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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2021年08月16日

「勉強」という乗り物

雨だったのでいろいろ乱読。読み終えたのはこの2冊かな。


「読書からはじまる」(長田弘 ちくま文庫)


「日本哲学の最前線」(山口尚 講談社現代新書)

なぜ「本/読書」なのか?
なぜ「まなび」なのか?
そんな問いの海をプカプカと浮かんでおりました。

「読書からはじまる」の
第2章は「読書のための椅子」。

その本をどんな椅子で読むか?
ってとても大切な問いだなあと。
空間として椅子にこだわりたいなあと。

そして「日本哲学の最前線」では、
大好きな國分功一郎さんの「中動態」の話から始まって、
6名の哲学者たちの現在進行形な哲学のベクトルが示されている。

テーマは「不自由とどう向き合い、真の自由を手に入れるか?」だ。

今日はこの本の第三章 偶然の波に乗る生の実践‐千葉雅也『勉強の哲学』より。

キーワードとして押さえておくのは「非意味的切断」。
~~~
意味的切断が「情報を集める作業をここで打ち切るのがベストだ」という意図に導かれながら情報収集をやめて次の行動に移る過程」のことを指すのに対し、非意味的切断とは、「真に知と呼ぶに値する」訣別ではなく、むしろ、中毒や愚かさ、失認や疲労、そして障害と言った「有限性(finitude)」のために、あちこちを乱走している切断である。
~~~(本書より引用)

そして「非意味的切断は現に偏在する」と指摘し、「私たちは偶然的な情報の有限化を、意志的な選択(の硬直化)と管理社会の双方から私たちを逃走させてくれる原理として『善用する』しかない」と説明する。

そして、ここから「勉強」の本質を鋭くえぐる。

~~~
勉強は、意外かもしれないが、本質的な点で意図のコントロールが役に立たない。なぜなら《いま取り組んでいる物語が自分をどこへ連れていくか》は勉強するものにとっては前もって知られないからである。それゆえ勉強は〈自分の求めていたものを得る〉という行為ではない。むしろそれは〈そうでなかった自分に成る〉という生成変化である。そして自己変容の過程にとって偶然性の波に乗ることは無視できない有用性を持つ。

例えば「勉強の完璧主義者」は一冊の本を最初から最後まで通読しようとするかもしれない。とはいえこれは勉強を「苦行」にしてしまう。(中略)そして―多くの人が経験から知るとおり―勉強においては、一冊の本をある程度読み進めて「これ以上はいけないな」と感じると別の一冊に向かう、というやり方のほうが享楽も多く意欲も持続する。

勉強を続けるには、<不意に読めなくなったときに警戒に中断してとりあえずイケる本を開くという柔軟な姿勢‐すなわち非意味的切断を受け入れる姿勢‐こそが重要になる。偶然性を嫌わないこと。そして偶然性が却って面白いものを生み出すのではないかという希望をもつこと。こうした態度は勉強の効率性だけではなくその創造性も増しうる。
~~~
「勉強」とは乗り物なのだな、と。しかもそれは行き先が分からず、生成変化し続ける乗り物なのだ、と。

さらに「不自由」からどう脱出するかについても「勉強」が有効だとする。
※ノリ=コード(規範)のこと。
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或る職場に身を置き、そこで仕事を学ぶとは《こういうときにはこうするものだ》を身につけることである。数年かければそうしたことを一通り体得できる。とはいえ勉強は続く。例えば取引先のやり方がよさそうだと感じたとき、自分たちの従来のノリを放棄し、向こうの作法を取り入れてみる。そうすれば新たな何かが生まれるかもしれない。

勉強とは、<特定のノリから自由になる>というプロセスだ。曰く、「私たちは同調圧力によって、できることの範囲を狭められていた」こうしたノリの束縛を脱する過程が「勉強」なのである。

とはいえ、いかに特定のノリから自由になっても、一切のノリから自由な境地に至ることはできない。特定のノリから自由になることは、別の(特定の)ノリのうちへ入ること以外でありえない。それゆえ勉強は解脱や脱自などの「垂直的」運動ではなく、生成変化という「水平的」運動である。
~~~
「越境」の意味とはそういうことか、と。
そして勉強の結果起こるのは「成長」なんかではなく「変化」に過ぎないのだと。

このあと本書は千葉さんの具体的方法として「アイロニー」(一歩退いた姿勢)と「ユーモア」(コードをズラす発現)

そして「こだわり」について。
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こだわりとは、何なのでしょう。
何かの作品、あるキャラクター、味や色、言葉などへのこだわりをもっている。それがなぜ自分にとって重要なのか、ある程度なら理由を説明できるかもしれません。しかし、こだわりとは、この身体にたまたま生じたもの、何か他者との偶然的な出会いによって生じたものであり、根本的に言って理由がない。こだわりには、人生の偶然性が刻印されている。偶然的な出会いの結果として、私たちは個性的な存在になるのです。
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そうだよね。いまの自分っていうのは、まさに「偶然≒非意味的切断」の産物なんだよ。
5年前から今を目指して努力してきた直線の延長上には自分はないんだよね。

だから、人は「勉強」するし「読書」するんだよね。
生成変化の「過程」にある自分として。

ラストに「読書からはじまる」の最終章から「分ける」と「育てる」、そして「蓄える」というキーワードを。

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今日の暮らしをささえている仕組みというのは、大雑把に言えばモノを生産し、製造する。そして生産され、製造されたモノが物流し、流通していって、日々の土台というべきものをつくっている。その伝で言うと、読書というのは生産・製造に似ています。そして情報というのは物流・流通に似ています。

簡単に言ってしまえば、読書というのは「育てる」文化なのです。対して、情報というのは本質的に「分ける」文化です。

「育てる」文化と「分ける」文化というのは拠って立つものが違います。「育てる」文化の基本は、個性です。「分ける」文化の基本にあるのは平等です。今日の世界に広くゆきわたったのは平等の文化の景色です。

この国が情報社会として「分ける」力をつけるにつれて、逆に、教育社会としての「育てる」力をなくしてきたのは、ある意味では、当然の結果です。

「育てる」文化と「分ける」文化のあいだには、その真ん中のところにもう一つ、繋ぐちから、繋ぐ文化がある。それが「蓄える」文化です。
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このあと、「蓄える」文化の担い手として、いつの時代も図書館があり、図書館をのあり方について問いかけてきます。

この「分ける」と「育てる」、そして「蓄える」は、「産業」だけでなく、いわゆる「教育」や「学び」のジャンルにおいても、「まちづくり」のジャンルにおいても、同じことが言えるのではないでしょうか。

いつのまにか本は「情報」を運ぶ箱に過ぎなくなった。
分けられ、選ばれ、消費されるものになった。
図書館カードは通帳化され、貸出冊数が見える化された。

民間図書館や小さな本屋さん古本屋さんをやる人たちっていうのは、そんなふうに「情報」として、分ける文化としての本ではなくて、育てる文化、蓄える文化の担い手としての場になることの大切さを本能的に感じている人たちなのではないか。

本は「育てる」し読書は「蓄える」。
そして本のある場には、千葉さん的に言えば「偶然≒非意味的切断」がある。

そうやって人は「越境」し、「生成変化」し、新たな自分となる。
その「過程」をただ、歩んでいるだけなのかもしれない。

まず「越境」するために「勉強」という乗り物が必要なんだな。  

Posted by ニシダタクジ at 08:55Comments(0)学び日記