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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2020年12月02日

「探究」とスピノザ哲学


「はじめてのスピノザ~自由へのエチカ」(國分功一郎 講談社現代新書)

浦崎先生との対話会の前に、
5分だけジュンク堂新潟をチラ見したら、
この本が飛び込んできて、衝動買い。

このタイミングで、この本。
持ってるわ、読書運。

金曜日に出た高校でのフォーラムと
http://hero.niiblo.jp/e491208.html

月曜日の対話会での話と
http://hero.niiblo.jp/e491211.html

これから「探究」をどうデザインしていくか?
っていうタイミングで、この本。
いま、僕たちは、17世紀以来のすごい転換点に立っているんじゃないか、って改めて実感する1冊。
それは明治維新以来とかそういうことじゃなくて、近代そのもの、科学主義そのものに対しての転換なのかもしれない。

~~~ここからメモ

神は絶対的な存在であるはずです。ならば、神が無限でないはずがない。そして神が無限ならば、神には外部がないはずだから、したがって、すべては神の中にあるということになります。
⇒「ワンネス」ですね。「全体性」というか。

スピノザ的な倫理はあくまでも組み合わせで考えますから、個々人の差を考慮するわけです。(中略)やってみないと分かりません。その意味で、スピノザの倫理学は「実験すること」を求めます。
⇒出た、「実験」

個々人の活動能力を増大させるものが善きもので、コナトゥス「自分の存在を維持しようとする力」こそが本質。人間は単に男であったり女であったりするわけではなくて、常に具体的な環境と歴史と欲望が交錯する中で生きている。その中で出来上がる力としての本質は一人ひとり大きく異なります。どういう組み合わせならうまくいくかは、エイドスという形として本質を考えるだけではわからない。「お前は女だから、子どもだから、老人だからこうしろ」というのは、その人の本質を踏みにじることになるのです。

人間身体を多くの仕方で刺激されうるような状態にさせるもの、あるいは人間身体をして外部の物体を多くの仕方で刺激するのに適するようにさせるものは、人間にとって有益である。これに反して身体のそうした適性を減少させるものは有害である。
⇒これ、「温泉」とか「満員電車」のことじゃないかな。

私たち一人ひとりは神の一部であり、神の変状したものでした。神は変状して様々なものになります。私たち人間のようなものとしても存在できるし、水のようなさらさらしたものとしても存在できるし、太陽のように強力なエネルギーを発するものとしても存在できる。神は実にさまざまな仕方で存在できる。すると、私たちを含めた万物は、それぞれが神が存在する様式であると考えられます。
⇒来ました、これ。「演じること」や「場との一体化」っていうのはそういうことじゃないか。

デカルトの「心身二元論」(精神が身体を操作している)に対してスピノザは「心身並行論」(精神と身体で同時に運動が進行する)

自己の本性の必然性のみによって存在し・自己自身のみによって行動に決定されるものは自由であると言われる。これに反してある一定の様式において存在し・作用するように他から決定されるものは必然的である、あるいはむしろ強制されると言われる。
⇒「実験」しないとその人の身体や精神の必然性にたどり着けない。少しずつ「実験」しながら学んでいくこと=「自分を知る」こと

「強制」とは本質がふみにじられている状態
⇒「やらされる」とはそういうことか

私は自らの行為において自分の力を表現している時に能動である。それとは逆に、私の行為が私ではなく、他人の力をより多く表現している時、私は受動である。
⇒「他者評価の奴隷」となって勉強することは能動ではないよね。

自由であるとは能動的になることであり、能動的になるとは自らが原因であるような行為を作り出すことであり、そのような行為とは、自らの力が表現されている行為を言います。ですから、どうすれば自らの力がうまく表現される行為を作り出せるのかが、自由であるために一番大切なことになります。もちろんそれを知るためにもこれまでも強調してきた実験が必要です。実験しながら、自分がどのような性質のコナトゥスをもっているかを知らなければなりません。
⇒「実験」して、「コナトゥス」を知ること、そしてそれを実践することが「自由」への道。そしてコナトゥス(ベクトル)はいくつもあってもいい。

意志を巡る現代社会の論法というのは次のようなものです。-これだけ選択肢があります。はい、これがあなたの選択ですね。ということはつまり、あなたが自分の意志で決められたのがこれです。ご自身の意志で選択されたことですから、その責任はあなたにあります。(中略)私はこの意志という概念に現代社会が取り憑かれている気がしてなりません。何もかもが意志によって説明されてしまう。私たちは意志を信仰しつつ、意志に取り憑かれ、意志に悩まされているのではないでしょうか。
⇒「意志」って神話だよなと、ホント思う。

自分を知ることは自分に何らかの変化をもたらします。つまり、何かを認識すること、真理を獲得することは、認識する主体そのものに変化をもたらすのです。私たちは物を認識することによって、単にその物についての知識を得るだけでなく、自分の力をも認識し、それによって変化していく。真理は単なる認識の対象ではありません。
⇒「変容」は学習の目的ではなく、前提なんだなと。

フーコーは「主体の解釈学」の中でかつては真理は体験の対象であり、それにアクセスするためには主体の変容が必要とされていたと指摘しています。ある真理に到達するためには、主体が変容を被り、いわばレベルアップしなければならない。そのレベルアップを経てはじめて真理に到達できる。その考え方が決定的に変わったのが17世紀であり、フーコーはその転換点を「デカルト的契機」と呼んでいます。デカルト以降、真理は主体の変容を必要としない、単なる認識の対象になってしまったというのです。
⇒例外はスピノザ1人だけでスピノザだけが真理の獲得には「主体の変容」が必要だと考えていたのだと。

デカルトはどうしようもなく疑ってしまった。自分自身ではどうにもならない懐疑の泥沼から出られなくなってしまったのです。デカルトの哲学はそのような疑いの病からの治癒の物語でもあります。コギト命題というのはその意味で、デカルトが自分に対して処方した薬のようなものです。だとすると、コギト(私は考えている、だから私は存在している)による説得は実のところ、誰よりも、他ならぬデカルト自身に向けられていたと考えねばなりません。

~~~ここまでメモ

いやあ。これ。すごすぎて言葉を失いますね。

キーワードを出していくと、「探究」に繋がっていくなと。
「全体性(場、同質化)」「実験」「コナトゥス(ベクトル)と演じること」「主体性⇔やらされ感」「変容」
こんなキーワードが出てくるのかなあと。

昨日のブログに書いた一節をあらためて。

~~~
「好奇心」と「場のチカラの体感」によるフィクションとしての「同質化」からの「主体性」
極端に言えば、主体性を持つのではなく、主体性を持っているやつを演じること。
「主体的な高校生」を演じているうちに、「主体性のある生徒が多い高校」を演じているうちに、
気がついたらカッコイイ高校生や魅力的な高校になっている。そんな物語(フィクション)。
~~~

スピノザによれば、真理への到達は、主体の変容を前提としている。

場のチカラを高め、実験を繰り返しながら、
自分の、あるいはチームの、または地域のコナトゥスに気づき、
気がついたら主体性を持っていて、結果として変容が起こった、

そんな探究的学びがつくれないだろうか。  

Posted by ニシダタクジ at 08:34Comments(0)