2021年06月29日
「人間関係」「コミュニケーション力」というトリック
「人類堆肥化計画」(東千茅 創元社)
またしてもすごい本に出会ってしまいました。
内臓をえぐるような言葉たち。
これが土に立っている人の強さか。
冒頭からこの一節にやられます。
「共生とは、一般にこの語から想起されるような、相手を思いやる仲睦まじい平和的な関係ではなく、それぞれが自分勝手に生きようとして遭遇し、場当たり的に生じた相互依存関係だと言えるだろう。」
そうなんです。
「多様性」と同じで「共生」も道徳なんかじゃない。
それが「自然」なのだと。
この本で久しぶりに川口由一さんの自然農の話が出てきたけれど、
24歳の時に聞いた川口さんのいう「自然」の定義を改めて思い出した。
「自然っていうのは、そうなるしかなかった、それが自然です」
まあこれは「シゼン」というよりも「ジネン」という概念なのだろうけど。
「人類堆肥化計画」に出てくる「堆肥」。
「継承は同じものの再生産を意味しない、状況は刻々と変わるのであって、同じことをくりかえすこと自体が肝要なのではない。ここでいう継承とは、多くの者を育み、生き物たちとの物語の生起しうる土壌を育みつづける営為のことだ。継承の積み重なりが堆肥となり、有形無形の作物を結実させるとわたしは信じる」
重なり、かかわり、朽ちて、つながっていくものなのだろう。
ステキだなあ。
特に印象に残ったのは、「人-間」(人と人のあいだにいるから人間)の話。
~~~ここから引用
考えてみれば、自立した個人にとって同種他個体が必要なのは、再生産のためだけである。個人の生存にとって常時必要なのは、同種ではなくむしろ異種たちの存在である。したがって、個人にとっては異種たちとの関係のほうが桁違いに切実であるはずで、異種関係をよりよく結ぶためにだけに同種関係はあるといってもいいくらいなのだ。
にもかかわらず、高度に分業化し、そのため個人の生が幾重にも間接化された社会では、同種関係のほうがより重要だと感覚されるのが慣例となる。分業は、個人の生の効率を向上させる。が、分業が高度化することで、本来異種関係に張られるはずの個人の存立の根は、同種関係に張られることになり、それが自明視されるにおよんでは、もはや生の効率化などといった目的は消え失せ、生きることは同種間でうまく立ち回ることでしかなくなる。いきおい、どこまでいっても異種によって支えられるしかない個人の生は迫真さを失い精彩を欠く。
~~~ここまで引用(第4章 土への堕落より)
「どこまでいっても異種によって支えられるしかない個人の生は迫真さを失い精彩を欠く。」
これです。生きるために本当に必要なのは、食べ物や暮らしを含め、人間同士の関係ではなく、野菜や米、木や水といった「異種関係」であるはずです。この少し前に出てくるけど「異種関係を豊饒化する手段としての人間関係。」なはずです。
東さんは、高度に分業化された社会によって、同種関係のほうがより重要であると感覚されている、という。しかも個人の生の効率化のために分業があったはずなのに、その目的も消え、「同種間でうまく立ち回ること」が生きることになってしまうと。
これ、めちゃめちゃ根源的な問いだな、と。
分業化され、サービス業化された社会。その上に立つ(あるいはそれを支える)「学校」というシステム。
そんな社会とシステムそのものが「生きること」を脅かしているのではないか?という問い。
「生きること」まで立ち戻って考える必要がある。
「人間関係」をどううまくやっていくか?
「コミュニケーション力」をどうつけていくか?
その問いはトリックである。
それが本質的な「生きる力」などでは決してない。
個人の生存にとって必要なのは異種との関係性である。
野菜や米と、畑や田んぼと、木や水と、森と川と。
どう関係をつくっていくか。
学校的に言えば、学校の中だけじゃなく異種である「地域」「営み」とどう折り合っていくか。
「地域で学ぶ」っていうのは、根源的にはそういうことなのだろうと思った。ひとりひとりの異種関係の営みが積み重なって、堆肥ができていき、それは次世代へとつながっていく。
その「継続・継承」していくという感覚に、個人の「存在」が生まれていくのだろう。