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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2021年01月14日

「学び」ってなんだっけ?

2020年9月
取材型インターンひきだしの事後研修からスタート。「オンラインの向こう側」を見せてもらったというか体感させてもらった機会となりました。

ハイライトは「やりがい問題」ですかね。
「仕事のやりがいは何か」という問いが適切じゃないということ。

それって、「働く目的は?」っていうのと同じくらい難しく、哲学的な問いで、かつひとりひとり答えが違うし、ふだんから考えていないから、質問されて「これです」って即答できるものではない。

だから答えとしては「やっててよかったこと」を答えてしまう。例えば「お客様に感謝されること」それは「目的」ではなく「結果」であるので、違和感を覚えてしまう。しかし、それをうまいこと編集すると「やりがい」に聞こえる。

そもそも「やりがいは何か?」って考えることがないほど夢中で仕事をしている人は本人的にはおそらく「やりがいのある仕事」をしている。

だから、質問を変えないといけない。たとえば、「夢中になれる瞬間はいつか?」とか。

やりがいは何か?と聞かれて、やりがいを言語化、見える化、計測可能にすると、わかりやすくはなるけど、リアリティを失ってしまう。

「結果」を「やりがい」つまり「目的」に取り違えてしまう。「近代」なる何か(資本主義や教育)の罠がここにある。「近代」なる何か(資本主義や教育)は、「結果」を「目的」のように見せかけてきたのではないか。

「評価」を「承認」に見せかけるように。それが、「計測可能」という罠だ。「学び」の目的は「発見」ではなく「達成」なのだと思い込まされてきたのではないか。

かつてエジソンは言った。「私は失敗したことがない。ただ、1万通りの、うまく行かない方法を見つけただけだ。(トーマス・エジソン)」

これは、プラス思考であきらめないでチャレンジし続けるっていう風にとらえられているけど、実は「発見」こそが喜びだということを言っているようにも思える。

大切なのは、「成長」ではなく「発見」と「変容」である。「成長」は数値化できるが(そういうものを指標としているが)「発見」「変容」は自身や周りの感性でしかキャッチできない。

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学びの構造そのものを変えたいんだ。
手段としての学びから、機会としての学びへ。
個人としての学びから、場としての学びへ。
再現性のある学びから、一回性の高い学びへ。
それによって、学びはもっと楽しくなるし、個人のアイデンティティ危機を乗り越えていくことが同時に可能になるという仮説
~~~

まさにこれだ。ひとりひとりを大切にするために個人ではなく場にフォーカスしたい。そして、「学び」を「遊び」にしたい。その遊び、とは予測不可能性のことであり、その予測不可能性を高めるために、場として学び、振り返る。遠くまで行きたければ、場のチカラを高めること。

だから。目的・目標を分かりやすく設定することよりも、「場」にフォーカスすること。
でもそれには「見本」や「手本」や「正解」がないんだ。「場」の見え方さえも個人によって異なるから。

~~~

いいですね。取材型インターン「ひきだし」はオンラインになって、たくさんの「発見」をもらいましたし、そもそもオンラインとは何か?みたいな可能性を見せてもらいました。

そして、次は
広島県立大崎海星高校のドキュメンタリー本「教育の島発! 高校魅力化&島の仕事図鑑」(大崎海星高校魅力化プロジェクト 学事出版)
http://hero.niiblo.jp/e491054.html

まずは「学び」とはそもそもなんだっけ?っていう話

~~~
学びとは「日々の生活の中で生じる出来事や問題や課題を、家族や地域の人々と知恵を出し合い、話し合いを重ねることで(命をもかける)多くの失敗を繰り返しながら解決に向けて挑戦的に試行錯誤すること」でした。

では、そうした学びから学校教育への転換にあたり、最も重視されたことは何か。それは安全性と効率性でした。個々人による命をかけた挑戦的な試行錯誤ではなく、学術的な研究や探究の中から生まれた英知を領域ごとに区分けして、学科や教科という形で効率的に教え授ける機能や施設が近代的な学校の原点です。

このような学問的成果の効率的な伝達機能や施設が果たした来た役割はやはり絶大で、私たちはわずかな歴史的時間で、それまでの人類が長い年月かけても解決できなかったことさえも、学校の中でいとも簡単に学び取れるようになってきました。しかし、いまこのような学校の機能の限界性が突き付けられています。あまりにも学びの効率性を追い求めすぎた学校は人間が最も大切にするべき本能的な学びをも奪ってしまっている現状があります。
~~~広島大学大学院 永田忠道准教授より

「機会さえ与えてあげれば、自分たち大人がその環境を整えさえすれば、子どもたちは無限に伸びる。それを学校と地域が総力を結集してやっていくのが高校魅力化だ。」

「あれができない、これができない」という前に、機会を与えているのか?と問うこと。

「自分で自分を、『究極に承認』している人たちだと感じました」(新任教師 長門さん)

保護者(や地域の人々)が教育の当事者になればどうか。「地域に暮らす全ての大人たちが先生になる」瞬間。

いやあ、一言一言が重いっすね。

そして「島の仕事図鑑」をやってよかったこと。
1つめ、高校生の変化プロセスを可視化できたこと。
2つめ、高校魅力化、あるいは地域づくりの(地域、先生双方の)当事者を増やしたこと。
3つめ、根源的な問いを突き付けられることで、「承認」と「誇り」が生まれること。

生徒たちにとっても、地域の大人たちにとって、いや、おそらく先生たちにとっても、いま、必要なのは「承認」と「誇り」なのではないか。

「承認」も「誇り」も人から与えてもらうことはできない。「機会」と「場」から、自らが感じ、つかむものだ。

そんな「機会」と「場」をつくること。たぶんそれが、阿賀黎明高校魅力化プロジェクトに向けて、もっとも大切になっていくのだろうと。

~~~

そして、9月に遊びに来たフォルケホイスコーレ帰りの二人から、エッセンスをもらった。

僕は「並列する」っていう方法もあるのではないかと。そしてその方法こそが、地域の力がより発揮できるのではないかと

「場」としてとらえるというか、「学校」という場と並列する「場」をつくっていくこと。もうひとつの「場」は学校とは違うシステムで動いていて、関係性がフラットで、目標や評価が無く、機会から学んでいる。

両方を演じられたほうがいい。
いや、両方を動的平衡で行き来するのだ。
そういう世界をこれから実践・実現していくかと思うと、まあ、めちゃめちゃ楽しいですね。
並列するというコンセプトはここから生まれたのかも。

~~~

そして、ティール組織を読んで「内包する」っていうコンセプトを得て、さらに探究コミュニティとにいがたイナカレッジラボへ。

キーワードは「委ねる」かなあ。

あとは、取材型インターンひきだしがオンラインになって、あらためて感じた「ベクトル性」というキーワード。

イナカレッジラボを繰り返す中で、体験者が感じている「場に溶けている」ような感覚。
それは共同体の「営み」のようなゆるやかなベクトルを前提としているのかもしれない。
そこに身を委ねてみるということ。そして、「アウトプットをするのは場のチカラである」という前提で、何かを場からアウトプットをしてみること。

それって、アイデンティティの問題にも有効なんじゃないかって。

若者たちが(いや、私たちもだ)抱える最大の課題はアイデンティティの危機だと思うし、それを何とかする方法を探したいと思っている。その危機をつくった大きな原因が適職思想を前提としたキャリア教育であり、それによって、働く人たちの多くが、自らの誇りと他者へのリスペクトを失った。当然、若者は仕事に対する希望を失うことになる。あるいは、やりがいのある仕事という呪いにおびえることになる。

「学びの主体」を「場」にすることはできないだろうか?

個人戦でもチーム戦でもなく、瞬間瞬間の「場」の劇場なので、即興演劇のように役を演じることしかできない。そこでは登場人物に(人ではなくモノも含めて)意味がある、というか、意味を見出す人がいるかもしれない。そういう「場の即興性」に「学び」と「承認」を委ねてみたい。

「印象に残ったこと」を場に差し出し、その場にいる人たちが全員で、「なぜ、その人はそれが印象に残ったのだろう?」と振り返り、発見しあう場。「場」を主体としてアウトプットをつくってみる実験の場。

思ったことを言ったり、あるいはその場に存在するだけで、場の構成員になり、それによって自分で自分を承認できるような積み重ね。

そんなことが可能なのではないか。

取材型インターン「ひきだし」とにいがたイナカレッジの田舎暮らしインターンの「場」と「ベクトル感」を内包するような、学びの場をつくること。

たぶんそこ。学びの主体を「個人」から「場」へ移行すること。そんな実践ができると思うと、どんどん楽しくなってきます。

~~~

なるほどな。「場」に「学び」と「承認」を委ねるんだ。

そして、「ダブルローカル」のイベントに。
http://hero.niiblo.jp/e491095.html

「現代の分身の術」おもしろかったなあ。

僕の中で残ったキーワードは、「対話」「余白(余地)」「現在地」かなあ。

「自分との対話」っていうけども、その時に、「ダブルローカル」みたいにベースの違う「もうひとりの自分」と話せることってとても大切かもしれないなあと。なんか余裕とういうか「余白」が生まれるよね。

「ダブルローカル」という2つの視点を持つということ。あ、視点っていうのは支点っていうことなのかもしれない。考えるための軸足。「自由」っていうのは、それをいくつも持つことなのかもしれないなあと。

最後に「現在地」。こんなにも結論がない本もないかもしれない、と。おじさんが読んだら「結局、何が言いたいの?」ってレビューしちゃうかもしれない。

でもその「結局」とかっていう思想じゃない世界観で書かれているんだなあと。

複数の視点であり、なりわいであり、場を行き来すること。行き来し続けること。そのある部分を切り取って言語化する。それが今回の「ダブルローカル」。話したとき、書かれたときの「現在地」に過ぎない。

そんな「現在地」を重ねていくような生き方。たまたまそこに居合わせた人と「現在地」を共有していくような場。

うん、それ、やりたいです。

~~~
学びの場でも「行き来すること」ができたらいいなあと。

そして、コミュニティスクール(学校運営協議会)と拡大熟議

「あなたの学びのスイッチが入った瞬間は?」という自己紹介兼アイスブレイクは機能しましたね。

僕のグループでのキーワードは、

「一生を通して学び続ける人」を輩出したいとするならば。「学び」を再定義しないといけないな、と。与えられて、教えられて、覚えて、テストを受ける「勉強」から機会を得て、好奇心をくすぐられて、やってみて、発見する「学び」へとシフトしないといけない。

それを高校でやらないといけないのではないか。言ってみれば「学びのスタートラインに立つ」ための準備期間。

就職も、専門学校進学も、大学進学も、「学びのスタートラインに立つ」という意味ではまったく同じだ。

だって、人生は巨大な学び場なのだから。

「あなたは何を学びたいのか?」という問いに答える高校3年間であってほしいし、そのための機会として地域の人達と地域資源があるのだと思う。

あなた固有のその「学び」は就職によって深められるのか、その舞台は、専門学校なのか、もしくは大学なのか?そんな問いを地域と一緒に受けとめ、ともに育んでいくこと。それは、実は地域の大人に向けられた問いでもある。

巨大な学び場としての人生を、地域社会をいかに生きるのか?何を学びたいのか?探究したいのか?その問いは大人にとっても、先生にとってもフラットに刺さってくる。

きっとそれが地域と連携した学びのスタートであり、ゴールになっていくのだろうなと。

生徒の「学びのスタートライン」(進路)を一緒に考え、ともにつくっていくこと。地域の大人自身も学びのスタートラインに立つということ。

「学びとなんだろうか?」と問いかけるプロジェクトのスタート地点に立とうとしているのではないかと思うと、ワクワクしました。

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ここまで。
最後に「学びとはなにか?」の本質に迫った9月。
いよいよ2020年ラスト3か月です。  

Posted by ニシダタクジ at 12:09Comments(0)学び足跡日記