2021年01月17日
生きるために作品をつくる
オンライン劇場ツルハシブックス2021の1回目。
満を持して登場の
第1部とやまゆか&第3部ひがしさえでした。
第2部は対話の部屋で「中動態」を話しました。
https://saehigashi.amebaownd.com/
東紗衣さんのCDの紹介もあり。買いました。
30歳時点の名刺としてのCDの話、心に響いたなあ。
「生きるために作品をつくる。」
たぶんそういうことなのだろうなと。
「作品」とはなんだろうか?と
創造性と問い、なのだろうなと。
そういう意味では、「コロナ過」という制約条件が
創造性を上げてくれるのかもしれないし、
「問い」をさらにシャープにしてくれるのかもしれない。
紗衣さんの音楽を聴いていて、深みがあるなあと思った。
オンライン上であるにも関わらず、その場に留まりたいと思った。
それはなんなんだろうね。
昨年の5月にオンライン劇場ツルハシブックスを企画した時の
直感した可能性みたいなものがそこにあった。
オンライン上にこそ劇場は創れるのではないか、
しかもしれは「ツルハシブックス」というかつてあったリアルな場を
共通認識として持っていた者たちが作り上げられるのではないか。そんな仮説だった。
そんな仮説が昨日、たしかに目の前に広がっていたように思う。
音楽というものも、
そこに「演奏者」と「観客」とを分ける明確な区分は本来は存在せず、
その場に共にある存在だということをあらためて感じた。
第2部で話していた、主体と客体は本来な切り離せない
という中動態の話が、しっくりと来た。
ひとつの「場」という作品を共につくるパートナーなのだと。
「私は30歳で生まれ変わると思っていて、だからこそ30歳時点の名刺を刻みたかった」
と紗衣さんは言っていた。
ということで、話は第1部のとやまゆかに戻る。
2018年はとやまゆかが面白くって、いろいろ発言をメモして分析していた。
9月14日
http://hero.niiblo.jp/e488087.html
9月17日
http://hero.niiblo.jp/e488110.html
10月7日
http://hero.niiblo.jp/e488227.html
9月17日のところに書いてある
「東京は類トモ(類は友を呼ぶ)だから他者と出会えない」
これは新しい視点だった。
そうか、東京ではもう他者に出会えないのか。
それって創造性とか、問いとかに関わってくるよね、って。
あとは彼女自身がとっても武道家的な感性というか、
「目の前に来たものをフラットに感じ、判断する」っていうことを
大切にしているのだと思った。
10月7日のところにも書いたけど、
人はつい、目の前にくるものを「有用かどうか?」で判断してしまう。
それって本当に自分の判断なのか?
って思う。
そんなとやまゆかのつくり方。
常に考えていて、自分自身の探究をしているのだなあと。
大学生のメリットは、
いろんな人に会えること、そして簡単に「やめられる」こと。
やりたいこと・好きなことを仕事にするのではなくて、
勝手に頑張れちゃうこと、うれしくなること、やりたくないことをやらないを軸に仕事を考える。
仕事だけではなく、暮らしという軸でも考えてみること。
関係性をデザインしてそれぞれの価値を最大化したい。
TO自分とTO社会という2軸で考える。
つらかったときは言語化できない→違和感を抱き続けて後でわかる。
「占い」という統計学の活用。
自分で自分に対してなんで?って問い続ける
自分を「経営する」感覚。
8:2の法則が自分自身でも成り立つ。
~~~ここまで第1部
いやあ、面白いなあと。
自分株式会社としてドライに自分を見つめること。
「強み」「弱み」を自分ひとりで受け止めず
自分株式会社の部門として受け止めること。
そのままとやまゆかさんにも出てもらって第2部へ。
「やりたいことは何か?」という呪いについて。
「責任の生成」から、ヒントをもらって。
「意志」というのは過去から自らを切り離す思考だと言える。
この「切り離す」ことがつらいのだろうと。
だから、「やりたいことは何か?」という問いは、
「何か」が見つかっていなくても承認欲求が満たされずにつらいが、
「何か」が見つかっていても切り離されて不安になる。
どちらにしても「意志」を問うというのは呪いなのではないかと。
「どうありたいか?」って実は「動詞」なのではないか。
しかもそれは中動態的な動詞、つまり自分がその動きの「場」であるような動詞だ。
「好きなこと」をいったん動詞化してみること
そしてもう一度どの動詞に対する名詞としての「やりたいこと(名詞)」を考えること。
たぶんそういう感じ。
あとは、心と体の「快‐不快」という軸と頭の「有意義‐無意義」の2軸を考えていくこと。
とやまゆかは「本体」としての「ミニとやまゆか」がいると言っていたが、それは、「快-不快」なのかなあ。
~~~
とそんな感じ。
オンライン劇場ツルハシブックスという「場」も作品になり得るな、と感じた一夜でした。
満を持して登場の
第1部とやまゆか&第3部ひがしさえでした。
第2部は対話の部屋で「中動態」を話しました。
https://saehigashi.amebaownd.com/
東紗衣さんのCDの紹介もあり。買いました。
30歳時点の名刺としてのCDの話、心に響いたなあ。
「生きるために作品をつくる。」
たぶんそういうことなのだろうなと。
「作品」とはなんだろうか?と
創造性と問い、なのだろうなと。
そういう意味では、「コロナ過」という制約条件が
創造性を上げてくれるのかもしれないし、
「問い」をさらにシャープにしてくれるのかもしれない。
紗衣さんの音楽を聴いていて、深みがあるなあと思った。
オンライン上であるにも関わらず、その場に留まりたいと思った。
それはなんなんだろうね。
昨年の5月にオンライン劇場ツルハシブックスを企画した時の
直感した可能性みたいなものがそこにあった。
オンライン上にこそ劇場は創れるのではないか、
しかもしれは「ツルハシブックス」というかつてあったリアルな場を
共通認識として持っていた者たちが作り上げられるのではないか。そんな仮説だった。
そんな仮説が昨日、たしかに目の前に広がっていたように思う。
音楽というものも、
そこに「演奏者」と「観客」とを分ける明確な区分は本来は存在せず、
その場に共にある存在だということをあらためて感じた。
第2部で話していた、主体と客体は本来な切り離せない
という中動態の話が、しっくりと来た。
ひとつの「場」という作品を共につくるパートナーなのだと。
「私は30歳で生まれ変わると思っていて、だからこそ30歳時点の名刺を刻みたかった」
と紗衣さんは言っていた。
ということで、話は第1部のとやまゆかに戻る。
2018年はとやまゆかが面白くって、いろいろ発言をメモして分析していた。
9月14日
http://hero.niiblo.jp/e488087.html
9月17日
http://hero.niiblo.jp/e488110.html
10月7日
http://hero.niiblo.jp/e488227.html
9月17日のところに書いてある
「東京は類トモ(類は友を呼ぶ)だから他者と出会えない」
これは新しい視点だった。
そうか、東京ではもう他者に出会えないのか。
それって創造性とか、問いとかに関わってくるよね、って。
あとは彼女自身がとっても武道家的な感性というか、
「目の前に来たものをフラットに感じ、判断する」っていうことを
大切にしているのだと思った。
10月7日のところにも書いたけど、
人はつい、目の前にくるものを「有用かどうか?」で判断してしまう。
それって本当に自分の判断なのか?
って思う。
そんなとやまゆかのつくり方。
常に考えていて、自分自身の探究をしているのだなあと。
大学生のメリットは、
いろんな人に会えること、そして簡単に「やめられる」こと。
やりたいこと・好きなことを仕事にするのではなくて、
勝手に頑張れちゃうこと、うれしくなること、やりたくないことをやらないを軸に仕事を考える。
仕事だけではなく、暮らしという軸でも考えてみること。
関係性をデザインしてそれぞれの価値を最大化したい。
TO自分とTO社会という2軸で考える。
つらかったときは言語化できない→違和感を抱き続けて後でわかる。
「占い」という統計学の活用。
自分で自分に対してなんで?って問い続ける
自分を「経営する」感覚。
8:2の法則が自分自身でも成り立つ。
~~~ここまで第1部
いやあ、面白いなあと。
自分株式会社としてドライに自分を見つめること。
「強み」「弱み」を自分ひとりで受け止めず
自分株式会社の部門として受け止めること。
そのままとやまゆかさんにも出てもらって第2部へ。
「やりたいことは何か?」という呪いについて。
「責任の生成」から、ヒントをもらって。
「意志」というのは過去から自らを切り離す思考だと言える。
この「切り離す」ことがつらいのだろうと。
だから、「やりたいことは何か?」という問いは、
「何か」が見つかっていなくても承認欲求が満たされずにつらいが、
「何か」が見つかっていても切り離されて不安になる。
どちらにしても「意志」を問うというのは呪いなのではないかと。
「どうありたいか?」って実は「動詞」なのではないか。
しかもそれは中動態的な動詞、つまり自分がその動きの「場」であるような動詞だ。
「好きなこと」をいったん動詞化してみること
そしてもう一度どの動詞に対する名詞としての「やりたいこと(名詞)」を考えること。
たぶんそういう感じ。
あとは、心と体の「快‐不快」という軸と頭の「有意義‐無意義」の2軸を考えていくこと。
とやまゆかは「本体」としての「ミニとやまゆか」がいると言っていたが、それは、「快-不快」なのかなあ。
~~~
とそんな感じ。
オンライン劇場ツルハシブックスという「場」も作品になり得るな、と感じた一夜でした。