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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2021年08月18日

「他者」と出会い、困難なコミュニケーションを立ち上げ「調和」していく


「生きづらさについて考える」(内田樹 毎日新聞出版 2019年刊)

昨日に引き続きこちらの本から。
「痛快」です。切れ味が好き。

まずは「グローバル人材育成」についてバッサリ
~~~
日本の学生に際立って欠けているのは、一言でいえば、自分と価値観も行動規範も違う「他者」と対面したときに、敬意と好奇心をもって接し、困難なコミュニケーションを立ち上げていく意欲と能力だということです。

しかし、生きてゆく上できわめて有用かつ必須であるそのような意欲と能力を育てることは、日本の学校教育においては優先的な課題ではありませんでした。学校で子どもたちが身に付けたのは、自分と価値観も行動規範もそっくりな同類たちと限られた資源を奪い合うゼロサムゲームを戦うこと、労せずしてコミュニケーションできる「身内」と自分たちだけに通じるジャルゴンで話し、意志疎通が面倒な人間は仲間から排除すること、それを学校は(勧奨したとまでは言わないまでも)黙許してきました。

でも、その長年の「努力」の結果、「あなたたちはグローバルマインドがない」という否定的な評価を海外から下されてしまった。学校生活を無難に送るために採用した生存戦略が、皆さん自身の国際社会における評価を傷つけることになったわけです。
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く~~~。
そうなんですよ。そうなんですよね。
「学校」なるシステムに「適応」しすぎるとそうなっちゃうんです。

さらに、その教育が生み出すエリートについて原発事故を題材にバッサリ。
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エリートたちは受験秀才です。彼らの仕事は正解を答えることであり、誤答を嫌います。誤答するくらいなら黙っている。でも、危機というのは「資源がない、情報がない、人員がない、時間がない」という状況のことです。そのような状況下で最適判断を求められると、受験秀才はフリーズしていまう。そういう訓練を受けたことがないからです。

彼らは決断するに先立って、その判断の法的根拠や上司からの指示や「言い訳」をまず探します。「このように判断したことには十分な根拠がある」という条件が整うまで、秀才は何もしない。その間に、もっとも貴重な資源である「時間」は不可逆的に失われてしまう。そして、危機とはまさに時間が失われるにつれて採りうる選択肢がどんどん減っていく状況のことなのです。
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自分で考えて、自分で決めて、自分で行動する。
危機において、それを最も短い時間でやらなければ、最大の資源である「時間」を失ってしまう。

それを鍛えるに受験秀才ではないんですね。
何度も(規模の大小はあれ)危機(ピンチ)対応をしている経験が必要なのです。

最後に、それらを踏まえて「自由」と「調和」について。

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日本人にとって、気が楽になるとか、心が落ち着くとか、肩の荷が下りた気がするとかいうのは「自由を達成した」からではないんです。すべての外的な干渉を退けて、自分の思いの通りのことを実践するということを日本人は本当は望んでいない。だって、そんなの大変そうですから。それよりはほっとしたい、気楽でいたい。

集団の中にいると、さまざまな相互に矛盾したり対立したりする要請を調整しなければならないということがあります。それがうまく折り合って、「落としどころ」に話が落ち着いたときに、日本人は解放感と達成感を覚えます。理不尽な要求をされても、身勝手なことを言われても、それでも、あちこち走り回り、あちらの顔も立て、こちらの言い分も通して・・・というような困難な調整を果たして、もろもろの干渉が相互に相殺されて、一種の「ニュートラル」状態を達成した時に日本人はなぜか深い満足感を覚える。これはどう考えてもヨーロッパ的な「自由」とは似ても似つかぬものです。

ユーラシア大陸の辺境に位置する日本列島には、外から次々と新しい集団が到来し、新しい文物が流入しました。そして、そのつど対立せず、排除せず、折り合いをつけてきた。「そちらにはそちらのお立場が、こちらにはこちらのメンツが。どうです、一つナカをとって・・・」というのが日本における問題解決のもっとも成熟したテーマでした。
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そうか。
民族の地理的歴史的にね~。
こういう話面白いですよね。

茨城大学時代に公開講座で聞いた
日本にやってきた5つの移民の話を思い出しました。
これからのキャリアと縄文と弥生の関係(15.10.16)
http://hero.niiblo.jp/e473674.html

そうなんだよね。
日本人は「調整」してきたし、大切なのは「調和」だった。

このあと、爆笑な部分(あるある話)がふたつ。

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サンデル教授の「ハーバード白熱教室」ってありましたけど、日本人だったら、「さあ、正解はどっちだ」と切り立てられたら、「まあそう言わずに、どうですお茶でも一杯」というかたちで「白熱しない」方向に誘い込もうとするんじゃないでしょうか。

でも、日本人はちょっと違う。「いや~悪いねえ。どう、今回はちょっと泣いてくれない?いや、悪いようにはしないよ。次には必ず埋め合わせするから」みたいなやりとりのことを「仕事」だと称している。欧米のビジネスマンだったら、「そのどこが仕事なんだよ」と怒り出すでしょう。
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爆笑。めちゃ面白い。あるあるですね。
「そのどこが仕事やねん!」って関西弁でツッコミたい。笑
そしてそれは、地理的歴史的に仕方ないと内田さんは説明します。

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でも、それはしょうがないと思うんです。「相容れない立場をなんとか折り合わせる能力こそが列島住民たちが生き延びるために優先的に開発してきた資質なんですから。列島住民はそういう生存戦略で2000年くらいずっとやってきたわけで、いまさら変えろといわれても無理ですよ。
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そうなんです。「他者と折り合いをつける」っていうのを生存戦略的に採用してきたんです。

ということで、最後に我田引水して終わりますけども。(いつも)

実は(危機的な・・・今まさにそんな状況ですが)社会で求められるのは、「英語がバリバリ話せて言われた仕事が最高速でできる」秀才型エリート人材などではなく、

「自分と価値観も行動規範も違う『他者』と対面したときに、敬意と好奇心をもって接し、困難なコミュニケーションを立ち上げていく意欲と能力」を持った人であり、それは、(程度の差はあれ)危機的な何度も繰り返すことによって身につけることができる。

しかし、それは学校のような同質性集団の中だけでは育むことが難しい。だからこそ東京から地方に出て、たくさんの「他者」と出会えることを望んでいるのではないか。

さらに、そもそも地理的歴史的に私たちは「調和」「折り合い」を大切にするという生存戦略をとってきて、そういう文化を築いてきた。それが同質性集団の中では、むしろマイナスに働くのだろう。

だから内田さんの言うような「学校で子どもたちが身に付けたのは、自分と価値観も行動規範もそっくりな同類たちと限られた資源を奪い合うゼロサムゲームを戦うこと、労せずしてコミュニケーションできる『身内』と自分たちだけに通じるジャルゴンで話し、意志疎通が面倒な人間は仲間から排除すること」

「他者」に出会うこと。そこで違和感を感じながらも、敬意と好奇心をもって、困難なコミュニケーションを立ち上げていくこと。

それには「学校」だけじゃなく「地域」が必要なんだと。
そう直感した人たちが「地域みらい留学」のトビラをノックしているのではないか、というのが私の実感です。  

Posted by ニシダタクジ at 08:03Comments(0)日記