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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2021年08月29日

キミはどう読んだ?







細井岳さん。通称ガクさん。
山頂で本を売る杣Booksを仕掛ける。
https://www.instagram.com/somabooks/

僕の知り合いの中ではもっとも「常人」じゃないなと思う人。笑
「問いを投げかける」という意味では僕よりはるかにアーティストだと思う。

昨日はオンライン劇場ツルハシブックスでした。
第1部の杉本さんと三宅さんとの生物としてのヒト視点の話からの
第2部の細井さんでした。

あらためて衝撃と爆笑の60分だったので、ここに記録しておきます。
~~~
1「本はキケンなもの」

冒頭のくじびき1質問から。「加齢臭はなぜクサいのか?」
いいですね。それは生物的な種の存続の理由なんですね。
第1部とつながりました。(笑)
細井さんがやっている質問は「質問」(田中未知)に触発されて始めたものだという。

真に受けて、行動する。これを細井さんは「誤読」であり体を使った「冗談」だと表現する。
4年越しの日本橋「本との土曜日」で言っていた「ぜんぶ冗談なんすよ」の解説。
たしかに本読んだ人がみんな真に受けて具体的行動・表現をしたら、世の中はキケンなものになる。
一方で自己啓発書的なモノは売れなくなるだろうけど。

杣ブックスのミッションは「本をキケンなものにする」こと。
いやあ、いいですね。
僕もそんなキケンな本屋になりたい。

2「シゼンとジネン」

誤読して、体を使って、表現(行動)することは自然なことだと細井さんは言う。
自然はシゼンではなくて、ジネンのほうだと。
自(おの)ずから然(しか)り。

目の前に来たものを受容し、反応し、外に出すこと。
それをいちばん真っ当にやっているのがシゼンと読む方の自然だし、
人間は生命として、そこに憧れるのではないか、と。
「くう、ねる、のぐそ」だと。(伊沢正名さんの本より)

言葉を替えれば「委ねている」ということ。
ああ、たしかに。委ねちゃうってことだ。

細井さんは「あきらめたいんです」って言ってた。
あきらめるの語源は「明らかにみる」こと。
ジネンで、受け入れて、そして「空」であるということ。
そこには「自分」という存在はとけてしまっている。

3「誤読行動体験文」

「ウムヴェルト」(五十嵐大介)から環世界の話に。
人によって、感覚受容器が違うから、同じことを聞いても読んでも、感じ方が違う。

だからこそ、本を読んだら真に受けて行動することだ。
本を読んでいると、どんどん世界を俯瞰して見れるようになるのだけど、
その上でちっぽけな存在として表現(行動)すること。
その位置エネルギーの落差を行動に替えることだと。

なるほど。本を読めば読むほど、位置エネルギーはたまっていくから、
それをうまく排出しないといけないわけですね。

細井さんが言う、「真に受けてやってみた」っていうのは、そういうことなんだ。
だから、夏休みに本に親しむためにやることは、
「読書感想文」ではなくて、「誤読行動体験文」であるべきなのでは、と。
~~~

いやあ、面白い。真っ当な本屋だなあ、細井さん。
僕自身のテーマでもある「自分」とか「意志」とかいう話で盛り上がったのだけど、まさにそういう話をするにはバッチリなトーク相手でした。

「ある」ものとしての自分が何者かに「なる」ために向かっていくのではなく、
常に「なりつづけている」存在としてのわたしがあるということ。

昨日のわたしと今日のわたし。
この本を読む前と読んだ後のわたし。
それらはずっと変化し続けているんだと。

だから「自分」というのはあくまでその一瞬を切り出した存在であり、
実際それを切り出すことは不可能。
それは時間軸としてもそうだし、空間軸としてもそうだ。
わたしを時の流れ(変化し続けるもの)や場(環境)から切り離すことはできない。

ジネンを生きることで「自分」という呪縛から解放されたと細井さんは言っていた。
その感覚をどう得ていくか、なのだろうなと。

そのためにできることは、
本を読んだら「真に受けて表現(行動)すること」
それがジネンの始まりなのかもしれない。

話をしていて、僕が真に受けた3冊の本が浮かんだ。


「沙漠緑化に生命を賭けて」(遠山正英 阪急コミュニケーションズ 1992)

進路がまったく決まっていない高校3年の夏に図書館で見つけて「沙漠緑化」は大成建設のCMを見て以来の夢だった「地図に残る仕事」だ!と思い、俺も生命賭けるぜと、鳥取大学農学部を第1志望に⇒農学部という選択肢のきっかけに。


「種をまく人」(ポールフライシュマン あすなろ書房 1998)

24歳の時に京都の塩見さんに贈ってもらい読んだら電流がかけぬけ、「畑でこんなことができるんや!」と誤読。就職するよりも畑をやり、この世界を実現することの方がはるかに大切だと「まきどき村」の発足に向けて準備を始めた。


「小説 吉田松陰」(童門冬二 集英社文庫)

27歳のときに不登校の中学3年生に出会い大きな問いをもらって、もやもやと考えていた2年後にこの本に出会う。獄中を学びの場に変えてしまった「野山獄」のエピソードに衝撃を受けて(真に受けて)これや!!「学び合いで希望は生まれるんや」と思い、すぐに山口県萩に向かい、野山獄後を確認し、墓前に線香を供え、桜の中を登校していく小学生の列に、「安心して大人になってくれ、おっちゃん頑張るからな」と祈った。

うん。
いま考えてみると、とんでもない誤読だわ。

と、こんな感じで今朝振り返ろうと思っていたら、細井さんから朝5時台にメッセージが。

~~~
感覚受容器として取り込み吐き出されてしまう「誤読/冗談」。当然、他者に「読まれる、読んでもらう」なんて事はないと思うのです。だって意味わからないですからね。これが「諦め」のもう一つの側面です。

しかし、何故か、ごくごく稀に「俺の誤読」を読んでしまう人、もしくは共鳴してしまう人が出てきます。例えば、山の上で杣Booksに会ってしまうとか(笑)本日の質問を受け取ってしまうとか。

たぶん、それは「奇跡的な事」でそうそう起こる事じゃないんです。故に「有り難い」のです。奇跡なんてそうそう起きるもんじゃねーと「諦め」ているから、「誤読」が出てしまっても、それを気に病まない。裏返して言うと、奇跡を「諦め」るからこそ、奇跡を信じられる訳ですね。
~~~

そうか。ジネンであることと今ここにある奇跡は両立するのだと。

細井さんはきっと、これからも本を読み、誤読し、冗談としての表現(行動)を繰り返していくのだろう。

細井さんに出会って、うっかり本を買うという誤読。
共感も誤読だし、違和感も誤読だ。
だって冗談なんだよ、最初から。

誤読し、真に受けて、やむにやまれぬ行動をしちゃっただけだ。そこには相互作用を受ける「場(空間)」と「時間」があるのだろうと思う。
その「場(空間)」と「時間」に、(奇跡的)にうっかり足を踏み入れてしまったときに、誤読のチャンスが生まれ、表現(行動)が始まるのだ。

本屋とはなんとキケンな場所なのだろうと。
そして、細井さんがやっていることはなんと「真っ当な本屋」なのだろうと。

細井さんは今日もその存在から問いかけてくる。
僕はこう読んだ(誤読した)んだけど、キミはどう読んだ?  

Posted by ニシダタクジ at 08:51Comments(0)日記