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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2021年01月05日

仕組まれた自由に誰も気づかずに

2019年7月~9月 ふりかえり

「仕事なんか生きがいにするな」(泉谷閑示 幻冬舎新書)
が2019年ベスト3に入る衝撃でしたね。

6月末に見学した「地域みらい留学フェスタ@東京」
http://hero.niiblo.jp/e489518.html

このタイミングで、いい本に出会った。
僕が高校魅力化プロジェクトで伝えたいことは、この本に書いてあるロバート・ヘンライの言葉だ。

「芸術家は人生についての考え方を世界に教えている。金だけが大事だと信じている人は自分を欺いている。芸術家が教えているのは、小さな子供が無心で遊ぶように、人生も熱中して遊ぶべきだということである。ただし、それは成熟した遊びである。人の頭脳を駆使した遊びである。それが芸術であり、革新である。」(ロバート・ヘンライ)

いいなあ。人生も熱中して遊ぶべきだ。
僕は「べき」という言葉は好きじゃないけど、これには賛同するなあ。

その前日には同書から、
「意義」というモンスターについて書いている。

「意義」と「意味」を混同しているのでは?と。
「意義」というのは「価値」からきている。
しかもその「価値」は世間的画一的な価値だ。
「意味」は人それぞれにあるし、世間的価値とは無関係につくることができる。

印象に残ったのは長野県立白馬高校の説明。

■こんな人におすすめ
・白馬でやりたいことがある
・多様な価値基準を受け入れられる
・人と協働することが好き
・新しいことにチャレンジできる

■反対に、3つの誤解
1 白馬にいけば変われる⇒本人が変わらないと
2 個人の希望を優先できる⇒全日制の公立高校
3 平日でもスキーやスノボいける⇒いけない

■メッセージ
1 何を学びたいのか?
2 広く学ぶ覚悟はありますか?
3 白馬で生活する覚悟はありますか?

これ、来年の募集では阿賀黎明高校バージョンで整理してちゃんと言おうと。

そして。
いまのマルクスの話にも通じる、この一節

貨幣経済が「質」を「量」に還元した(19.7.4)
http://hero.niiblo.jp/e489521.html

「頭」と「心」が対立せずに、互いが相乗的に喜び合っている状態。これを、私たちは「遊び」と呼ぶのです。誰しも幼い子供時代には、自然に「遊び」に夢中になっていたはずなのですが、それがどうして、こんなにも縁遠いものになってしまったのでしょう。

物事の「質」を「量」に還元してしまう貨幣経済というものが、私たちの世界を動かす支配的な価値観になってしまったことが挙げられるでしょう。お金というツールはそもそも、物々交換の不便さを解消するものとして登場し、あらゆるものを「量」に還元して交換、つまり取引を可能にしました。「質」の異なる様々なものをすべて「量」に置き換えてしまうということは、本来は暫定的・便宜的なことであって、そこに無理があるのは当然です。

しかし、いつの間にか、経済原理が世の中を動かす中心的な力を持つようになってしまい、人々は「質」の大切さを犠牲にしてまでも経済価値を追い求めるようになってしまいました。その結果、様々な物事に対しても、プロセスよりも結果のほうを重視するような考え方が、広く世の中に蔓延するようになったのです。

~~~
これはまさに「呪い」ですね。「量」的に計測可能にする、という呪い。

昨日の「街場の共同体論」の話にもつながります。

「労働の価値は、かつてはどのように有用なもの、価値あるものを作り出したかによって考量されました。バブル期以降はもうそうではありませんでした。その労働がどれほどの収入をもたらしたかによって、労働の価値は考量されることになった。そういうルールに変わったのです。」

短期間でいかに「量」的に稼ぐか。それは「計測可能」です。しかも際限がありません。それは「学習」においても同じです。短時間でいかに成績を上げるか?が「能力」の指標として、いまだに採用されているのが現状です。

そして、「キャリア教育」もその「呪い」にかかってしまいました。
「やりたいことは何か?」「将来なりたいものは何か?」と問われ、
その目標に対して今できることは何か?と問われます。

それは言わば「手段」にあふれた教育、「手段」だらけの世の中です。
それをどうシフトしていくか?

「機会」として学ぶへのシフト。「目標達成」さえも機会としてとらえるような教育、世の中ができないだろうか。
「機会」を得て、そこで心の動き(共感・違和感・衝動)を得て(ふりかえって)、問いを立てて活動をする。
その活動がまた「機会」となって、、、そんなサイクルができないだろうか。

そんなことを考えていた時の7月24日、法政大学の長岡先生に再会。
僕の水戸留学時代の影の師匠。
「越境」をキーワードにゼミを展開しオープン参加の「カフェゼミ」を実施。
参加した時のゲスト、「つながるカレー」の加藤文俊さんの話から、
エンターテイメントの本質は「予測不可能性」というキーワードをもらった。

その長岡先生のコメントがアツい。
「直感で動け、そうすれば間違いしかない」
そういう前提で「呪い」を解いていくのだろうなと。

その後は阿賀町の自然薯農家、目黒さんに話を聞いて、
「百姓2.0」を実感した。
「仕事」も「幸せ」も自ら定義すること。
「仕事」も「幸せ」も自分でつくるものだと。

7月のラストは、「街場の平成論」(内田樹編著)だった。
ここでの平川克美さんの一節にうなる。

「消費者」は、これまでの古い慣習や、しがらみから自分を解き放つことが可能な存在であった。一人の時間を大切にし、誰からもその行動を干渉されず、好きなときに好きなものを自由に所有することができる。

消費者が持った解放感は、日本の歴史上稀有のものだったように思える。金の力が、個人を解放するという幻想を多くの日本人が共有したのである。ただし、金さえあればの話である。

考えてみれば、「消費者」は、革命を経なかった日本人が初めて手にした「個人」であったと言えるかもしれない。ここでも、但し書きがつく。但し、金さえあれば。

~~~

「消費者」になるという自由。
かくして人は「個人」となった。

尾崎豊が「卒業」で歌った
「仕組まれた自由に誰も気づかずに」
っていうのは、このことなんじゃないか、って。

ということで8月。

イナカレッジのトビラプロジェクトで
顧客である「ひとり」に出会うことを再確認。

人生は経営であり、ドラッカーの5つの質問に答える必要があること。

1 ミッションは何か
2 顧客は誰か
3 顧客にとって価値は何か
4 成果は何か
5 計画は何か

人生は経営であるが、
ただし、個人戦でもトーナメント戦でもないこと。

山口周さんの「武器になる哲学」ではダーウィン理論の誤解が溶ける。

もっとも強い者が生き残るのではなく
もっとも賢い者が生き延びるのではもない。
唯一生き残るのは、変化できる者である。

だから、変化しなくちゃいけないんだよ、って思ってた。
そうじゃなかった。

生物はすべて「集団が生き延びること」を最大の価値として存在しているんだろうと思う。そのために「自然淘汰」というメカニズムがあるのだと。そのメカニズムは、「突然変異」というエラーから始まるのだと。

「環境」は変わる。

環境が変化したときに、適応できる(生き残る)のかどうか、は、変化後の環境に適応し得る突然変異を継承しているかどうか。集団が生き延びること。この「集団」を「組織」あるいは「会社」にしても、同じことなのだと。突然変異(エラー)を組織内(会社内)に許容できないと、外部環境が変化したとき、生き残る可能性が下がる。

これが今コロナ禍で起こっていることではないかと。

8月末はイナカレッジの研修講師がうまくいかなくて、
それを考えて、実習地のひとつ、矢田集落でヒントを得た。

「チューニング」
・予測不可能性で心を開く
・感覚の共有。
・向き合わない

相手を理解しようとしないで、相手が出す「音」に関心を向ける。3人の「音」を合わせて、音楽(場)をつくる。その音楽(場)から、自らが学ぶ。新しい「音楽」を生み出す。そうやってプロジェクトを前に進めていく。そのために、付箋を使ったKJ法があるのかもしれない。

「ともに学ぶ」そして、「新しいものを生み出す」ために、コミュニケーションがあり、ミーティングがある。そのためには、チューニングというコミュニケーションが必要なのだ。

そうだな。たぶんそう。理解と共感に基づかない協働。
そのために「チューニング」があるのだ。

9月1日には阿賀町レガッタで黎明学舎チームがかき氷を売りました。
丁寧なふりかえりでモチベーションが上がることを目の当たりにした。
「やってみる」が先だよ、意志じゃなくて。って。

9月7日茨城でのえぽっく「取材型インターンひきだし」の振り返りセッション。

えぽっく代表、若松さんの一言。
「正直、ひきだしにどんな価値があるのかって、わからないんですよ」っていう一言だった。

これは、すごかったな、と。場の空気が一気に変わった。投げ込まれたいまのリアルな感情。

どんな価値があるのか?それは事後的に決まるっていうか、いま、この瞬間に決まるんだよ、ひとりひとりの感想と場の空気で。だからいま、価値を語ってくれ。そんなメッセージ。

「機会としての学び」の前で、人は等しくその場の「参加者」としてフラットになる。
「発見」「創造」する仲間になるんだ。
9月の連休は、福島県広野町で暗やみ本屋ハックツの出店。
タイミングよく福島県立ふたば未来学園高校で探究の発表会があったのでのぞいてきた。

「地域」や「まち」を主語にして語らない。「自分たち」を主語にして語る。しかしその「たち」の中に、「地域」や「まち」が含まれているような、そんなプロジェクトをつくっていけないだろうか。

発表会での違和感。

3つのプロジェクトに共通することは?⇒「あきらめないで活動することです」みたいな振り返りに意味があるのか?っていう。

プロジェクトをやったことで、こんなことを起こり、こんな人に出会い、こんな経験をして、こんな自分に気づいたんだと。そんなストーリーを聞きたいのだ。プロジェクトの成果なんかよりずっとずっとそれを聞きたい。どんな感情の動きやどんな学びがあったのか?を知りたい。

「高校生」が「地域」で「探究」の意味は、そこにあるのではないか、って思う。

http://hero.niiblo.jp/e489823.html
「あきらめない理由」に出会うこと。

プロジェクトを始めることで、何かが起こり、誰かに出会う。そこで何かを感じる自分がいる。そこにフォーカスすること。「気づいたこと、学んだこと」の前に「印象に残ったこと」という心のふりかえりをすること。

「機会」から学ぶっていうこと。そして、「あきらめない理由」を発見すること。プロジェクトの評価を自分ですること。

~~~っていうまとめ。

ふりかえり方法は3つ
「メタ化して学びにフォーカスすること」
「深掘りして個人の感情にフォーカスすること」
「地域にとっての価値にフォーカスすること」

答えを持っている大人からは、もう何も学べない時代に入ったのではないか。
っていう感想

9月のラストに「阿賀町まちづくり会議」があって、
うまくできずに、山本さんに相談にいった。

未来日記のポイントは、顧客を主人公にする、ということ。その顧客は自分自身であってもいいのだけど、プロジェクトが実現している未来に登場する人がいい。

「高校生のための場をつくりたい」っていうのだったら、5年後、その場ができているとしたときの、高校生自身の日記をかかなければいけない。
今日も、「場」に行って、友達としゃべった、とか、自分たちでくるみのプロジェクトに挑戦している、とか。そういう感じ。

ワークショップっていう「パフォーミングアート(舞台芸術)」について考えさせられた。

「場」に対する信頼を。ファシリテーターはその意味で迷ってはいけない。ファシリテートとは、「パフォーミングアート」なのだから。

「正解がある」というOSでは、もう勝負できない。「正解がない」という前提で、取り組んでいけるか。

「創造的混沌」を味わう。「創造的混沌」というカオスの中から新しいものが生まれ出て、秩序化されることで新しい常識が生まれる。

要するに、そのワークショップには、「愛」がなかった。

~~~ここまで

「愛」のあるワークショップ、つくらないとね。
っていう3か月でした。

だんだん、「探究」プロジェクトに寄ってきています。  

Posted by ニシダタクジ at 07:24Comments(0)足跡日記

2021年01月04日

いま、誰と出会えるかがそのまま会社の未来だ

2019年4月~6月のふりかえり。
4月はまだ本屋モードですね。

~~~ここから振り返り

堀江貴文「すべての教育は洗脳である」から

「僕は宗教にには何の興味もない。否定も肯定もしない。それによって幸せになれると思うのであれば、好きな神様を拝めばいいと思う。だけど、「常識」への信仰だけはおすすめしない。はっきり言って、幸せになれる確率が低すぎる。」

「学校」は、あるいは「就活」というシステムは、もしくは、「会社で働く」ということは、「常識」への適応を要求する。もちろんそれは、世の中を生きていくために、必要なことだろうと思う。

しかし、「常識」を「信仰」してはならない。本書にあるように、「学校」というシステムは、200年前に存在していないし、「工業社会」とセットで生み出された仕組みだった。「就活」について言えば、もっと短い期間でしかない。その「常識」に適応する、ということ。それは「適応」であって、正解ではないこと。

その後、内田樹「街場の共同体論」。
これ、すごく的確に、アイデンティティ危機の原因に迫っているのではないかと。
http://hero.niiblo.jp/e489105.html

経済成長のための最適解を求めた結果、最も合理的な政策は「家族解体」でした。消費活動を活性化するためには家族の絆がしっかりしていて、家族たちが連帯し、支えあっていては困る。だから、国策として家族解体が推し進められたのです。

労働の価値は、かつてはどのように有用なもの、価値あるものを作り出したかによって考量されました。バブル期以降はもうそうではありませんでした。その労働がどれほどの収入をもたらしたかによって、労働の価値は考量されることになった。そういうルールに変わったのです。

ですから、最もわずかな労働時間で巨額の収入をもたらすような労働形態が最も賢い働き方だということになる(例えば、金融商品の売買)。一方、額に汗して働き、使用価値の高い商品を生み出しても、高額の収入をもたらさない労働は社会的劣位に位置づけられました(例えば、農林水産業)。

そのようにして現代人の労働するモチベーションは、根元から傷つけられていった。

~~~ここまで引用

「労働者=消費者」を生み出していった国策。
これが日本型資本主義システムを形作ることに成功した。

そして、さらにこの本から、「弟子」について。

「あんたに言われるよりはるか前から、自分がどれくらいのものを知らないか、技が使えないか、誰よりも自分が知ってますよ。だから師匠に就いて学んでいるんじゃないか」という話です。

だから、「知らない」「できない」ということによるストレスがない。自分がその道の開祖とか、学派の学祖とかであったら、「知らない」や「できない」は許されません。

でも、違う。いくらでも間違えることができる。いくらでも失敗することが許される。この広々とした「負けしろ」が、弟子というポジションの最大の贈り物です。今の自分の知見や技術に「居着かない」でいられる。この開放性が、弟子であることの最大のメリットだと思います。

~~~ここまで

「自由」ってなんだろう?「オリジナリティー」ってなんだろう?って思った。

「自分は伝統の継承者であって、私の教えには何も新しいものはない。」この圧倒的な強さ。そして自由。そして何より、「弟子」なんて、勘違いや思い込みに過ぎないっていうこと。あの孔子でさえ、勝手に弟子を名乗っていただけなんだと。


そして苫野一徳さんの本「学校をつくり直す」
キーワードは「共同探究者」「探究支援者」になる、ということ。

「地域」には、宝物が眠っている。それは「探究」を駆動する何か、だ。

「地域の課題解決」が叫ばれているが、「解決」したいと心から思うのは、一般的「課題」じゃなくて、具体的な誰かが困っていることだ。それを解決することで楽しい未来が待っているようなこと。それに出会えること。それが「地域」の魅力だろうと思う。

「地域の人」や「地域の課題」に出会い、心が動くこと。「衝撃」や「共感」だったり、「何とかしたい」と思うこと。そこから「探究」が「学び」が駆動していく。そういう場所をつくりたいんだ。

~~~

「先生はえらい」(内田樹)につづく。

私たちが学ぶのは、万人向けの有用な知識や技術を習得するためではありません。自分がこの世界でただひとりのかけがえのない存在であるという事実を確認するために、私たちは学ぶのです。「この先生のこのすばらしさを知っているのは、あまたある弟子の中で私ひとりだ」という思い込みが弟子には絶対に必要です。それは恋愛において、恋人たちのかけがえのなさを伝えることばが「あなたの真の価値を理解しているのは、世界で私しかいない」であるのと同じです。「自分がいなければ、あなたの真価を理解する人はいなくなる」という前提から導かれるのは、次のことばです。だから私は生きなければならない。

この4つのフレーズから、「学ぶ」とは?から始まって、「生きる」とは?まで進んでいる。
なぜ、「学ぶ」のか?この問いを多くの人が持った2020年。ここに一つのヒントがあるように思います。

そして近畿大学を紹介した「なぜ関西のローカル大学「近大」が、志願者数日本一になったのか」(山下柚実 光文社)

「入学式は、新入生たちに全力で大学生活に取り組む決意をしてもらう、最大のチャンスなんです。その大切な瞬間を、私たちの思いを真心込めて伝えていく大切な時間にしたいんです。」

「不本意新入生」と大学がどう向き合うのかは、入学してくる学生に意欲や勇気を持ってもらう教育問題であると同時に、大学の経営問題でもあるのだ。入学式という一瞬の時間によって、「不本意新入生」の意識をいかに転換し、近大に入学して良かったと思える大学生に変えていくことができるのか。「よくぞ近大に入学してくれました」という感謝の思いを伝えることができれば、新入生は新たなるモチベーションを獲得し、大学はその結果として安定した授業料収入を確保できる。

近大は「パートナー」として大学生を見ているんだなと熱くなった。

★「成果目標」「行動目標」「意義目標」の関係性

そして、2019年6月。
まずは6月1日の柏崎変態ツアーから。
http://hero.niiblo.jp/e489377.html

テック長沢・長沢社長の一言
「いま、誰と出会えるかがそのまま会社の未来だ」

茂木さんの「探究」のレクチャーより

「学びの意欲の低下」ってホントなんだなと。そのインセンティブがないもんね。そもそも「インセンティブ」っていう考え方が学びの意欲の低下を引き起こしているけど。

「学びの主体性」を取り戻すこと。そこに尽きるのかもしれないな、と。そこには大人の「愛」や「探究」に直に触れること。そして人は地域の当事者になると同時に、学びの当事者になる、ということなのかもしれない。

自分を愛する前に、誰かや地域を愛すること、その前に誰かや地域の「愛」を体感すること。それが必要なのかもしれない。「愛」は言葉じゃなくて、波動というか、「波」だから。

~~~

石山アンジュさんの「シェアライフ」より
東洋思想では、「個人」という概念は存在せず、「自分は全体の中の一部であり、一部である自分が全体を構成する」と考える。

~~~

つまり、「チームひきだし」や「にいがたイナカレッジ」の1か月プログラムの最大の「価値」は、「価値」とは何か?を問う機会を得るということです。

経済社会においての最大の価値は、売り上げを上げること、伸ばすことです。しかし、売り上げを伸ばすためにがんばっていても、売り上げは上がり続けることはありません。売り上げの源泉は「価値」だからです。顧客に価値を提供できるからこそ、その商品、そのサービスは売り上げを伸ばし続けることができるのです。

かつて、その「価値」は長持ちしました。新商品の洗濯機を作れば、何万台、何十万台も売れ、長く売れ続けました。ところが、テクノロジーの発展など様々な要因によって、価値が長持ちしない、かつ多様になってきてしまいました。

「価値」そのものが流動している。だから、自ら「価値」を考え、生み出せる人になることが求められます。

~~~

「価値」を問う夏休みを提供しているのです。イナカレッジとひきだしは。

そしてラストは山口周さんの「劣化するオッサン社会の処方箋~なぜ一流は三流に牛耳られるのか?」(山口周 光文社新書)

「教養」の敗北。

「経験」「挑戦」「失敗」の意味が変わりますね。

同じ仕事を30年続けているという人は「30年の経験がある」と主張したがるかも知れませんが、脳神経科学の文脈で「経験」という言葉を厳密に用いれば、実際には「1年の経験から学び、あとは同じことを29年繰り返した」というべきです。

なぜなら「経験」とは常に、新しい気づきへの契機をもたらすものだからです。同じような仕事を同じような仲間と同じようなやり方でやり続ける、というのは、「経験の多様性」を減殺させることになります。いろんな仕事を、いろんな人たちと、いろんなやり方でやったという「経験の多様性」が、良質な体験をもたらし、学習を駆動することになるのです。

~~~ここまで

最後に泉谷さんの
「仕事なんか生きがいにするな」に出会っているんですね。

これはホント衝撃でした。

刺激に対する単なる反作用としての「能動」、あるいは外観は情熱のようでも、実は外力に動かされている「能動」は、いかに大げさな身振りをしても、基本的には受動である。(「人生と愛」エーリッヒ・フロム)

外見上いかに「能動」に見える活動的な行為であっても、それが内面的空虚さを紛らすために消費社会によって生み出された、外から注入された欲求で動いているものは、その内実は「受動」でしかないのだ、と言っているのです。

「社交的にいろんな人たちと交流する」「日々を有意義に過ごす」「自分が成長するように時間を大切に使う」といった学校レベルでは大いに奨励されそうな行動も、「空虚」からの逃避がその隠された動機なのだとすれば、これもやはり「受動」の一種に過ぎないと言えるでしょう。

将来どんな仕事に就くべきかといった「社会的自己実現」について苦悩することよりも、もう一つ深い層の「生きることの意味を求める」という実存的な飢えの方が若い世代にとってはむしろ切実な問題になってきているわけです。

~~~ここまで

実存的な飢え。まさにそれです。
アイデンティティ危機の根源。

あと1年半。ながいな、これは。
ラストは長沢社長の一言で。

「いま、誰と出会えるかがそのまま会社の未来だ」

もし、人生が経営だとしたら、
いま、誰と出会えるかがわが人生の未来、なのかもしれない。  

Posted by ニシダタクジ at 11:46Comments(0)日記

2021年01月03日

「おでん」に溶けるジャガイモになる

みなさんが振り返っているのに影響されて、
わたしも振り返ります。

2019年1月~3月(さきは長い・・・)

この3か月のテーマは「本屋」と「就活」でした。
まだ自分が5月から高校魅力化プロジェクトに携わろうとは思っていなかったですね。

2019年1月は、
「かえるライブラリー」のクラウドファンディングに挑戦。

年明けは「本を贈る」と「続・ゆっくりいそげ」を併せて読んでいました。
want,doからbeで自分のありたい姿を現すこと。
何をやるか?ではなく、誰とやるか?どうありたいか?を問いかけました。

★影山さんの場の定義
空間×関係性×記憶っていうのも記憶に残る。

★影山さんの場のチカラは
1 目的がなくても参加できる
2 多様な人が来る
3 主(あるじ)の存在
4 主客同一
5 楽しく遊びの要素がある

影山さんは、「それってカフェじゃないか」って思うのだけど、
僕はやっぱり「それって本屋じゃないか」って思ったのです。

★向き合わないデザイン
また、「本の処方箋」から考えた「向き合わないデザイン」について。
1つ目 その場限りであること
2つ目 その悩みは本では解決しない
3つ目 向き合わずに本棚を見ながら話すこと
これによって、相談者が「心を開く」ことができるのでは?と考えた

★本屋は「委ねる」
・場に委ね
・感性に委ね
・購入者の未来に委ねる

★かえるライブラリーのシステムは公務員も参画できる地域ビジネスのプラットフォームであること。
・公開積読
・本で出会う就活⇒耳をすませばプロジェクト⇒「手紙を届ける」

★本屋のオヤジのおせっかい
無力というのは「何もしない」ということではない

★本屋は「つくる」と「届ける」が同時に起こる
文化=質の高い時間を盗まれたい。質のいい時間どろぼう

★場をつくることは未来をわからなくする方法

にいがたイナカレッジの連載では
「挑戦するな、実験しよう」が生まれた。
https://inacollege.jp/blog/2019/01/17/nishida4/

・やりたいことがわからない
・自分に自信がない
・リーダーシップ・主体性がない
・「就職」したいけど「就活」したくない
・「働きたい」より「暮らしたい」

クラウドファンディングは場になりうるのか?という実験は
1月28日の野島萌子の投稿がその1つの答えだった。
https://camp-fire.jp/projects/117607/activities/72112#main

そして2月。
クルミドコーヒー影山さんに誘ってもらい、胡桃堂喫茶店での対談。

★主客同一⇒主客未分
新しいシステムをつくるには問いが必要。
「生産性」が問われると人は手段化する。
「問い」の種をまくような本屋
「空間的」にも「時間的」にもフラットであること。

まちから:水戸部さん
「欠落」と「有意味性」
伴走型支援⇒伴奏型支援

★地域の個性の構成員になること。
「営み」の中にあるという身体性(食や農)を通じて自分自身の豊かさに気づくこと。

「課題解決」⇒価値アプローチ
「源泉」をさがす⇒顧客(自分)アプローチ(面白がること)

doの肩書き×beの肩書き
「そもそも自分とは何か?」という問い自体が無効化されていく。

そして3月。
益田ひとづくりフォーラムへ。
ライフキャリア教育、カタリ場、大人と子どもの出会い直し
新・職場体験

2018年11月に行った「しまね教育の日ファーラム」で感銘を受けて、
2018年度3度目の島根へ(6月には海士町と雲南に行ってますね)

空っぽなままで言葉は出てこない
心動かしたことを貯めていく
★思考停止こそが絶望
アイデンティティ問題⇒未分化な地方でクリアできないか?

学び合えば希望は生まれる
⇒究極のエンターテイメント(予測不可能性)としての学び
⇒贈与を受けた者であることを知るために学ぶ

★「第3の大人」:評価しない大人、共に学ぶ大人

心>頭
「感じる」から始めるキャリア教育
共に「価値」を設定していく。
中学生も大人も「感じること」から始める。

そして、その帰り道。
愛知県のとある高校で講師を行う。
あれは大きかった。
http://hero.niiblo.jp/e488989.html

自分は多感な高校生に通用するのか?
っていうプレッシャーがすごかった。
お題はコミュニケーションについて
コミュニケーション力(スキル)⇒コミュニケーションデザインへ

さらに、
3月15日には再びクルミドコーヒーで影山さんと「就活」についてのトーク
良いものと悪いものはコナトゥスとの組み合わせによって決まる
リザルトパラダイムとプロセスパラダイムを併せること

3月のラストは
落合陽一さんの「日本再興戦略」が締めくくった。
http://hero.niiblo.jp/e489076.html

~~~少しだけ改めて抜粋

もうひとつ、欧州発で日本には向いていないものがあります。それは「近代的個人」です。

日本が「近代的個人」を目指し始めたのは1860年ごろで、それから150年以上経ちましたが、いまだに日本には「個人」によって成り立つ「国民国家」という感覚が薄いように感じます。むしろ個人に伴う孤独感のほうが強くなっているのではないでしょうか。これも日本人が「個人」を無理に目指してきたからだと思います。

江戸時代には、日本人は長屋に住んで、依存的に生きてきました。我々は個人なんてなくても、権利なんて与えられなくても、江戸時代など、対外的には大規模の戦争をせずに生きていた時もありました。それなのに、日本は自分から依存を切ってしまいました。個人の持つ意味を理解していないのに、西洋輸入の「個人」ばから目指すようになってしまったのです。

今では、長屋もないし、団地も減りました。隣の人に醤油を借りることもなくなってしまいました。過去の状態が理想状態であるとは言いませんが、我々は過度に分断されるようになった。そしていつのまにか日本人はバラバラになってしまったのです。

本来、江戸の日本には、100、200、300という複数の職業があって、そのうち何個かの職業を一人の人が兼任して、みなで助け合いながら、働いてきました。ポートフォリオマネジメントがされていたため、誰かが技術失業することはありませんでした。

~~~ここまで抜粋

そしてもうひとつ。日本再興戦略の冒頭から抜粋

~~~ここから引用

我々の教育は、人に言われたことをやるのに特化していて、新しいことを始めるには特化していないからです。しかし、それで良かったのです。むしろそのほうが近代的工業生産社会では優位に立てたのです。

だって、近代以前の個別に尖った創造性社会を無個性で共通認識のある訓練された集団へ変換するほうが、マスを解体するより難しいと思いませんか?

これまでのシステムは、大量生産型の工業社会、たとえばトヨタの車をつくるのには向いてましたし、ソニーのテレビをつくるのには向いていました。みなが均質な教育を受けていて、何も言わなくても足並みがそろうからです。不良品が少なく、コミュニケーションコストが低く、同調によって幸せ感を演出できる社会は非常にうまくデザインされていたといえるでしょう。幸せは演出され、成長は計画されてきたのです。

ただし今は、工場が本質的に機械知能化されていっています。スマホのように、高集積で人間が関与することが難しいものに関しては、その作業工程で足並みをそろえる必要がありません。少数の生産性の高いデザインチームと作業機械への親和性があればいい。

高度経済成長の正体とは、「均一な教育」「住宅ローン」「マスメディアによる消費購買行動」の3点セットだと僕は考えています。つまり、国民に均一な教育を与えた上で、住宅ローンにより家計のお金の自由を奪い、マスメディアによる世論操作を行い、新しい需要を喚起していくという戦略です。

~~~ここまで「日本再興戦略」より引用

「均一な教育」「住宅ローン」「マスメディアによる消費購買行動」
すごい発明だなあと。
カール・マルクス「資本論」の前に読み直しておいてよかった。

じゃあ、どうすればいいのか?
ヒントは「おでん」だ。

場という「おでん」の具として生きる(19.3.18)
http://hero.niiblo.jp/e489028.html

~~~ここからブログより引用

「二元論」でわかりやすくすること、とか「自分」(っていう概念も二元論だと思うけど)っていう考え方が苦しさの原因なのではないかと。

よい「場」っていうのは、おでんのようなもので。

それぞれが、おでんに向かって
ある者(たとえば昆布)は多くダシを出して、
ある者(たとえば大根)は多くダシをもらって、
全体としてひとつのおでんができている。
ジャガイモはいつの間にか場(つゆ)に溶けている。

よい場っていうのは「おでん」のような場なのではないか。

個人を個人として考えるのではなく、場の構成要素として、つまりおでんの具のひとつとして、とらえてみること。

2003年に発売された「13歳のハローワーク」(村上龍 幻冬舎)は200万部を売り、子どもたちに呪いをかけた。「プロフェッショナルになれ」という呪いを。一方で同じ年にリリースされた「世界にひとつだけの花」(SMAP)は、「ナンバーワンにならなくてもいい元々オンリーワンなのだから」と言った。それは子どもたちを癒すのではなく、よりいっそう、「何者かにならなければならない」という呪縛につながった。

でも。そもそも人はONEなのではないのではないか。
おでんの具のように、生きていけばいいのではないか。

場(つゆ)の中のひとつ(ひとり)として、
場とやり取りしながら、出番が来るまで、
役割を全うすることなのではないか。

そんな「おでんの歌」を、必要としているのかも。

~~~ここまでブログより引用

1月のかえるライブラリーと本屋の価値の話から、
「続・ゆっくりいそげ」から始まった2月、3月の影山さんとの対話。
そして益田ひとづくりフォーラムからの高校生への講演。
さらに、近代的自我に対する疑問。

2019年1月~3月。
この時点ですでに、僕が取り組みたい課題と、
その手法(おでんのような「場」をつくる)

振り返っていて一番驚いたのは、4月1日のブログに、こう書いてあること。

~~~

中学・高校の時から学校以外の場所に「おでん」を持つこと。「居場所」じゃなくて、「おでん」のような「場」を持つこと。何か小さなプロジェクトが生まれる、そこに小さな帰属意識と小さな参加意識が生まれるような、そんな「場」を持つこと。

その「場」は、「場」から生み出されるプロジェクトは、個人が特定されないような、中途半端な「匿名性」を持っていること。

それは、「創造的脱力」(若新雄純 光文社新書)で紹介されていた鯖江市「JK課」の取り組みのように、「JK課が批判されても、私の学校の成績が下がるわけじゃない」(参加高校生のコメント)とか、福岡で出会った大学1年生の「インスタ講座」で「インスタはもうひとつの人格を作り出す装置」というような、

調べればだれがやっているのか分かるけど、発言(表現)はプロジェクトとして、あるいはチームとして行う、っていうのが、日本人のメンタリティに向いているのかもしれない。だからこそ、大学生たちは、「場」を持とうじゃないかと。「おでん」のように相互に関係し合う「場」で小さなプロジェクトを生んでいこうじゃないか。

「プロジェクト」は仮の自分だ。もうひとつの自分だ。もちろん複数名でやっているから、自分そのものではないけれど。その「中の人」として、何かを始めてみること。

これが、オルタナティブ就活への第1歩なのかもしれない。

~~~

いや、すでに、今とほぼ同じような結論に到達しているんだなあと。
おそるべし、現代美術家、ニシダタクジ。

ふりかえり、やっぱ大事だ、と。

  

Posted by ニシダタクジ at 15:08Comments(0)学び足跡日記

2021年01月01日

全力投球するのではなく、「全力投球する自分」を演じる


「おやときどきこども」(鳥羽和久 ナナロク社)

新年1冊目はこの本。
12月30日に新津・英進堂で購入しました。
英進堂で買いたい本ですね。

思春期の若者、そしてその親と対話してきた塾の先生の記録なのだけど、
一言一言が美しくて、胸に来るものがあります。

詳しくは本書を読んでいただくとして、
(僕もまだ読み終わってないのだけど)
一節だけ紹介します。

~~~ここから引用

「遊びと企て」
企てと遊びとは、人間の日常生活における、二つの基本的なありかたであり、ひととひとの関係のとりかたと、その関係のもとでのふるまいかたの二つの基本様式である。(西村清和「電脳遊戯の少年少女たち」)

この場合の「企て」とは、その都度ある目的や意図をもってその実現に向かっていく行動全般のことで、一方で「遊び」というのは、例えば母親と赤ん坊の間の「いない、いない、ばあ」のような、私と他者との同調関係のなかで軽やかに世界に包まれる実感を得るような、それ自体は目的を伴わない所為を指しています。

私たちは「企て」と「遊び」の両方を享受しなければ満たされません。日々の生活にメリハリをつける目標や動機付けは欠かせませんし、勉強や仕事などの生活のために必要な行為は、広い意味ではすべてが「企て」と言えるものものです。一方で精神の緊張が伴う「企て」の狭間には、心をほどく「遊び」の時間が必要になるでしょう。「遊び」はいま生きているという実感に直結するものなので、それを通して初めて私たちは誰のためでもなく自分のために生きるという喜びを知ることになるのです。

(中略)

親は子どものことを思って何かやろうとすると、いつの間にか子どものあらゆる可能性を自分の「企て」の中に回収してしまいます。

子どもの「遊び」にかまっていられない親が、その代理物としてすがるのが「企て」です。中でも、塾や習い事は、「やってる感」が得られやすいので、安心したい親としては便利なツールです。子どもが手から離れる上に、将来のために目的を見つけて成長していく子どもの姿を見ることができるわけですから、親にとってこれ以上のことはありません。こうして「遊び」を侵食する形で、ある目的を達成するための「企て」が子どもの生活の大半を占めていくことになります。

こうした「企て」には本来的に転倒が潜んでいます。私たちはある目的を達成したいから「企て」が生じると考えますが、そうではなく「企て」という欲求によって、事後的に「ある目的」が召喚されるのです。目的というのは初めから素朴にあるのではなく、目的的に動きたい私たちが目的的に動くために自らの手で立てるフラグの一種です。

こうして目的の達成を目指すというふるまいを手に入れたあとには、私たちが抱えていたもともとの不安の中身は忘れ去られ、目的の達成という情熱がそれに取って替わります。こうして急場をしのぐためのプロジェクトが成立します。

~~~ここまで引用

昨日のブログで書いた「副業をつくること」。
70%-30%くらいのバランスで自分のリソースを振り分けておくこと。
もちろんそのパーセンテージは個人の性格や人生ステージ、タイミングによるのだけど。

高校生活、大学生活で言えば、
70%を「達成・成長」のパラダイムへ
30%を「発見・変化」のパラダイムへ
と力を注いでいくこと。

これは、この本で言えば、「企て」の部分を70%-30%に配分していくこと。
さらに、その上で生活の時間の中で「企て」と「遊び」を70%-30%で配分していくこと。

「土日でストレス解消」という言葉は、
仕事でたまったストレスを、土日の何らかの活動で「解消」し、
また月曜日に仕事場へ向かうことを意味する。
それって、「遊び」じゃなくて「企て」だよね、ってこの本は問いかけてくる。

本書にあるように、
★「遊び」はいま生きているという実感に直結するものなので、それを通して初めて私たちは誰のためでもなく自分のために生きるという喜びを知ることになるのです。

そういう「遊び」が必要なのだと。
いま、おれは生きているという「快」、「生」の実感が。

そんな「遊び」を人は根源的に必要としているのだと。
その「環境」を用意すること。
目的に取り込まれない「生」をともに生きること。


もうひとつ。100分de名著の「カール・マルクス 資本論」(2021年1月放送)から

これは昨日31日に読み始めてさきほど読み終わりました。

~~~ここから引用

かつては誰もがアクセスできるコモン(みんなの共有財産)だった「富」が、資本によって独占され、貨幣を介した交換の対象、「商品」になる。例えば飲料メーカーが、ミネラル豊富な水が湧く一帯の土地を買い占め、汲み上げた水をペットボトルに詰めて、「商品」として売ってしまう。それまで地域の人々が共同利用していた水汲み場は立ち入り禁止となり、水を飲みたければ、スーパーやコンビニで買うほかない。これが商品化です。

二重の意味の「自由」。ひとつは、強制労働ではないという自由。もうひとつは、生産手段を持たないという自由。普通の人が生活のために売ることができるのは、唯一、自分自身の労働力だけなのです。

資本主義は、共同体という「富」を解体し、人々を旧来の封建的な主従関係や共同体のしがらみから解放しました。共同体から「自由」になるということは、そこにあった相互扶助、助け合いの関係からもフリーになる、つまり切り離されてしまうということです。

しかも、責任の感情をもって仕事に取り組む労働者は、無理やり働かされている奴隷よりも良く働くし、いい仕事をします。そして、ミスをしたら自分を責める。理不尽なことさえも受け入れて、自分を追い詰めてしまうのです。これは、資本家にとって、願ってもないことでしょう。資本家にとって都合のいいメンタリティを、労働者自ら内面化することで、資本の論理に取り込まれていく。

資本主義社会では、労働者の自発的な責任感や向上心、主体性といったものが、資本の論理に「包摂」されていくことをマルクスは指摘し、警告していたのです。

マルクスが労働日の短縮を重視したのは、それが「富」を取り戻すことに直結するからです。日々の豊かな暮らしという富を守るには、自分たちの労働力を「商品」にしない、あるいは自分が持っている労働力のうち「商品」として売る領域を制限していかなければいけない。

~~~ここまで引用

この話、つながっているんじゃないかと。
「主体性」が、「企て」に取り込まれていないだろうか?

私たちが高校生、大学生に身につけてほしいと思っている「主体性」は、
会社や社会が求める、「企業人として求められる主体性」なのではないか。

それは果たして、本人たちを、本質的な意味で「豊か」にするのだろうか?

カギは「演じること」だと僕は思っている。
「演じること」が人生を経営することの始まりだと思っている。
場面場面で、複数の自分を使い分けていくこと。
1つのことに全力投球するのではなく、「全力投球する自分」を演じること。

「企て」と「遊び」を自ら配分していくこと。
「企て」の中身も、「達成」パラダイムと「発見」パラダイムに自らのリソースを振り分けること。
限られた資源をバランスし、理解も共感もできないかもしれない他者とチューニングし、協働していくこと。

予測不可能な、未来が分からない時代・社会で、どのようにふるまうべきか、大人たちも迷っている。
そんな不安に、一筋の仮説をもらった2冊の本でした。  

Posted by ニシダタクジ at 10:39Comments(0)学び