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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2020年12月31日

異世界をつくり、呪いを解く

「オンライン劇場ツルハシブックス」振り返り。
5月にスタートした「オンライン劇場ツルハシブックス」。

3,4月に全国が一斉にコロナストップがかかったとき。
取り憑かれるように本を読んだり、ウィークリーオチアイを見たり、
歴史の転換点をいかに捉え、いかにアクションするかを考えていて。
「本屋だ」と直感した。

「オンライン上に本屋は創れる。」
そしてオンライン上で本を売ることができる、と考えた。

そしてそれには、身体性、具体的に言えば、圧倒的な身体的経験、具体的に言えば、
長崎・ひとやすみ書店という空間で本を選び、買い、コーヒーを飲む、という一連の体験が必要になってくる。
僕が当初感じていたZOOM会議のキーワードは「フラットさ」と「身体性」だった。

ZOOM画面上で人はフラットになる。
それは身体性のない2次元空間だから。
社長も、校長先生もひとつの画面に過ぎない。

しかし、その分、リアリティのなさをフォローするために
「身体性」をどのように補うかが重要になる。
もっとも簡単なのは、「食べ物トークをする」というもの。
「おいしそう~」っていう共感によって、ネット上でも距離を縮めることができる。

だから、オンライン劇場「ツルハシブックス」と名付けた。
「場」は「ツルハシブックス」という「身体性の共有」が必要だったからだ。

「劇場のような本屋、本屋のような劇場」
気がついたら私も本屋という舞台の共演者になっていました。
がテーマだったツルハシブックスは、ネット上にも再現できるというより、
アップデートされるのではないか、という直感だった。

5月、書道家のえみさん
6月、ZINEを創刊したさくらさん
7月、場をプロデュースする宮本さん
8月、3つのワラジで活躍する原さん
9月、音楽で表現するさえさん
10月、カフェという空間研究をする飯田さん
11月、軽やかな移住で町を動かす大庭さん

12月29日はスタッフふりかえりと来年度の企画を練るオンライン会議でした。

~~~オンラインツルハシをやってみてのメモ

・「好き」のエネルギーはネット上の空間を超えられる

・「とまれみよ」のような動的な屋号、在り方(こうありたい)を示す屋号

・「発見」=「問いを見つける力」
・「発見」するために「手触り感と違和感」に出会うこと

・仕事=「価値の交換」
・仕事をつくる⇒「仲間を見つける」「価値を共有」「価値を届ける」をぐるぐるすること。

・クラシック音楽も演奏者によってアップデートされ続ける
・「つづいていくもの」=営み=アップデートされ続ける

・カフェという階級を越えられるフラットな「場」
・何者でもない人が何者かに出会い、演じられるカフェ

・軽やかな移住
・20代の1年は重い。
・「一回性」と「シェア」と「神話」

~~~まあ、いろいろあるんだけどね。

そのあと、第2部、第3部と盛り上がりました。

キーワードは「適応」すること。

個人は「適応」しすぎるとその価値を(たとえば資本主義的価値観)内面化してしまう。

組織は適応し続けるためにアップデートし続けなければならない。だから、組織に適応しきっていない個人を組織に入れる必要がある。
完全なる共感からは新しいものは生まれない。「違和感」にこそ新しい1歩へのヒントがある。
「理解と共感に基づかないチーム」をつくり続けることができるか?

「一体感」なんてそもそも組織運営にとっては不要だと、20代以下は思っているんじゃないか?
それが上司部下のすれ違いの根本にあったとしたら・・・

理解と共感など無くても、協働できて成果だせれば、それでいいのでは?仕事だし。
みたいな感覚なのかもしれませんね。

「チューニング」っていうのは、他者理解のためではなく、あくまでも「チューニング」に過ぎないのだ。
それってプロの音楽に少し似ているのかも。
そんなことが繋がってきた。

「適応する」ってなんだろう?

アイリスオーヤマという企業がある
参考:
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/59930

製造業でありながら工場の稼働率は65%前後と、
あえて3割の余裕を残しておくというのだ。
その理由は、「世の中が変わるから」。
今年、マスクを大量生産供給できたのも、そのおかげだ。
https://note.com/shunkonya/n/nd8081587fb07

3割の余裕。7割:3割。
それくらいのバランスが大切なのかもしれない。

「全力でやることが美しい」という価値観は本当だろうか?
変化に適応できるのだろうか?
「価値」が刻々と変化する時代において、変化対応力を持っておくこと。

副業をつくること。
70%-30%くらいのバランスで自分のリソースを振り分けておくこと。
もちろんそのパーセンテージは
個人の性格や人生ステージ、タイミングによるのだけど。

高校生活、大学生活で言えば、
70%を「達成・成長」のパラダイムへ
30%を「発見・変化」のパラダイムへ
と力を注いでいくこと。

僕たち地域の大人にできることは、「異世界をつくる」こと
「学びの意欲」は、「実践」と「学び」がつながったとき、重なった時に一気にスパークする。

参考:あなたは何芸人なのか?(19.11.9)
http://hero.niiblo.jp/e489978.html

そのためには「地域」が
「学校化社会」の価値観のままではダメなんだ。

坂口恭平さん的に言えば、「放課後社会」、
子どもたちにとって異なる価値観を持つ「異世界」であることが必要なのだ。
「異世界」であるからこそ、自分とは異なる、あるいは自分の一部である何者かを「演じられる」。

たぶん、それは、
「地域の向こう側」と「オンラインの向こう側」(それと本屋)をミックスさせた「場」であるのかもしれない。

理解も共感もできない異質な「他者」とプロジェクトを組み、
チューニング(音合わせ)しながら、ひとつの音楽のような作品のような(期間限定の)プロジェクトをつくること。

そうやって「呪い」を解くんだ。

「評価」という呪い
「同調圧力」という呪い
「達成・成長」という呪い

それが全てではなくて、もうひとつの世界があるんだ。
そして、それを自分の中で7割-3割のようにバランスさせていくこと。

高校2年の齋藤くんが問いかけた
#高校生は副業です
は、思ったよりも深いなと感じている2020年の年末です。

  

Posted by ニシダタクジ at 06:33Comments(0)日記

2020年12月28日

「存在」を揺るがすものとしての資本主義と身体性としてのセンスオブワンダー


武器としての「資本論」(白井聡 東洋経済新報社)

就職活動の違和感、「存在」を考える上で、
構造的に考えるにはいい1冊。
前回の「はみだしの人類学」と一緒に読むことで
さらに就活の違和感について解読できるのかもしれません。

この本には端的にこう書いてあります。

「就職活動とは労働力商品の買い手を探すことです。」

いや、まあ、その通りなのです。

自らを「商品」として、買ってくれる人を探す。
一流企業総合職であれば、生涯賃金が〇億円とか、
そういう価格で自らを売れるかどうか、
それが就職活動というマーケットなのです。

「当たり前だろう」と思った人。

まさにこの本の帯にある、
「資本主義を内面化した人生」を生きているのでしょう。

いつのまにか私たちは、自分たちを幸せにするはずだった
「資本主義(資本制)」を内面化し、
私たちが幸せになるためにシステム(仕組み)ができたはずが、
(本書によれば、それもかなり疑わしいのですが)

いつのまにか、システムを内面化し、
システムjを維持するために苦しむようになっている、
それが現状の苦しさなのではないか?と著者は問いかけます。

おそらく、「就職活動」への違和感っていうのは、
まさにその「商品としての自分」というものに対しての違和感が
大きいのではないか、と感じます。

資本制は「存在」を揺るがしてきた。
それが本書を読んだ上での僕の感想です。

いつもながら、本を読んで響いたところをメモします。

~~~ここから引用

富はどの時代にも、どの社会にも存在するが、その富が主に商品の形で現れる社会は資本主義社会だけなのだ。

商品交換は、共同体の終わるところに、すなわち、共同体が他の共同体または他の共同体の成員と接触する点に始まる。しかしながら、物はひとたび共同体の対外生活において商品となると、ただちに、また反作用をおよぼして、共同体の内部生活においても商品となる。

人類史の大半で、生産的労働は共同体的に営まれてきました。働くとはつまり、人々が自分たちの生存を維持するための共同作業であったわけですし、資本制が発展したいまでも本当はそうなのです。

しかし、近代資本主義が始まったとき、途方もない変化が起こった。生産的労働が商品交換を介して行われるようになった。つまり、共同体の維持のために共同作業をするのではなく、商品の価値の実現のために労働力が売られたり買われたりされるようになるのです。

肉体を資本によって包摂されるうちに、やがて資本主義の価値観を内面化したような人間が出てくる。すなわち感性が資本によって包摂されてしまうのだ。

新自由主義が変えたのは、社会の仕組みだけではなかった。新自由主義は人間の魂を、あるいは感性、センスを変えてしまったのであり、ひょっとするとこのことの方が社会的制度の変化よりも重要なことだったのではないか、と私は感じています。

新自由主義、ネオリベラリズムの価値観とは、「人は資本にとって役に立つスキルや力を身につけて、はじめて価値が出てくる」という考え方です。人間のベーシックな価値、存在しているだけで持っている価値や必ずしもカネにならない価値というものをまったく認めない。

資本の側は新自由主義の価値観に立って、「何もスキルがなくて、他の人と違いがないんじゃ、賃金を引き下げられて当たり前でしょ。もっと頑張らなきゃ」と言ってきます。それを聞いて「そっか。そうだよな」と納得してしまう人は、ネオリベラリズムの価値観に支配されています。

資本の側は新自由主義の価値観に立って、「何もスキルがなくて、他の人と違いがないんじゃ、賃金を引き下げられて当たり前でしょ。もっと頑張らなきゃ」と言ってきます。それを聞いて「そっか。そうだよな」と納得してしまう人は、ネオリベラリズムの価値観に支配されています。

人間は資本に奉仕する存在ではない。それは話が逆なはずだ。けれども多くの人がその倒錯した価値観に納得してしまう。それはすなわち資本による労働者の魂の「包摂」が広がっているということです。

労働者階級はいまや純然たる消費者であって、文化の創造者ではない、ということが暗黙の前提となっている。

資本制の特徴はこのように、必要労働と剰余労働が区別できないところにあるのです。そこから、資本のために生産性を上げているのに、自分のために生産性を上げているのだという錯覚も生じてきます。

資本が価値増殖をするときに、それは一般的に何に基づいているのか。先にそれは「差異」だと申し上げました。金融資本であれば時間的差異、商人資本であれは空間的差異が、剰余価値を生むベースになっていました。産業資本の場合は労働力の使用価値と交換価値の差異から、剰余価値を引き出していました。

特別剰余価値とは、「高まった生産力によって商品を廉売することによって得られる利益、イノベーションによって獲得された期限付きの剰余価値であり、ある商品の現在の社会的価値と未来の社会的価値との差異から生まれる」と定義できるでしょう。

~~~ここまで引用

さらに、僕がうなったのはこちら。
いわゆるフォーディズムの説明

~~~ここから引用

このように労働者を単に搾取の対象と見なすのではなく、消費者としても扱っていこうという発想が、20世紀後半の資本主義の特徴でした。この特徴を最も早く体現していたのがアメリカのフォード社による生産と労働の体制であったわけで、ゆえにこの体制がフォーディズムと呼ばれるわけです。

果たして生産力を際限なく上げていくことが、人間の幸福に結びつくのだろうか。

生産されたものの社会的価値が下がるということは、その生産に従事する労働者から見れば、労働の価値が低下するということです。

「生産力が上昇した」「生産性が向上した」とは、「その生産に従事する労働の価値が低下した」ことを意味しているのです。

1 貨幣・生産手段・生活手段の所有者
2 労働力の販売者である自由な労働者
が出会うことこそ、資本主義の始まる条件である、とマルクスは考えます。

ここで言う労働者とは、自分の労働力を売る以外に生計手段がない人たちということです。

そのような存在をマルクスは「二重の意味で自由な労働者」と呼んでいます。この場合の自由とは、

1 身分制から解放されている
2 生産手段を持たない
ということです。これが「はじまりの労働者」とされます。

~~~ここまで引用

この本には、日本で言えば「地租改正」など、いかにしてそのような「はじまりの労働者」が都市部に出てきたか。そして、そもそもの「価値」の源泉が差異、つまり「安い労働力」であることから、だんだん地方との賃金格差をなくなると共に、海外に生産拠点を求め、あるいは安い労働力を「輸入」して差異としての「価値」を生み続ける、あるいはそもそも「労働力」に頼らないソフトウェアやウェブ上のシステムを売っていくことで「価値」を生んでいくこと、これが資本主義のカラクリ。

いや、なんとなくは分かっていたのだけど、ここまで説明されるととてもスッキリします。

そして、すごかったのはやはり「フォーディズム」。

そもそも、工業生産において、労働者は搾取されるだけの存在であっては、成長し続けることができない。つまり、生産したモノを買い続ける「消費者」を同時に生んでいく必要がある。こうして「労働者」は同時に「消費者」としてふるまうようになっていきます。

それは、資本主義の発展、つまり「経済成長」という側面では大成功だったのでしょう。
一億総中流と呼ばれ、マイカー・マイホームを持ち、購買意欲の高い都市生活者をたくさん生みだしました。

ところが、もはや「差異」の源泉がなくなってしまった。「グローバル化」とはそういうことです。
社会は再び、自国の労働者からの搾取を必要とした。それがいま現在進行形で世の中で起こっている。

「誇りの空洞化」。
明治大学の小田切先生は、もっとも大きな課題として、それを指摘しました。

参考:誇りという観光資源(2015.7.10)
http://hero.niiblo.jp/e470410.html

「誇り」が失われた。資本主義とシステムによって。
人々は数値化された。「労働者」であり「消費者」であるということによって。

システムによって「存在」が揺るがされている。
「就職活動」への違和感は究極、そういうことなのだろうと思います。

「就活」というシステムに適応することは、
自分たちを本当に幸せにするのだろうか?
極端に言えば、それで「生きられる」のだろうか?という疑問。

本書の最後に、白井さんは語りかけます。

「私はスキルがないから、価値が低いです」と自分から言ってしまったらおしまいです。それはネオリベラズムの価値観に侵され、魂までもが資本に包摂された状態です。そうではなく、「自分にはうまいものを食う権利があるんだ」と言わなければいけない。人間としての権利を主張しなければならない。

意思よりももっと基礎的な感性に遡る必要がある。どうしたらもう一度、人間の尊厳を取り戻すための闘争ができる主体を再建できるのか、そのためにはベーシックな感性の部分からもう一度始めなければならない。だから、食べ物の話は、代表的事例であると同時に比喩でもあります。私たちの生活の全領域で、どういう感性を持つのかが問われている。

いやあ、ホントそう。
「感性」に戻ること。自分自身の身体性としての「センスオブワンダー」を見つけ、感じること。

そこからしか始まらない。
いま、自分が、そしてあなたが何を感じているのか?
「場」として何に「価値」をおき、何を創っていくのか?

そんな根源的な問いを見つめていくことから始めていこうと僕も思っています。

  

Posted by ニシダタクジ at 09:43Comments(0)

2020年12月26日

「わたし」をやわらかく開く


「はみだしの人類学~ともに生きる方法」(松村圭一郎 NHK出版)

読むべき本にタイムリーに出会えるって幸せだなあと。
たぶん、レヴィナスが言っていた
「他者との関係は理解と共感の上に基礎づけるべきではない」

じゃあ、どうすりゃいいんだ?
っていう問いに一定のヒントを与えてくれる1冊。

冒頭から「近代」に対する問い。

~~~
「近代社会」を支える人間観・社会観の中心に「個人」という存在があります。
確固とした「個人」が間違いなく存在する。近代はこの個人としての「わたし」の存在をもとに、
その個人が集まって社会を構成している、という考え方を発展させてきました。
でも、歴史的に見れば、それは必ずしも「あたりまえ」でも「自然」でもありませんでした。
~~~

興味を引く導入ですね。
そして次に「つながり」について言及します。

~~~
「つながり」には、ふたつの働きがあります。
存在の輪郭を強化する働きと、反対にその輪郭が溶けるような働き。
「ともに生きる方法」を考えるとき、この両方の側面に目を向ける必要がある。
~~~

現在起こっている「つながり」の可視化(SNS等)によって起こっているのは、「存在の輪郭が強化される」です。

エドワード・サイードが「オリエンタリズム」で述べたように、「オリエント世界を描く」ことは「ヨーロッパ人が何者であるかを知る」ためにある。つながりを通してAとBが何者であるかが定まるように、他者表象と自己理解は別々の営みではなく、同時に起きているのです。そうして、文化人類学は「異文化」を理解するための学問というよりも、異文化との出会いを通して自分たちのことを理解しようとする学問であると認識されるようになりました。

フレデリック・バルトは、「エスニック・バウンダリー論」を提唱し、民族集団はそれぞれ言語や文化、習慣といった内側の要素から定義されるのではなく、境界(バウンダリー)を接している他民族との関係によって定義される、としました。

次に、「輪郭が溶ける」について

松村さんはフィールドワークで訪れた場所での気づきを、次のように述べます。

それまで「わたし」という存在は明確な輪郭をもって存在していると思っていました。でも、見知らぬ他者と出会い、別の世界や生き方の可能性に触れることで、それまで「輪郭」だと信じていたものが揺さぶられる。その揺さぶりによって「わたし」のなかの大きな欠落に気づく。その欠落を埋めようと、「わたし」がそれまでの輪郭をはみだしながら他者と交わり、変化していく、そんな経験だったのです。

イギリスの人類学者ティム・インゴルドは、その著書「メイキング」で、人類学の参与観察は対象についての研究ではなく、相手とともに考えるプロセスなのだとはっきり書いています。そこで互いに変容することのほうが、客観的データを収集するより大切なのだ、と。自分たちの知識や枠組みを相手に押しつけず、相手と同じ場に身をおき、相手から学ぼうとする姿勢で「わたし」を開いておく。すると、その「つながり」はおのずと互いを変容させていく。その変容こそが「学び」なのだとインゴルドは言います。

人類学のフィールドワークでは、人びとの生活の中に入り込み、長い時間を一緒に過ごします。そうしているうちに「わたし」の輪郭が溶けて、他者であるはずの「かれら」の存在へとはみ出していくような経験をします。そのとき「わたし」と「かれら」の境界があいまいになり、もともと「わたし」だと信じていたものが、そうではないあり方へと導かれる。たしかにそこに「ある」と思っていた「わたし」の人格や価値観が絶対的なものではなく、容易に変化しうることに気づかされるのです。

私たちは他者とつながるなかで境界線を越えたいろんな交わりをもちます。それによって変化し、成長することもできます。それは「わたし」という存在が、生まれつきのプログラム通りに動くようなものではなく、いろんな外部の要素を内側に取り込んで変わることができる「やわらかなもの」だからです。

「わたし」が溶ける経験を変化への受容力ととらえると、ポジティブに受け止められると思います。さまざまな人と出会い、いろんなものをやりとりした結果として、いまの「わたし」がいる。その出会いの蓄積は、その人だけに固有のものです。だれ一人として、あなたと同じ人に同じように出会っている人はいません。「わたし」の固有性は、そうした他者との出会いの固有性の上に成り立っている。

でもだからこそ、いまの「わたし」が不満な人は、それを悲観する必要もない。みんな気づかないうちにかつての「わたし」を捨て、こっそり他者からあらたな「わたし」を獲得しているのですから。

この後、
平野啓一郎さんの「分人」理論(「自分」とは何か? 講談社現代新書より)を人類学視点から説明します。

状況や相手との関係性に応じて「わたし」が変化するという見方も、まさに「分人」的な人間のとらえ方です。潜在的には、「わたし」のなかに複数の人間関係にねざした「わたし」がいる。だれと出会うか、どんな場所に身をおくかによって、別の「わたし」が引き出される。ここで重要なのは、他者によって「引き出される」という点です。それは「わたし」が意図的に異なる役を演じ分けているのとは違います。他者との「つながり」を原点にして「わたし」をとらえる見方です。

「人とは違う個性が大切だ」とか、「自分らしい生き方をしろ」といったメッセージが世の中にあふれています。でも「わたし」は「わたし」だけでつくりあげるものではない。たぶん、自分のなかをどれだけ掘り下げても、個性とか、自分らしさには到達できない。

他者との「つながり」によって「わたし」の輪郭がつくり出され、同時にその輪郭からはみ出す動きが変化へと導いていく。だとしたら、どんな他者と出会うかが重要な鍵になる。

「わたし」をつくりあげている輪郭は、やわらかな膜のようなもので、他者との交わりのなかで互いにはみ出しながら、浸透しあう柔軟なもの、そうとらえると少し気が楽になりませんか?

もちろんその「他者」は生きている人間だけとは限りません。身の回りの動植物かもしれませんし、本や映画、絵画などの作品かもしれません。いずれにしても文化人類学の視点には、そんな広い意味の他者に「わたし」や「わたしたち」が支えられている。という自覚があります。

この本のラストに、まとめがあり。
輪郭が強調されるつながりを「共感のつながり」と定義し
輪郭が溶けるような、他者と交わるなかでお互いが変化するようなつながり方を「共鳴のつながり」と呼びます。

共感して「いいね!」をつけるのではなく、
自他の区別があいまいになり、「わたし」が他者との響き合いをとおして
別の「わたし」へと生まれ変わっていくといったイメージです。

~~~ここまでいろいろ引用

いやあ、これはすごい本だなあ。
僕が「場」に溶ける、「場を学びの主体にする」とかって言っていたことの
理論的な裏付けができているのかもしれない。

「取材型インターンひきだし」とか「にいがたイナカレッジ」とかでの大学生との対話でも、
「やりたいこと」とか「個性」とか「強み」とかって言っているけど、
そもそも、それを問うことで「自分らしさ危機(アイデンティティ・クライシス)」の負のスパイラルに落ちていっているのかもしれない。

「自分」を起点に考え、
「自分」と他者を分けること、
「自分」で意志を持ち、目標を立てること
そのものが「自分らしさ危機」を招いているのかもしれない。

そして僕が取り組みたいのはまさにそこだ。

「わたし」をやわらかく開くこと。
「場」に溶けだしていること。
「他者」と影響しあい、求められる「役」を演じること

「自分」という単位で考えることを
「自分たち」や「場」や「関係性」でとらえ直すこと。

そうやって委ねているうちに、
いつのまにかたどりつく「わたし」、
変化し続ける「わたし」を楽しんでいける、

そんな日々を送ってみたいと僕も思うのです。  

Posted by ニシダタクジ at 07:42Comments(0)学び

2020年12月24日

創造的ハイブリッドというお家芸


「日本習合論」(内田樹 ミシマ社)

タイムリーな本かも、って思って購入。
想像以上にインスピレーションが多い読書時間。
いろいろありすぎてうまく感想が書けません。

いきなりエマニュエル・レヴィナスの一言から。
「他者との関係は理解と共感の上に基礎づけるべきではない」
いいですね。

「理解と共感の上に人間関係を築く」これが現代日本の「常識」です。
でも、理解と共感に過剰な価値を賦与すべきではないと僕は思います。

「あいつは変わってる」
みたいなやつって、まさにその「常識」の上にある偏見なのだと思うのだけど。

そして、「事大主義(じだいしゅぎ)」について。「多数派は正しい」という信憑。
これは、コロナの「自粛警察」とか芸能人のスキャンダルに対しての反応とかにも言えると思うのだけど、多数派でないことで攻撃される。
もちろん「和を乱さない」ということは、集団を安定的に維持するためには必要であるのだけど。
これはさらに言えば、「多数派であること」が正しいこととイコールになってしまうということ。
それは本当に危険だなあと。

だって、「集団が安定的に維持される」っていうのは、現時点でもはや、考えられないですもんね。
「安定的に」は、人口減少して集落も町も無くなっていくんです。

みんな「不安」だから、多数派に属していようとする。
だから過度に「理解と共感」に現れちゃっているのが現在の状況なのかなと。
「身の程を知れ」っていう言葉からは何も創造できないですもんね。
この本にも書いてあるけど「動的な調和」っていうのがあり得るのではないかと。

そして、「ミスマッチ」について。
この本では阪神大震災のボランティアで起こった「ミスマッチ」を題材に、
次のように述べられている。

~~~ここから引用

ミスマッチでいいじゃないですか。知らない同士がそれぞれの思いを抱えてピンポイントで出会うんですから、共感できないのが当たり前です。

ミスマッチを「悪いこと」だと考えるから傷つくんです。人生はミスマッチだらけです。僕たちは間違った家庭に生まれ、間違った学校に入り、間違った人と友だちになり、間違った相手と結婚して、間違った仕事を選んで、間違った人生を送る。そういうものなんですよ。

「ミスマッチ」が悪だと思うのは「マッチすること」がふつうだと思っているからです。共感主義者たちは「マッチすることがふつうだ」と思っている。だから、「何も言わなくても、気持ちが通うはずだ」というようなとんでもないことを期待する。そんなわけないじゃないですか。

~~~ここまで引用

そうなんだよね。「ミスマッチ」をエラー(失敗)ではなくて、「ミスマッチ」を前提に仕組みを構築しなければいけない。
だからこそ、ミーティングの度に「最近あったよかったこと」を言いながら「チューニング」する必要があるんだと。

そして、この本の中心テーマは「神仏習合」と「神仏分離」です。

六世紀に仏教が伝来して以来、
土着の信仰と儀礼を「仏教とは違うもの」として位置づけたことで、
神道はかたちづくられました。

以来、1300年ほど、仏教と神道は癒合したかたちで存在していました。
神社の中に寺院があり、寺院の中に神社があるという共生です。

ところが、慶応四年(1868年)、神仏分離令によって神仏は引き裂かれてしまいます。
千年以上続いた伝統が政令1つで途絶してしまう、
さらにそれを受け入れてしまう国民に、内田さんが
「なぜだ?」と思ったのがこの本の始まりです。

地域によって異なりますが、「神仏分離令」は「廃仏」と解釈した場所では、
激しい廃仏運動が起こり、歴史的なものが多く失われました。
詳しくはこの本を読んでもらうとして、ここでは「聖地巡礼」の話を。

~~~ここから一部引用

「お伊勢参り」は、江戸時代において、我が国最大規模の聖地巡礼であり、同時に最大規模の観光旅行でもありました。
天保元年(1830年)には427万人、実に総人口の8人に1人は伊勢神宮に参拝した計算になります。
そこに一大ビジネスが生まれます。「御師」と呼ばれる人たちが各地からの伊勢神宮参りに取り仕切り、
またオフシーズンには地域を回ったのだそうです。

「聖地巡礼」と「観光」はセットだったのです。つまり宗教活動であり、楽しみの活動でもあった。
ところが、「観光」という言葉の登場で、宗教的行為と観光は切り離された。
そうか。そもそも「観光」は、「聖地巡礼」を前提としていたのか。
そしてその成立のためにはその仕組みを支える「御師」や宗教家などの「旅する人たち」が必要だった。

しかし、政府はそれを嫌った。
近代国家にとって、管理外の人たちを減らしたかった。
「国民を移動させないこと」が近代国家成立に必要だった。
こうして「宗教の近代化」「土着のものの浄化」が
国をひとつにまとめていくための政策として採用された。

それから150年の時がすぎて、羽黒山に来る若い人たちを見ていると、
再び、神仏習合に還ってきているのではないかと内田さんは説明します。

~~~ここまで一部引用

「習合」というキーワード。
食べ物で言えば、「あんぱん」や「カレーうどん」や「たらこパスタ」のような。

戦わず、主導権を争わず、合わせてしまう。
それを今風に言えば、「創造的ハイブリッド」となるかもしれません。
たぶんこれが1300年続いてきた我が国のお家芸なのでしょう。

だから本当は、「多数派」に従うような「事大主義」ではなく、
「少数派」を取り入れ、創造的にハイブリッドしていくこと。
理解と共感をベースにしない「協働」をたくさんつくっていくこと。

「高校(教育)魅力化」っていうのもそういう文脈で語れるのではないかと。
地域には何百年と積み重ねられてきた「営み」がある。
そこに「学校」という西洋由来のシステムが入ってきて百数十年。

それを「習合」させていく取り組み。
「創造的ハイブリッド」を生み出していくこと。
具体的に言えば、それが地域での探究活動だし、
その地域ならではの「マイプロジェクト」ということになるのだろう。

「理想的な学校をゼロから新設する」のではなく、
「習合」という観点で創造的ハイブリッドを目指すような「高校魅力化」プロジェクトが
できるなら、僕にとっては、そのほうが創りたい絵、なのかもしれないな、と。

阿賀黎明探究パートナーズのみなさん、令和3年、いよいよ始まりです。
よろしくお願いいたします。  

Posted by ニシダタクジ at 06:26Comments(0)

2020年12月23日

#高校生は副業です

高校生が探究的なプロジェクトを実践する
「全国高校生マイプロジェクト」の新潟県版の発表会
「NIIGATA マイプロジェクト LABO 2020」が12月20日に
オンラインで開催されました。

阿賀黎明高校からは2組が出場し、
齋藤くんの「釣りってなんだ?」プロジェクトが
午後の代表プレゼンへ進出し、
「ベストアントレプレナーシップ賞」に輝きました。

そして、なんと昨日、別でエントリーしていた
「全国高校生マイプロジェクト関東summit」
の書類選考にパスして、出場が決定しました。
すごい。

20日のふりかえりをしていて、2人とも、他校の生徒の発表を聞いて、よく学んでいるなと。
特にベストマイプロ賞に輝いた佐渡高校の演劇プロジェクトと
津南中等教育学校の紅葉がキレイに見えるように杉を伐採したいというプロジェクトが心に残ったようで、

「部員がほとんどいない部活をゼロから立ち上げる行動力がすごい」

「紅葉の色合いを取り戻すために杉で生活用品をつくっていく一石二鳥感がすごい。スケールがでかい。」

「何気ない日常に疑問を持ち、行動するのはすごいと思う。家を出て、学校にいくまでのあいだにもヒントがある。自分も温泉に入るときも景色を見ていく」

特に3つ目は、いわゆる「行動変容」が起こる学びだったので大きいなと感じた。

高校生同士が刺激し合う。
いい「場」をつくってもらったなあと。
実行委員およびファシリテーター&アドバイザーのみなさん、たいへんお世話になりました。ありがとうございます。





子どものころからひたすら「釣り」をしていた彼のプロジェクトは、
「バーベキューの時に焼きたいので鮎を分けてくれないか?」
という一言から始まりました。





釣った鮎の美味しさ。
阿賀町に来てよかったなあと思いました。
そして8月23日「学校見学&まなび体験会」のスタッフ側として参加。



他県から来た中学生に「釣りを教える」を経験。
その日の午前中は地元の釣りクラブ「アユビレックス」主催の大会に参加。

今年の鮎は記録的に不漁で、
多くの人が数匹の釣果しかなかったところ

「午後から中学生に釣り体験をさせ、鮎を食べさせたいんだ」
と釣りクラブ代表の真田さんが語ると、みんなが釣った鮎を分けてくれた。
あったかいな、阿賀町の釣り人。
そして午後から釣り体験と、鮎塩焼き。
僕はオンライン説明会が終わった午後3時頃から参戦。
釣りたての鮎は信じられない美味しさでした。

振り返ると、あの日が、齋藤くんにとって、
ターニングポイントだったと言います。

釣りを中学生に教えたこと。
釣りを愛する地域の大人と一緒に釣りをしたこと。
昼ご飯(たれかつ丼)をご馳走になったこと。

「釣り」は自分ひとりの趣味でしかなかった、
それが、あの日、
「釣り」を通して、人を喜ばせることができる、
人とコミュニケーションすることができる、と知ったのだと。

その後、冷凍保存している鮎を燻製にしてみたらどうか?と燻製づくりを始め、
真田さんが「鮎出汁のそば」を作っていることを知って、蕎麦打ちのセットも自分で購入。
売れるくらいの商品づくりまで行きたいと言っていた。

そして、最後の決め。
#高校生は副業です。

これ、すごい問いだなあと。
むしろ大人に問いかけてくる。

あなたの本業はなんですか?って
いや、もちろん、生活をしていくために中心的に取り組んでいること
が本業と言うのだろうけど、

スピノザ的に言えば「コナトゥス」、
僕的に言えば「ベクトル」こそがその人の本質なんじゃないの?
って。
高校生って「カタチ」だからね。ベクトルじゃない。

#高校生は副業です

は、その問いを投げかける。
あなたの本質はなんですか?


ハウンドドッグ風に言えば、
「やりたいことがわかっているのに、始めてないんじゃないか?」
と。  

Posted by ニシダタクジ at 07:03Comments(0)学び

2020年12月15日

自分に向き合うのではなく、「場」と「問い」にフォーカスする その2

昨日のつづき。

第1期:1985~1999
キーワード「生きる意味」「豊かさ」「農」「自然」「思考停止」「センスオブワンダー」・・・

第2期:2000~2014
キーワード:「コミュニケーション」「15歳」「瞬間」「創造」「学び合えば希望は生まれる」

第3期:2015~
キーワード:「アイデンティティ危機」「創造的脱力」「場のチカラ」「チューニング」「予測不可能性」「高校魅力化」

ということで、第2期から「問い」の変遷を。

2000年8月、巻町へ転居。大学院を半年残しての移住。
一軒家で知り合い向けゲストハウス、本屋、学習塾を小さくやってみた。
「まちづくり」ってなんだ?

2002年、地ビール屋退職後、中学3年生シンタロウとの出会い。

どうしてこの子は、無職の僕に心を開いたんだろう?
⇒仮説1 むしろ無職だからよかった⇒多様な大人に会える機会をつくる。
⇒NPO法人虹のおと設立して子どもの遊び場づくり

15歳が自分と地域と社会を好きになり、自分と社会の未来創造へ向けて歩き出している地域社会の実現。

2004年「小説吉田松陰」の野山獄エピソード
⇒学び合えば獄中でさえ希望を生むことができる。
⇒学び合いの場づくりどうつくるか?

2004年中越地震
ボランティアってなんだ?
⇒一方的に与える、与えられるものじゃなく、双方向コミュニケーション。

子どもが日常的に地域の大人と接するには?
⇒神社で子どもと遊ぶ虹のひろば


2006年NEC社会起業塾応募をきっかけにNPO法人ETICのチャレンジコミュニティプロジェクト(チャレコミ)に参画
大学生の地域企業インターンシップ事業を立ち上げ。

「社長に挑戦セヨ」:1泊2日で社長の出したお題に学生がビジネスプランを考える。
学生と社長が学び合う場をつくれないか?

長期インターンシップ。
顧客は誰で、価値は何か?(ドラッカーの5つの質問)

2011年ツルハシブックス開店
⇒大阪・スタンダードブックストアをモデルに。
⇒再来店するには?
⇒1回目客の滞在時間を伸ばす

「本」を介して、人と人がつながる。
「サムライ」「劇団員」システム導入。
参加型本屋になり、店員とお客の区別をあいまいに。

大学と連携したコミュニケーション講座や商店街や粟島でのプログラムづくりを行う。
粟島3泊4日で大学生が劇的に変わる!

「長期インターンシップ」のお客は誰で、価値は何か?に悩む。
その優秀な子たちには、僕がサービス提供をしなくてもいいのではないか?

「就活」に向かう大学生の「やりたいことがわからない」「自分に自信がない」
という悩みが深刻なことに気づく。

「やりたいことがわからない」はなぜ苦しいのか?
巻き込まれて、小さなプロジェクトをやってみること。

⇒「うちのまち なじみのお店 ものがたり」プロジェクト
大学生がコーディネーターとなり商店街で講座を開く。

「就活」というコミュニケーションデザインへの疑問
⇒「夜景企画会議」
大学生と中小企業の社長が新潟の夜景を見ながらビジネスアイデアを考える。

第3期:2015年~

茨城大学社会連携センター・COCコーディネーター。
COC=センターオブコミュニティ=コミュニティの拠点としての大学を目指す文科省事業

授業構築サポート(茨城学・地域PBL)
大学生の地域プロジェクト支援

岡倉天心との出会い
西洋と東洋を茶で結べないか?⇒コミュニケーションデザイン

暗やみ本屋ハックツ立ち上げ「10代限定古本屋」
茅ヶ崎美術館ハックツ展示「ハックツ」というコミュニケーション・ツール

2016年ツルハシブックス閉店
居場所になるリスク⇒コミュニティは閉じやすいこと。
どうすれば開かれ続けるのか?

カフェゼミ×つながるカレー 加藤文俊先生
⇒「予測不可能性」こそがエンターテイメントの本質

にいがたイナカレッジ、取材型インターンひきだし、新城劇場。
チューニング・ファシリテーション⇒
「価値観とルーツ」を語る自己紹介と、思ったことを言える場づくり、振り返りのエンターテイメント化

場のチカラ⇒アウトプットを出すのは個人のチカラでもチーム力でもなく場のチカラ
山口周「世界のエリートはなぜ美意識を鍛えるのか」で退職を決意。

2018年退職
「創造的脱力」(若新雄純)というコンセプト
創造的脱力アプローチが得意だったのに創造的破壊アプローチを志向したこと。
大学のような大きな組織にはフラットなコミュニケーションが成立しにくいこと。

2019年阿賀黎明高校魅力化プロジェクトへ

課題整理と魅力化のポイントは?
⇒留学生の確保がカギ
⇒寮の設定と募集活動へ。
ベネフィットじゃなくてWHYを語るべき。

2020年コロナショック
オンラインでないとたどり着けない場とは?

「高校魅力化」をコミュニケーションの手段として
地域の人と「見つけ合う」ことが可能なのではないか。
場のチカラを高め、「学び合い」から「見つけ合い」へ。

その瞬間を見たい。
「探究」活動をベースに、地域と高校生との問いに対してのフラットな場が生まれること。



こうして見てくると、
土曜日に久保さんが言っていたように、
「問い」はどんどん変わっていく。
「問い」が変わるということは、自分(の思考)も変わっているということ。

だから。
手法としては、自分に向き合い、目標を立てて、達成を繰り返し、成長実感を得るよりも、
実は「場」と「問い」に注目して、「場」をベースに活動し、結果、「問い」が深まる(変化・進化・深化する)
探究活動やマイプロは、そんなことを繰り返すためにあるのではないか。

「やりたいことがわからない」
「自分に自信がない」

全然問題ない。
結果を出すのはあなた個人ではなく「場」だからだ。

「自分自身の問いが見つからない」

全然問題ない。
「場」をベースに活動し、ふりかえりの時間を多くとっているから。
共感や違和感をベースに「問い」を見つけていこう。

問いがなんとなく見つかったら、その問いに対するアクションを起こし、
さらに自分で振り返り、「問い」を育てる(変化・進化・深化させる)
問いが変わると共に、実は変わっていた自分に気づく。

そんな繰り返しでアイデンティティはなんとなく構築され、アップデートされ続けるのでは、という仮説。  

Posted by ニシダタクジ at 06:42Comments(0)日記

2020年12月14日

自分に向き合うのではなく、「場」と「問い」にフォーカスする その1

土曜日のマイプロジェクトラボniigataのふりかえりその2

「問い」っていうキーワードで、自分自身を振り返ってみた。
「問い」は最初は人から与えてもらうものなのかもしれない。

僕が最初に「問い」をキャッチしたのは
ドラマ「スクールウォーズ」(再放送)だった。

「先生、人は何のために生きているんですか?」
という奥寺浩(イソップ)の問いが心に刺さった。

だから僕にとっては
「やりたいことは何か?」と
「人は何のために生きるのか?」と「私は何に人生を賭けるべきか?」
は同時進行で起こった。

その中でヒントになったのが(1990年代始め)
環境問題だった。
高3の時に図書館で出会った「沙漠緑化に生命を賭けて」(遠山正英)が
僕に鳥取大学農学部という志望校を与えてくれた。

世界の食糧不足が心配されていた。
経済システムによる「飢餓と飽食」が同時に起こっていることに、心を痛めた。

昨日のブログで言えば、
志(目的意識)・Being(生き方)
★ふりかえることで進化できる
自分のマイ感(WILL・WANT・PAIN・NEEDS)
を深掘り・省察して、自分の人生の舵を取る人へ

ここのところになるのかもしれない。
僕としてはPAINから来る共感だったのだろう。

その後、浪人中に「平成の米騒動」と呼ばれた
米の不作とタイ米輸入問題起こる。
稲作を学ぼうと、新潟大学農学部へ。

キーワードは「環境保全型農業」だった。
ところが、大学1年次に衝撃の事実が明らかになる。
エビデンスを知れば知るほど環境問題はすでに手遅れだった。

僕は大学進学の意味を失う。
人生を賭けていた問いを失ったのだ。

一筋の光は、また本が与えてくれた。
「微生物技術で環境問題は解決する」と力強く書かれた本により、
「これに賭けてみよう」と
その技術を検証するべく、畑サークルを始めた。

最初に取り組んだのは、学食の生ごみのたい肥化だった。
学食の店長に頼み込んで生ごみを分けてもらった。
微生物資材と米糠でつくった「ボカシ」と呼ばれるもので発酵させて
生ごみをたい肥化した。

思えばあれが、僕にとっての初めての実践の場だった。

フィールドワークもした。
微生物技術を取り入れている農家さんを訪れ、話を聞いた。
農家さんは、どこの馬の骨とも分からない僕に、熱く語ってくれた。
いつのまにか僕は、農家さんの生き方、哲学そのものに関心を持った。

同時に、自分が取り組んできた微生物農法に疑問を感じた。
きっかけは、微生物技術開発者の大学教授の講演会。

「この技術を使えば、自動車の排気ガスは環境を汚染しなくなる」

衝撃の一言。
「そんなすごい技術が!」

ではない。
「環境問題ってそういう問題なの??」
「環境問題の技術的解決」に疑問が湧いた。

「環境問題の原因ってなんだ?」
っていう問い。
その時に書いたのは
「フロンが環境問題の原因か?」というエッセイ。

そもそも、環境問題の原因は、
消費行動だから、その消費行動を行うマインドを変えないと
本質的には環境問題は解決しない。
あ、これって、土曜日にやった「氷山モデル」だなと。

その時に、どうやったらマインドを変えられるのか?
という問いの中で生まれたのが
「作物を種まきから収穫まで育てる体験」ができる場をつくる、だった。

畑サークルで初めてサツマイモを育てた。
あんな細い苗から、本当にさつまいもができた。
あの感動。
「生命」の何かを僕は感じた。

結果。

1999年4月にまきどき村が発足。

当時は、「畑のある公園づくり」と言っていたのだけど。
そうして、僕は巻町福井という集落に出会って、
その先に問いへとつながっていくことになる。

その話はまた、次の機会に。

写真はまきどき村の「ハートの田んぼ」田植えの図
  

Posted by ニシダタクジ at 12:28Comments(0)日記

2020年12月13日

「問い」を育てる森づくり

マイプロジェクトラボNIIGATAブラッシュアップDAYでした。

マイプロ=マイプロジェクト=実践型探究

なぜマイプロなのか?

想い;マイプロを通じて自分の人生の舵を取れ!
★入試でも主体性が問われる
自分の生きたい未来は自分の力で創ることができる。
未来社会を創り出していくのも自分自身!

地域・社会への当事者意識・使命感
★ジブンゴトの問いから社会へ
学生だからできないということはない。
自分にもできることがある。自分もやってみたい!

志(目的意識)・Being(生き方)
★ふりかえることで進化できる
自分のマイ感(WILL・WANT・PAIN・NEEDS)
を深掘り・省察して、自分の人生の舵を取る人へ

認知スキルと非認知スキル
★学力と社会で生きる力
論理的思考力・仮説検証力・セルフマネジメント
実行力 コミュニケーション クリエイティビティ など

0→1を創る イノベーション力
★未来を創る力
創造型課題解決のプロセスを実践を通じて学ぶ

長谷川さんの講演メモ

~~~

マイプロジェクトとは?
身の回りの課題や関心をテーマにプロジェクトを立ち上げ、実行する高校生の活動(実践型探究活動)

全国高校生マイプロジェクトの誕生:
岩手県大槌町の「被災したまちのために何かしたいという高校生の想い」を「マイプロジェクト」という手法を使って2012年ごろからカタリバが支援して始まった放課後の活動。

高校生の想い×マイプロジェクト(慶応SFC井上英之研究会2006~)×カタリバのコラボスクール大槌臨学舎
⇒「復興木碑プロジェクト」:木碑に刻む言葉を住民みんなで考えることで震災の記憶を風化させない
⇒「笑顔フォトプロジェクト」:震災で写真も流されてしまったので笑顔の写真を配って地域の人達を元気づける。

マイプロジェクトでの学び:
参画度の高いテーマで「主体性」を育み、実践の中で「協働性」を発揮し、それらを繰り返す中での問いの更新を通して「探究性」を養うことを重視する。

「主体性」:ロジャー・ハート参画のはしごモデル
⇒参画の段階のより上段を目指すために、主体性を持てるテーマを発見する。課題と自分の繋がりが強ければ強いほど、取り組みは真剣になり、学びが深くなる。
「協働性」
⇒調べて終わりにせず、課題解決に向けた実践を行うことで、実社会における他者との協働を経験する。
「探究性」主体的な問い⇔実践
実践を繰り返す中で問いを更新する。途中で問いが変わることを厭わない。

マイプロジェクト事例1:「ホヤの魅力を全国へ」(2016)
実家がホヤ養殖⇒出荷先が減少し、捨てられるホヤ⇒アンケートで知らない・食べられないが出る
⇒ホヤの魅力を広めるプレゼンと誰にでも食べられるホヤ料理(ホヤボール)を開発し祭り等で販売。

マイプロジェクト事例2:「郷土~ふるさと~の水にチャレンジ」(2017)
主体性:化学・実験が好きを地域活性につなげたい
協働性:地元企業にかけあい、水を開発
探究性:水の成分比較⇒失敗からの新たな仮説

「主体的な問い」と「実践」を重視するとは?
・学びが大きい分、ただ調べたり、提案したりするより大変
・その覚悟が必要

受動的⇔主体的
仮説提案⇔仮説検証・実践(アクション)
右上の象限:学びが多いがコストも大:マイプロジェクト的探究学習

★「想定外」の連続の中にこそ「主体性」「協働性」「探究性」が育まれる。
★すべての経験を「学び」に⇒かかわる大人も!!

マイプロジェクトの考え方
高校生自らが「やりたい」と思えるテーマを設定し、リアルな社会と接する実践を繰り返すことで、高校生が意欲と創造性を育む学びを得る。
「主体的な問い」×「実社会での実践」=「意欲と創造性を育む学び」

理想と現実:平たんではなくデコボコ
★山と谷を越えるため、オトナ(伴走者・協力者・応援者)を探せ!

単発的な関わり⇒継続的な関わり
予備軍⇒3応援者⇒2協力者⇒1伴走者

3応援者:活動を認識して好意的に受け止めてくれている人
・プロジェクト発表会などへの参加
・調査アンケートなどへの回答
・単発での講和の実施

2協力者:自身のリソース(技術/知識/経験値など)を活用して具体的な協力をしてくれている人
・調査のための個別インタビュー
・場所や道具・機器の貸し出し
・商品開発など専門技術・知識によるサポート

1伴走者:継続的に関わり、裏方として活動に支援・指導をしてくれる人
・定期的な打ち合わせや相談
・計画作成や振り返りなども含めた継続的なプロジェクト推進支援

マルシェ(青空市場)の活性化に取り組む生徒
プロジェクト担当の先生⇒伴走者
マルシェの仕掛け人である地域の大人⇒協力者
マルシェに参加する地域の大人⇒プロジェクトの「応援者」

★小さな問いを、大きく育てていこう。

「もやもや」と「探究テーマ」と「問い」と「実践」の関係性
探究テーマに対する問いを明らかにすることを通じて、現状やニーズを把握していきます。
おばあちゃんがずっと家にいる⇒高齢者がひきこもるのはなぜか?
・他のお年寄りもそうなの?
・なんで家から出ないの?
・外に出てるお年寄りって何してるの?
⇒北極星(創りたい未来):高齢者が健康的にいきいき生きている社会

北極星と現状とのギャップ=課題に対して、
課題解決のための実践・アクション!がある。

失敗だって、「この方法だと失敗する」という新しい発見でもある。
おすすめ
1 まずは、やってみること
2 どんどん議論を仕掛けること

~~~ここまで講演

午後の部はブラッシュアップセッション。
システム思考の「氷山モデル」を使用して。

参考:
https://www.change-agent.jp/keywords/000933.html

下に行けば行くほど変化のレバレッジ高
★問いの変化=自分の変化⇒問いが育てば、自分が育つ
問いを変化させる環境づくり

できごと:実際に何が起こったのか
⇒時系列パターン:今まで何が起こってきたか
⇒構造:何がパターンに影響を及ぼしたか?
⇒メンタルモデル:人々はそのシステム(構造)に対してどんな感情を抱いているか?

例:おっちゃん祭(佐渡中等)
1 できごとのレベル:イベントを開催する
2 パターンのレベル:保家の世代と関わらない理由を調査する
3 構造のレベル:世代の壁を無くす⇒おっちゃんと若者をつなぐ策を考え、実行する。
4 メンタルモデルのレベル:日常的におっちゃんと若者が交流できる環境をつくる
⇒世代ごとの壁があるため、佐渡のおっちゃんの魅力が認知されず、若者が佐渡を面白くないと思っている

~~~ここまで

なるほど~。
こうやって、プロジェクトを深め、問いを進化・深化させていくんだなあと。

★マーク(印象に残ったこと)の振り返りを。

★「想定外」の連続の中にこそ「主体性」「協働性」「探究性」が育まれる。
★すべての経験を「学び」に⇒かかわる大人も!!
★山と谷を越えるため、オトナ(伴走者・協力者・応援者)を探せ!
★小さな問いを、大きく育てていこう。
★問いの変化=自分の変化⇒問いが育てば、自分が育つ

マイプロジェクト。
まちという「環境」の中で、プロジェクトを起こすということ。
そこには「想定外」なことに溢れている。
やってみて、感じ、考え、ふりかえり、次の問いへの進む。
まるで実写版ロールプレイングのようなマイプロ。

その「環境」に働きかけるのが大人たちの役割だ。
伴走者、協力者、応援者として、そこに立つ。
そこでの「経験」は高校生だけでなく大人にとっても「学び」の場でしかない。

高校生も、関わる大人も、「プロジェクト」という「場」(環境)に溶けだし、
ともに感じ、考え、ふりかえり、次の「問い」を育むこと。

「問い」が育つことでプロジェクトが育ち、結果として高校生が育つし、
関わったおとなも育つし、結果としてまちも育つ。

そんな「環境」づくり、里山や雑木林のような森づくりを、始めます。  

Posted by ニシダタクジ at 09:27Comments(0)学び日記

2020年12月11日

はたらくくらすラボ説明用

にいがたイナカレッジ主催の「はたらくくらすラボ」の
1月のまとめの会に向けて、言語化を。

大学生の
「やりたいことがわからない」「自分に自信がない」問題とは何か?
どのようにとらえて、それをどのように乗り越えていけばいいのか。

結論:
「問い」と「悩みをクリアしている状態イメージ」と「アプローチ」を変える。

「やりたいことを見つけるには?」「自分に自信をつけるには?」ではなく、
まず「やりたいことがわからない」はなぜ苦しいのか?と問うこと。

それには、
社会的背景としてのキャリア教育とそれを支える学校(評価)システムがある。
個人的背景としては、「承認」欲求と、同質性集団による「比較」がある。

結果、アイデンティティ(自分らしさ)危機に陥り、
本人たちにとっては、生きるか死ぬか、まで深刻化する。

まずは、「承認」について理解すること。

承認には3段階あって、
1 親和的承認・・・ありのままの自分を承認される
2 集団的承認・・・集団としての役割を果たすことで承認される
3 一般的承認・・・社会的にいいことをして承認される

このうちベースとなる親和的承認は、
「存在の承認」とも言い換えることができる。
大げさに言えば、自分がこの社会に存在していていいのか、ということだ。
そして注意すべきは、その承認が本質的には他者から与えられるものではなく
自らが感じ取るものであるということだ。

なのでピラミッド的には、親和的承認(存在の承認)⇒集団的承認⇒一般的承認
となる。

本来、「親和的承認」に関しては家庭や地域で得られていたのかもしれない。
祝福に包まれて生まれてきて、父母だけではなく祖父母も無償の愛を注いでくれた。
あるいは地域の行事やお祭りなどで、地域の人から認識してもらえた。

ところが核家族化が進行し、地域とのつながりが希薄になった現在において、
「親和的承認」を感じる機会が圧倒的に減ってしまった。

しかしながら、人は「承認」を求める生き物なので、
「親和的承認」で得られない承認を別の方法で得ようとする。

それが集団的承認と一般的承認。
学校のクラスや部活動で、役割を果たしたり、
地域でボランティアをしたり、発展途上国に学校を建てたりする。

さらにそこに、学校(評価)システムが入り込んでくる。
学校は巧みに言葉を操り、
あなたの「承認」欲求は「評価」によって満たされるのだと、ささやき続ける。

先生から「評価」を求め、懸命に、5教科7科目を勉強した結果、
地元(あるいは地方の)国立大学への入学できることになる。

ところが、入学の瞬間に悲劇が起こる。
もう「評価者」はいないのだ。
どんなに勉強しても、どんなに授業で発言しても、
褒めてくれる人はいない。

大海原に放り出されたような孤独。
「評価」という方向性(ベクトル)を失った船は漂流する。

「やりたいことがわからない」「自分に自信がない」
の背景には、そういう「承認」の不安がある。

じゃあ、どうしたらいいのか。

1 「承認」欲求の自覚
2 環境を変え、「営み」の中に入る
3 ひとりひとりでなく「場」でアプローチする。
4 創造・発見を体感する。
5 いまいる「場」を中心にした「継承」「創造」を意識する。

たぶんそんな感じ。

まずは承認欲求に気づくことと、自分には存在の承認が足りないことを自覚すること。

次に「営み」。
環境を変えるというのは、ひとつには「同質性集団」から抜け出すということ。
同質性集団の中にいるとどうしても「比較」が起こるため、評価の呪縛から抜け出せない。
「にいがたイナカレッジ」の1か月間の暮らしは、「営み」の中に入るということ。
「営み」、それは人生よりも長く、つないできて、つないでいく何かのこと。その体感。

さらに「場」によるアプローチをすること。

「場」の定義は

1 誰と
2 いつ
3 どこで
~~~~~~
4 なぜ
5 誰のために
6 何を
7 どのように

上3つが狭義の場で7つ合わせて広義の場(プロジェクト)と定義する。

にいがたイナカレッジ1か月プログラムでは、
自己紹介・相互理解の時間を長くとってある。
また、3食を一緒に食べ、一緒に生活することで、
それぞれが「場」と一体化してくる。

その「場」を主体として意識し、プロジェクトを生んでいくこと。
そのプロジェクトも、始まる前にはきっちりと決まっておらず、
村の人たちとの対話や、3人の中での話し合いの結果、4~7を決めていく。
それは文字通り、「場」を主体としたプロジェクトとなる。

にいがたイナカレッジの中間研修で繰り返し伝えるのは、
「アウトプットをいいものにするのは場のチカラだ」ということ。
個人の足し算でも、チームの総合力でもなく、場のチカラであること。

こうして、「場」のチカラを高めることで、「創造」「発見」の瞬間を体感する。

大切なのは、問い(仮説)⇒実験⇒ふりかえり⇒創造・発見⇒新たな問い(仮説)
というサイクルの実感とふりかえりをエンターテイメント化すること。

「予測不可能性」をキーワードに、
予想しなかったよかったこと、悪かったことを「場」として振り返ること。
「予想しなかった悪かったこと」を単に反省点・改善点としないで、
それを楽しむこと。そこにもう一歩なぜ?を加えること。
それは「場」のチカラ=仕組みで解決できないかを考えること。

「場」を主体とした実践とサイクルを回すこと、
そして「ふりかえり」のエンターテイメント化による、
「創造」と「発見」の体感。
こうして、学校(評価)システムの呪縛を徐々に解いていくこと。

さらに言えば。
「継承者」である自分に気づくこと。(勘違いすること)
「創造」「発見」のエッジ(創造・発見がギリギリ生まれるか生まれないかのところ)に自分の「存在」を実感すること。

おそらくはこれが、アイデンティティ危機に対する、僕なりの解決策だし、
「にいがたイナカレッジ」1か月インターンの取り組みの価値なのではないだろうか。  

Posted by ニシダタクジ at 08:56Comments(0)学び日記

2020年12月09日

アントレプレナーシップとは規律ある実践である


成功する起業家は「居場所」を選ぶ(馬田隆明 日計BP)

5日に引用したブログの作者の本。
http://hero.niiblo.jp/e491218.html
「学ぶ意欲」は育むことができる(20.12.5)

「私は、私と私の環境である」(ホセ・オルテガ・イ・ガゼット「ドン・キホーテをめぐる省察)から始まる、この本。
「場のチカラ」とかに通じるなあと思って読んでみました。

「私」は私だけで自立しているように見えるけれど、実は自分の周りや環境も含めて「私」である、ということ。

大前研一さんも言う。
「自分を変えるにはどうしたらいいか。簡単な方法が3つある。時間配分を変える、住む場所を変える、そして付き合う人を変えることである。」
後者の2つを言い換えると「自分の居場所を選ぶ」ことなのではないかと。
「環境」という言葉が示す範囲は、自分の居場所や自分の周りの人たち、もっと大きな捉え方をするならば社会や時代というものも含まれる。

と始まります。
今日は、第4章の「practice」をご紹介します。

~~~ここからメモ

ピーター・ドラッカーは言った。
Entrepreneurship is neither a science nor an art ,It is a practice.
著者による日本語意訳:「起業家精神とは科学でもアートでもない。実践である」

アントレプレナーシップ教育で知られる米・バブソン大学では、
アントレプレナーシップ教育の中心軸を「プロセス」を教えるのではなく、
「メソッド」の提供に移していったのだと言います。

プロセスという言葉には、「既知のインプットから既知のアウトプットが出てくる」という意味が含まれます。決まったステップがあり、線形的で予測可能なのがプロセスです。
一方で「メソッド」とは、未知の領域で実践を繰り返しながら、新しい学びを得つつ、他人と協働して進んでいく方法論というふうに解釈できます。
どちらも企業経営に不可欠なことですが、より起業に役立ちそうなのは「メソッド」ではないでしょうか。

バブソン大学が提供しているプログラムが次の5つの内容です。

1 遊びのプラクティス:自由で創造的な思考に関連し、イノベーションや機会を見いだす。
  ⇒マシュマロタワー、ビジネスシミュレーションゲームをして振り返る
2 共感のプラクティス:心理学、神経科学、デザイン思考などを用いて、他人のニーズや感情を理解する。
  ⇒ピア・コーチング、起業家へのインタビュー
3 創造のプラクティス:予想するのではなく、創り出すための思考を身に付ける。
  ⇒リソース獲得ゲーム、ネットワーキング
4 実践のプラクティス:実際の状況下で、実験結果を見て結果から学び、再度試すことを通して、機会の創造や資源獲得、リーダーシップに関する概念やテクニック、知識を得る
  ⇒アイデアの機会班別を行う訓練や「失敗」についてお互いの認識を議論するもの、5ドル、50ドル、500ドルでそれぞれどういう実験ができるかを考えさせるものがあったりします。
5 内省(リフレクション)のプラクティス:学習体験を体系化し、すべてのプラクティスを統合する。
  ⇒内省のフレームワークを練習したり、自社の文化や自分の価値観を振り返るような経験をする。

~~~ここまで引用。

なるほど。これは「探究」にも通じるやつですね。
印象的なのは、「起業家精神は鍛えられる」っていうところ。
これって、いわゆる「学ぶ意欲」とか「主体性」とかって話にも通じるよね。
「主体性」の先に「起業」っていうのがあるから。
「遊び」「共感」「創造」「実践」「内省」のプラクティスを探究プログラムに組み込むこと。
そんなメソッドによって主体性は育むことができる、ということ。

このあと、「場」をつくる、話にもいくのですけど、
今日はここまで。  

Posted by ニシダタクジ at 07:48Comments(0)日記

2020年12月08日

向き合う問い、向き合わない問い

とあるオンライン勉強会に参加したのでメモを残す。

【高校改革の方向性】
外発・受動(管理指導、上意下達)⇒内発・主体(伴走支援、現場主体)
★スクールポリシーの設定、目標設定、PDCA、自己調整、ポリシーマネジメント

同調・横並び(みんな「普通」)⇒特色・魅力化(それぞれ多様)
★普通科弾力化

自前主義(すべて学校・教員で)⇒連携協働(社会とつながり共に)
★コーディネート機能、コンソーシアム

※これらは教室のありようと連動している、相似形になる。

スクールミッション⇒スクールポリシー⇒カリキュラム・マネジメント
・グラデュエ―ション・ポリシー
・カリキュラムポリシー
⇒アドミッションポリシー

地方創生の核としての高校魅力化
組織対組織と個人対個人をうまくバランスする
教育7:地域3くらいの意識で。
長期的には地域のためになる。

その後、コーディネーターの部屋へ。
地域と学校の協働をつなぐ立場としての難しさ。

「学校が地域と連携するには?」
っていう問いがいけないんだなと。

「向き合う問い」だから。

そもそも、どうして地域と一緒にやるんだっけ?
なんで地域と協働しないといけないのか?
という問いから始めないといけない。

愛するということは、
見つめ合うことではなく、
一緒に同じ方向を見つめることである。
ってサン・テクジュペリも言ってた。

だからやっぱり最初に問うべきは、
この学校の使命はなんだろう?
ですよね。

「スクール・ミッション」

問い=「切り口(テーマ)」×「使命(ミッション)」
だと昨年6月に書いている。(19.6.21)
http://hero.niiblo.jp/e489463.html

もうひとつ、内田樹さんの「最終講義」から(16.4.10)
http://hero.niiblo.jp/e478219.html

~~~ここから引用

出発点における否定的棲息状況ということが、あるいはミッションスクールの場合は最大の強みではないかという気がするのです。

教わりたいという人がいなくてもとりあえず教えたいという奇妙な旗を掲げるところから始まった。教わりたい人がいるから教えにきたのではない。教わりたい人を創り出すために教えに来たのである。

自分たちの旗印の下に集まってくる少女たちをひとりひとり見つけ出し、掘り起こしていかなければならない。それは市場のニーズに対応して教育プログラムを整備するといった今日の学校の作り方と全く逆のものです。

つまり、マーケットをほぼ完全に無視して、自分たちが教えたいことを基軸に学校を作ったわけです。神戸女学院の教育についてのニーズはまだ明治初年の日本には存在しない。ならばそのニーズを創り出さなければならない。

私たちがこの学校の最初の生徒であり、そうである以上、この学校が何のために存在するのかを身を以て証明するという責務を負っている。という、責務の感覚を自発的に抱かなければ、学校は立ちゆきません。

~~~ここまで引用

僕はこの本を読んで、「ミッション系大学」の意味を知った。

キリスト教系で、教会で鐘がなる大学のことではなく、文字通り、ミッション(使命)を帯びて、日本の地にやってきた人がつくった大学という意味。

偉大なる勘違いだよ、ミッション系大学。(称賛)

地域と共に
「この学校の使命はなんだろう?」と問いかけ、
言葉を紡ぎ、

「伝えたいことがあるんだ」
と小田和正バリに語りかける、そんな学校づくり、まちづくりを始めませんか。  

Posted by ニシダタクジ at 07:57Comments(0)学び

2020年12月06日

このまちの使命はなんだろう?

阿賀黎明高校魅力化プロジェクトの
来春の入寮に向けた中学生のZOOM面接でした。

中学生たちの熱意に、こっちが緊張してきた。
彼らの期待に応えられる町に、学校になれるのか。

お祭りに参加してみたい。
自転車でめぐってみたい。
ピザ窯をつくりたい。
農家さんの手伝いをしてみたい。
町の人を取材して発信したい。

などなど、意欲にあふれてた。
「手段」としての学びから「機会」としての学びへ。

いちばん、心に刺さったのは、
「阿賀町の良さを阿賀町の人に伝えたい」だった。

「この町には何もない、いいところなんかない」
って地元の子たちが思っているとしたら、
それをまず、伝えたいんだと。

ちょっと泣けた。

「誇り」が必要なんだ。

信は力なり(20.8.8)
http://hero.niiblo.jp/e490965.html

「誇り」がはじまる場所(20.8.11)
http://hero.niiblo.jp/e490977.html

「誇り」がある人には使命感がある。
その使命感は「継いでいく者」だという自覚によるところも大きい。

老舗和菓子屋の跡取りであり、
先祖代々の農家であり、
伝統芸能の継承者であるという自覚が使命感を生む。

「誇り」が必要なんだと思う。
個人にも、学校にも、そしてまちにも。

「誇り」は使命感から生まれる。

「small life with mission」
使命とともにある小さな暮らし

塩見直紀さんの提唱する半農半X
(半分は農的な暮らし、半分は自分の使命を果たすような仕事)
の僕なりの英語訳だ。

その「使命」というのは、極端に言えばフィクション(つくり話)だ。
自分なりの物語を勘違いしているに過ぎない。

でも。
そんなもんだ。

「本当の自分」なんて存在しないように、
「本当の使命」などこの世に存在しない。

「使命感」という勘違いがあるだけだ。
それはきっと文科省の言葉で言えば、
「使命感」⇒「自己の在り方生き方と一体的で不可分の課題」
になるのだろう。

問いかけることだ
この学校の使命はなんだろう?
このまちの使命はなんだろう?

勘違いすることだ
この学校には果たすべき使命がある。
このまちには果たすべき使命がある。

学校やまちの「使命」を物語化し、その物語に自らを登場させていくこと。
そうやっている中で、自分のX(使命)が見つかっていく。
正確に言えば、「見つかったような気がする」

高校生たちをプロデュースしているつもりで、
実は同時に、学校やまちがプロデュースされていく。
主体と客体の変容は同時に起こるからだ。

あらためて川喜田二郎「伝統と創造」より

創造的行為は、まずその対象となるもの、つまり「客体」を創造するが、同時に、その創造を行うことによって自らをも脱皮変容させる。つまり「主体」も創造されるのであって、一方的に対象を作り出すだけというのは、本当の創造的行為ではないのである。そして、創造的であればあるほど、その主体である人間の脱皮変容には目を瞠るものがある。主体と客体が創造されるだけではなく、その創造が行われた「場」も、また新たな価値を付加されて生み出されるのである。

そんな「場」づくり、「学校」づくり、「まち」づくり。

来春、入学してくる生徒のみんなと考えてみたいんだ。

このまちの使命はなんだろう?
  

Posted by ニシダタクジ at 07:23Comments(0)学び

2020年12月05日

「学ぶ意欲」は育むことができる

orientedからnon-oriented(非志向性)へ―"向かわない"社会の私たち(20.6.25)
https://note.com/dutoit6/n/nc34622452907

oriented="目指"してきた社会
から
non-oriented=「向かわない」世界だ。

「目指された(oriented)幸せ」は、そこに到達したとき、既に「次の幸せ」が見えている。私たちは本質的な意味において幸福に到達できない。

実はかつて、日本に「幸福/幸せ」という概念はなかった。では日本人はどんな言葉を使っていたかといえば、「穏やか」や「安らか」がそれにあたると言われている。

それでも社会が(それが本質的かどうかは別にして)"成長"できていると認識していたうちは、それでも成立してきた。

これでしょうね。勉強しない理由。
「学ぶ意欲」が湧き出てこない理由。

上記ブログに引用されている
「情熱を探そう」というアドバイスはもうやめよう(19.5.4)
https://tumada.medium.com/do-not-find-your-passion-a7b2f290b5a

「情熱は育むことができる。」

これ、「情熱」を「学ぶ意欲」と置き換えてもいいなと。

あとは気になったのはココ

4. 「情熱を探そう」は原体験という偽の原因を誘発する
ときには情熱を探そうとして原体験のようなものを探してしまうこともあるかもしれません。しかし多くの場合、それは自分探しと同様に失敗に終わるか、もし見つかったとしてもそれは Narrative Fallacy (人が後付け的に物語を構築したりでっち上げてしまう傾向のこと。Narrative Bias とも講釈の誤りとも)の可能性も高いでしょう。人は自分自身の歴史すら物語化したり、単純化したり、分かりやすくしたい欲求に駆られがちです。また柄谷行人が指摘するように、原体験という原因が事後的かつ遡及的に構成されるにすぎないことも多いのではないでしょうか。

これ、いわゆる「ライフヒストリー」ワークへの違和感へ通じる。
「原体験」はパワフルだけど、必ずしもそれがないといけないわけじゃないし、
これから創っていくことができるフィクションだと思う。

もうひとつこちら
「情熱を育む」ための環境を自らデザインしよう(19.5.6)
https://tumada.medium.com/design-environment-for-your-passion-4aaff4e7f4e5

これも「情熱」=「学ぶ意欲」に置き換えられる。
やる気(=学ぶ意欲))がないのを本人のせいにしてはいけない。
「やる気出せ」と言ってはいけない。

「向かわない」社会になってしまった今。
「達成」の喜びは著しく減退した。

「学ぶ意欲」は「環境」によって育むことができる。
その「環境」へのアプローチだ。

ブログの著者馬田隆明さんによれば、
1 場所 (Place)
2 人 (People)
3 プラクティス (Practice)
4 プロセス (Process)
の4Pが大切なのだという。

「探究的な学び」とはこの4つをデザインすることなのだろうと思う。  

Posted by ニシダタクジ at 07:08Comments(0)学び日記

2020年12月04日

創造的な探究の時間

つまらないなあと感じるワークショップがある。
付箋を使って、意見集約をするだけのワークショップだ。

なんのために付箋を使うのか?
なんのために「人」と「意見」を切り離すのか?
なんのためにリアルな「場」に人が集まるのか?

KJ法を生み出した川喜田二郎先生が見たら、悲嘆にくれるよ。
って思うようなワークショップだ。

「問いのデザイン~創造的対話のファシリテーション」(安斎勇樹・塩瀬隆之 学芸出版社)
を読んでいると、ワークショップの本質について鋭く突かれる。

プログラムのタイムテーブルとして
「導入⇒知る活動⇒創る活動⇒まとめ」
と紹介されているけど、まさにこれってワークショップ授業の設計でも
つかえるし、年間を通したものでもこういうストーリーって大事だなと。

あと、東北芸術工科大学の「探究学習の相談室の案内」に出ていた図。
https://sozo.tuad.ac.jp/information/786.html


「デザイン思考を活用した探究的な学び5つの活動」

そうだそうだな、と、うなづくばかり。
キーワードは「創造」だろうと思う。

課題を設計して解決のアイデアを「創造」するのが
探究の醍醐味であり、ワークショップ形式である意味だと思う。

あらためて、川喜田二郎氏の著作を読んでみる。
(過去のブログより)

http://hero.niiblo.jp/e490111.html
「学び」はこの直線上にない。(19.12.19)

http://hero.niiblo.jp/e490086.html
最初にあるのは、「我」ではなく「混沌」である。(19.12.10)

かつて日本にあった、
「師匠」と「弟子」、そして「道」という考え方

~~~上のブログより

「道」には終わりがない。「道」における師匠とは、到達点ではなく、ひたすら先に行ってしまう人のこと。

「学び」は「道」だけど、いま、「教育」は「道」じゃないのかもしれないと思った。

「道」を生きる人っていうのは自分の人生よりはるか長いリレーのバトンを、駅伝のタスキを、今受け取って、次につなげないといけないと思って必死に走っている人のこと。

自分はいま中継者なのだという自覚。しかもその行き先は見えていないということ。それが「道」の強さ。

~~~

ゴールが見えている時。
我が国において「教育」というシステムは、力を発揮した。

ゴールを見失った、いやそもそもゴールが存在しなくなった今、
「道」を歩むような「学び」へシフトしていく必要がある。

そしてもうひとつ。
下ブログで出てくる、「混沌」というキーワード。

~~~ここからブログより引用

デカルトは神が理性を与え、その人が「物体」を創造する。しかし、川喜田先生は、混沌の中で主体と客体が相互に関係する場があり、
主体は客体を創造するかもしれないが、それにより、主体も脱皮・変容が起こる、と。そしてそれは「伝統体」による影響を受けていること。

川喜田先生は、このように説く。

創造的行為は、まずその対象となるもの、つまり「客体」を創造するが、同時に、その創造を行うことによって自らをも脱皮変容させる。つまり「主体」も創造されるのであって、一方的に対象を作り出すだけというのは、本当の創造的行為ではないのである。そして、創造的であればあるほど、その主体である人間の脱皮変容には目を瞠るものがある。主体と客体が創造されるだけではなく、その創造が行われた「場」も、また新たな価値を付加されて生み出されるのである。

場をつくる。

っていうのは、きっとそういうことなのだろうと。そしてそれはそのまま「学びの場」、あるいは「学びあいの場」づくりに直結しているのだろうと。「場」の価値。それは創造が起こること。それにより自己が変容すること。そして人は、場から学ぶ。「混沌」を出発点にして、「場」から学ぶ。

いつのまにか、僕たちは、「我」を出発点にしてきた。それは西洋のシステムをモデルにした学校制度の宿命だったのかもしれない。

あなたのやりたいことは何か?そもそもあなたは何者なのか?

そんな問いが本当に重要なのだろうか?「混沌」の中に身を委ね、場をつくり、客体と一体化して何かに没頭する。そこに「創造」が生まれる、かもしれない。その「創造」の縁に、「学び」が詰まっていると僕は思う。そんな「場」をともにつくる。

~~~ここまでブログより引用

「場」の価値は創造が起こること。
それは学びの創造であり、「場」の創造であり、構成員としての「個人」の創造でもある。

「創造」を前提にして、探究の時間を設計すること。
ワークショップを語源通りに、工房とすること。

「創造」のワクワクの中にこそ、
「学びの意欲」は眠っているし、
それは個人ひとりひとりの中ではなく、
関係性の中、関係性から創られる「場」の中に眠っている、っていう仮説。

そんな「創造的な探究の時間」がつくれたらいいなあ。  

Posted by ニシダタクジ at 08:26Comments(0)日記

2020年12月02日

「探究」とスピノザ哲学


「はじめてのスピノザ~自由へのエチカ」(國分功一郎 講談社現代新書)

浦崎先生との対話会の前に、
5分だけジュンク堂新潟をチラ見したら、
この本が飛び込んできて、衝動買い。

このタイミングで、この本。
持ってるわ、読書運。

金曜日に出た高校でのフォーラムと
http://hero.niiblo.jp/e491208.html

月曜日の対話会での話と
http://hero.niiblo.jp/e491211.html

これから「探究」をどうデザインしていくか?
っていうタイミングで、この本。
いま、僕たちは、17世紀以来のすごい転換点に立っているんじゃないか、って改めて実感する1冊。
それは明治維新以来とかそういうことじゃなくて、近代そのもの、科学主義そのものに対しての転換なのかもしれない。

~~~ここからメモ

神は絶対的な存在であるはずです。ならば、神が無限でないはずがない。そして神が無限ならば、神には外部がないはずだから、したがって、すべては神の中にあるということになります。
⇒「ワンネス」ですね。「全体性」というか。

スピノザ的な倫理はあくまでも組み合わせで考えますから、個々人の差を考慮するわけです。(中略)やってみないと分かりません。その意味で、スピノザの倫理学は「実験すること」を求めます。
⇒出た、「実験」

個々人の活動能力を増大させるものが善きもので、コナトゥス「自分の存在を維持しようとする力」こそが本質。人間は単に男であったり女であったりするわけではなくて、常に具体的な環境と歴史と欲望が交錯する中で生きている。その中で出来上がる力としての本質は一人ひとり大きく異なります。どういう組み合わせならうまくいくかは、エイドスという形として本質を考えるだけではわからない。「お前は女だから、子どもだから、老人だからこうしろ」というのは、その人の本質を踏みにじることになるのです。

人間身体を多くの仕方で刺激されうるような状態にさせるもの、あるいは人間身体をして外部の物体を多くの仕方で刺激するのに適するようにさせるものは、人間にとって有益である。これに反して身体のそうした適性を減少させるものは有害である。
⇒これ、「温泉」とか「満員電車」のことじゃないかな。

私たち一人ひとりは神の一部であり、神の変状したものでした。神は変状して様々なものになります。私たち人間のようなものとしても存在できるし、水のようなさらさらしたものとしても存在できるし、太陽のように強力なエネルギーを発するものとしても存在できる。神は実にさまざまな仕方で存在できる。すると、私たちを含めた万物は、それぞれが神が存在する様式であると考えられます。
⇒来ました、これ。「演じること」や「場との一体化」っていうのはそういうことじゃないか。

デカルトの「心身二元論」(精神が身体を操作している)に対してスピノザは「心身並行論」(精神と身体で同時に運動が進行する)

自己の本性の必然性のみによって存在し・自己自身のみによって行動に決定されるものは自由であると言われる。これに反してある一定の様式において存在し・作用するように他から決定されるものは必然的である、あるいはむしろ強制されると言われる。
⇒「実験」しないとその人の身体や精神の必然性にたどり着けない。少しずつ「実験」しながら学んでいくこと=「自分を知る」こと

「強制」とは本質がふみにじられている状態
⇒「やらされる」とはそういうことか

私は自らの行為において自分の力を表現している時に能動である。それとは逆に、私の行為が私ではなく、他人の力をより多く表現している時、私は受動である。
⇒「他者評価の奴隷」となって勉強することは能動ではないよね。

自由であるとは能動的になることであり、能動的になるとは自らが原因であるような行為を作り出すことであり、そのような行為とは、自らの力が表現されている行為を言います。ですから、どうすれば自らの力がうまく表現される行為を作り出せるのかが、自由であるために一番大切なことになります。もちろんそれを知るためにもこれまでも強調してきた実験が必要です。実験しながら、自分がどのような性質のコナトゥスをもっているかを知らなければなりません。
⇒「実験」して、「コナトゥス」を知ること、そしてそれを実践することが「自由」への道。そしてコナトゥス(ベクトル)はいくつもあってもいい。

意志を巡る現代社会の論法というのは次のようなものです。-これだけ選択肢があります。はい、これがあなたの選択ですね。ということはつまり、あなたが自分の意志で決められたのがこれです。ご自身の意志で選択されたことですから、その責任はあなたにあります。(中略)私はこの意志という概念に現代社会が取り憑かれている気がしてなりません。何もかもが意志によって説明されてしまう。私たちは意志を信仰しつつ、意志に取り憑かれ、意志に悩まされているのではないでしょうか。
⇒「意志」って神話だよなと、ホント思う。

自分を知ることは自分に何らかの変化をもたらします。つまり、何かを認識すること、真理を獲得することは、認識する主体そのものに変化をもたらすのです。私たちは物を認識することによって、単にその物についての知識を得るだけでなく、自分の力をも認識し、それによって変化していく。真理は単なる認識の対象ではありません。
⇒「変容」は学習の目的ではなく、前提なんだなと。

フーコーは「主体の解釈学」の中でかつては真理は体験の対象であり、それにアクセスするためには主体の変容が必要とされていたと指摘しています。ある真理に到達するためには、主体が変容を被り、いわばレベルアップしなければならない。そのレベルアップを経てはじめて真理に到達できる。その考え方が決定的に変わったのが17世紀であり、フーコーはその転換点を「デカルト的契機」と呼んでいます。デカルト以降、真理は主体の変容を必要としない、単なる認識の対象になってしまったというのです。
⇒例外はスピノザ1人だけでスピノザだけが真理の獲得には「主体の変容」が必要だと考えていたのだと。

デカルトはどうしようもなく疑ってしまった。自分自身ではどうにもならない懐疑の泥沼から出られなくなってしまったのです。デカルトの哲学はそのような疑いの病からの治癒の物語でもあります。コギト命題というのはその意味で、デカルトが自分に対して処方した薬のようなものです。だとすると、コギト(私は考えている、だから私は存在している)による説得は実のところ、誰よりも、他ならぬデカルト自身に向けられていたと考えねばなりません。

~~~ここまでメモ

いやあ。これ。すごすぎて言葉を失いますね。

キーワードを出していくと、「探究」に繋がっていくなと。
「全体性(場、同質化)」「実験」「コナトゥス(ベクトル)と演じること」「主体性⇔やらされ感」「変容」
こんなキーワードが出てくるのかなあと。

昨日のブログに書いた一節をあらためて。

~~~
「好奇心」と「場のチカラの体感」によるフィクションとしての「同質化」からの「主体性」
極端に言えば、主体性を持つのではなく、主体性を持っているやつを演じること。
「主体的な高校生」を演じているうちに、「主体性のある生徒が多い高校」を演じているうちに、
気がついたらカッコイイ高校生や魅力的な高校になっている。そんな物語(フィクション)。
~~~

スピノザによれば、真理への到達は、主体の変容を前提としている。

場のチカラを高め、実験を繰り返しながら、
自分の、あるいはチームの、または地域のコナトゥスに気づき、
気がついたら主体性を持っていて、結果として変容が起こった、

そんな探究的学びがつくれないだろうか。  

Posted by ニシダタクジ at 08:34Comments(0)

2020年12月01日

「主体性」への旅

高校生のときに「主体的に」取り組んだ活動について、、、

総合型選抜(AO)における活動報告書の定型文。
「主体的に」取り組む活動とはいったいどんなだろうか?
そもそも「主体的」「主体性」とはなにか。
そんな問い。

昨日は浦崎先生を囲む会で
山本一輝さんと浦崎先生に挟まれるというぜいたくな席

あらためて、
3月31日の浦崎先生のブログ

https://taro4031.jimdofree.com/2020033101/

この時の予言が現実のものになってきたのだと。
「自走する探究/自走する学び」をやれている学校と
「やらされる勉強」をいまだにやっている学校。
新型コロナによる休校の時、その差が明確になった。

「やらされる勉強」をやってきた生徒は、勉強しなくなった。
「自走する探究/自走する学び」をやってきた生徒は、
ここぞとばかりに探究的に考え、実行し、ふりかえり、
次の実験へと向かった。
その結果は、来春の大学合格実績に明確に表れる。

もう「やらされる勉強」では、成果は上がらない。
その事実には、うすうす気がついているはずだ。

「地域で探究」その本質。
それは「自走する学び」だろうと思う。

昨日は「探究(総合的探究の時間)」「魅力化」についてもいくつかキーワードがあった。

「学びの土壌」にアカデミックな側面を持つこと。
だから、地域の大人も学び続けないといけない。

「とりあえず、地域の課題について取り組みをさせる」
のではなくて、
「自らの在り方生き方と一体的で不可分の課題に出会う」
ための機会づくりをどうするか。

これまでの「魅力化」(隠岐島前、津和野、大崎海星、飯野・・・)
=新学習指導要領のど真ん中
⇒真似をしてもコモディティ化するだけ。

本質さえつかんでいればシンプル

~~~こんな感じ

「主体性」や「当事者意識」について話していた時の
山本一輝さんの一言が心に残った。
「同質化」と「危機感」
東北マイプロでの「この町がなくなったら、私が無くなるようなものだ」
そういう感じ。
まさに「自己の在り方生き方と一体的で不可分の課題」に出会った人たち。

僕はそこに「好奇心」を加えようとしているのかもしれない。
そして何度も言うように「好奇心」は鍛えられるのだ。
「面白がる」「疑問を持つ」ことによって。
「好奇心」から来る「同質化」っていうのもあり得るんじゃないか。
それは「危機感」から来る「同質化」とはかなり質が違ったものになるかもしれないが。

僕が言う「場のチカラ」っていうのも、
「同質化」へのアプローチのひとつだと思う。
チューニングし、場と一体化する。

それはこの前オンラインツルハシでイケトが言っていた
「人生は自分のものではない」と感じられる瞬間であるのかもしれない。
しかし、それはフィクションだ。

「遅いインターネット」によれば、
https://note.com/tsuruhashi/n/n07ca42b9a1d8?magazine_key=m21a04cf91a68
僕たちは情報技術を「ここ」を、この場所を、この世界を豊かにするために、多重化するために用いている。
「多層化」という表現の方がいいか。

「主体性」「主体的に学ぶ」への旅。
分かりやすいのは「危機感」から来る「同質化」(≒当事者意識)からの「主体性」。

これから実験したいのは、
「好奇心」と「場のチカラの体感」によるフィクションとしての「同質化」からの「主体性」

極端に言えば、主体性を持つのではなく、主体性を持っているやつを演じるのだ。

来春、他県からも多くの新入生が入ってくる。
彼ら、彼女らは「最良の高校選択をした」と思って入学してくるだろう。
そこからが始まりだ。

「主体性のある人たち」を演じているうちに、
「主体性のある生徒が多い高校」を演じているうちに、
気がついたら素敵な高校になっている。

それを「創造的脱力」と言うのだろうな。

浦崎先生、素敵な機会をありがとうございました。

  

Posted by ニシダタクジ at 09:32Comments(0)学びアイデア日記