」「思考力・判断力・表現力」・・・リテラシー
「主体性・協働性・多様性」・・・コンピテンシー
だけど、高校⇒大学の入試制度が「知識・技能」を測るだけでは、
教育は改革されない⇒大学入試改革へ
「大学入試改革」:
高大接続で問われる学力の3要素を多様な視点で評価する入試形態
思考コード
https://www.syutoken-mosi.co.jp/column/entry/entry000668.php
https://www.syutoken-mosi.co.jp/upload/images/siko_cp_.pdf
フランシスコザビエルの写真を見て、
「この人物の名前を答えなさい」とか、
「ザビエルがしたこととして正しい選択肢をすべて選び、年代の古い順にならべなさい。」とかは
これまでのセンター試験で問われた。
あれだけもめた「記述式」問題とは何かっていうと、
「ザビエルが日本に来た目的はなんですか?50字以内で書きなさい」とか
「キリスト教の本伝来は当時の日本にどのような影響を及ぼしたのか200字以内で説明しなさい」となってくる。
さらにC創造的思考となると
「もしあなたが、ザビエルのように知らない土地に行って、その土地の人々に何かを広めようとする場合、どのようなことをしますか、600字以内で答えなさい」とかっていう小論文の問題になる。
「知識・理解思考」から「論理的思考」さらに「創造的思考」という流れと
「単純関係」(単純)から「カテゴライズ」(複雑)そして「全体関係」(変容)と難化していく。
小論文ではさらに、「課題発見能力」と「課題解決能力」が問われる。
つまり、大学に入ったら、自力で研究サイクルを回していけるか?ということ。
最近は志望理由書が「なぜ、この大学を志望しますか?」という単純なものではなくなってきた。
志望理由書で問われているのは、
「学びの履歴(これまで学んだことや自分の強みとしてアピールできる点を具体的に記入してください)」と
「将来の計画(本学で何を学び将来にどうつなげるか、現在考えていることを具体的に記入してください)」
という2つになる。
経済産業省:多様な年代、人々と関わっているか?がどのように学ぶかにおいて大切
★自分の得手不得手を踏まえて、どのように社会と折り合っていくか?⇒キャリア教育そのもの
「総合学習」⇒「総合的探究の時間」へ
「問い」を見つけ、それに答えていくこと。
活動すると「問い」が生まれ、「問い」が変わる。
※同じ活動(例えばかき氷販売)をしていても浮かぶ問いが違う
(売りたい⇒マーケティング、ごみ⇒環境、体にいい⇒栄養、こども⇒保育・教育)
「問い」を見つけるには「違和感」をキャッチすること。その前に印象的だったことを言う。
さらにその前に思ったことを言う。
活動を通して「問い」を得ることで自分を知る。
探究学習サイクル
課題設定⇒情報収集⇒整理分析⇒まとめ・表現⇒課題設定
このサイクルを何度も回していくこと。
★ふりかえりが大切
経験学習サイクル(デービット・コルブ)
行動⇒振り返り⇒本質の気づき⇒将来の目標設定
経験の振り返り
×あるあるふりかえり(喜怒哀楽感想)
衝撃を受けました!心が現れました。強く感じた。ためになった。⇒なぜ?がない⇒ふりかえりできてない
○どう変わったか、何を学んだか、何が課題?、どんな努力⇒言葉にできて、自分なりの教訓・理論に落とし込めるか
語彙力と言語化する練習をふりかえりで行うこと。
~~~ここまで講演メモ
そのあと座談会へ
「問い」を立てることが大事だ。
しかし、問いを立てるには、違和感のキャッチと、それを言語化することの2つが必要になっていく。
思考コードの一番高度なところの評価はルーブリック評価になっていく。
親をどう変えるか?
⇒子どもにアプローチしていくしかない。
⇒自ら探究的に学ぶ子を見て親が変わる
小学生等初級段階においては、
「どうやったらモテるのか?」のような探究もあり。
観察から始まるのもいい。
強い動機付けは小さな問いから始まる。
好奇心は「面白がること」「疑問を持つこと」
つながりを知ることで
自分は点だと思っていたのが線になってきた。
~~~ここまで座談会メモ
「問いを立てる」から始まる「探究サイクル」。
その「問いを立てる」前の
「違和感」のキャッチと言語化、そして思ったことを言えるような「場」
それは「対話」の場づくりによって可能になるのかもしれない。
それは「問いを立てる」以前の課題である(と僕は思っている)承認欲求の課題に対しても有効なのではないか。
学びの主体を、いったん個人から場へとシフトする。
問いを見つけ合う。そのために違和感を見つけ合う。
「なんでそう思ったのか?」と問いかける。
それはもちろん大人のファシリテーター、コーディネーター、あるいは先生でもいいのかもしれない。
でも、それが「場」だとすると、
生徒同士が、心を開き、場に溶けだして、見つけ合うことのほうが価値があるのではないか。
地域の大人も、共に探究するパートナーとして、その場に存在するということ。
阿賀探究の森構想(仮)
そんな妄想が生まれた。
小学校高学年からの探究サイクルの回し方。
はじめは、自分を知るという世界の中で、
違和感をキャッチし、問いを立て、探究する。
たとえば、「モテるにはどうしたらいいか?」だ。
モテているヤツを観察し、要素分解し、まとめる。
一度、探究サイクルを回してしまえば、
あとはそれをまとめて終わらず、さらなる問いにつなげることだ。
スポーツできるヤツや面白いこと言うやつもモテるけど、
結局、頭のいいヤツがモテるらしい。そしたら、
「頭のいいヤツになるにはどうしたらいいか?」
と問いを立てることだ。
そうやって、サイクルを回して行くうちに、
いつしか問いに遠心力が働き、少し広くなる。
家族や友達、学校のこと、地域のことなどに問いが広がってくるのだ。
おばあちゃんが言っていた猿による畑の農作物被害はどうやったら防げるのだろうか?
そうなると、事象が複雑にかかわってくるので、
たくさんの人に話を聴く必要がある。
実践と対話の中で、さらなる問いが生まれ、
次の学びの「場」へと向かう。
その「場」や「サイクル」そのものを地域(の大人たち)が支えること、
いや、支えるのではなく、大人たちも探究するメンバーである(という意識をもつ)こと。
ああ、それが、5月に読んだ「先端教育」の
「雑木林」を見守るっていことか。
杉林を育てるのではなく、雑木林を見守る。(2020年5月14日)
http://hero.niiblo.jp/e490656.html
「見守る」というよりも、
みずからも雑木林の一部になるって感じかもなあと。
「未来をつくる言葉~わかりあえなさをつなぐために」(ドミニク・チェン 新潮社)
第7章にこんな一節がある。
~~~ここから引用
自然史は、遺伝子複製のエラーを許容することによって駆動されてきた。つまり生命はそれ自体が非生産的な現象として進化してきたのだ。自分の領域が侵犯されるという認知によって、「わたし」と「他者」を区別しようとする防衛本能が働くことは、身体の免疫系と同様の働きだといっていいだろう。生物学的にいえば、これは原初のレベルの自己同一性(アイデンティティ)である。しかし、連綿とつながる進化の鎖に注意を向ければ、種の系統発生という個体の寿命よりも長い時間軸の中で、より高次な自己同一性が発現してきた。
先に見た遺伝子の交配とは、個々にとっての自己、つまり究極的な「わたし」に、「他者」のものが混ざることで個がゆるやかに変容していくプロセスなのだ。短期的な個体発生の時間の上に、より長期的な系統発生の時間が重畳している。この二つのリアリティを架橋するための認識が必要とされていないだろうか。
~~~
「他者」と混ざりあい、自己が変容していくプロセスは、これまでの歴史そのものではなかったか、と問う。それは自然との関係性でも同じだ。常に変容し続ける自然に対し、種は遺伝子エラーを許容することによって生き延びてきた。
さらにこの章は「ぬか床」を引き合いに出しながら続く。
~~~ここからさらに引用
ぬか床と人間はひとつのホロビオントを形成していると言える。
ホロビオント:複数の異なる生物種が共生関係を結び、一個の不可分の全体を形成すること。(リン・マーギュラス 1991)
標準的なぬか床にの内部には100種類ほどの菌類が棲息しているが、この多様性こそがぬか床の成立条件だろう。なかでも、一般には悪臭の原因だとされるグラム陰性菌は、ぬか床の初期段階では抑制される必要があるが、最終的には彼らが「復活」しないと、ぬか床独特の豊かな風味が生まれない。
システムの構成要素を善と悪、効率と非効率で区分する思想からは、ぬか床の豊潤な発酵状態には到達できない。造礁サンゴやぬか床のように、複雑な要素が互いに排除し合うのではなく、絶妙なバランスの上で共生するシステムの姿から、人間の社会の在り方を考えることはできないだろうか。
~~~ここまでさらに引用
ここで言う、ぬか床のような、もしくはサンゴ礁や雑木林のような。
そんな共生関係のある学びの場が可能なのではないか?
名付けて
「阿賀探究の森構想」(仮)だ。
この町を舞台に、いくつもの探究サイクルが回っている。
その真ん中には、子どもたちがいる。
そして、それはひとりではないかもしれない。
町の大人たちもいつのまにか、そのサイクルに巻き込まれ、
サイクルの規模(対象範囲)がだんだん広くなっていく。
子どもはじきにそのサイクルを卒業し、次のサイクルへと歩みを進める。
大人達も刺激を受け、自ら探究サイクルを回す大人もいる。
そのサイクル全体を多方向から支える人たちがいる。
学校システムや行政システムがある。
まちと探究サイクルも「ホロビオント」(共生関係)を形成しながら、
まちそのものも元気になっていく。
気がついたら子どもは18歳になっていて、
自らつくった新しい問い、新しい探究サイクルに向かうべく、旅立っていく。
ある人は大学で、ある人は専門学校で、またある人は就職先で、サイクルを回す。
探究の森の子どもたち。
それは保育園児、小中学生、高校生だけのことじゃない。
この町で探究サイクルを回す人はみんな、子どもたちだ。
20年後、みんながハタチになったら、同窓会でもやろうかな。