2020年12月04日
創造的な探究の時間
つまらないなあと感じるワークショップがある。
付箋を使って、意見集約をするだけのワークショップだ。
なんのために付箋を使うのか?
なんのために「人」と「意見」を切り離すのか?
なんのためにリアルな「場」に人が集まるのか?
KJ法を生み出した川喜田二郎先生が見たら、悲嘆にくれるよ。
って思うようなワークショップだ。
「問いのデザイン~創造的対話のファシリテーション」(安斎勇樹・塩瀬隆之 学芸出版社)
を読んでいると、ワークショップの本質について鋭く突かれる。
プログラムのタイムテーブルとして
「導入⇒知る活動⇒創る活動⇒まとめ」
と紹介されているけど、まさにこれってワークショップ授業の設計でも
つかえるし、年間を通したものでもこういうストーリーって大事だなと。
あと、東北芸術工科大学の「探究学習の相談室の案内」に出ていた図。
https://sozo.tuad.ac.jp/information/786.html

「デザイン思考を活用した探究的な学び5つの活動」
そうだそうだな、と、うなづくばかり。
キーワードは「創造」だろうと思う。
課題を設計して解決のアイデアを「創造」するのが
探究の醍醐味であり、ワークショップ形式である意味だと思う。
あらためて、川喜田二郎氏の著作を読んでみる。
(過去のブログより)
http://hero.niiblo.jp/e490111.html
「学び」はこの直線上にない。(19.12.19)
http://hero.niiblo.jp/e490086.html
最初にあるのは、「我」ではなく「混沌」である。(19.12.10)
かつて日本にあった、
「師匠」と「弟子」、そして「道」という考え方
~~~上のブログより
「道」には終わりがない。「道」における師匠とは、到達点ではなく、ひたすら先に行ってしまう人のこと。
「学び」は「道」だけど、いま、「教育」は「道」じゃないのかもしれないと思った。
「道」を生きる人っていうのは自分の人生よりはるか長いリレーのバトンを、駅伝のタスキを、今受け取って、次につなげないといけないと思って必死に走っている人のこと。
自分はいま中継者なのだという自覚。しかもその行き先は見えていないということ。それが「道」の強さ。
~~~
ゴールが見えている時。
我が国において「教育」というシステムは、力を発揮した。
ゴールを見失った、いやそもそもゴールが存在しなくなった今、
「道」を歩むような「学び」へシフトしていく必要がある。
そしてもうひとつ。
下ブログで出てくる、「混沌」というキーワード。
~~~ここからブログより引用
デカルトは神が理性を与え、その人が「物体」を創造する。しかし、川喜田先生は、混沌の中で主体と客体が相互に関係する場があり、
主体は客体を創造するかもしれないが、それにより、主体も脱皮・変容が起こる、と。そしてそれは「伝統体」による影響を受けていること。
川喜田先生は、このように説く。
創造的行為は、まずその対象となるもの、つまり「客体」を創造するが、同時に、その創造を行うことによって自らをも脱皮変容させる。つまり「主体」も創造されるのであって、一方的に対象を作り出すだけというのは、本当の創造的行為ではないのである。そして、創造的であればあるほど、その主体である人間の脱皮変容には目を瞠るものがある。主体と客体が創造されるだけではなく、その創造が行われた「場」も、また新たな価値を付加されて生み出されるのである。
場をつくる。
っていうのは、きっとそういうことなのだろうと。そしてそれはそのまま「学びの場」、あるいは「学びあいの場」づくりに直結しているのだろうと。「場」の価値。それは創造が起こること。それにより自己が変容すること。そして人は、場から学ぶ。「混沌」を出発点にして、「場」から学ぶ。
いつのまにか、僕たちは、「我」を出発点にしてきた。それは西洋のシステムをモデルにした学校制度の宿命だったのかもしれない。
あなたのやりたいことは何か?そもそもあなたは何者なのか?
そんな問いが本当に重要なのだろうか?「混沌」の中に身を委ね、場をつくり、客体と一体化して何かに没頭する。そこに「創造」が生まれる、かもしれない。その「創造」の縁に、「学び」が詰まっていると僕は思う。そんな「場」をともにつくる。
~~~ここまでブログより引用
「場」の価値は創造が起こること。
それは学びの創造であり、「場」の創造であり、構成員としての「個人」の創造でもある。
「創造」を前提にして、探究の時間を設計すること。
ワークショップを語源通りに、工房とすること。
「創造」のワクワクの中にこそ、
「学びの意欲」は眠っているし、
それは個人ひとりひとりの中ではなく、
関係性の中、関係性から創られる「場」の中に眠っている、っていう仮説。
そんな「創造的な探究の時間」がつくれたらいいなあ。
付箋を使って、意見集約をするだけのワークショップだ。
なんのために付箋を使うのか?
なんのために「人」と「意見」を切り離すのか?
なんのためにリアルな「場」に人が集まるのか?
KJ法を生み出した川喜田二郎先生が見たら、悲嘆にくれるよ。
って思うようなワークショップだ。
「問いのデザイン~創造的対話のファシリテーション」(安斎勇樹・塩瀬隆之 学芸出版社)
を読んでいると、ワークショップの本質について鋭く突かれる。
プログラムのタイムテーブルとして
「導入⇒知る活動⇒創る活動⇒まとめ」
と紹介されているけど、まさにこれってワークショップ授業の設計でも
つかえるし、年間を通したものでもこういうストーリーって大事だなと。
あと、東北芸術工科大学の「探究学習の相談室の案内」に出ていた図。
https://sozo.tuad.ac.jp/information/786.html

「デザイン思考を活用した探究的な学び5つの活動」
そうだそうだな、と、うなづくばかり。
キーワードは「創造」だろうと思う。
課題を設計して解決のアイデアを「創造」するのが
探究の醍醐味であり、ワークショップ形式である意味だと思う。
あらためて、川喜田二郎氏の著作を読んでみる。
(過去のブログより)
http://hero.niiblo.jp/e490111.html
「学び」はこの直線上にない。(19.12.19)
http://hero.niiblo.jp/e490086.html
最初にあるのは、「我」ではなく「混沌」である。(19.12.10)
かつて日本にあった、
「師匠」と「弟子」、そして「道」という考え方
~~~上のブログより
「道」には終わりがない。「道」における師匠とは、到達点ではなく、ひたすら先に行ってしまう人のこと。
「学び」は「道」だけど、いま、「教育」は「道」じゃないのかもしれないと思った。
「道」を生きる人っていうのは自分の人生よりはるか長いリレーのバトンを、駅伝のタスキを、今受け取って、次につなげないといけないと思って必死に走っている人のこと。
自分はいま中継者なのだという自覚。しかもその行き先は見えていないということ。それが「道」の強さ。
~~~
ゴールが見えている時。
我が国において「教育」というシステムは、力を発揮した。
ゴールを見失った、いやそもそもゴールが存在しなくなった今、
「道」を歩むような「学び」へシフトしていく必要がある。
そしてもうひとつ。
下ブログで出てくる、「混沌」というキーワード。
~~~ここからブログより引用
デカルトは神が理性を与え、その人が「物体」を創造する。しかし、川喜田先生は、混沌の中で主体と客体が相互に関係する場があり、
主体は客体を創造するかもしれないが、それにより、主体も脱皮・変容が起こる、と。そしてそれは「伝統体」による影響を受けていること。
川喜田先生は、このように説く。
創造的行為は、まずその対象となるもの、つまり「客体」を創造するが、同時に、その創造を行うことによって自らをも脱皮変容させる。つまり「主体」も創造されるのであって、一方的に対象を作り出すだけというのは、本当の創造的行為ではないのである。そして、創造的であればあるほど、その主体である人間の脱皮変容には目を瞠るものがある。主体と客体が創造されるだけではなく、その創造が行われた「場」も、また新たな価値を付加されて生み出されるのである。
場をつくる。
っていうのは、きっとそういうことなのだろうと。そしてそれはそのまま「学びの場」、あるいは「学びあいの場」づくりに直結しているのだろうと。「場」の価値。それは創造が起こること。それにより自己が変容すること。そして人は、場から学ぶ。「混沌」を出発点にして、「場」から学ぶ。
いつのまにか、僕たちは、「我」を出発点にしてきた。それは西洋のシステムをモデルにした学校制度の宿命だったのかもしれない。
あなたのやりたいことは何か?そもそもあなたは何者なのか?
そんな問いが本当に重要なのだろうか?「混沌」の中に身を委ね、場をつくり、客体と一体化して何かに没頭する。そこに「創造」が生まれる、かもしれない。その「創造」の縁に、「学び」が詰まっていると僕は思う。そんな「場」をともにつくる。
~~~ここまでブログより引用
「場」の価値は創造が起こること。
それは学びの創造であり、「場」の創造であり、構成員としての「個人」の創造でもある。
「創造」を前提にして、探究の時間を設計すること。
ワークショップを語源通りに、工房とすること。
「創造」のワクワクの中にこそ、
「学びの意欲」は眠っているし、
それは個人ひとりひとりの中ではなく、
関係性の中、関係性から創られる「場」の中に眠っている、っていう仮説。
そんな「創造的な探究の時間」がつくれたらいいなあ。