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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2021年06月29日

「人間関係」「コミュニケーション力」というトリック


「人類堆肥化計画」(東千茅 創元社)

またしてもすごい本に出会ってしまいました。
内臓をえぐるような言葉たち。
これが土に立っている人の強さか。

冒頭からこの一節にやられます。

「共生とは、一般にこの語から想起されるような、相手を思いやる仲睦まじい平和的な関係ではなく、それぞれが自分勝手に生きようとして遭遇し、場当たり的に生じた相互依存関係だと言えるだろう。」

そうなんです。
「多様性」と同じで「共生」も道徳なんかじゃない。
それが「自然」なのだと。

この本で久しぶりに川口由一さんの自然農の話が出てきたけれど、
24歳の時に聞いた川口さんのいう「自然」の定義を改めて思い出した。
「自然っていうのは、そうなるしかなかった、それが自然です」
まあこれは「シゼン」というよりも「ジネン」という概念なのだろうけど。

「人類堆肥化計画」に出てくる「堆肥」。

「継承は同じものの再生産を意味しない、状況は刻々と変わるのであって、同じことをくりかえすこと自体が肝要なのではない。ここでいう継承とは、多くの者を育み、生き物たちとの物語の生起しうる土壌を育みつづける営為のことだ。継承の積み重なりが堆肥となり、有形無形の作物を結実させるとわたしは信じる」

重なり、かかわり、朽ちて、つながっていくものなのだろう。
ステキだなあ。

特に印象に残ったのは、「人-間」(人と人のあいだにいるから人間)の話。

~~~ここから引用
考えてみれば、自立した個人にとって同種他個体が必要なのは、再生産のためだけである。個人の生存にとって常時必要なのは、同種ではなくむしろ異種たちの存在である。したがって、個人にとっては異種たちとの関係のほうが桁違いに切実であるはずで、異種関係をよりよく結ぶためにだけに同種関係はあるといってもいいくらいなのだ。

にもかかわらず、高度に分業化し、そのため個人の生が幾重にも間接化された社会では、同種関係のほうがより重要だと感覚されるのが慣例となる。分業は、個人の生の効率を向上させる。が、分業が高度化することで、本来異種関係に張られるはずの個人の存立の根は、同種関係に張られることになり、それが自明視されるにおよんでは、もはや生の効率化などといった目的は消え失せ、生きることは同種間でうまく立ち回ることでしかなくなる。いきおい、どこまでいっても異種によって支えられるしかない個人の生は迫真さを失い精彩を欠く。
~~~ここまで引用(第4章 土への堕落より)

「どこまでいっても異種によって支えられるしかない個人の生は迫真さを失い精彩を欠く。」

これです。生きるために本当に必要なのは、食べ物や暮らしを含め、人間同士の関係ではなく、野菜や米、木や水といった「異種関係」であるはずです。この少し前に出てくるけど「異種関係を豊饒化する手段としての人間関係。」なはずです。

東さんは、高度に分業化された社会によって、同種関係のほうがより重要であると感覚されている、という。しかも個人の生の効率化のために分業があったはずなのに、その目的も消え、「同種間でうまく立ち回ること」が生きることになってしまうと。

これ、めちゃめちゃ根源的な問いだな、と。

分業化され、サービス業化された社会。その上に立つ(あるいはそれを支える)「学校」というシステム。
そんな社会とシステムそのものが「生きること」を脅かしているのではないか?という問い。

「生きること」まで立ち戻って考える必要がある。

「人間関係」をどううまくやっていくか?
「コミュニケーション力」をどうつけていくか?
その問いはトリックである。
それが本質的な「生きる力」などでは決してない。

個人の生存にとって必要なのは異種との関係性である。
野菜や米と、畑や田んぼと、木や水と、森と川と。
どう関係をつくっていくか。

学校的に言えば、学校の中だけじゃなく異種である「地域」「営み」とどう折り合っていくか。

「地域で学ぶ」っていうのは、根源的にはそういうことなのだろうと思った。ひとりひとりの異種関係の営みが積み重なって、堆肥ができていき、それは次世代へとつながっていく。

その「継続・継承」していくという感覚に、個人の「存在」が生まれていくのだろう。  

Posted by ニシダタクジ at 07:46Comments(0)学び

2021年06月27日

「委ねる」という愛

オンライン劇場ツルハシブックスでした。
ゲストは広島で読書会を主催する杉本さん。
オンラインツルハシの原点に返るような、素敵な会になりました。

「場」ってなんだっけ。
自分はどこに立っているんだっけ。
そんな問いが何度も来ました。

カッコイイ人=問いの質が高い人
っていうのも素敵な定義だなあと。

印象に残ったのは「課題の明確さ」みたいなのって
分かりやすいけど、なんていうかな、美しくないっていうか。
それって、「委ねる」部分の少なさ、なのかもしれない。

本屋の最大の魅力は、「委ねられること」だと思う。
http://hero.niiblo.jp/e488702.html
(本屋は「委ねる」 19.1.10)

「学び」という文脈でもそうだ。
A地点からB地点(目標・ゴール)まで直線的に向かうことを
サポートすることがいわゆる「教育」そのものだと定義されている。

あるいは、「自分を変えたい」とか今回のテーマである
「自分の軸を見つけたい」みたいな文脈で行くと、
経験を踏まえて自分が変わったり、自分の軸を見つけたりすること
が「学び」であるとする。

それって何か窮屈というか、美しくないんだよね。
人や人生を変えるような教育やプログラムはやりたくない。

やりたいとしたら、
「問い」が生まれるような本屋をやりたい。

プログラムを用意するのではなく、
環境を整え、機会をひたすら提供したい。
(プログラムが機会であったりするのだけど)

だから「場」なのだろうと思う。
誰とやるか。どこでやるか。いつやるか。
もっとそれをカラダで感じたい。
身体性を大切にしたい。

カラダとココロを「場に委ねる」。
それが愛するということなのではないか、と杉本さんは言う。

読書会をやっていて、
「いま、生きててよかった~」と思える瞬間がある。
本を読んでいて、
「よくぞ、このタイミングでこの本を」と思える本がある。

それは「委ねる」ことの後に、あるいは同時に
起こっていくのかもしれない。

「委ねる」の美しさ。身体性。愛すること。
そんなキーワードをもらった会になりました。  

Posted by ニシダタクジ at 06:45Comments(0)学びイベント思い

2021年06月24日

世界が輝いて見える1冊


「進化思考」(太刀川英輔 海士の風)

読み直し始めます。
冒頭の序章「創造とはなにか?」が2度目なのにすでに激アツです。

~~~
本当にすごいデザインは、人とモノとの新たな関係性を生み出す。

すると古くから、建築家とは「人とモノとの新たな関係性を生み出すひと」で、「専門領域など存在しないようにふるまっている」ことに気づいた。古来から創造性を発揮してきたデザイナーたちには、現在のような専門分化した姿はなく、ただ創造性を発揮するための技術と思考があった。

デザイン領域の専門分化が進んだのは高度経済成長期以降のことで、むしろその頃からデザインはこぢんまりと矮小化し、社会運動としての勢いを失ってしまったように見えた。

今の私たちの生活を構成しているのは、多くの無名の人たちによる連鎖的な創造によって、たゆまぬ改善を積み重ねてきた結果ではないか。誰が作ったのかわからず、それを誰かが改善する。その繰り返しが世界を創ってきた事実が、すでに創造は個人によってなされるという私たちの思い込みを揺さぶる。
~~~

「プロジェクトベースドラーニング(PBL)」の重要性が叫ばれているが、
プロジェクトの定義とは、「プロジェクトとは、独自の製品、サービス、所産を創造するために実施される有期性の業務である。」(PMBOKより)

これを読み解き、「プロジェクトとは、目的・目標を期限内に達成する業務」と定義している場合も多い。
しかし、大切なのは、「創造」の部分ではないのか?

問うべきは、期限内に目標を達成したか、ではなく、
そのプロジェクトは独自の何かを「創造」しているか?ではないのか?

「授業」もプロジェクトのひとつのように見える。
限られた時間の中で、目的・目標を達成するための「活動」であるからだ。
しかし、「プロジェクト」の定義からすれば、
そこに「価値」があるとしたら、「創造」というキーワードが必要だ。

プロジェクトは「創造」する。
その創造のためのツールが、ワークショップ手法であり、フィールドワーク(体感)である。

上に引用した最後の一節である
「今の私たちの生活を構成しているのは、多くの無名の人たちによる連鎖的な創造によって、たゆまぬ改善を積み重ねてきた結果ではないか。誰が作ったのかわからず、それを誰かが改善する。その繰り返しが世界を創ってきた事実が、すでに創造は個人によってなされるという私たちの思い込みを揺さぶる。」

そう。「創造」は個人単位ではなされないのだ。
人と人、環境、社会、時代など関係性によって、
「創造」は起こり、「創造」はつづいていく。

そうするとさきほどのプロジェクトの定義である、
「創造」と「期限がある(有期性)」は両立しないことになる。

僕は「まなびの創造」をテーマに、高校生も地域の大人も「場」に溶けだして、その場を夢中になって楽しんでいたら、気がついたら「変容」していた、という仮説を採用しているが、

そのような「場」の目的は「創造」することであり、そしてそのベースには「発見」がある。毎時間毎時間の小さな共感や違和感、印象に残ったことが高校生にも地域の大人にも「発見」を生み、それが「創造」につながるかもしれない、というワクワクがモチベーションの源泉になるような「場」づくりをしたいと思っている。

その「まなび」は期限内に終わらない。何かが「創造」されれば、物語は続いていく、または新しい物語が始まっていく。「進化」的に言えば、変異が起こり、その適応に向けた物語が始まる。「まなびの創造」も個人によってはなされない。だからこそ楽しいし、だからこそ「場」をつくる意味がある。個人は創造する「場」の構成員として確かにそこにいる。

また、読み進めていくとして、先にラストの100ページから。

「未来はどこにある?」という子どものような問いに答えてくれる本でした。
そして、読み終えたら、ワクワクがとまりません。

世界が輝いて見える1冊。
そんなキャッチコピーを本屋のPOPに立てたい。

「創造」はどこから起こるか?を生物の進化の根源である「変異」と「適応」の両輪で説明してくれるロマンチックな本。

ラスト衝撃だったのは、幼児教育の提唱者フレーベルのところ。

~~~
「すべて天地間の万物の中には、一つの永久不滅の法則が存在し、これが万物を生かし、しかも、これを支配している。その法則は、外界すなわち自然にあっても、内界すなわち精神にあっても、また内外両界の生命にあっても、同時に常に明瞭に現れている。」(フリードリヒ・フレーベル「人間の教育」1826)

私たちの受けている教育の基盤には、進化という自然の叡智から教育を抽出した思想がすでにあったのだ。
その「永久不滅の法則」こそが「進化思考」すなわち変異と適応の往復から生まれるという進化の構造なのである。

フレーベルは幼児教育だけでなく、さまざまな教育に対して多大な影響を与えた。

ゲーテの自然哲学からフレーベルの教育、そしてバウハウスに至る、近代の創造性の進化。現在のあらゆる教育に絶大な影響を与えたのも、生物の進化に宿る創造性の原理だったのだ。
~~~

現在の教育の出発点には、自然の叡智があったし、「創造性」というキーワードがあった。
いつのまにか、それが「効率性」へとシフトしていった。

「目標を達成する」学びだけではつまらない。
「価値を創造する」学びをつくっていくこと。

それが、いわゆる「探究学習」の大きな意味なのだろうと思う。

「まなびの創造」。
そんなことが実感できるプロジェクトを一緒にやらないか。  

Posted by ニシダタクジ at 07:46Comments(0)学び

2021年06月23日

ともに、つづく


「菌の声を聴け」(渡邉格・麻里子 ミシマ社)

7年前に、「田舎のパン屋が見つけた腐る経済」を読んで衝撃を受けて、
すぐに会いに行ってしまったタルマーリー。

イタルさんにお会いして、智頭町への移転とビール造りの話をした。
僕が20代の頃ビール屋さんにお世話になったこともあって、少しだけ話題について行けた。

その時の日記。
http://hero.niiblo.jp/e454625.html
(軽やかなる革命 14.10.18)

読書ブログはこちら
http://hero.niiblo.jp/e449775.html
(休みとは、休むためではなく感性を磨くためにある 14.8.1)

その後、16年には智頭町にお邪魔して、パンを頂いた。

写真は麻里子さんと。

今回のこの1冊を読んでも、やっぱり「カッコいいな」と思う。
なんていうか、軽やかなんだよね。
そして、軽やかでありながら、源流を追い求める姿勢がすごい。

今回は、小麦の話をご紹介します。
第五章 11 パンの源泉1 原料より

~~~
私はパンの源泉に気づくまでには長い時間がかかった。それは修業時代から「それだけで美味しい」と感じられる完成形を目指す癖がつき、その流れに乗り続けていたからだと思う。

このように完成形を目指してきた日本のパンは、さまざまな料理と一緒に合わせるという文化を育ててこなかったように思う。そして源泉であるパン生地の基本材料を追求するよりも、菌の純粋培養技術や、製パン性を高める小麦の製粉技術や品種改良といった方向に向かった。

そもそもの製粉やパン作りの源流は、「土からの恵みである小麦を、粒のままでは消化しにくいから粉にして美味しく食べる」というものだったはずだ。しかし資本主義社会は、「できるだけ速く製品化できる製パン性の高い小麦粉」という目的地へと流れを変えた。純粋培養菌による速い発酵に対応した製パン性が高い小麦粉とは、「非常に細かく粒度が揃っていて早く均等に水が浸透する、かつ酵素が失活した状態」という結論になった。いわば小麦粉も動的ではなく、静的な状態が好ましいというわけである。
~~~

そして12 技術と道具より

~~~
タルマーリーのパンとビールを完成させるためにも機械化は重要だが、生産性向上のための機械が氾濫している中で、機械選びには慎重になる。かぎられた資金で、私が機械に求めるのは汎用性があるかどうかだ。

私はこれまでの経験から、人間の手の延長という感じの機械を使いたいと思う。日々のモノ作りで、環境の変化を感じながら、仕上がりがブレる原因を五感で感じたいし、私とモノの「あいだ」に入る機械に、五感を邪魔されたくないからだ。
~~~

いやあ。
すごいですね。
カッコいい!!
って叫びたくなるような1冊です。

今週末のオンライン劇場ツルハシブックスのテーマの1つが
「自分の軸」なのだけど。

学校や、仕事や、人生という短い時間軸で考えるのではなくて、
イタルさんのように、動いていく中で源流を見つけていくこと。
モノや道具の「そもそも」を考えること。

そして、自分の人生よりもずっとずっと長い
「営み」という時の流れにに身を委ねてみること。
そこから始まるのかもしれないと思った。

最終的には、自分の感性にたどり着くのだけど。
この本はパンの話だけれど、「学び」にも共通するものを感じる。

共同体が共同体として生き延びるために「学び」があった。
ひとりひとりの個人を共同体の「成員」として育てる必要があった。
共同体のひとつが地域社会であり、老舗商店であり、武士の家系であった。

その「共同体」の規模が「日本」という規模になり、
かつ時間があまり残されていない、という状況の中で、
「効率的に」「均質な人」を育てるシステムが生まれた。

「学び」とは、ある意味「道具」である。
これまでは「学び」という「道具」の役割を特化し、効率化してきたのではないか?

「なんのために学ぶのか?」
が哲学的問いではなく、功利的な問い(これを学ぶとどんなメリットがあるんだ?)に
なってしまったのではないか。

汎用性のある道具としての「学び」
それは人間の五感を妨げない。

共同体が生き延びるため、創造的な何かを生み出すために、ひとりひとりの感性を活かす道具として「学び」がある。
その創造のエッジに、個人のアイデンティティが形成されていく、というのは僕の持論ですが。

イタルさん、マリさん、ミシマ社さん、素敵な本をありがとうございました。

「ともに、つづく」
そんな言葉が浮かびました。

「自分の軸」の、「自分」も「軸」も忘れて、
まわりとともに、つづいていく営みの中に身を委ねていく。
感性を研ぎ澄まし、技を磨き、何かを生み出す。
その繰り返しがつくっていくもの。

それを見てみたいのです。  

Posted by ニシダタクジ at 08:18Comments(0)学び

2021年06月21日

「心」に代わる何か


「あわいの力」(安田登 ミシマ社)

こんな本があったんですね。(2014年刊)
完全に見落としていました。

福島のbooks&cafeコトウさんありがとう。

サンクチュアリ出版営業時代、営業先の金沢の本屋さんが言っていた
「目の前に来た時が新刊」を思い出しました。
今こそ、って感じだし、余白デザイナー必読の一冊。笑

能楽師のワキ方という視点から、
すごい問いをガンガンと投げ込んでくれます。
芸術家ってすごいなあ。

詳しくは本書を読んで頂くとして、本日は、
いちばんすごかった「第六章:甲骨文字から「心」の誕生に迫る」から。

甲骨文字ですよ、甲骨文字。亀の甲羅とか牛の肩甲骨とかに書かれていたあれです。
紀元前1300年(いまから3300年ほど前)の甲骨文字で書かれた文章を解読していきます。

甲骨文字を解読しながら、まずは「占い」について。
かつて骨や甲羅に錐で穴をあけて骨を焼き、骨にヒビを入れ、そのヒビの入り方から問いの結果を読み解くという占いが行われていました。そのヒビの形の象形が「ト」という字です。なるほど、だから「占い」っていう字に「ト」が入っているんですね。

占いは三つの作業から成り立っています。
ひとつは、問いを発すること。二番目が「ト」。最後に「ト」の結果を読み解いて答えを出す。
自分の力でやれるだけやって、考えるだけ考えて、それでも答えが出ない問題、それを問うのが「占い」です。

そして、「心」の誕生の話です。
甲骨文字を読み解くと、どうも「生け贄」の話らしい。
その頃に文字を使っていた方には「心」と「時間」があり、
生け贄にされるほうには牛と同じく「時間」という概念が無かった。
「時間」は「心」から生み出される。つまり、「心」がなかった。

「心」がなければ、未来に自分が死ぬかもしれないという恐怖心を抱かずに
人は死ぬものとして、当たり前のこととして受け入れる。

~~~ここから一部引用

人間は「心」を得たことで、時間というものの存在を知り、未来を変える力を手にしました。

「心」によって、過去・現在・未来という時間の流れを感知することができるようになりましたが、人間は時間そのものを見ることも、それをコントロールすることもできません。その結果、人間は、過去に対する後悔や悲しみ、未来への不安や恐怖を感じるようになり、ヘタをするとそういう感情に押しつぶされそうになっていきます。それが「心」のもたらした副作用です。

それをなんとかしようとしたのが、孔子であり釈迦であり、イエス・キリストです。
三人の思想には多くの共通点がありますが、もっとも重要なことは「信じる」ことが彼らの思想の基盤になっていることです。

「文字」があるから、人間は過去を知ることができ、過去から現在への時間の流れを想像することで、未来という存在しない時間についても思いを巡らせることができるようになった。つまり、孔子と釈迦とイエスの考え方は、時間と信仰がベースになっているのです。

~~~ここまで引用

な、なるほど。。。
「心」と「時間」か。
考えたこともなかった。
すごい問いだなあ。

ということで、この2000年ものあいだ、
孔子や釈迦、イエス以上の人が現れておらず、
現代は「心」の副作用がピークに達していると言います。
(この本は2014年刊行ですから、いま、2021年はさらに、な感じがします)

このようなことを踏まえて、著者は以下のように続けます。

~~~

そろそろ「心」に代わる何かが生まれないと、人類がいま直面する苦しみから逃れられることはできません。「心」の最大の欠陥は、時間の流れに対しては無力であることです。それを補うような新しい何かを得たときに、人類は次のステージに進むことができると思うのです。

そのために、「心」が生まれたときのことを、私たちは一度、きちんと見据えたほうがいいと思っています。

「心」が生まれてくる流れを振り返ってみると、そこには必ず「文字」の存在があります。「文字」を獲得した人類が、思考や言語を二次元で表現・記録することができるようになった。それによって過去という時間を目で見ることができるようになり、時間の流れを間接的に感じることができるようになったのです。

つまり、「文字」が「心」を生み、「時間」をつくり出し、「時間」を知った人類が感じるようになった不安と向き合うために、孔子や釈迦やイエスの思想が生まれたのです。ということは、「心」に代わる何かが生まれるためには「文字」に代わる何かが、その前に生まれる必要があるということです。

~~~

壮大な問い。
しかし、問わなければならない問いだし、実践していく必要がある問い。

「心」に代わる何かとは?

僕は「場」であり、「創造性」であり、「弱さ」だと思っています。  

Posted by ニシダタクジ at 08:02Comments(0)

2021年06月07日

二人称的アプローチとアイデンティティ


「学びの脱中心化~知的冒険としての学校教育研究」(田本正一編 大学図書出版)

いつも素敵な本を紹介してくれる小林さん、ありがとうございます。前回の「高校教員のための探究学習入門」に引き続いて、この本。勉強家の先生は、こういう本を読んでいるんだなあと。

面白いです。各パートの「はじめに」に書いてある理論がめちゃめちゃ面白いです。実践のところはパラパラっと読み飛ばしていますが、ワクワクします。さすが「知的冒険」

「正統的周辺参加論」とかは大学のインターンシップや課外(地域)活動などの文脈でも使われている先生いましたが、本買っただけで読み進められず、今回この本で初めて理解しました。ありがとうございます。

まずはそもそも、学びとは、コミュニケーションとは?
のところから。(まえがきと第1章より)

~~~
人間の知性を内面にとどめるのではなく、身体から観客、さらには他者との協働によって、外部との相互作用の中に認める。したがって、知識や技能、能力は個人の内面に認めることはできないと考えるのである。

一般的には行為は自律した個人の意志によって決定されると考えられている。しかし、状況論では、行為は状況との相互作用によって決定されると捉えるのである。行為が状況を構成し、一方で状況が行為を決定するのである。

コミュニケーションは、他者、社会、環境との関係性で成立するもので、個々の内的で皮相的な知識や能力だけでは成立しないのである。

語源は、激しく揺れ動く現代社会で視点を失わないための大切な「定点」である。言葉が生き方・考え方として文化を最もよく伝えるものであるとすれば、語源はその発想を最もよく表すものであるからである。語源を知ることによって、中核的意味とたまなく変化する表面的意味の距離をはかることができる。

コミュニケーションは他者との関連性、集団内での相互の関連性で成立するもので、個と個、個と集団、集団と集団間での行為である。それは一方的な伝達行為ではなく、また、相互伝達行為であっても、他者や集団、環境との関連性を認識したものでなければ、適切なコミュニケーション行為とはいえない。

つまり、コミュニケーションとは、コミュニティにおける行為であり、コミュニティとの関連性で成り立つものである。コミュニケーション力は異文化対応力、異文化適応力と捉えることができる。
~~~
なるほど。
「コミュ障」とか「コミュニケーション力がない」っていうのがおかしい表現であることがわかりますね。


そして、「正統的周辺参加」のところ
第5章「ラーニング・パートナーとの協働的な学び(野田英樹)」より

~~~
状況論によれば、学びは他者や道具と相互に関わりながら具体的な文脈の中で成立するものであり、特定の状況を無視しては成立しないとする。また、あらゆる言葉や行為は状況に埋め込まれており、特定の行為は特定の状況においてのみ意味や価値を持つとみる。もし状況が異なれば、同じ行為であったとしても、その意味や価値は異なるのである。つまり、状況と切り離してそれらの意味や価値は決定できないのである。さらに、行為も状況も構成したり強化したりすることから、行為と状況は相互構成的であるとする。

状況学習論は、学びとは参加を通して何者かになること、つまりアイデンティティを形成することであるとする。実践の共同体への周辺的な参加(新参者)から、十全的な参加(古参者)へと成熟していく過程においてアイデンティティが形成されることこそが、学びであるとするのである。正統的周辺参加論といわれるこのような考え方は、従来の学習観とは大きく異なる。刺激と反応に基づく学習論や、個人単位で効率よく情報処理を行うことが学習であるという立場とは明らかに異なるのである。

正統的周辺参加論に基づき、新参者としての市民から、少しずつ熟練者としての市民へ市民らしく成長していく過程は、大人同様市民としての言動や振る舞いを身に付けていく過程とも言えよう。換言するならば、より良い社会築いていくことができる適切な行為や言動を身に付けた、市民社会における市民としてのアイデンティティの形成していくような学びである。
~~~
出てきました、アイデンティティ。
ここで注目したいのが「実践の共同体」という表現。

今まで、「共同体」を静的なものとして捉えすぎていたかもしれない、と。動的なものとして共同体を捉え直し、新参者としてその共同体に参加し、行動を積み重ねる中で少しずつフルメンバーになっていくこと。
それってどんなシーンでも起こり得るなあと。

そして今日のメインは第8章「学びの基盤としての二人称的かかわりとその阻害(山信史子)」。
これ、かなりキマした。

~~~
異なる歴史的、文化的背景をもつ者同士が、様々な共同体の中で互いを作り上げ、よりよい未来を創造していくためには、「あなた」と「私」という二人称的なかかわりを基盤とした対話が必要である。そして、その場その時の対話によって生み出され育まれるものは、「あなた」にも「私」にも還元することはできない。それは自己と他者、そしてそれを取り巻く環境との相互作用によって、共に作り上げたものであるからである。知識や学力もまた、このような関係性の中に形成されるものであって、いずれか一方の還元されるものでも内化されるものでもないのである。

高等学校では(中略)大学入試や就職試験などのゴールに向けて知識を内化することが学習であり、各学校が特色に応じて生徒の進路実現を果たすことを使命としている。そして多くの教師がこのことを無自覚に受け入れている。どのような力が身についたかということよりも、どれだけ高い点数を取らせることができたかが焦点化され、生徒と教師のかかわりは三人称的である。

二人称的アプローチを学習の場で捉えたとき、キーとなるのは「情動をもったかかわり」「応答性」「対話」「共有」である。「対話は、台本を書くことも、あらかじめ決めておくことも不可能である。対話のなかには、そこにかかわる人が誰も知らない道を歩んでいくという可能性を秘めている」対話が「真正」であるためには、双方の対話に「他者に聞き入ることと応答することの誠実さ、さらに、予想もしない結果に開かれることの勇気」が必要であると述べている。

自己と他者、自己と環境とが共に世界を作り上げていくことによって、新しい世界が構成される。それは対話的な学びによって可能になる。つまり、学ぶということを通して人間は自己を変容させ、新たな世界を形成していくようになるのである。そこで重要になるのが他者の存在であり、対話である。自己と他者ととが、互いに情動を伴った応答をしながら対話に没入し、互いを非主題化していく過程は、ソクラテスの時代にまでさかのぼる。

真なる対話による学びとは、「あなた」と「私」という二人称的かかわり学習によって果たされるのである。

文化は、あるありようであり続けるためには、対話とともに、かかわることが必要である。さらに対話とかかわりは、それは必然的に文字化できないし、オープンな(開かれた)ものであり、文化的実践を固定し持続させると同時に、それらを変えるものでなければならない。学びを文化的実践と捉えるならば、対話と情動的なかかわりによって、自己と他者、そして環境のあり方そのものが作り変えられるのである。ここに「二人称的アプローチ」を学習に援用することの意義を見いだすのである。
~~~

ううう。うなりますね。二人称的アプローチ。
昨日のブログの「応えなければならない」というか、そういう感じ。
「対話」の重要性も、予測不可能性という面白さも、すべてつながってくる。
学習空間における「疎外」とは、まさに三人称的な関係性の中で起こるのではないかなあと。

その原因はおそらくは「効率化」でしょうね、と。
二人称的アプローチ、つまり「対話」とかって、非常に非効率だし、厳密に文字化はできないし、非科学的で、非効率的ですもんね。

山信さんは評価についても、次のように語る

~~~
「現在行われている学習評価は、学習の責任は子どもたちの努力の度合いに還元されることを意味し、数値によって測定され序列化されることであるという排他的な競争原理を表している。また評価は客観的なものでなければならないという考え方も根強くある。

だが、ここで本当に考えなければならないのは、評価の客観性ではなく学習における評価の妥当性、信頼性であり、それが誰にとって果たされるべきなのかということである。

学習の成果は生徒の側にも教師の側にも還元できるものではなく、互恵的関係性の中で生み出されるものである。それは生徒と教師、あるいは生徒同士の二人称的かかわりや、環境との相互作用を通してはじめて立ち現れるものである。
~~~

それそれ。そもそも、何のために「評価」があるのか?
麹町中(当時)の工藤校長のように、その問いに立ち返らないと行けない。
それを考える時に学びは誰のものか?という根本的な問いにも突き当たる。

学びは「場」に創造される。
その学びは必ずしも個人に還元されない。

昨日の地域みらい留学オンライン合同説明会でもたくさんの高校が、
「こんな環境で、こんな授業で、こんな地域の人と一緒に学びませんか?」と呼びかけた。
「都会の高校に行くより楽しいよ」と。

それはもちろんそうなのだろう。
またはそのような学校を創造するべく歩んでいるのだろう。

しかし。そもそも学びは誰のモノか?を考えるならば、学びの目的までさかのぼるならば、それは共同体が(実践の共同体)運営・維持・発展するため、ということになる。(共同体の時間軸は多様で、ひとつひとつを動的なモノとして捉えたほうがよさそうではあるが)

だから。
「この学校に来れば、こんな環境があり、地域の大人がいて、ここで学ぶことで、あなたはこんな卒業生に成長できる。」
っていう文法ではなくて、

あなたと、わたしと、他の生徒と、地域の人と、地域の環境と、高校や中学校と、従来的な学校システムと、、、

そのあいだに「場」をつくり、まなびを創造しよう、と。動的な共同体における1メンバーとして周辺的参加者から中心メンバーへと歩んでいこう、と。

その「まなびの創造」のエッジに、あなたとわたしのアイデンティティが形成されていく。
まあ、これは仮説だけどね。

一緒にまなびをつくらないか?
と呼びかける、そんなプレゼンテーションができたらいいのだけどなあ。  

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2021年06月06日

「応える」べき問い


「自由になるための技術リベラルアーツ」(山口周 講談社)

山口さんの前著「ビジネスの未来」の問い、
「ビジネスはその歴史的使命をすでに終えているのではないか?」
もすごかったけど、今回も、問いがすごいなと。

「アートの目的とは、問いを投げかけること」
だとすれば、山口さんの本はアートだなあと思います。

今回もラストに、前著を踏まえてのシビれる問いがありました。
「では、ビジネスゲームの終了した社会において、私たちは何をして生きていけば良いのでしょうか?」

たぶん、この問いに応えなければ生きていけないのだろう。
それは「答える」のではなくて、まず「応える」んだ、と。

「まなびの場」に携わるということは、この問いにひとりひとりがまずは応えなければならないのだろう。その先にひとりひとりの、あるいは共同体としての「答え」があるし、その「答え」は仮説に過ぎず、実践の中で試行錯誤していきながらブラッシュアップされていくのだろう。

この本も素晴らしいエッセンスにあふれています。
少しだけ抜粋しますと

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量的なモノサシではなく、数値化できない一人ひとりのコナトゥス、自分が自分らしくいられることや、自分の心が生き生きと躍動する感覚など、もっとも大切な価値を発揮していくこと。

早く見つけ、遅く行動し、粘り強く主張し、潔く譲歩する。(イギリスの知恵)

文明は取り入れてきたけど、文化や精神性は変えずにきたというのが遣隋使時代からの日本のあり方。

リベラルアーツの「リベラル」は非規律、非訓練、非体系化という意味。

ハーバード大学は牧師養成から始まった。牧師にはリベラルアーツが不可欠。教会に来るあらゆる人々に説教しなければならないからだ。

修行とはまず「自分」というものを否定し、捨てることから始まるからです。自分を捨てて、自分のことがわかるまで至ること、そのためにリベラルアーツがある。セルフアウェアネス。それこそリーダーにもっとも必要なこと。

儲からないかもしれないけれど正しい、好きだということにおいてイノベーションが起きるわけです。

そう考えると起業家精神とは価値判断のことなのだとも言えます。客観的なデータではよくないと出ているが、主観的に「これは絶対に善い」と判断し、その責任を取る覚悟で新しいプロジェクトが実行できるかどうかです。

PDCAではなく3つのP
まず、過去のデータを用いて、過去の延長がどうなるんかを予測する(Predict)
次に、過去の延長と現実との乖離、「兆し」と呼びますが、これを特定します(Perceive)
そして、乖離が起きている対象に対し優先的に行動を起こす(Prioritize)
という3つのPを継続して繰り返すことが、変化の激しい時代に対応する方法として有効です。

大切なのは、perceiveすること。受け入れること。
兆しを捉えて変化を機会に変えること。

人と話す、本を読む、旅に出る。
この中で旅に出るだけが一次情報に触れることができる方法。
創造性は人生における累積の移動距離に相関する。

目の前の世界を「そういうものだ」と受け止めてあきらめるのではなく、比較相対化する。そうすることで浮かび上がってくる「普遍性のなさ」にこそ疑うべき常識があり、リベラルアーツはそれを見るレンズとしてもっともシャープな解像度を持っているのです。

リーダーの仕事は異なる専門領域の間を行き来し、それらの領域の中でヤドカリのように閉じこもっている領域専門家を共通の目的のために駆動させることにあります。専門領域外について口出ししないという、このごく当たり前の遠慮が、世界全体の進歩を大きく阻害しているということを我々は決して忘れてはなりません。

東海道新幹線を開発する際、鉄道エンジニアが長いこと解決できなかった車台振動の問題を解決したのは、その道のシロウトであった航空エンジニアでした。このとき「自分は専門家ではないから」と遠慮して、解決策のためのアイデアを提案していなかったらどうなっていたか。そしてまた、今日の世界において「自分は素人だから」という引け目から発言しないことで、どれほど多くの社会変革の契機が機会損失となっているか。

世界の進歩の多くは、領域外のシロウトによって提案されたアイデアによって実現されています。

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いいですね。なぜリベラルアーツなのか?がよく分かります。
そして、今回さらにピックアップしたいのは、ヤマザキマリさんとの対談のローマ帝国の部分。

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「迷惑」という言葉は適切に英訳することがものすごく難しくて、一体、迷惑というのは何なのか、考えてしまうことがあります。迷惑を受けるというのは捉え方の問題であり、現代の日本人は迷惑をかけられることに対して不寛容になっているのではないか。

山口さん:「ローマ帝国のユニークなところはシビライズ(文明化)するけれどカルチャー(文化)は残す、征服した地域の土着の宗教や文化を全部受け入れる戦略をとったところですよね。」

ヤマザキさん:「そうです。「Clementia(寛容)」が帝政ローマの一貫したテーゼでした。帝国のテリトリーを増やすときには、「君たちの文化を壊さないし、信じている宗教をやめろとも言わない。ただローマという文明を新しく受け入れて、舗装道路を敷き、古代ローマの神殿を建ててもらいたい」という姿勢で臨むのです。ローマが提供した文化で属州民に喜ばれたものの代表例が浴場ですね。そういった姿勢が巨大帝国を形成できた要因の一つだったのだと思います。「寛容性」というのはいろいろな意味で強力な武器になり得るのです。

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いやあ、これ。
「探究シフト」の話に通じるよね。
この本にも教育については、以下のような記述があります。

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「役に立つ」と「意味がある」
製造業というのは「役に立つ」ものをつくる仕事で、サービス業は役に立つことだけじゃなく「意味がある」ことやストーリー性といったことが重視されます。

「レヴィ・ストロース以降の文化人類学者が繰り返し証明しているように、人間は生まれ育った数十年の社会の意識を反映している存在です。そう考えるといまの日本人は、戦後の製造業の工場モデルに過剰適応してこういう性質を持つようになった」と説明しなければいけないと思います」
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これ、教育がいまだに製造業を志向しているから、若者が「役に立つ」の呪縛にかかっているのではないか。多様性の許容は「役に立つ」のではなくて、「意味がある」のだし、そもそも「学び」は「役に立つ」から学ぶのではなくて、「意味がある」から学ぶのだよ。

だから「対話」して「探究」しなきゃいけないのだけども。
それを現時点での学校システムと対立構造で語ってはいけないのですよ。(soceity3とか4とか5論みたいに)

「探究」なのか「学習指導」なのか?どっちが大学進学にとって有利なのか?みたいな対立軸で語らずに、ローマ帝国のように「寛容」をテーマにして、文化的にもうまく折り合っていくことが大切なのだろうなと。若新雄純さん風に言えば「創造的脱力」だろうと。

その上で、最初の問いに戻る。

「では、ビジネスゲームの終了した社会において、私たちは何をして生きていけば良いのでしょうか?」

かつて、ドイツの現代美術家ヨーゼフ・ボイスは「社会彫刻」:あらゆる人々は自らの創造性によって社会の問題を解決し、幸福の形成に寄与しなければならない。と語った。(本書より)

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「では、ビジネスゲームの終了した社会において、私たちは何をして生きていけば良いのでしょうか?」

この問いに応えるためには、私たちは「そもそも人はどのように生きるべきか?」「良い『生』あるいは『社会』とはそもそもどのようなものか?」という問いに対して答えなければなりません。

社会彫刻という言葉になぞらえて表現すれば、どのような社会をつくりたいのかという「作品の構想」を描くことが必要になるのです。このような問いに対して答えを出そうとすれば、そこには自ずとリベラルアーツが求められることになります。

なぜなら、このような大きな問いに対して答えを出そうとすれば、いま現在私たちが依存しているシステムをいったんは相対化しなければならないわけですが、そのような相対化の技術こそ、まさにリベラルアーツが提供してくれるものだからです。
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壮大な問い、しかし、答えなければならない、いや、まず「応えなければならない」問いが目の前にある。
僕たちはひとりとして、また共同体として、この問いに応えなければならない。

学校とは、探究とは、学びとはそもそも何でしょうか?
ビジネスゲームが終了した社会において、学びはどんな意味を持つのでしょうか?
なんのために学ぶのでしょうか?
そのために地域は、地域の大人は、地域資源は、何ができるのでしょうか?
大人たち自身も、何を描き、どんな道を歩んでいくのでしょうか?

実は僕たちもわからないんだ。だから、多様な15歳がこの町に必要なんだ。
大人も子どもも高校生も、多様が集まる「場」と「機会」をつくるんだ。

本日「地域みらい留学」合同説明会2日目です。よろしくお願いします。
https://c-mirai.jp/schools/18  

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