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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2021年02月25日

農民と云はず地人と称し、芸術と云はず創造と云ひ


「宮澤賢治の空中散歩」(斎藤文一 酪農事情社 1996)

僕の「原点」ならぬ「原典」と言えば、
宮澤賢治「農民芸術概論綱要」なのだけど。

オンライン劇場ツルハシブックスに登場した
フリーランス農家の小葉松さんに刺激されて書いた
2月21日のブログ「風とゆききし、雲からエネルギーをとれ」は、「綱要」の一節なのだけど。
言葉を検索したら、25年前の本のサブタイトルでして、思わず購入。

大学生の頃、まだTX開業前に荒川沖駅からバスに乗って、
筑波大学生物資源学類の橘研究室のオープンゼミに通っていた。
宮崎駿作品のセリフや、この「農民芸術概論綱要」を、
地域の人も含めて一緒に解読していくゼミに、「学び」の醍醐味があった。

今でも、「原典」はこのメッセージだ。
一言一言が胸に刺さる。

近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致において論じたい

世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない

新たな時代は世界が一の意識となり生物となる方向にある

正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである

われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である

などなど。
これらを一文ずつ、賢治の真意は何か?
と問いかけ、語り合っていくのである。
いまで言えば、「哲学対話」的でもあった。

今日は芸術と創作についてのところから。

職業芸術家は一度亡びねばならぬ
誰人もみな芸術家たる感受をなせ
個性の優れる方面に於て各々止むなき表現をなぜ
然もめいめいそのときどきの芸術家である

われらの前途は輝きながら嶮峻である
嶮峻のその度ごとに四次芸術は巨大と深さとを加へる
詩人は苦痛をも享楽する
永久の未完成これ完成である

~~~

これだなあ。
小葉松さんのやっているフリーランス農家っていう在り方は、
まさにこういう感じ。

たぶん、「総合的な探究の時間」が目指す、
「自己の在り方生き方と一体的で不可分の課題」っていうのはそういうことなのだろう。

というか、むしろ、「課題」に対して自らが一体化していくような感覚こそが、
宮澤賢治の言う、「農民芸術」なのではないか。
賢治は、花巻農業高校を退職後、自ら畑に立ち、羅須地人協会をつくった。

農民ではなく「地人」と呼んだ思い。
そして芸術ではなく、創造を目指した賢治。

「達成」と「成長」を繰り返して、人が大人になるよりも、
「創造」と「変容」を繰り返して、人が芸術家になる、
そんな場や場面を生んでいきたい。  

Posted by ニシダタクジ at 07:43Comments(0)

2021年02月22日

「自分らしさ」は、原因ではなく結果

中京圏の大学生向け「就活」テーマイベント「就活を哲学する」でした(オンライン開催)。
「就活」の違和感がどこにあるのか?

そんな問いを一緒に考えていました。
夏の取材型インターン「ひきだし」での名言
「就活と恋愛は似ているけど、それなら恋愛のほうがずっと難しいな」
っていうのを思い出した。

僕が思ったのは、二元論の呪縛。
たとえば「安定を求めるのか?」「好きなことをやるのか?」みたいな問い。
あるいは「働くこと」と「稼ぐこと」をどうバランスさせていくのか?みたいな。

最後のふりかえりででてきたのは、
「7:3で自分を配分すること」
⇒これ、アイリスオーヤマの話で証明されている
https://note.com/shunkonya/n/nd8081587fb07

そして、
「アイデンティティと仕事を切り離すこと」
⇒結局、これが苦しさの源泉。
アイデンティティと仕事を直結させて考えさせられてきたから。

「やりたいことは何か?」と問われ、「好きなことを仕事にする」ことが理想とされ。
しかもそれを他者に説明しなければならないし、同世代との比較も起こってくる。
しかも1つの仕事に人生の全てを賭けてしまう、つまり「10:0」の働き方を
していた時、仕事で失敗をした、あるいは仕事を失ったとき、かなり大きなダメージとなる。

人生が経営であるとすると、1つの業務に自分という会社の資源(特に時間)を全て突っ込むことは
あまりにも危険だ。VUCA(予測不可能)な世の中ならばなおさらだ。

特に、2020年以降の就活生には、その実感は大きいだろう。
世の中は小さな(しかも目に見えない)ウイルスひとつでひっくり返る。

だから、アイデンティティと仕事を切り離す、つまり
アイデンティティと1つの仕事をイコールで結ばないこと。

そもそも。
アイデンティティ=自分らしさは、事後的に発現してくるのではないか?
それが土曜日に会った高校3年生の言う「ちえりっぽくないね」戦略だろうと。
自分っぽくないことをやって、「自分」そのものを拡張していくこと。

芸能人が、「芝居の幅を広げる」と言って、悪役に挑戦してみる。
役作りのためにダイエットしたり、髪をバッサリと切ってみる。

劇団員に応募するように、企業に応募してみる。
「その役には私がふさわしい」みたいな顔をして、面接に行ってみる。
残念ながら不採用となる。それは、役どころが違ったのだ。
監督の創りたい絵の中に入らなかっただけだ。

こちら側も、しっかりと監督が創りたい芝居の方向性や
誰に向けて、どんな価値を提供したいのか、そもそも何のために
このお芝居があるのか?を問いかけないといけないし、
こちら側もそれに共感して芝居をやりたいと思わないといけない。

就職をして、やってみて、初めて、自分を知る。
僕は40歳で初めて就職したのだけど、そこでやらないと気付けなかった自分がいた。
「フラットな関係性のない会議からは何も生まれないし、何も生まれない場にいる自分はすごくつらい」
そんな「自分らしさ」に気がついた。

そして、なぜ間違えたのか?というと、それまでの「創造的脱力」路線から急に「創造的破壊」路線にシフトしてしまったこと。

「よくわからないけど、ひとまずやってみましょうか。そのあとで考えましょう」っていう実験的なアプローチと「正しいゴールがそこにあるから、それを実現するには自分が偉くなるか、もしくは偉い人の力を借りて、会議で勝ち取りましょう」っていう挑戦的アプローチを間違えたのだということ。
そして自分は「創造的破壊」アプローチは全く向いていない、ということ。
そんなことを3年もかけて学んだのか、っていう。

そんな風に、「自分らしさ」って「原因」じゃなくて「結果」なのではないか?って。
やってみた後に「自分らしさ」を知るし、「自分らしさ」が形作られる。
つまり、「自分らしさ」とは、更新(アップデート)され続けるものなのではないのか。

そう考えるとすると、全ての就職は、「芸の幅を広げ、自分らしさを知る」プロセスということになる。

大学3年生の今現在の「自分らしさ」と就職を直結させる必要はない。
だって、自分らしさはその仕事をした後に立ち上がってくるものなのだから。
そんなことを感じた2時間。

あと、最後に一緒にやってくれたカジワラくんが振り返って言っていたことが印象的でした。
具体的な悩みを抽象的に落とし込んでいくと、その問い自体に疑問を持つようになる、まさに「哲学な時間」だったと。

「問いが間違っているかもしれない。」
これって、大きいなと思う。前提を疑うっていうこと。

「やりたいことは何か?」っていう問いによって、こんなにも苦しんでいる人がいる。

誰が、いつ、何のために、この「問い」をつくったのだろうか?
この「問い」によって、誰が得をするのだろうか?

そんなことを考えてみるのもいいなと。
「違和感」と問いに変換し、「問い」の前提を疑ってみること。

それこそが「学び」の出発点なのかもしれないなと。
またやりたいですね。ありがとうございました。  

Posted by ニシダタクジ at 06:53Comments(0)学びイベント日記

2021年02月21日

風とゆききし、雲からエネルギーをとれ

オンラインイベント昼夜連続でした。

昼間は宮崎県立飯野高校の「グローカル・リーダーズ・サミット」
事例発表では、愛媛県立三崎高校のせんたん部の話が面白かったな。
全校生徒を6つのプロジェクトに分けて、その中にマネージャー的存在がいるという、
コーディネーターとかプロジェクトマネージャー部みたいな感じ。
そういうのやりたい人っているんだろうな。

あとは飯野高校の異世代ルームシェアとかも、
阿賀町でもできたら楽しい。

午後からは対話の時間で、
20分を4タームくらい、ひたすら「自分らしさ」についてトーク。

キーワード的には

~~~

生徒会長など、みんなの場にいるときの役割としての自分
1人の空間にいるときの自分らしさ
好きなことをしているときの自分。
没頭している時の自分。

★「ギャップ萌え」
生徒会長としての自分と、お笑い好きな自分。

否定されないという前提の場でないと自分らしさを出せない。

多重人格でいいんじゃないか?
その場に合った自分らしさがあるのでは?
★「自分らしさ」は流動的なもの?

自分らしさを発揮しないスポーツは観客として面白くない。
チームで見ている。

★没頭(集中)しているとき、「自分らしさ」という意識はない
⇒「自分らしさ」は結果なのではないか?

自分から見た自分とまわりから見た自分のギャップ
⇒それを嬉しいと感じるのは自分を肯定的に捉えているから?

★「ちえりっぽくないね」
ソフトボール部⇒吹奏楽部
意外にしっくり来た。自分にギャップ萌えした。

自分らしいこと=好きな自分
自分らしくないこと=嫌いな自分
ではなくて。
「自分らしくないことをやってみる」:固定概念を壊す。

★自分らしくないことをやる⇒自分を拡張していくこと。

~~~

特に「ちえりっぽくないね」が響きました。

自分ぽくない(自分らしくない)ことをやってみること。
そうやって「自分」を拡張していくこと。

「自分らしさ」という言葉の罠にはまらないこと。
他者からの評価を生きないこと。
ギャップ萌えを楽しむこと。

「自分らしさ」というお題は、高校生における哲学対話のいいテーマだなあと思いました。

~~~

夜は「オンライン劇場ツルハシブックス」
ゲストはフリーランス農家の小葉松真理さん。
https://agri.mynavi.jp/2020_07_01_122811/

第1部は遊撃農家はら農園の原さんと3人でトーク

農家さんへの思いが溢れて涙交じりのトークとなりました。
アツかった。
「生きる」ってなんだっけ?って問い直されたように思った。

フリーランス農家の小葉松さんは
夏は北海道、冬は沖縄や高知、和歌山といった、
農家をハシゴして農作業を手伝いながら、
野菜販売、農家訪問ツアー企画、スナックイベント、農業ライターなどを行っている、
「土地を所有しない」農家だ

出発点は地域を支えるのは農業だと直感し、農業を体験したとき、
「食べものって作れるんだ」って思ったこと。
実際に農業をやってみたら、ずっとひとりだった。

その時に気づいたのは、
「野菜をつくるプロになりたいわけではない」ということだった。
そこで、土地に縛られない「フリーランス農家」に。

農家の魅力について、
小葉松さんも原さんも、そのスケールの大きさを語る。
空間軸だけでなく、時間軸、そして思想軸の大きさ。

自分の土地、農業だけでなくて、地域全体のこと、
そして文化とか歴史のこと。

農業は自然との対話だ。
一年一年違うし、一瞬一瞬に神経を集中させなければならない。

そんな農家さんの姿に惚れて、
小葉松さんも原さんも農の世界へ誘われる。

「仕事じゃないです。同志を手伝っているだけ」
この一言はすごかったな。ガツンとやられた。

農業手伝い、ライター、ツアー、スナック
小葉松真理という切り口で「農」を発信してるんだな、と。
アートだなあ、って思った。





僕が大学時代に通った徳島の沖津一陽さんを思い出した。(写真は2016年の再会時)
「ダイコンがダイコンを全うするように、私は私を全うする」という沖津さんの言葉は、
僕の座右の銘になった。

小葉松さんからは「生きてる感」が伝わってきた。
それは、「自然の中で生かされている」という一体感からくるのだろうか。
原さんによれば、小葉松さんの文章には、農家さんと小葉松さんがお互いに溶けだしているのだと。
それは、一緒に農作業をしているからなのだろうな。

生態系の一員、構成メンバーとして、ここに存在している、という誇り。
それが農家の美しさなのではないか。

「モチベーション」っていう言葉が急に安っぽくなった。
「自立」とか「自分」っていう概念は、そもそも嘘なんじゃないか、って思った。

小葉松さんを見ていると、
「共有財」」として生きる、ということが可能なんだ、って思わされた。
空間的・時間的・思想的な大いなる循環の中で、いま、生きている。
ひとつの生命体としてこの地に存在している。
そんな生き方が可能なのだ、と。

昼間の高校生が話していたように
「没頭」「集中」しているときに、「自分らしさ」という問いは消えている。
それは目的ではなくて結果だから。

自分と仕事が一体化していないとき、人は「モチベーション」を必要とする。
生きていく意味が必要な時、人は「使命感」という物語を必要とする。

小葉松さんは、ただ、生きていた。
生きることを全うしていた。
そんなカッコよさ、そして美しさ。

それは、宮澤賢治が語った「農民芸術概論綱要」に描かれた世界なのかもしれない。

風とゆききし、雲からエネルギーをとれ。  

Posted by ニシダタクジ at 06:46Comments(0)学びイベント日記

2021年02月15日

消滅可能性都市⇒コモンズ再生可能性都市


金曜日、岡本太郎展@万代島美術館を見に行ってきました。

「岡本太郎の仕事論」(平野暁臣日経プレミア新書)
を読んでから行くといいかもしれません。
http://hero.niiblo.jp/e163257.html
(12.3.28)

未来の輝かしい世界を見せた後、観客はエスカレーターで一気に地上に降りてくる。そこには現在を表現する最後のセクション「世界を支える無数の人々」だ。そこには世界から集められた600の写真が掲げられていた。

著名な写真家による芸術写真ではない。毎日を必死で生き抜く名も無き大衆の生活写真である。太郎はこの展示に込めた。「世界は無名な人々がつくっている」というメッセージを。

~~~

今回、地下展示の全貌が再現してあって、そこが一番すごかったかな。
「いのち」「ひと」「いのり」。

「いのち」はつながっていて、
「ひと」もその道の途上にあって、
「いのり」と共に今を生きている。

そんな感覚。
太郎が遺したメッセージとはなんだったのか?
とあらためて問い直された。

そんなタイミングで、年末からの「資本論」シリーズのラスト、
「人新世の資本論」(斎藤幸平 集英社新書)


白井聡「武器としての資本論」(20.12.28)
http://hero.niiblo.jp/e491278.html

100分DE名著「カールマルクス資本論」(21.1.21)
http://hero.niiblo.jp/e491374.html
からの、この本。

僕が本屋さんだったら読んでほしい人は、

・大学生(特に経済学部・農学部)
・地方議員・首長(特に小さな町村)
・90年代に大学生だった僕ら世代。

「SDGs」(持続可能な開発目標)への違和感を鋭く切ってくれる1冊。

「はじめに」でいきなり、SDGsは「大衆のアヘン」である、と断じる。私たちは、資本の側が環境配慮を装って私たちを欺く「グリーン・ウォッシュ」にいとも簡単に取り込まれてしまう、と。

この本は、「気候危機」に際して、アヘンに逃げることなく、政治家や専門家に危機対応を任せるだけではなく、ひとりひとりが当事者として立ち上がり、声を上げ、行動しなければ、超富裕層だけが優遇され、その他多数、特に「グローバル・サウス」(グローバル化によって被害を受ける領域ならびのその住民)への影響は甚大なものとなるだろうと説く。

1997年、地球温暖化防止京都会議(COP3)のとき、僕は農学部の大学生だった。
あのときと事態は何ら変わっていない。いや、それどころか悪化の一途を辿っている。
「環境問題」は資本主義社会の中で、単なるビジネスチャンスへと変わってしまった。

なんでこんなことになってしまったのか。
そんな問いに対して、この本は「不都合な真実」を次々と明らかにしていく。
読みながら、胸が苦しくなる。

僕の中でのキーワードをいくつか抜粋してみる。

「外部化」たぶんこれが矛盾というか不条理の最大の要因。

資本主義は「中核」と「周辺」で構成されていて、「グローバル・サウス」という周辺部から廉価な労働力を搾取し、その生産物を買い叩くことで、中核部はより大きな利潤を上げてきた。

これは、日本のいわゆる「高度経済成長」でも構図は同じだ
農家の次男、三男を安い労働力として抱え込んで、利潤を最大化してきた。
かつ、「武器としての資本論」にあったように、フォーディズムのように、
彼らを「消費者」としても育てていったのだが。

そして今。
もはや奪うべき「周辺」がなくなってしまった。

これは「労働力」だけではない、「地球環境」もそうだと本書は説明する。
「人類の経済活動が全地球を覆ってしまった「人新世」とは、そのような収奪と転嫁をおこなうための外部が消尽した時代だといってもいい。」

マルクスを参照し、三種類の「転嫁」について説明する。

1 技術的転嫁-生態系の攪乱
マルクスと同時代の科学者リービッヒは持続可能な農業のためには、穀物が吸収した分の無機物を土壌に戻すことが不可欠だと説いた。ところが都市と農村の分業により、野菜は都市へと出ていき、その養分は戻らない。また、資本主義では短期的な利潤を最大化するため、連作が起こり、土壌は疲弊していく。それが文明崩壊の危機だと。

ところが、それは起こらなかった。「ハーバー・ボッシュ法」により、廉価な化学肥料が大量生産されるようになったからだ。ただし、この発明によって、循環の「亀裂」が修復されたわけではない。「転嫁」されたに過ぎない。窒素化合物の環境流出によって、地下水の硝酸汚染や富栄養化による赤潮を引き起こす。

2 空間的転嫁-外部化と生態学的帝国主義
ハーバー・ボッシュ法が開発されていなかったマルクスの時代に注目された代替肥料は海鳥の糞が化石化した「グアノ」だった。南米のペルー沖には島のようにグアノが積み重なっていて、それをイギリスやアメリカに持っていった。大勢の労働者が動員され、グアノは一方的に奪いさられた。結果、枯渇する資源をめぐって、戦争が勃発することになる。

このような矛盾を中核部にとってのみ有利な形で解消する転嫁の試みは、「生態学的帝国主義」という形を取る。生態学的帝国主義は、周辺部からの掠奪に依存し、同時に矛盾を周辺部へと移転するが、まさにその行為によって、原住民の暮らしや生態系に大きな打撃を与えつつ、矛盾を深めていく。

3 時間的転嫁-「大洪水よ、我が亡き後に来たれ!」
化石燃料の大量消費が気候変動を引き起こしているのは間違いない。とはいえ、その影響のすべてが即時に現れるわけではない。ここには、しばしば何十年にも及ぶタイムラグが存在するのだ。そして資本はこのタイムラグを利用して、すでに投下した採掘機やパイプラインからできるだけ多くの収益を上げようとするのである。

~~~

このあと、第2章ではいわゆる「グリーン・ニューディール」政策では解決にならないと説明し、第3章では、「ドーナツ経済」理論を例示しながら、「脱成長」論へと向かっていく。

「脱成長」というのは新しい概念ではなく、以前にもあった。しかし本書はそれを「楽観的脱成長論」だと斬る。

~~~
「資本主義の矛盾の外部化や転嫁はやめよう。資源の収奪もなくそう。企業利益の優先はやめて、労働者や消費者の幸福に重きを置こう。市場規模も、持続可能な水準まで縮小しよう。」

これはたしかにお手軽な「脱成長資本主義」に違いない。だが、ここでの問題は、利潤追求も市場拡大も、外部化も転嫁も、労働者と自然からの収奪も、資本主義の本質だということだ。それを全部やめて、減速しろ、ということは、事実上資本主義をやめろ、と言っているのに等しい。

「脱成長」は平等と持続可能性を目指す。それに対して資本主義の「長期停滞」は、不平等と貧困をもたらす。そして、個人間の競争を激化させる。
~~~

第3章のラストはこう締めくくられる。
「さあ、眠っているマルクスを久々に呼び起こそう。彼なら、きっと「人新世」からの呼びかけにも応答してくれるはずだ。」

ということで138ページ読んだ後にようやくマルクス登場。
なんか、お芝居を見ているような感覚でぐんぐん読み進めてしまいました。
第4章「人新世」のマルクスのところからがこの本の主題なので、それは読んだ人に任せるとして。

読んでいて圧倒的な絶望と共に、光を感じるような本でした。
90年代に環境を学んでいた時、そこにはただただ絶望があった。
「もう、間に合わないのではないか」と何度も思った。

僕が結論したアウトプットは、
「生命の循環の中に人を入れる」という農的暮らし体験の場「まきどき村」だったのだけど。

あれから20年以上が経ち、この本に光を観る。

脱成長コミュニズムに柱として、斎藤さんは5つ挙げる。
「使用価値経済への転換」「労働時間の短縮」「画一的な分業の廃止」「生産過程の民主化」「エッセンシャルワークの重視」
これは、自然豊かな小さな自治体でこそ、始められるのではないか、と思う。

この本の最後のほうに出てくるアメリカのかつての自動車工業都市「デトロイト」の事例。

自動車産業の衰退によって失業者が増えて財政が悪化し、2013年に破綻。街から人が消え、治安が悪化し、荒廃した状態の中から、都市再生の取り組みが始まった。そこで始まった取り組みのひとつが都市農業であるという。

野菜の栽培、ローカルマーケットでの販売、地元のレストランへの食材提供といった形で、住民のネットワークが再構築されていったという。もちろん、新鮮な野菜へのアクセスは、住民の健康維持にも貢献する。

~~~
うわー、まきどき村やるときに大きな影響を受けた「種をまく人」(ポールフライシュマン)の世界がまさにアメリカに実現してたんだ、ってちょっと感動。

そんなふうに取り組む小さな都市が連帯していくことだと斎藤さんは言う。
それでなければ、気候危機は乗り越えられないと。
むしろ、気候変動対策を柱に連帯できるのではないかと。
日本の小さな町だって、世界中の都市と連帯できる。

2014年「消滅可能性都市」が話題となった。
少子化によって、次世代を確保できなくなる都市という意味だった。
その多くは、主だった産業がなく、都市に人が流出してしまう町だった。

柏崎市高柳荻ノ島集落で「現代の百姓」を名乗る橋本くんを見ていると、
アップデートし続ける「百姓」という感覚と、コモンズ(共有財産)再生とが
合わさっている強さを感じる。

「消滅可能性都市」はそのまま「コモンズ再生可能性都市」へと変貌できる。

それがこの本に僕が見た光なのかもしれない。  

Posted by ニシダタクジ at 08:25Comments(0)日記

2021年02月10日

「学びの手段化」からの解放

クルミドコーヒーの影山さんが著書「ゆっくり、いそげ」のサブタイトルに
カフェからはじめる人を手段化しない経済と付けた。

参考:健全な負債感を持つという豊かさ(15.8.24)
http://hero.niiblo.jp/e472045.html

この本でのキーワード「健全な負債感」。

交換を「等価」にしてしまってはダメなのだ。「不等価」な交換だからこそ、より多くを受け取ったと感じる側(両方が感じる場合もきっとある)がその負債感を解消すべく次なる「贈る」行為への動機を抱く。

~~~

「健全な負債感」こそがお店に通い続ける人を生むのだと。
いやあ、その通りですね。

経済(経営)とは本質的に「継続して循環する」ことで成り立つ。

そこで読んで頂きたいのがこの本
何を考えているか分からないと、もう一度会いたくなる(17.1.24)
http://hero.niiblo.jp/e483798.html

「ビジネスに『戦略』なんていらない」(平川克美 洋泉社)

冒頭から
「現在」の絶えざる手段化こそビジネスの本来の面白さを殺ぐ原因。
と始まる1冊。

少し引用します。

~~~
言葉を持つ、火を使う、墓を持つということと同様に、人間を他の動物と隔てる条件のひとつが交換するということであり、それこそがビジネスの起源的な場所であるということです。

自分の演じているキャラと自分の個性との落差の不断の交換プロセスが、ひとりの個人のあいだで生起しており、同時に他者との間においても行われている。

ビジネスとはモノやサービスを媒介とした高度な非言語的なコミュニケーション。

ぼくたちはひとりひとりが大きな流れ、巨大なシステムの中の一部分であり、その中で限定的な役割を期待されています。

サーリンズは、人々は適切な等価交換が行われたように思われないときに、「もう一度であわなければならないと感じてしまう」と書いています。そして、それが沈黙交易の原動力である、と。

ユニクロがフリースを二千万着売ったのは、割安感ではなく、どうしてこんなに安いのか、その合理的理由がわからないという、考量不可能性がもう一度ユニクロに行かねば、という消費者サイドの焦燥感に点火したのではなかったか。

何を考えているかわからない、とどうなるでしょう?正解はサーリンズが教えてくれたとおりです。もう一度会わずにはいられないと思うようになるのです。
~~~

いいですね。ビジネスは恋愛に似ています。もう一度会わずにはいられないのは、「何を考えているか分からない」から。

僕はコミュニケーション志向性(世の中でいちばん大切なのはコミュニケ―ションだと考えてしまう性質)が強いので、このメッセージが特別響くのですけど。

これ、「ビジネス」や「経済」を「学び」に換えても同じように言えるではないか、と。

「現在」の絶えざる手段化こそ「学び」の本来の面白さを殺ぐ原因。
これなんじゃないか。

ビジネスと同じく、かつて「学び」も、「営み」の中の一部であった。「継続して循環する」ものであった。
近代は、資本制は、世の中の全てを「手段」と「目的」に分けた。

いつのまにか、「人」さえもシステムのために手段化された。
「学び」も例外ではなかった。

「学びの手段化」

なんのために学ぶのか?という問い自体が、非常に近代的であると思う。
「学び」も「人」も、いやその「人生」さえも、手段化されてきた。
夢や目標、「なりたい自分」に向かっている自分というわかりやすい物語を求めてきた。

マイプロジェクトを語る高校生の強さや輝きは、
夢や目標ではなく、問いに向かっているということ。しかも、到達し得ない問いに。
それは「学び」を手段化から解放していく。

いま、ここ、この瞬間に心と体も開放して、目の前に来る予測不可能な事態に対応していくこと。
たぶんそれだ。

かつて、つながるカレーの加藤さんの話を聞いた時、エンターテイメントの本質は、「予測不可能性」であると思った。
「予測できない」というモチベーション・デザイン(17.5.19)
http://hero.niiblo.jp/e484808.html

「学びの手段化」こそが「勉強」を苦役にしている。
それは大きく言えば、近代の呪縛であり、資本制の宿命なのかもしれない。

「勉強」という行為を、予測できる数値化された目標に向かう手段として認識し、かつ身体化していることがつらいのだ。

「学びの手段化」からの解放、それは、自ら設定した、心から湧き上がるような問いへ向かって、予測不可能性と過程を楽しむ学びへとシフトしていくこと。

それが探究の授業、あるいはマイプロジェクトの意義なのかもしれない。

あ、「意義」っていう概念が近代的ですが。笑  

Posted by ニシダタクジ at 08:26Comments(0)学び日記

2021年02月09日

「過程」としての学びと「手段」としての学び

なぜ人は本を読むのだろうか。
なぜ人は本を読まなくなったのだろうか。
なぜ人は本屋に行くのだろうか。
なぜ人は本屋に行かなくなったのだろうか。

そんな問い。
マイプロ関東summitで知り合った高校生のからの一言で、何か見えた

「確かに、本は学びの目的ではなく、過程という感じがしますね。本を開くまで何が書いてあるかは分からないですし、読むこと以上に、本からその人が何を考えて、得るのかが大切な気がします。」

それか!!

「過程」なんだなあ。
本屋に行くことも、本棚を眺めることも、本を読んでいる行為も。

目的ではなくて過程だ。
「〇〇のために」する読書は楽しくない。
「過程」であるからこそ、いま、ここ、この瞬間を楽しめるのかもしれない。

って思っていたところに

「結局「学び」の定義ってどこまで入るのでしょうか?私は、人生の経験そのものが学びのような気がします。辛くてもそこから得たものは学びなのかなと。そうすると瞬間だけを切り取れば必ずしも楽しいだけではないかもしれません。」

そうか!!

「一生学び続けるには?」と問うのではなくて、
「人生の経験=学びの舞台」にするためには?
と問わないといけないのか。

って。
そんな対話。

「過程」というキーワード。
それは、「営み」にも通じる。
そして、「機会として学ぶ」にも。

いわゆる「勉強」のつまらなさは端的に言うと、
(自ら設定したわけではない)目標に向かっての手段として勉強している(させられている)からであると言える。

マイプロジェクトをやっている高校生のプロジェクトという「まなび」の楽しさは、
自己の在り方生き方と一体的で不可分のテーマで(自ら設定した)目標(しかもその目標には到達点がない)に向かい、瞬間的には「機会」として、長期的には「過程」としてプロジェクトに取り組んでいる「まなび」にあるのではないか。

それは、その人の人生そのものであると言えるだろう。
だって、「過程」なのだから。

人生も学びも「営み」であり、「プロジェクト」はその過程の小さな点に過ぎない。
(「プロジェクト」:独自の価値を生むための期限のある業務)

目標のある「プロジェクト」として見れば、いまやっていることは、「手段」に過ぎない。
しかし、人生という「営み」からすれば、全てのやっていることは「過程」となる。

そして「過程」という感覚は、
「いま、ここ、この瞬間」というマインドフルネスと矛盾しない。

「過程」である今を生きる。

そしていまという「場」を動的に捉える。
いま、ここ、この瞬間をチューニングする。
「いつ、どこで、誰と」を確認しながら合わせていく。

そんな「過程」としての学び。

そんな学びを実現できる地域協働を創っていけないだろうか。  

Posted by ニシダタクジ at 08:34Comments(0)学び言葉日記

2021年02月08日

「存在」と「学び」の出発点としての被贈与







全国マイプロジェクトアワード関東summitでした。
昨年は現場に見に行ってました。

参考:自己の在り方生き方と一体的で不可分な課題(20.2.11)
http://hero.niiblo.jp/e490297.html

今年は新型コロナウイルス感染拡大の影響を受け、オンライン開催。
東京、行きたかったのですが、
全国summitへの出場選考を兼ねない発表会+ブラッシュアップ+交流
だったので、そういう意味では、雰囲気的にリラックスできていいのかもしれないと。

阿賀黎明高校2年のSくんのプロジェクト「釣りってなんだ!?」も
後半の2場目に8グループで発表しました。
途中で石油ファンヒーターの灯油切れサインがなるというアクシデント(笑)
にも負けずに、堂々と発表してました。

夏から半年、彼が動いていく中で、
たくさんの町の大人が応援・協力してくれたことをあらためて思い出しました。
動こうとした若者の背中を押し、応援する町なのだと感じました。

鮎釣りつながりで、夏のまなび体験会の際、午前中の釣り大会で釣った鮎を分けてくれたS課長。
糀漬した肉で燻製をつくりたいといったら、塩糀を分けてくれたY糀屋、
今度の夏、一緒に何かやろう、と誘ってくれ、温泉旅館「K会瀬」の女将、

summitの終了後、地元スーパーでほぼ毎週日曜日開催の豚肉特売(1g1円!!)を買い込んで、
先日SくんがもらってきたK会瀬の自家栽培の米を炊いて、焼肉パーティー打ち上げしました。
豊かな時間。

最後の交流会では、僕の興味関心で「なぜ学ぶのか?」っていう部屋へ。
「高校生コミュニティ相談室」の対話イベントが興味深くて、今度のぞいてみようかなと思いました。

あと、他の部屋の発表を見ていて印象に残った一言は,
「本で人を繋ぐ」プロジェクトのOさんが言っていた

「マイプロは等身大だよ」

かなあ。最後のコメントも「自分でもできるんだ」だったので
非常に印象に残りました。
そういうマイプロをつくっていきたいな、と。

人はなぜ学ぶのか?

僕はこのプロジェクトを通じて、
・すでに返せないほどの贈与を受けてしまった者だという自覚。
・この物語をつないでいかなければならないという使命感(勘違い)。
だと思った。

そしてそれが出発点となり、
贈り物を先に贈る(ペイ・フォワード)するために、
物語をつないでいくために、
人は学び続ける。

そしてその自覚や使命感は、
頭(脳内つまり言葉)だけでなく、心と身体を伴ったときに、
より強く感じられるのだろうと。

Sくんのマイプロは、「等身大」そのもの。
釣りを起点に、たくさんの人とつながり、プロジェクトが展開している。

昨日も、「なぜ学ぶのか?」部屋で、彼は鮎釣りの醍醐味を話していたのだけど、
「おとり鮎をいかに元気に泳がせるか」が大切で、
「アタリがあってから、手元に引き寄せ、確保するまで」の瞬間の魅力を熱く語っていた。

ああ、それって、「マインドフルネス」ってやつじゃん、って。
「いま、ここ」に集中して、言葉の世界から距離を置くこと。
自然という「営み」の中に入ること。自らを溶かすこと。
そこに「生きてる」感があるのかもしれないな。

釣りってなんだ!?っていう問いは僕にとっての問いでもあったんだな、と。

釣りは農と同じく、圧倒的な贈与でもある。
贈与を受けた者しか、贈与を送ることはできない。
だから、学びの出発点をSDGs的な「貢献」ではなくて、
被贈与におかないといけないのではないかと。

釣りも、糀も、蕎麦も、自然や微生物、植物からの圧倒的な贈与だ。
決して返すことができない。

川喜田二郎さんは、ふるさとを定義した。
「全力傾注して創造的行為を行った場を人はふるさとだと認識する」
その出発点に、僕は被贈与があるのではないか、と考えた。

あるのではないか、というより、あると強いな、と思った。

「すでに自分はもらいすぎている」
「だから自分はこの物語を繋いでいかなければならない」

そんな自覚と使命感。
そこに「存在」があるのではないか、と思った。
「存在する理由」と言ったらいいのか。

もらいすぎた贈与を先に贈らなければならない。
この物語をつないでいくのは自分しかいない。

その「体感」ができるかどうか。
頭ではなく心・身体で感じられるかどうか。

自然の少ない都市部においては、
その役割を「本屋」や「図書館」が担っているのではないか。
本好きであるということは、
本という次世代へのパスをもらいすぎている人であるということだ。

たぶん人は「等価交換」だけでは生きられない。生き続けられない。
「等価交換」ということは1回1回の取引で関係が終わる(清算される)ということを意味しているからだ。

それなら、交換する主体としての自分は、存在し続ける意味はあるのだろうか?
たぶんそんな、根源的な問いを、10代20代は抱えているのではないか。

だから、若者は、地方を目指す。
「ふるさと」と「存在」と「学び」を求めて。

自然豊かなこの町には、圧倒的な贈与がある。
「先に贈らなければならない」と支えてきた人たちがいる。

もらいすぎだな、と思うくらいの贈り物をもらう。
それを返すために全力を注いで創造的行為を行う。

「存在」は創造のエッジにあり、その創造のエネルギーは、
「被贈与」の自覚と物語の継ぎ手であるという使命感から生まれる。

これらは循環していくことで、ようやく自分は「存在」になり、そのまちは「ふるさと」になる。

「釣りってなんだ!?」

エキサイティングないい問いをありがとうございます。  

Posted by ニシダタクジ at 08:19Comments(0)学びイベント日記

2021年02月04日

「効率化」するチームから「対話と創造」するチームへ


「心理的安全性のつくりかた」(石井遼介 日本能率協会マネジメントセンター)

みなさんがオススメされているので。
すごく分かりやすいですね。

「はじめに」に書いてある
正解のあるこれまでの時代⇔正解のないこれからの時代
の対比から。(P9)

【人材・チーム】
優秀なチーム:早く、安く、ミスがない⇔模索・挑戦し、失敗や実践から学べる
必要な人材:言われたことがきちんとこなせる⇔変化を感じ、工夫や創造することができる
コミュニケーション:トップダウン⇔さまざまな視点からの率直な対話
【マネジメント】
目標設定の仕方:昨年対比で数%向上⇔現状の延長上にない意義あるゴール設定
予算の配分:選択と集中⇔探索と実験
努力の源泉:不安と罰を与える⇔適材適所と働く意味、そしてサポートを与える
チームへのスタンス:いま儲けろ⇔未来を作ろう

とこんな感じ。
「効率化」⇔「対話と創造」
って感じでしょうか。

この本で一番意識したいのが日本の心理的安全性の4つの因子。
(慶応SDMの前野先生っぽいまとめ方で好き)

1 話しやすさ「何を言っても大丈夫」
話す、聞く、相槌を打つ、報告する、目を見て報告を聞く、雑談する
★「報告」という行動自体を褒める

2 助け合い「困ったときはお互い様」
相談する、相談に乗る、問題を見つける、自分一人では対応できないことを認める、トラブルを楽しむ、ピンチをチャンスに変えるアイデアを出し合う、解決のためのアイデアを広く募る、個人ではなくチームの成果を考える

3 挑戦「とりあえずやってみよう」
挑戦する、機会を掴む、機会をつくる・与える、試す、実験する、模索する、仮説検証、改善する、工夫する、新しいことをする、変化を歓迎する、世の中・顧客の変化に直面する、挑戦自体を褒め歓迎する、失敗を歓迎する、現実のフィードバックを受け入れる、常識を疑う。

4 新奇歓迎「異能、どんと来い」
個性を発揮する、個性を歓迎する、強みに応じて役割を与える、常識に固執しない、ステレオタイプを避け、本人の行動を見る、月並みを拒否する、批判を一時脇に置く、自分自身のものの観方をフラットに共有する・される、違いを良い悪いではなくただ違いとして認める

心理的柔軟性の3要素(P96)

1 必要な困難に直面し、変えられないものを受け入れる
2 大切なことへ向かい、変えられるものに取り組む
3 それら変えられないものと、変えられるものをマインドフルに見分ける


思考=現実から抜け出す
「いま・この状況・この文脈で役に立つのであれば、その考えを採用する」
コントロールするのではなく、「受け入れる」


大切なことの明確化・言語化
大切なことへ向けた、具体的な行動

3 
「いま、この瞬間」への気づきと集中
「物語としての私」から「観察者としての私」へ

特にこの3のところ、
「マインドフルネス」ってそういうこと、ってあらためて考えた。

~~~ここから一部引用

問題は、言語が発達した私たち人間は、あまりにも「いま、この瞬間の体験」をすることが少なく、過去と未来、言語の世界を生きてしまっているということです。同じ景色を見ていても、言語を持つ人間は、すぐ「いま・ここ」に存在しない、過去や未来について考えてしまいます。たとえ、そうすることで実際には思い悩むだけで、役に立たない時ですらそうなのです。しかし、言語を持たない動物は、ただ世界を世界のまま見つめることができるのです。

マインドフルネスのポイントは、「いま・この瞬間に注意を向け、この瞬間の体験に気づいていること」と、そのために「言語の世界から距離をとること」です。

~~~

いやあ、そうだったんですね。
やっとマインドフルネスわかりました。

ニーチェのいう
駱駝⇒獅子⇒小児
とか日本の武道などでいうところの
「守」⇒「破」⇒「離」
に近いのかもしれません。

それがもっともその人やチームのポテンシャルを引き出すのだということでしょうね。

そして、探究プロジェクトのヒントになりそうなのは次の
「物語としての私」から「観察者としての私」へのところ。

~~~ここから一部引用
「物語としての私」とは、自己紹介をしてください、と言われた時の「私」のことです。私たちはごく自然に、名前、年齢、性別、学歴、所属、職業、スキル、表彰、実績、生き方、信念など、さまざまなものにこだわりを持って自分自身と「=(イコール)」で結びます。

「物語としての私」の主要な問題点は、「自分らしさ」や「キャラ」を守るために、役に立たない行動を続けたり、チャンスでも行動を変えなかったりすることです。自分自身に紐づく、固定化した行動パターンを続けてしまうのです。

「物語としての私」に固執することは、多くの場合、「3挑戦」を阻害したり、「2助け合い」の助けてもらう行動を取ることを阻害します。

「観察者としての私」とは、自分の思考や感情、感覚や記憶を、他人の思考や感情、感覚や記憶を眺めるかのように、距離をとって観察できるということです。
~~~

という感じ。
これって、「場」で解決するんじゃないか、って。

成果を生み出すのは個人でもチームでもなく「場」である。
と定義して、そこに参加する個人は「場」に溶けているような状態。

言語化領域と非言語化領域をつなぐキーワードで話したり、
「印象に残ったこと」を質問し、付箋で出していくことで、
「物語としての自分」と今出した意見を分離し、
いま、この瞬間の大切なことを判断し、動かす。

自分と「場」を行き来すること。
これができるプロジェクトが、心理的安全性が高く、
成果を生んでいくのではないか、という仮説。  

Posted by ニシダタクジ at 07:50Comments(0)

2021年02月01日

「プロボノ」募集します

1月3日から始めた2019~2020の2年振り返り(ブログ読み直し)終わりました。
2019年は「かえるライブラリー」とクルミドコーヒー影山さんとの対話から始まっていたんですね。「おでん」理論は「場」を考える上でとても大切になってます。

おでんに溶けるジャガイモになる(2019年1月~3月)
http://hero.niiblo.jp/e491316.html

6月には「柏崎・変態ツアー」開催。長沢さんの言葉。
いま、誰と出会えるかがそのまま会社の未来だ(2019年4月~6月)
http://hero.niiblo.jp/e491319.html

ロバート・ヘンライに心を撃ち抜かれた夏
仕組まれた自由に誰も気づかずに(2019年7月~9月)
http://hero.niiblo.jp/e491322.html

「教育はガーデニングに似ている」って言われた秋
プロジェクトという「庭」づくり(2019年10月~12月)
http://hero.niiblo.jp/e491327.html

「ブレスト」の本当の意味を知った2020年アタマ(コロナ前)
学びの土壌に興味のタネを蒔く(2020年1月~3月)
http://hero.niiblo.jp/e491331.html

そして、緊急事態宣言からスタートした2020年度。
二元論でも第三の道でもなく「あいだ」がある。(2020年4月)
http://hero.niiblo.jp/e491336.html

「学び」と「遊び」のあいだに「探究」がある(2020年5月)
http://hero.niiblo.jp/e491337.html

「主体的にやる」と「機会提供」のあいだ(2020年6月)
http://hero.niiblo.jp/e491338.html

経験をデザインするために「動詞」として捉える(2020年7月)
http://hero.niiblo.jp/e491343.html

「場の豊かさ」をベースに「場のチカラ」を発揮できるチームをつくる(2020年8月)
http://hero.niiblo.jp/e491362.html

「学び」ってなんだっけ?(2020年9月)
http://hero.niiblo.jp/e491363.html

で、この土日で一気に10月~12月やりました。宿題達成って感じです。達成感もたまには悪くない。
モチベーションの源泉(2020年10月)
http://hero.niiblo.jp/e491395.html

まなびはつづく・・・(2020年11月)
http://hero.niiblo.jp/e491396.html

この支配からの卒業(2020年12月)
http://hero.niiblo.jp/e491397.html

最後のほう、タイトルつけるのがめんどくさくなっていますが。
そして、コピペだらけで僕じゃないと読めないですね。10000字以上あります。
卒論で西田卓司の研究やる人にだけオススメします。

あらためて、振り返ってみると、探究学習コミュニティや新潟のマイプロLABO、完全オンライン化した取材インターンひきだし、イナカレッジと一緒にやった「はたらくくらすラボ」など、オンライン上での勉強会やワークショップがかなり効いているなと。

それも「実践する現場」があるからだなあと。高校生のマイプロのように、学校での学びと現場(フィールド)での学びを往還していくことで、「学び」がよりリアリティとエンターテイメント性を帯びていくような感覚があります。

ということは、東京にいてステイホームしながらも学んでいる20代の社会人や大学生たちもきっと、リアルな実践の場を必要としているのではないかと。

先日の北陸地方大雪の中、石川・七尾の「かえるライブラリー」のインターン生のキックオフ研修に行ってきたのだけど、その前日の金沢の雄・仁志出くんとの定番の餃子ミーティングで、プロボノの話を聞いていたので、新潟でもプロボノのプロジェクト設計してみたいなと。

「高校魅力化」「探究(プロジェクト)学習」「教育×観光」「旅行」「日帰り温泉」「本・書店・ライブラリー」「コミュニケーション・デザイン」「農業・林業」
こんな感じのキーワードを複数個お持ちの方、相談に乗ってください。  

Posted by ニシダタクジ at 08:25Comments(0)学び足跡日記