2021年08月31日
酋長として生きることを選択する

「お金の学校」(坂口恭平 晶文社)
今日も紹介していきます。
経済学部の大学生は必読の一冊。
第6章まで来ました。
経済とは「流れ」である、と。
ということで、今日は第6章から
~~~
経済の語源って知ってますか?経世済民という中国語です。「世を直し、民を救う」という意味です。つまり「大丈夫、きっとうまくいくよ」と声をかけてあげるのが、経世済民ってことです。つまり、これが経済なのです。お金=経済=「大丈夫、きっとうまくいくよ」と声をかけてあげること。
不景気とはつまり「お前はダメだ」と自分で言い聞かせていることなんですよ。
楽しい仕事=経済。恩恵によってはじまったあれこれが、大丈夫、きっとうまくいくという言葉の波に乗って、どこまでも流れていきます。経済の発生です。
英語の経済「economics」の語源は、oikosとnomosという二つのギリシア語から来てます。oikosとは共同体をあらわします。nomosは法です。つまり、英語のeconomicsは、大雑把に言うと共同体のルールってことです。これが経済ってことです。つまり、経済=楽しい仕事=世を直し、民を救う=共同体のルール
経済とは流れです。流れが起きて、それが楽しく心地よいものであるならば、止まることはありません。だからこそ、常に交渉し、常に心地よくするための環境を整えていく必要があります。でもその作業こそ、一番楽しい作業なので、もうどうにも止まらないのです。
~~~
いいですね。
こういうの経済学部では教えてくれるんだろうか。
経済とは流れであり、お金=経済だけど、それだけが経済じゃないと坂口さんは言います。
だから「流れ」をつくり、「流れ」に乗ること。いいですね、この感覚。
身体性とか、全体性とか、東洋的な何かを感じます。
最後に、第6章からこの言葉を。
経済とはまずは自分を救うということである。
そうすることで新しい共同体の気配に気づくことができる。
そしてその共同体の酋長として生きることを選択する。
それが経済である。
(中略)
酋長とは何よりも気前がいいってことです。そして、器用とは、知的な面で気前がいいってことなんで、つまり、気前がよくムッチャ器用なやつ、っていうのが酋長であり、それが次の経済そのものっていことなんです。
~~~
いいですね。
サンドウイッチマンさんが「ちょっと何言ってるかわからない」って言いそうですけど。
感覚的に非常にヒットしますね。
まず自分を救い、自分という共同体を自覚する。
新しい共同体の気配に気づく。
「流れ」を生み出すきっかけをつくる。
それが「経済」なのだろうな。
酋長として、生きていく。
お金だけが経済ではない。
たくさんの「流れ」を生み出して、それが結果的にお金経済をも動かしていく。
そんな感覚、なんとなくわかるなあ。
2021年08月30日
誤読して行動し、冗談で企画書を書く
杣ブックス細井さんとの対談から丸1日以上たった今も、胸に残るキーワードがある。
誤読、そして冗談。
4年前、日本橋の「本との土曜日」で細井さんが言っていた「ぜんぶ冗談なんすよ」っていう言葉がやっとわかった。(誤読だけど)
人は皆、誤読する自由を持っている。
いや、というより、ひとりひとりが異なる感覚受容器を持っているのだから、「誤読」は前提である。
「本を真に受けて、行動する。」
その行動は誤読に基づいていて、だからこそ「冗談」なのだ。
逆に言えば、本は誤読する自由をくれる。
それは教科書にはない(あるけども要素としては少ない)ものだ。
取材インターンひきだしでのキーワードである「違和感」「違和感の表明」の難しさはそこにあるのかもしれない。
本はキケンなものだし、本屋はキケンな場所だ。そこには誤読し、行動に移してしまうようなアブない本たちがある。
そんな「誤読する自由」を味わうのに、例えば中学生高校生なら、どんな本を読んだらいいのだろう?
いま見えている世界が唯一の世界ではないかもしれない。
そんな本。
やっぱり坂口恭平さんの
「隅田川のエジソン」(幻冬舎文庫)と
「独立国家のつくり方」(講談社現代新書)
かなあと思う。
そんなことを思っていたら、目の前に入ってきた本。

「お金の学校」(坂口恭平 晶文社)
久しぶりに読んだ坂口節が、細井さんからもらった問い(というか違和感)に
合っていたので少し紹介します。
~~~
経済とはあらゆる流れの総体であって、一つの流れだけを指すのではありません。
今、人々は経済を一つの「お金の流れ」と断定してしまっています。しかし、実際はいろんな流れがあります。
もちろん、経済もまた自然のものです。だから植物みたいに、切っても、別のところから生えてきます。人間の合理性と植物の合理性はまったく違います。植物の合理性によるツルの生え方、伸び方は人間の合理性から捉えると矛盾そのものになります。植物は切られても平気です。むしろ喜んで伸びていきます。踏まれることも切られることも腐ることも全部喜びに変えちゃいます。そんなふうに合理性もまた自然界には無数に存在しています。経済もまた然りなのです。
重要なのは、自分が必要だと思うものを、楽しく流れを感じながら獲得することです。楽しくないところには、流れが発生しません。つまり、そこにはお金は生まれるかもしれないけど、経済は発生しません。
~~~
経済とは「流れ」である、と坂口さんは言います。
細井さんの本を真に受けて(誤読し)、行動(表現)すること。って、ここでいうところの「流れ」のような気がします。
オンラインツルハシの第1部で話した生物としてヒトっていうのにも通じてくるような気がします。
そこで、坂口さんから提案があります。
「企画書を書け」です。
お店をつくりたいと思ったら、
理想の場所はどこか?を考え、その場所の家賃がいくらか?を実際に不動産屋に行って問い合わせ、図面を書いてみる、ということ。お客さんの客単価はこれぐらいで、毎月の売り上げがこれくらいになるから、なんとかやっていけそうだな、と。
これ、いいじゃん。中学生高校生にめちゃめちゃオススメ。
「マイプロ」って結局こういうことなのではないか、って。
自分だけの企画書を書くっていうこと。企画書を完成させることではなく、企画書をつくっていくプロセスに学びがあるということ。
その企画書づくりは、「誤読」から始まるのではないか、っていうこと。
教科書やSDGsのような「正解」から始まらないのではないか、っていうこと。
いや、始まってもいいと思うけど、そこに楽しさや坂口さんの言うところの「流れ」があるか?っていうこと。
大切なのは、「誤読」する機会をたくさん持つこと。真に受けて、行動し始めること。
だから、本があり、地域の大人がいて、さまざまな課題がある。
それらは教科書と違い誤読を前提としている。「誤読」しかないんだ。
「誤読」して行動し、冗談で企画書を書く。それを繰り返す。
高校時代、大学時代にやることってそういうことなのではないか。
その入り口をつくっていくキケンな本屋を、僕はつくっていきたいのかもしれない。
安西先生、そんな本屋がしたいです。
誤読、そして冗談。
4年前、日本橋の「本との土曜日」で細井さんが言っていた「ぜんぶ冗談なんすよ」っていう言葉がやっとわかった。(誤読だけど)
人は皆、誤読する自由を持っている。
いや、というより、ひとりひとりが異なる感覚受容器を持っているのだから、「誤読」は前提である。
「本を真に受けて、行動する。」
その行動は誤読に基づいていて、だからこそ「冗談」なのだ。
逆に言えば、本は誤読する自由をくれる。
それは教科書にはない(あるけども要素としては少ない)ものだ。
取材インターンひきだしでのキーワードである「違和感」「違和感の表明」の難しさはそこにあるのかもしれない。
本はキケンなものだし、本屋はキケンな場所だ。そこには誤読し、行動に移してしまうようなアブない本たちがある。
そんな「誤読する自由」を味わうのに、例えば中学生高校生なら、どんな本を読んだらいいのだろう?
いま見えている世界が唯一の世界ではないかもしれない。
そんな本。
やっぱり坂口恭平さんの
「隅田川のエジソン」(幻冬舎文庫)と
「独立国家のつくり方」(講談社現代新書)
かなあと思う。
そんなことを思っていたら、目の前に入ってきた本。

「お金の学校」(坂口恭平 晶文社)
久しぶりに読んだ坂口節が、細井さんからもらった問い(というか違和感)に
合っていたので少し紹介します。
~~~
経済とはあらゆる流れの総体であって、一つの流れだけを指すのではありません。
今、人々は経済を一つの「お金の流れ」と断定してしまっています。しかし、実際はいろんな流れがあります。
もちろん、経済もまた自然のものです。だから植物みたいに、切っても、別のところから生えてきます。人間の合理性と植物の合理性はまったく違います。植物の合理性によるツルの生え方、伸び方は人間の合理性から捉えると矛盾そのものになります。植物は切られても平気です。むしろ喜んで伸びていきます。踏まれることも切られることも腐ることも全部喜びに変えちゃいます。そんなふうに合理性もまた自然界には無数に存在しています。経済もまた然りなのです。
重要なのは、自分が必要だと思うものを、楽しく流れを感じながら獲得することです。楽しくないところには、流れが発生しません。つまり、そこにはお金は生まれるかもしれないけど、経済は発生しません。
~~~
経済とは「流れ」である、と坂口さんは言います。
細井さんの本を真に受けて(誤読し)、行動(表現)すること。って、ここでいうところの「流れ」のような気がします。
オンラインツルハシの第1部で話した生物としてヒトっていうのにも通じてくるような気がします。
そこで、坂口さんから提案があります。
「企画書を書け」です。
お店をつくりたいと思ったら、
理想の場所はどこか?を考え、その場所の家賃がいくらか?を実際に不動産屋に行って問い合わせ、図面を書いてみる、ということ。お客さんの客単価はこれぐらいで、毎月の売り上げがこれくらいになるから、なんとかやっていけそうだな、と。
これ、いいじゃん。中学生高校生にめちゃめちゃオススメ。
「マイプロ」って結局こういうことなのではないか、って。
自分だけの企画書を書くっていうこと。企画書を完成させることではなく、企画書をつくっていくプロセスに学びがあるということ。
その企画書づくりは、「誤読」から始まるのではないか、っていうこと。
教科書やSDGsのような「正解」から始まらないのではないか、っていうこと。
いや、始まってもいいと思うけど、そこに楽しさや坂口さんの言うところの「流れ」があるか?っていうこと。
大切なのは、「誤読」する機会をたくさん持つこと。真に受けて、行動し始めること。
だから、本があり、地域の大人がいて、さまざまな課題がある。
それらは教科書と違い誤読を前提としている。「誤読」しかないんだ。
「誤読」して行動し、冗談で企画書を書く。それを繰り返す。
高校時代、大学時代にやることってそういうことなのではないか。
その入り口をつくっていくキケンな本屋を、僕はつくっていきたいのかもしれない。
安西先生、そんな本屋がしたいです。
2021年08月29日
キミはどう読んだ?



細井岳さん。通称ガクさん。
山頂で本を売る杣Booksを仕掛ける。
https://www.instagram.com/somabooks/
僕の知り合いの中ではもっとも「常人」じゃないなと思う人。笑
「問いを投げかける」という意味では僕よりはるかにアーティストだと思う。
昨日はオンライン劇場ツルハシブックスでした。
第1部の杉本さんと三宅さんとの生物としてのヒト視点の話からの
第2部の細井さんでした。
あらためて衝撃と爆笑の60分だったので、ここに記録しておきます。
~~~
1「本はキケンなもの」
冒頭のくじびき1質問から。「加齢臭はなぜクサいのか?」
いいですね。それは生物的な種の存続の理由なんですね。
第1部とつながりました。(笑)
細井さんがやっている質問は「質問」(田中未知)に触発されて始めたものだという。
真に受けて、行動する。これを細井さんは「誤読」であり体を使った「冗談」だと表現する。
4年越しの日本橋「本との土曜日」で言っていた「ぜんぶ冗談なんすよ」の解説。
たしかに本読んだ人がみんな真に受けて具体的行動・表現をしたら、世の中はキケンなものになる。
一方で自己啓発書的なモノは売れなくなるだろうけど。
杣ブックスのミッションは「本をキケンなものにする」こと。
いやあ、いいですね。
僕もそんなキケンな本屋になりたい。
2「シゼンとジネン」
誤読して、体を使って、表現(行動)することは自然なことだと細井さんは言う。
自然はシゼンではなくて、ジネンのほうだと。
自(おの)ずから然(しか)り。
目の前に来たものを受容し、反応し、外に出すこと。
それをいちばん真っ当にやっているのがシゼンと読む方の自然だし、
人間は生命として、そこに憧れるのではないか、と。
「くう、ねる、のぐそ」だと。(伊沢正名さんの本より)
言葉を替えれば「委ねている」ということ。
ああ、たしかに。委ねちゃうってことだ。
細井さんは「あきらめたいんです」って言ってた。
あきらめるの語源は「明らかにみる」こと。
ジネンで、受け入れて、そして「空」であるということ。
そこには「自分」という存在はとけてしまっている。
3「誤読行動体験文」
「ウムヴェルト」(五十嵐大介)から環世界の話に。
人によって、感覚受容器が違うから、同じことを聞いても読んでも、感じ方が違う。
だからこそ、本を読んだら真に受けて行動することだ。
本を読んでいると、どんどん世界を俯瞰して見れるようになるのだけど、
その上でちっぽけな存在として表現(行動)すること。
その位置エネルギーの落差を行動に替えることだと。
なるほど。本を読めば読むほど、位置エネルギーはたまっていくから、
それをうまく排出しないといけないわけですね。
細井さんが言う、「真に受けてやってみた」っていうのは、そういうことなんだ。
だから、夏休みに本に親しむためにやることは、
「読書感想文」ではなくて、「誤読行動体験文」であるべきなのでは、と。
~~~
いやあ、面白い。真っ当な本屋だなあ、細井さん。
僕自身のテーマでもある「自分」とか「意志」とかいう話で盛り上がったのだけど、まさにそういう話をするにはバッチリなトーク相手でした。
「ある」ものとしての自分が何者かに「なる」ために向かっていくのではなく、
常に「なりつづけている」存在としてのわたしがあるということ。
昨日のわたしと今日のわたし。
この本を読む前と読んだ後のわたし。
それらはずっと変化し続けているんだと。
だから「自分」というのはあくまでその一瞬を切り出した存在であり、
実際それを切り出すことは不可能。
それは時間軸としてもそうだし、空間軸としてもそうだ。
わたしを時の流れ(変化し続けるもの)や場(環境)から切り離すことはできない。
ジネンを生きることで「自分」という呪縛から解放されたと細井さんは言っていた。
その感覚をどう得ていくか、なのだろうなと。
そのためにできることは、
本を読んだら「真に受けて表現(行動)すること」
それがジネンの始まりなのかもしれない。
話をしていて、僕が真に受けた3冊の本が浮かんだ。

「沙漠緑化に生命を賭けて」(遠山正英 阪急コミュニケーションズ 1992)
進路がまったく決まっていない高校3年の夏に図書館で見つけて「沙漠緑化」は大成建設のCMを見て以来の夢だった「地図に残る仕事」だ!と思い、俺も生命賭けるぜと、鳥取大学農学部を第1志望に⇒農学部という選択肢のきっかけに。

「種をまく人」(ポールフライシュマン あすなろ書房 1998)
24歳の時に京都の塩見さんに贈ってもらい読んだら電流がかけぬけ、「畑でこんなことができるんや!」と誤読。就職するよりも畑をやり、この世界を実現することの方がはるかに大切だと「まきどき村」の発足に向けて準備を始めた。

「小説 吉田松陰」(童門冬二 集英社文庫)
27歳のときに不登校の中学3年生に出会い大きな問いをもらって、もやもやと考えていた2年後にこの本に出会う。獄中を学びの場に変えてしまった「野山獄」のエピソードに衝撃を受けて(真に受けて)これや!!「学び合いで希望は生まれるんや」と思い、すぐに山口県萩に向かい、野山獄後を確認し、墓前に線香を供え、桜の中を登校していく小学生の列に、「安心して大人になってくれ、おっちゃん頑張るからな」と祈った。
うん。
いま考えてみると、とんでもない誤読だわ。
と、こんな感じで今朝振り返ろうと思っていたら、細井さんから朝5時台にメッセージが。
~~~
感覚受容器として取り込み吐き出されてしまう「誤読/冗談」。当然、他者に「読まれる、読んでもらう」なんて事はないと思うのです。だって意味わからないですからね。これが「諦め」のもう一つの側面です。
しかし、何故か、ごくごく稀に「俺の誤読」を読んでしまう人、もしくは共鳴してしまう人が出てきます。例えば、山の上で杣Booksに会ってしまうとか(笑)本日の質問を受け取ってしまうとか。
たぶん、それは「奇跡的な事」でそうそう起こる事じゃないんです。故に「有り難い」のです。奇跡なんてそうそう起きるもんじゃねーと「諦め」ているから、「誤読」が出てしまっても、それを気に病まない。裏返して言うと、奇跡を「諦め」るからこそ、奇跡を信じられる訳ですね。
~~~
そうか。ジネンであることと今ここにある奇跡は両立するのだと。
細井さんはきっと、これからも本を読み、誤読し、冗談としての表現(行動)を繰り返していくのだろう。
細井さんに出会って、うっかり本を買うという誤読。
共感も誤読だし、違和感も誤読だ。
だって冗談なんだよ、最初から。
誤読し、真に受けて、やむにやまれぬ行動をしちゃっただけだ。そこには相互作用を受ける「場(空間)」と「時間」があるのだろうと思う。
その「場(空間)」と「時間」に、(奇跡的)にうっかり足を踏み入れてしまったときに、誤読のチャンスが生まれ、表現(行動)が始まるのだ。
本屋とはなんとキケンな場所なのだろうと。
そして、細井さんがやっていることはなんと「真っ当な本屋」なのだろうと。
細井さんは今日もその存在から問いかけてくる。
僕はこう読んだ(誤読した)んだけど、キミはどう読んだ?
2021年08月28日
在野の〇〇
「在野研究(者)」という言葉がある。
(専門的な研究機関である)大学外で研究し、本や論文などを書いて発表する(人)のことだ。
って調べてみたら、2019年「いまブーム」って言われていたみたい。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/67039
昨日は取材型インターン「ひきだし」の事後研修でした。
印象に残ったキーワードは「違和感」
オンラインでの取材型インターンの最大のポイントは
「思ったことを言う」ことで、それが難しかったのだという。
その難しさは「違和感」の表明にあるのだと。
これまでの学校生活、社会生活では、違和感を表明する機会がなかった。
どちらかと言えば「共感」の表明を求められた。
しかも「違和感」の表明(言語化)は難しい。
なんとなくのもやもやした感じ、だから。
一方でこの「違和感」トークに違和感を感じていた参加者もいた。
彼女が育ってきたり、いまいる多様な人たちから成る大学では、違和感の表明は当たり前のことだからだ。
このトーク、本質をついているなあと。
創造性は違和感から生まれる、って思った。
多くのソーシャルビジネスと呼ばれる取り組みが「違和感」から始まっている。
「課題発見」のはるか前に「違和感」がある。
「違和感」を言語化することで、それを「問い」に変換する。
それをひとりでやるのはかなり大変なので、みんなでそれをやってみること。
それが取材型インターン「ひきだし」だけではなく、ワークショップの意味なのではないか。
違和感の表明、それ以前のたくさんの違和感を感じられる多様な人。
そう、実は「違和感」こそが個性だ。そしてその「違和感の表明」を可能にする心理的安全性。
たぶんそれが、創造的な組織(一時的な「チーム」を含む)には必要なんだ。
~~~~~
と、こういう感じで。
僕の在野研究テーマは、フラットな関係をつくるコミュニケーションのデザインと「存在の承認」なので、今回の「ひきだし」も「違和感」というキーワードを得たことで発見があった。
そんなところで本日の1冊はこちら

「文化人類学の思考法」(松村圭一郎 中川理 石井美保)
第5章 モノと芸術より
~~~
トロブリアンド諸島のクラ交換に用いられるカヌーは、卓越した彫りや彩色で知られ、どんな美術館に並べても引けをとらないような視覚的特徴をもつ。そしてこの視覚的特徴こそがクラ交換の相手に返礼をさせる力の一端を担うともいわれる。だが、それが現に美術館のガラスケースに入れられたのなら、おそらく発揮される力はずいぶん異なるたぐいのものになるだろう。それは青い海とのコントラストの中に浮き上がった白と赤として、ぐんぐん島へ迫ってくるから人びとをぎょっとさせるのであり、巧みな技術を見て人びとは「こんなものを作り出すなんて、彼らはいったいどんな凄い呪術力をもっているのだろう」と畏れる。カヌーはこのようなさまざまな事象と一体になってこそ大きな力を発揮するのだ。
美的判断が独立せずに、その他の実践の中に埋め込まれているという視点の土台には、マルセル・モースの贈与論がある。モースは贈与交換を、あらゆる種類の諸制度が一挙に現れる現象すなわち「全体的社会的事実」として論じた。モースが引きあいに出す諸制度とは、宗教、法、道徳、経済、芸術だ。贈与交換においてはこれらの領域がすべて渾然一体となって駆動しているので、そこで用いられるモノを説明するにあたっては、たとえばその芸術的(美的)価値のみを取り出すわけにはいかないのだ。
また、モースのこのような議論に先立って、マックス・ウェーバーは、芸術はとりわけ宗教と不可分な領域を構成していたにもかかわらず、啓蒙思想をつうじて芸術と宗教が分かたれたと論じた。そして芸術誕生の歴史を、芸術の脱呪術化(合理化)の過程として説明した。
~~~
いやあ。そうなんですよ。
芸術と生活は切り離すことができない。
たぶんそれは、「仕事」や「はたらく」においてもそうだ。
就職活動の本質的な違和感の原因は、「個」として「システム」に対峙するところにあると僕は思う。
あなたは「個」としてどんな「機能」を有し、会社にどんな「価値(利益)」をもたらすのか?
という問いは、果たして答えるべき問いなのだろうか?
成果を生み出すのは、個人ではなく、会社という「場」なのではないか?
同じように、私という存在も、会社という一組織の構成員としてだけではなく、友人やスポーツや出身高校や、たくさんのレイヤーの中のひとつとして会社があるだけだ。
アイデンティティを仕事そのものに依存しないことだと思う。
僕は「在野の〇〇」として生きていくことを提案したい。
僕自身は「現代美術家」を名乗ってはいるけど、完全に自称だ。
作品と言えば、2015年松本市の栞日で行った「天空ハックツ」くらいだ。
しかし、「文化人類学の思考法」にあるように、芸術が生活に埋め込まれているとしたら、僕は在野のアーティストとして、ここに立っていることになる。
「仕事とは、組織でつくっていく芸術的要素を含んだ何か」なのではないか、と思うし、そんな「仕事」をつくっていきたいと思う。
「在野の〇〇」にあなたは何を入れますか?
(専門的な研究機関である)大学外で研究し、本や論文などを書いて発表する(人)のことだ。
って調べてみたら、2019年「いまブーム」って言われていたみたい。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/67039
昨日は取材型インターン「ひきだし」の事後研修でした。
印象に残ったキーワードは「違和感」
オンラインでの取材型インターンの最大のポイントは
「思ったことを言う」ことで、それが難しかったのだという。
その難しさは「違和感」の表明にあるのだと。
これまでの学校生活、社会生活では、違和感を表明する機会がなかった。
どちらかと言えば「共感」の表明を求められた。
しかも「違和感」の表明(言語化)は難しい。
なんとなくのもやもやした感じ、だから。
一方でこの「違和感」トークに違和感を感じていた参加者もいた。
彼女が育ってきたり、いまいる多様な人たちから成る大学では、違和感の表明は当たり前のことだからだ。
このトーク、本質をついているなあと。
創造性は違和感から生まれる、って思った。
多くのソーシャルビジネスと呼ばれる取り組みが「違和感」から始まっている。
「課題発見」のはるか前に「違和感」がある。
「違和感」を言語化することで、それを「問い」に変換する。
それをひとりでやるのはかなり大変なので、みんなでそれをやってみること。
それが取材型インターン「ひきだし」だけではなく、ワークショップの意味なのではないか。
違和感の表明、それ以前のたくさんの違和感を感じられる多様な人。
そう、実は「違和感」こそが個性だ。そしてその「違和感の表明」を可能にする心理的安全性。
たぶんそれが、創造的な組織(一時的な「チーム」を含む)には必要なんだ。
~~~~~
と、こういう感じで。
僕の在野研究テーマは、フラットな関係をつくるコミュニケーションのデザインと「存在の承認」なので、今回の「ひきだし」も「違和感」というキーワードを得たことで発見があった。
そんなところで本日の1冊はこちら

「文化人類学の思考法」(松村圭一郎 中川理 石井美保)
第5章 モノと芸術より
~~~
トロブリアンド諸島のクラ交換に用いられるカヌーは、卓越した彫りや彩色で知られ、どんな美術館に並べても引けをとらないような視覚的特徴をもつ。そしてこの視覚的特徴こそがクラ交換の相手に返礼をさせる力の一端を担うともいわれる。だが、それが現に美術館のガラスケースに入れられたのなら、おそらく発揮される力はずいぶん異なるたぐいのものになるだろう。それは青い海とのコントラストの中に浮き上がった白と赤として、ぐんぐん島へ迫ってくるから人びとをぎょっとさせるのであり、巧みな技術を見て人びとは「こんなものを作り出すなんて、彼らはいったいどんな凄い呪術力をもっているのだろう」と畏れる。カヌーはこのようなさまざまな事象と一体になってこそ大きな力を発揮するのだ。
美的判断が独立せずに、その他の実践の中に埋め込まれているという視点の土台には、マルセル・モースの贈与論がある。モースは贈与交換を、あらゆる種類の諸制度が一挙に現れる現象すなわち「全体的社会的事実」として論じた。モースが引きあいに出す諸制度とは、宗教、法、道徳、経済、芸術だ。贈与交換においてはこれらの領域がすべて渾然一体となって駆動しているので、そこで用いられるモノを説明するにあたっては、たとえばその芸術的(美的)価値のみを取り出すわけにはいかないのだ。
また、モースのこのような議論に先立って、マックス・ウェーバーは、芸術はとりわけ宗教と不可分な領域を構成していたにもかかわらず、啓蒙思想をつうじて芸術と宗教が分かたれたと論じた。そして芸術誕生の歴史を、芸術の脱呪術化(合理化)の過程として説明した。
~~~
いやあ。そうなんですよ。
芸術と生活は切り離すことができない。
たぶんそれは、「仕事」や「はたらく」においてもそうだ。
就職活動の本質的な違和感の原因は、「個」として「システム」に対峙するところにあると僕は思う。
あなたは「個」としてどんな「機能」を有し、会社にどんな「価値(利益)」をもたらすのか?
という問いは、果たして答えるべき問いなのだろうか?
成果を生み出すのは、個人ではなく、会社という「場」なのではないか?
同じように、私という存在も、会社という一組織の構成員としてだけではなく、友人やスポーツや出身高校や、たくさんのレイヤーの中のひとつとして会社があるだけだ。
アイデンティティを仕事そのものに依存しないことだと思う。
僕は「在野の〇〇」として生きていくことを提案したい。
僕自身は「現代美術家」を名乗ってはいるけど、完全に自称だ。
作品と言えば、2015年松本市の栞日で行った「天空ハックツ」くらいだ。
しかし、「文化人類学の思考法」にあるように、芸術が生活に埋め込まれているとしたら、僕は在野のアーティストとして、ここに立っていることになる。
「仕事とは、組織でつくっていく芸術的要素を含んだ何か」なのではないか、と思うし、そんな「仕事」をつくっていきたいと思う。
「在野の〇〇」にあなたは何を入れますか?
2021年08月21日
桃太郎のおばあさんになれ
「きみだけのドラマを語れ」
これは、いわゆる「マイプロ」
全国高校生マイプロジェクトのテーマだ。
https://myprojects.jp/
今日の1冊はこちら

「将来の夢なんか、いま叶えろ」(堀江貴文 実務教育出版)
通信制高校サポート校である「ゼロ高等学院」を立ち上げた堀江さんが
2017年の「すべての教育は洗脳である」に続いて、2020年9月に刊行した本。
参考:「学校」は他者評価を「前提」としたシステム(17.5.31)
http://hero.niiblo.jp/e484924.html
このときは、衝撃のワンフレーズ。
僕は宗教には何の興味もない。否定も肯定もしない。それによって幸せになれると思うであれば、好きな神様を拝めばいいと思う。だけど、「常識」への信仰だけはおすすめしない。はっきり言って、幸せになる確率が低すぎる。
いや、ホントそれだよね。
いま、まさにそんな時代や社会を生きている気がします。
ということで、今回もなかなか考えさせられるフレーズが。
まずはこの一言から。
「教育現場で教えられることは、リアルの体験以外すべて、テクノロジーで代用できる」
高校魅力化プロジェクトのライバルは他の公立高校などではなく、ゼロ高やN高といったテクノロジーを駆使して個別最適化した学校なんだと思う。
じゃあ、ゼロ高やN高に対抗できる価値ってなんだろう?そんな問いを考える上でいい機会になる1冊。
~~~ここからメモ
英語ができればたしかに社会で便利な場面は多いけれど、英語だけできて、ほかに何もできなければ「英語×ゼロ=ゼロ」だ。英語を使って、何をしたい?という問いを深める機会と環境を学校が提供しないまま英語を詰め込んでも、無意味だ
「その学びを選んだ理由を、自身の没頭体験をもとに語ることができる」若者の育成。
没頭への支援ができなければ親の資格はない。
数字評価なんかに、心の充足を委ねてはいけない。
「やりたいことがある大人は楽しそうに生きている」と「やりたいことがない大人は我慢しながら生きている」の2つのイメージが合わさって「やりたいことが見つからない=将来お先真っ暗」と思い込んでしまうのではないでしょうか。
~~~
そして、ゼロ高が目指す方向性で共感したのはこの2つ
~~~
自立の3本の足
1 自分に何ができるのか、何をしたいのかを行動による失敗から理解していく
2 自分のできること、したいことで助け合える仲間を見つける
3 自分ができること、したいことでファンをつくる
この3本の足で立つことができたとき、人は自立することができます。
僕自身が、繰り返し生徒に伝えていることがあります。「僕は君のこれまでの、そしてこれからの物語を何も知らない。だから、自分でつくり上げて僕に教えてほしい」と。ゼロ高生には卒業するとき、誰かにこう語れるようになってほしいと考えています。
私は、ゼロ高というコミュニティで学びました。
私はその中で、自分だけの物語を紡いできました。
たとえば、ストーリー1、ストーリー2、ストーリー3。
ストーリー1の中で、〇〇をやり、〇〇を学びました。
ストーリー2の中で、〇〇をやり、〇〇を学びました。
ストーリー3の中で、〇〇をやり、〇〇を学びました。
そして私はいま、4つ目のストーリーとして〇〇をやろうとしています。
その理由は△△をやってみて、◇◇が面白いと思ったからです。
~~~
いやあ、これですよね。
マイプロジェクトをいくつも作って、振り返って、学びに落とし込む。
そうやって自分のやりたいことに出会うっていうパターン。
この本のラストは中高生世代に向けてのメッセージになっているのだけど、
その中でもシビれるところを抜粋します。
~~~
みんなが知っている「桃太郎」の話をしよう。
子どものときに親から聞かされて、よく覚えているのは主人公の桃太郎だろう。だが、本当に注目すべきは、おばあさんだ。川に洗濯に行ったおばあさんは、上流から「ドンブラコ」と流れてきた巨大な桃を、迷いなく拾い上げた。そして家に持ち帰り、何が入っているのだろう?と包丁でパカンと真っ二つに割ってみた。すると可愛らしい桃太郎が誕生した。
昔話のオブラートに包まれているが、おばあさんの行動は完全にぶっ飛んでいる。抱えきれないほどの巨大な桃を素手で拾ってくるだけでなく、家まで持ち帰って包丁で切るなんて、変わり者すぎる。普通だったら、そんな得体のしれない巨大桃が流れてきたら、ビビって見送ってしまうだろう。仮に拾ったとしても、常人なら包丁を入れるほどの勇気は持てないはずだ。
そうなのだ。おばあさんの「ありえない行動」が桃太郎の大冒険の始まりとなり、不朽の名作を後世に残したのだ。
~~~
いいなあ。
川上から流れてくる巨大な桃を拾うことで冒険が始まるんだ。
そして、人生の点を思い切り打ちまくれ、とスティーブジョブズの「コネクティングドット」の話を引用して語る。
~~~
「未来をあらかじめ予測して、点と点をつなぎ合わせることはできない。可能なのは、後からつなぎ合わせることだけだ。つまり私たちは、いまやっていることが、今後の人生のどこかでつながり、自然に実を結ぶことを信じ(て行動し続け)るしかない」
誰かではなく自分自身を驚かせる未来のために、たくさんの点を打とう!
多くの「点」は、やがて迎える未来の「いま」を描く、太い「線」になる。
~~~
堀江さんと思いは共通するところが多いかも、って思った。
点を打つ場所をどこにするか?
そして、誰と一緒に点を打つのか?
たぶん、中高生が持っている根源的問いはそこにあるのだろうし、点を打ちたくなる地域や地域との関係、コーディネーター的な動きが必要になる。
冒頭に書いたけど、「個別最適化」を考えれば、圧倒的にゼロ高やN高だと僕も思う。
でも、地域で、地域の大人たちと見つけ合いながら、地域の未来も少しだけ背負いながら、「点」を打っていく。
既存のシステムともうまく折り合いながら、未来を探り、試し、見つけていくような、そんな「まなび」をともに創っていけたらいいな、と。
今日は新潟駅MOYORe:で「まなびのトビラをともにひらく」が開催されます。
トビラを見つけ、ともに開けましょう。
これは、いわゆる「マイプロ」
全国高校生マイプロジェクトのテーマだ。
https://myprojects.jp/
今日の1冊はこちら

「将来の夢なんか、いま叶えろ」(堀江貴文 実務教育出版)
通信制高校サポート校である「ゼロ高等学院」を立ち上げた堀江さんが
2017年の「すべての教育は洗脳である」に続いて、2020年9月に刊行した本。
参考:「学校」は他者評価を「前提」としたシステム(17.5.31)
http://hero.niiblo.jp/e484924.html
このときは、衝撃のワンフレーズ。
僕は宗教には何の興味もない。否定も肯定もしない。それによって幸せになれると思うであれば、好きな神様を拝めばいいと思う。だけど、「常識」への信仰だけはおすすめしない。はっきり言って、幸せになる確率が低すぎる。
いや、ホントそれだよね。
いま、まさにそんな時代や社会を生きている気がします。
ということで、今回もなかなか考えさせられるフレーズが。
まずはこの一言から。
「教育現場で教えられることは、リアルの体験以外すべて、テクノロジーで代用できる」
高校魅力化プロジェクトのライバルは他の公立高校などではなく、ゼロ高やN高といったテクノロジーを駆使して個別最適化した学校なんだと思う。
じゃあ、ゼロ高やN高に対抗できる価値ってなんだろう?そんな問いを考える上でいい機会になる1冊。
~~~ここからメモ
英語ができればたしかに社会で便利な場面は多いけれど、英語だけできて、ほかに何もできなければ「英語×ゼロ=ゼロ」だ。英語を使って、何をしたい?という問いを深める機会と環境を学校が提供しないまま英語を詰め込んでも、無意味だ
「その学びを選んだ理由を、自身の没頭体験をもとに語ることができる」若者の育成。
没頭への支援ができなければ親の資格はない。
数字評価なんかに、心の充足を委ねてはいけない。
「やりたいことがある大人は楽しそうに生きている」と「やりたいことがない大人は我慢しながら生きている」の2つのイメージが合わさって「やりたいことが見つからない=将来お先真っ暗」と思い込んでしまうのではないでしょうか。
~~~
そして、ゼロ高が目指す方向性で共感したのはこの2つ
~~~
自立の3本の足
1 自分に何ができるのか、何をしたいのかを行動による失敗から理解していく
2 自分のできること、したいことで助け合える仲間を見つける
3 自分ができること、したいことでファンをつくる
この3本の足で立つことができたとき、人は自立することができます。
僕自身が、繰り返し生徒に伝えていることがあります。「僕は君のこれまでの、そしてこれからの物語を何も知らない。だから、自分でつくり上げて僕に教えてほしい」と。ゼロ高生には卒業するとき、誰かにこう語れるようになってほしいと考えています。
私は、ゼロ高というコミュニティで学びました。
私はその中で、自分だけの物語を紡いできました。
たとえば、ストーリー1、ストーリー2、ストーリー3。
ストーリー1の中で、〇〇をやり、〇〇を学びました。
ストーリー2の中で、〇〇をやり、〇〇を学びました。
ストーリー3の中で、〇〇をやり、〇〇を学びました。
そして私はいま、4つ目のストーリーとして〇〇をやろうとしています。
その理由は△△をやってみて、◇◇が面白いと思ったからです。
~~~
いやあ、これですよね。
マイプロジェクトをいくつも作って、振り返って、学びに落とし込む。
そうやって自分のやりたいことに出会うっていうパターン。
この本のラストは中高生世代に向けてのメッセージになっているのだけど、
その中でもシビれるところを抜粋します。
~~~
みんなが知っている「桃太郎」の話をしよう。
子どものときに親から聞かされて、よく覚えているのは主人公の桃太郎だろう。だが、本当に注目すべきは、おばあさんだ。川に洗濯に行ったおばあさんは、上流から「ドンブラコ」と流れてきた巨大な桃を、迷いなく拾い上げた。そして家に持ち帰り、何が入っているのだろう?と包丁でパカンと真っ二つに割ってみた。すると可愛らしい桃太郎が誕生した。
昔話のオブラートに包まれているが、おばあさんの行動は完全にぶっ飛んでいる。抱えきれないほどの巨大な桃を素手で拾ってくるだけでなく、家まで持ち帰って包丁で切るなんて、変わり者すぎる。普通だったら、そんな得体のしれない巨大桃が流れてきたら、ビビって見送ってしまうだろう。仮に拾ったとしても、常人なら包丁を入れるほどの勇気は持てないはずだ。
そうなのだ。おばあさんの「ありえない行動」が桃太郎の大冒険の始まりとなり、不朽の名作を後世に残したのだ。
~~~
いいなあ。
川上から流れてくる巨大な桃を拾うことで冒険が始まるんだ。
そして、人生の点を思い切り打ちまくれ、とスティーブジョブズの「コネクティングドット」の話を引用して語る。
~~~
「未来をあらかじめ予測して、点と点をつなぎ合わせることはできない。可能なのは、後からつなぎ合わせることだけだ。つまり私たちは、いまやっていることが、今後の人生のどこかでつながり、自然に実を結ぶことを信じ(て行動し続け)るしかない」
誰かではなく自分自身を驚かせる未来のために、たくさんの点を打とう!
多くの「点」は、やがて迎える未来の「いま」を描く、太い「線」になる。
~~~
堀江さんと思いは共通するところが多いかも、って思った。
点を打つ場所をどこにするか?
そして、誰と一緒に点を打つのか?
たぶん、中高生が持っている根源的問いはそこにあるのだろうし、点を打ちたくなる地域や地域との関係、コーディネーター的な動きが必要になる。
冒頭に書いたけど、「個別最適化」を考えれば、圧倒的にゼロ高やN高だと僕も思う。
でも、地域で、地域の大人たちと見つけ合いながら、地域の未来も少しだけ背負いながら、「点」を打っていく。
既存のシステムともうまく折り合いながら、未来を探り、試し、見つけていくような、そんな「まなび」をともに創っていけたらいいな、と。
今日は新潟駅MOYORe:で「まなびのトビラをともにひらく」が開催されます。
トビラを見つけ、ともに開けましょう。
2021年08月18日
「他者」と出会い、困難なコミュニケーションを立ち上げ「調和」していく

「生きづらさについて考える」(内田樹 毎日新聞出版 2019年刊)
昨日に引き続きこちらの本から。
「痛快」です。切れ味が好き。
まずは「グローバル人材育成」についてバッサリ
~~~
日本の学生に際立って欠けているのは、一言でいえば、自分と価値観も行動規範も違う「他者」と対面したときに、敬意と好奇心をもって接し、困難なコミュニケーションを立ち上げていく意欲と能力だということです。
しかし、生きてゆく上できわめて有用かつ必須であるそのような意欲と能力を育てることは、日本の学校教育においては優先的な課題ではありませんでした。学校で子どもたちが身に付けたのは、自分と価値観も行動規範もそっくりな同類たちと限られた資源を奪い合うゼロサムゲームを戦うこと、労せずしてコミュニケーションできる「身内」と自分たちだけに通じるジャルゴンで話し、意志疎通が面倒な人間は仲間から排除すること、それを学校は(勧奨したとまでは言わないまでも)黙許してきました。
でも、その長年の「努力」の結果、「あなたたちはグローバルマインドがない」という否定的な評価を海外から下されてしまった。学校生活を無難に送るために採用した生存戦略が、皆さん自身の国際社会における評価を傷つけることになったわけです。
~~~
く~~~。
そうなんですよ。そうなんですよね。
「学校」なるシステムに「適応」しすぎるとそうなっちゃうんです。
さらに、その教育が生み出すエリートについて原発事故を題材にバッサリ。
~~~
エリートたちは受験秀才です。彼らの仕事は正解を答えることであり、誤答を嫌います。誤答するくらいなら黙っている。でも、危機というのは「資源がない、情報がない、人員がない、時間がない」という状況のことです。そのような状況下で最適判断を求められると、受験秀才はフリーズしていまう。そういう訓練を受けたことがないからです。
彼らは決断するに先立って、その判断の法的根拠や上司からの指示や「言い訳」をまず探します。「このように判断したことには十分な根拠がある」という条件が整うまで、秀才は何もしない。その間に、もっとも貴重な資源である「時間」は不可逆的に失われてしまう。そして、危機とはまさに時間が失われるにつれて採りうる選択肢がどんどん減っていく状況のことなのです。
~~~
自分で考えて、自分で決めて、自分で行動する。
危機において、それを最も短い時間でやらなければ、最大の資源である「時間」を失ってしまう。
それを鍛えるに受験秀才ではないんですね。
何度も(規模の大小はあれ)危機(ピンチ)対応をしている経験が必要なのです。
最後に、それらを踏まえて「自由」と「調和」について。
~~~
日本人にとって、気が楽になるとか、心が落ち着くとか、肩の荷が下りた気がするとかいうのは「自由を達成した」からではないんです。すべての外的な干渉を退けて、自分の思いの通りのことを実践するということを日本人は本当は望んでいない。だって、そんなの大変そうですから。それよりはほっとしたい、気楽でいたい。
集団の中にいると、さまざまな相互に矛盾したり対立したりする要請を調整しなければならないということがあります。それがうまく折り合って、「落としどころ」に話が落ち着いたときに、日本人は解放感と達成感を覚えます。理不尽な要求をされても、身勝手なことを言われても、それでも、あちこち走り回り、あちらの顔も立て、こちらの言い分も通して・・・というような困難な調整を果たして、もろもろの干渉が相互に相殺されて、一種の「ニュートラル」状態を達成した時に日本人はなぜか深い満足感を覚える。これはどう考えてもヨーロッパ的な「自由」とは似ても似つかぬものです。
ユーラシア大陸の辺境に位置する日本列島には、外から次々と新しい集団が到来し、新しい文物が流入しました。そして、そのつど対立せず、排除せず、折り合いをつけてきた。「そちらにはそちらのお立場が、こちらにはこちらのメンツが。どうです、一つナカをとって・・・」というのが日本における問題解決のもっとも成熟したテーマでした。
~~~
そうか。
民族の地理的歴史的にね~。
こういう話面白いですよね。
茨城大学時代に公開講座で聞いた
日本にやってきた5つの移民の話を思い出しました。
これからのキャリアと縄文と弥生の関係(15.10.16)
http://hero.niiblo.jp/e473674.html
そうなんだよね。
日本人は「調整」してきたし、大切なのは「調和」だった。
このあと、爆笑な部分(あるある話)がふたつ。
~~~
サンデル教授の「ハーバード白熱教室」ってありましたけど、日本人だったら、「さあ、正解はどっちだ」と切り立てられたら、「まあそう言わずに、どうですお茶でも一杯」というかたちで「白熱しない」方向に誘い込もうとするんじゃないでしょうか。
でも、日本人はちょっと違う。「いや~悪いねえ。どう、今回はちょっと泣いてくれない?いや、悪いようにはしないよ。次には必ず埋め合わせするから」みたいなやりとりのことを「仕事」だと称している。欧米のビジネスマンだったら、「そのどこが仕事なんだよ」と怒り出すでしょう。
~~~
爆笑。めちゃ面白い。あるあるですね。
「そのどこが仕事やねん!」って関西弁でツッコミたい。笑
そしてそれは、地理的歴史的に仕方ないと内田さんは説明します。
~~~
でも、それはしょうがないと思うんです。「相容れない立場をなんとか折り合わせる能力こそが列島住民たちが生き延びるために優先的に開発してきた資質なんですから。列島住民はそういう生存戦略で2000年くらいずっとやってきたわけで、いまさら変えろといわれても無理ですよ。
~~~
そうなんです。「他者と折り合いをつける」っていうのを生存戦略的に採用してきたんです。
ということで、最後に我田引水して終わりますけども。(いつも)
実は(危機的な・・・今まさにそんな状況ですが)社会で求められるのは、「英語がバリバリ話せて言われた仕事が最高速でできる」秀才型エリート人材などではなく、
「自分と価値観も行動規範も違う『他者』と対面したときに、敬意と好奇心をもって接し、困難なコミュニケーションを立ち上げていく意欲と能力」を持った人であり、それは、(程度の差はあれ)危機的な何度も繰り返すことによって身につけることができる。
しかし、それは学校のような同質性集団の中だけでは育むことが難しい。だからこそ東京から地方に出て、たくさんの「他者」と出会えることを望んでいるのではないか。
さらに、そもそも地理的歴史的に私たちは「調和」「折り合い」を大切にするという生存戦略をとってきて、そういう文化を築いてきた。それが同質性集団の中では、むしろマイナスに働くのだろう。
だから内田さんの言うような「学校で子どもたちが身に付けたのは、自分と価値観も行動規範もそっくりな同類たちと限られた資源を奪い合うゼロサムゲームを戦うこと、労せずしてコミュニケーションできる『身内』と自分たちだけに通じるジャルゴンで話し、意志疎通が面倒な人間は仲間から排除すること」
「他者」に出会うこと。そこで違和感を感じながらも、敬意と好奇心をもって、困難なコミュニケーションを立ち上げていくこと。
それには「学校」だけじゃなく「地域」が必要なんだと。
そう直感した人たちが「地域みらい留学」のトビラをノックしているのではないか、というのが私の実感です。
2021年08月17日
「計測可能である」という前提を疑う

「生きづらさについて考える」(内田樹 毎日新聞出版 2019年刊)
久しぶりに内田節を聞きたくなって某古本屋さんで購入。
第3章 ウチダ式教育再生論 から
元原稿は、京都精華大学の精華人文文庫「きみの生きづらさと向き合うために」
なので、主に大学生向けに書かれているのだと思う。
「金魚鉢」のルールとコミュニケーションの誤解
とタイトルされた文章が昨日の「なぜ本屋なのか?図書館なのか?」
につながっていると思ったので書きます。
~~~ここから引用
世界は移行期的混乱のうちにあり、あらゆる面で既存のシステムやルールが壊れかけている。それなのに、日本の社会はその変化に対応できずに硬直化している。金魚鉢にひびが入り、いまにも割れて中の水ごと放り出されるしかないのに、若い人たち、相変わらず「金魚鉢の中の」価値観や規範に適応するように求められている。むしろ、外側で大きな変化が起きている分だけ、恐怖と不安で、硬直化しているように見えます。
激動期に対応して、生き残るためには、集団の一人一人が持っている多様な能力や資質を活かして、「強い」チームを形成しなければいけないのですが、日本の学校教育は単一の「ものさし」をあてがって子どもたちを格付けして、スコアの高い者には報酬を与え、低い者には処罰を与えるということしかしていない。
多様な才能や資質を開花させるためにはほとんど何もしないで、ただ「みんなができることを、他の人よりうまくできる」競争に若者たちを追い込んで、消耗させている。こんな相対的な優劣を競わせても、来るべき変化に備え、それを生き延びる知恵と力を育てるには何の役にも立ちません。
~~~
いやあ、もう、ホントそれ。
ひれ伏すしかない。
そして「コミュニケーション」についても大学での経験から「コミュ障」だという大学生に出会い、次のようにコミュニケーションを定義し直す。
~~~
コミュニケーションすることの最大の喜びは、自分が思いもしなかったアイディアを他人から得ることや、自分とは違う感受性を通じて経験された世界を知ることにあると僕は思っています。自分の感情や思考を他人にまるごと肯定してもらっても、うれしいけれど、それによって自分が豊かになるわけではない。対話することの甲斐は、対話を通じて自分が豊かになり、より複雑になることでしょう?
~~~
内田さんによれば、極端な同調的コミュニケーションも、自己責任論を内面化し、十分な評価を得られないときに自分の能力や努力にしてしまう、格付け志向については、若者の責任ではなく、「金魚鉢の中の硬直化したルール」を適用する社会がそうさせている、と言います。
そして、人文学の意味を語ります。
~~~
自分たちがいま生きている社会が金魚鉢のように閉ざされた狭い空間であることに気づいて、生き延びる道を見つけること、人文学を学ぶ意味は、そこにあります。
人文学というのは、扱う素材の時間軸が長く、空間も広い。考古学や歴史学なら何千年、何万年前のことを扱うし、民俗学や地域研究では、はるか遠い国の文化を学びます。文学もそうです。遠い時代の、遠い国の、人種や信仰や性別や年齢が違う人の中に想像的に入り込んでいって、その人の心と身体を通じて世界を経験する。「いま、ここ、私」という基準では測り知れないことについて学び、理解するのが人文学です。
学ぶことによって、自分たちが閉じ込められている「金魚鉢」のシステムや構造を知り、それがいつどんな歴史的条件下で形成されたものであるかを知り、金魚鉢の外側には広い社会があり、見知らぬ世界があり、さらにそれを取り巻く宇宙があることを知る。金魚鉢を含めた世界はどこから来て、いまどんな状態にあって、これからどう変わっていこうとしているのか、それは金魚鉢の中にいながらでも学ぶことができます。これが人文学を学ぶということです。
この混乱期を生き延びていくためには、できるだけ視野を広くとって、長い歴史的展望の中でいまの自分を含む世界の情勢を俯瞰することが必要です。
~~~
これ、人文学を「読書」や「地域探究」に置き換えても同じだろうなと。ヘリコプター(ドローンでもいいけど)に乗って、世界を(歴史的地理的民俗学的視点からも)俯瞰して見る方法の1つとして読書や地域探究はあるんだと。
さらに(僕が少し編集しましたが)、「実学」についても以下のようにバッサリ行きます。
~~~
政治学や経済学や法学といった「実学」というのは、既存のシステムが正常に作用している時代の、いわば「平時の学問」です。ある数値や理論を入力すれば、こんな出力があるという入力出力の相関が計算できる場合にはきわめて効率がよい。それに対して、自分が存在し、生きているこの社会の成り立ちや学問領域そのものの意味を問いかけていく人文学は、いわば「乱世の学問」です。
~~~
そうなんだよね。だから歴史だったり哲学だったりが必要なのだよね。
金魚鉢そのものがもうすぐ割れちゃうかもしれないんだから。
そしてこの文は、「自分が機嫌よくいられる場所」を探そう、と締めくくられます。
~~~
武道的な意味での「正しい場所」とは「どこにでもいける場所」のことであり、「正しい時」というのは「次の行動の選択肢が最大化する時」のことだからです。
「正しい位置」というのは、空間的に決まった座標のことではなくて、その時々において最も自由度の高いポジションを選択できる「開放度」のことだからです。
これと同じで、生きていく上で最も大事なのは、ニュートラルで選択肢の多い、自由な状態に立つことです。それはできるだけ「オープンマインド」でいることと言い換えることもできます。オープンマインドこそは、学ぶ人にとって最も大切な基本の構えです。
~~~
そうなんだよね。そういう「場」が必要なんだよね。ひとりひとりにとってその「場」が違うんだよね。
坂口恭平さん的に言えば「学校社会」のルールとは異なる無数の「放課後社会」が必要なんだよね。
そしてその「自分が機嫌よくいられる場所」の価値は、身体的なものであり、本人にしか分からない。つまり「計測不可能なもの」。
この「計測不可能」な余白を許容できなくなっているんだな。
金魚が金魚鉢ではなくて、広い川で泳いでいた時のような。
この文の少し前に、格付けできないのが「知」と題して、人口当たりの修士・博士号取得者が主要国で日本だけ減少していることに対して、考察している。
~~~
「数値的な格付け」に基づく共有資源の傾斜配分」のことを私は「貧乏シフト」と呼ぶが、大学も「貧乏シフト」の渦に巻き込まれた。そして、それが致命的だった。
というのは、格付けというのは「みんなができることを、他の人よりうまくできるかどうか」を競わせることだからである。「貧乏シフト」によって「誰もやっていないことを研究する自由」が大学から失われた。「誰もやっていない研究」は格付け不能だからである。
独創的な研究には「優劣を比較すべき同分野の他の研究が存在しない」という理由で予算がつかなくなった。独創性に価値が認められないアカデミアが知的に生産的であり得るはずがない。
~~~
うう。うなってしまうね。
「個性を発揮せよ、独創性を持て。」と言うならば、それを格付けすることをやめなければならない。その計測可能性を捨てないといけない。
「学校」は、「教育」は、「まちづくり」はどうなんだ?と問いかけてくる。
「越境」し、他者や本と「対話・協働」し、「試行・省察」すること。
金魚鉢の外の広い世界や、新たな自分を「発見」し、「変容」し続けること。
そのベースキャンプに、本屋や図書館がなったらいいと思うし、自分がニュートラルになれる無数の余白が、まちにたくさんあったらいい。
2021年08月16日
「勉強」という乗り物
雨だったのでいろいろ乱読。読み終えたのはこの2冊かな。

「読書からはじまる」(長田弘 ちくま文庫)

「日本哲学の最前線」(山口尚 講談社現代新書)
なぜ「本/読書」なのか?
なぜ「まなび」なのか?
そんな問いの海をプカプカと浮かんでおりました。
「読書からはじまる」の
第2章は「読書のための椅子」。
その本をどんな椅子で読むか?
ってとても大切な問いだなあと。
空間として椅子にこだわりたいなあと。
そして「日本哲学の最前線」では、
大好きな國分功一郎さんの「中動態」の話から始まって、
6名の哲学者たちの現在進行形な哲学のベクトルが示されている。
テーマは「不自由とどう向き合い、真の自由を手に入れるか?」だ。
今日はこの本の第三章 偶然の波に乗る生の実践‐千葉雅也『勉強の哲学』より。
キーワードとして押さえておくのは「非意味的切断」。
~~~
意味的切断が「情報を集める作業をここで打ち切るのがベストだ」という意図に導かれながら情報収集をやめて次の行動に移る過程」のことを指すのに対し、非意味的切断とは、「真に知と呼ぶに値する」訣別ではなく、むしろ、中毒や愚かさ、失認や疲労、そして障害と言った「有限性(finitude)」のために、あちこちを乱走している切断である。
~~~(本書より引用)
そして「非意味的切断は現に偏在する」と指摘し、「私たちは偶然的な情報の有限化を、意志的な選択(の硬直化)と管理社会の双方から私たちを逃走させてくれる原理として『善用する』しかない」と説明する。
そして、ここから「勉強」の本質を鋭くえぐる。
~~~
勉強は、意外かもしれないが、本質的な点で意図のコントロールが役に立たない。なぜなら《いま取り組んでいる物語が自分をどこへ連れていくか》は勉強するものにとっては前もって知られないからである。それゆえ勉強は〈自分の求めていたものを得る〉という行為ではない。むしろそれは〈そうでなかった自分に成る〉という生成変化である。そして自己変容の過程にとって偶然性の波に乗ることは無視できない有用性を持つ。
例えば「勉強の完璧主義者」は一冊の本を最初から最後まで通読しようとするかもしれない。とはいえこれは勉強を「苦行」にしてしまう。(中略)そして―多くの人が経験から知るとおり―勉強においては、一冊の本をある程度読み進めて「これ以上はいけないな」と感じると別の一冊に向かう、というやり方のほうが享楽も多く意欲も持続する。
勉強を続けるには、<不意に読めなくなったときに警戒に中断してとりあえずイケる本を開くという柔軟な姿勢‐すなわち非意味的切断を受け入れる姿勢‐こそが重要になる。偶然性を嫌わないこと。そして偶然性が却って面白いものを生み出すのではないかという希望をもつこと。こうした態度は勉強の効率性だけではなくその創造性も増しうる。
~~~
「勉強」とは乗り物なのだな、と。しかもそれは行き先が分からず、生成変化し続ける乗り物なのだ、と。
さらに「不自由」からどう脱出するかについても「勉強」が有効だとする。
※ノリ=コード(規範)のこと。
~~~
或る職場に身を置き、そこで仕事を学ぶとは《こういうときにはこうするものだ》を身につけることである。数年かければそうしたことを一通り体得できる。とはいえ勉強は続く。例えば取引先のやり方がよさそうだと感じたとき、自分たちの従来のノリを放棄し、向こうの作法を取り入れてみる。そうすれば新たな何かが生まれるかもしれない。
勉強とは、<特定のノリから自由になる>というプロセスだ。曰く、「私たちは同調圧力によって、できることの範囲を狭められていた」こうしたノリの束縛を脱する過程が「勉強」なのである。
とはいえ、いかに特定のノリから自由になっても、一切のノリから自由な境地に至ることはできない。特定のノリから自由になることは、別の(特定の)ノリのうちへ入ること以外でありえない。それゆえ勉強は解脱や脱自などの「垂直的」運動ではなく、生成変化という「水平的」運動である。
~~~
「越境」の意味とはそういうことか、と。
そして勉強の結果起こるのは「成長」なんかではなく「変化」に過ぎないのだと。
このあと本書は千葉さんの具体的方法として「アイロニー」(一歩退いた姿勢)と「ユーモア」(コードをズラす発現)
そして「こだわり」について。
~~~
こだわりとは、何なのでしょう。
何かの作品、あるキャラクター、味や色、言葉などへのこだわりをもっている。それがなぜ自分にとって重要なのか、ある程度なら理由を説明できるかもしれません。しかし、こだわりとは、この身体にたまたま生じたもの、何か他者との偶然的な出会いによって生じたものであり、根本的に言って理由がない。こだわりには、人生の偶然性が刻印されている。偶然的な出会いの結果として、私たちは個性的な存在になるのです。
~~~
そうだよね。いまの自分っていうのは、まさに「偶然≒非意味的切断」の産物なんだよ。
5年前から今を目指して努力してきた直線の延長上には自分はないんだよね。
だから、人は「勉強」するし「読書」するんだよね。
生成変化の「過程」にある自分として。
ラストに「読書からはじまる」の最終章から「分ける」と「育てる」、そして「蓄える」というキーワードを。
~~~
今日の暮らしをささえている仕組みというのは、大雑把に言えばモノを生産し、製造する。そして生産され、製造されたモノが物流し、流通していって、日々の土台というべきものをつくっている。その伝で言うと、読書というのは生産・製造に似ています。そして情報というのは物流・流通に似ています。
簡単に言ってしまえば、読書というのは「育てる」文化なのです。対して、情報というのは本質的に「分ける」文化です。
「育てる」文化と「分ける」文化というのは拠って立つものが違います。「育てる」文化の基本は、個性です。「分ける」文化の基本にあるのは平等です。今日の世界に広くゆきわたったのは平等の文化の景色です。
この国が情報社会として「分ける」力をつけるにつれて、逆に、教育社会としての「育てる」力をなくしてきたのは、ある意味では、当然の結果です。
「育てる」文化と「分ける」文化のあいだには、その真ん中のところにもう一つ、繋ぐちから、繋ぐ文化がある。それが「蓄える」文化です。
~~~
このあと、「蓄える」文化の担い手として、いつの時代も図書館があり、図書館をのあり方について問いかけてきます。
この「分ける」と「育てる」、そして「蓄える」は、「産業」だけでなく、いわゆる「教育」や「学び」のジャンルにおいても、「まちづくり」のジャンルにおいても、同じことが言えるのではないでしょうか。
いつのまにか本は「情報」を運ぶ箱に過ぎなくなった。
分けられ、選ばれ、消費されるものになった。
図書館カードは通帳化され、貸出冊数が見える化された。
民間図書館や小さな本屋さん古本屋さんをやる人たちっていうのは、そんなふうに「情報」として、分ける文化としての本ではなくて、育てる文化、蓄える文化の担い手としての場になることの大切さを本能的に感じている人たちなのではないか。
本は「育てる」し読書は「蓄える」。
そして本のある場には、千葉さん的に言えば「偶然≒非意味的切断」がある。
そうやって人は「越境」し、「生成変化」し、新たな自分となる。
その「過程」をただ、歩んでいるだけなのかもしれない。
まず「越境」するために「勉強」という乗り物が必要なんだな。

「読書からはじまる」(長田弘 ちくま文庫)

「日本哲学の最前線」(山口尚 講談社現代新書)
なぜ「本/読書」なのか?
なぜ「まなび」なのか?
そんな問いの海をプカプカと浮かんでおりました。
「読書からはじまる」の
第2章は「読書のための椅子」。
その本をどんな椅子で読むか?
ってとても大切な問いだなあと。
空間として椅子にこだわりたいなあと。
そして「日本哲学の最前線」では、
大好きな國分功一郎さんの「中動態」の話から始まって、
6名の哲学者たちの現在進行形な哲学のベクトルが示されている。
テーマは「不自由とどう向き合い、真の自由を手に入れるか?」だ。
今日はこの本の第三章 偶然の波に乗る生の実践‐千葉雅也『勉強の哲学』より。
キーワードとして押さえておくのは「非意味的切断」。
~~~
意味的切断が「情報を集める作業をここで打ち切るのがベストだ」という意図に導かれながら情報収集をやめて次の行動に移る過程」のことを指すのに対し、非意味的切断とは、「真に知と呼ぶに値する」訣別ではなく、むしろ、中毒や愚かさ、失認や疲労、そして障害と言った「有限性(finitude)」のために、あちこちを乱走している切断である。
~~~(本書より引用)
そして「非意味的切断は現に偏在する」と指摘し、「私たちは偶然的な情報の有限化を、意志的な選択(の硬直化)と管理社会の双方から私たちを逃走させてくれる原理として『善用する』しかない」と説明する。
そして、ここから「勉強」の本質を鋭くえぐる。
~~~
勉強は、意外かもしれないが、本質的な点で意図のコントロールが役に立たない。なぜなら《いま取り組んでいる物語が自分をどこへ連れていくか》は勉強するものにとっては前もって知られないからである。それゆえ勉強は〈自分の求めていたものを得る〉という行為ではない。むしろそれは〈そうでなかった自分に成る〉という生成変化である。そして自己変容の過程にとって偶然性の波に乗ることは無視できない有用性を持つ。
例えば「勉強の完璧主義者」は一冊の本を最初から最後まで通読しようとするかもしれない。とはいえこれは勉強を「苦行」にしてしまう。(中略)そして―多くの人が経験から知るとおり―勉強においては、一冊の本をある程度読み進めて「これ以上はいけないな」と感じると別の一冊に向かう、というやり方のほうが享楽も多く意欲も持続する。
勉強を続けるには、<不意に読めなくなったときに警戒に中断してとりあえずイケる本を開くという柔軟な姿勢‐すなわち非意味的切断を受け入れる姿勢‐こそが重要になる。偶然性を嫌わないこと。そして偶然性が却って面白いものを生み出すのではないかという希望をもつこと。こうした態度は勉強の効率性だけではなくその創造性も増しうる。
~~~
「勉強」とは乗り物なのだな、と。しかもそれは行き先が分からず、生成変化し続ける乗り物なのだ、と。
さらに「不自由」からどう脱出するかについても「勉強」が有効だとする。
※ノリ=コード(規範)のこと。
~~~
或る職場に身を置き、そこで仕事を学ぶとは《こういうときにはこうするものだ》を身につけることである。数年かければそうしたことを一通り体得できる。とはいえ勉強は続く。例えば取引先のやり方がよさそうだと感じたとき、自分たちの従来のノリを放棄し、向こうの作法を取り入れてみる。そうすれば新たな何かが生まれるかもしれない。
勉強とは、<特定のノリから自由になる>というプロセスだ。曰く、「私たちは同調圧力によって、できることの範囲を狭められていた」こうしたノリの束縛を脱する過程が「勉強」なのである。
とはいえ、いかに特定のノリから自由になっても、一切のノリから自由な境地に至ることはできない。特定のノリから自由になることは、別の(特定の)ノリのうちへ入ること以外でありえない。それゆえ勉強は解脱や脱自などの「垂直的」運動ではなく、生成変化という「水平的」運動である。
~~~
「越境」の意味とはそういうことか、と。
そして勉強の結果起こるのは「成長」なんかではなく「変化」に過ぎないのだと。
このあと本書は千葉さんの具体的方法として「アイロニー」(一歩退いた姿勢)と「ユーモア」(コードをズラす発現)
そして「こだわり」について。
~~~
こだわりとは、何なのでしょう。
何かの作品、あるキャラクター、味や色、言葉などへのこだわりをもっている。それがなぜ自分にとって重要なのか、ある程度なら理由を説明できるかもしれません。しかし、こだわりとは、この身体にたまたま生じたもの、何か他者との偶然的な出会いによって生じたものであり、根本的に言って理由がない。こだわりには、人生の偶然性が刻印されている。偶然的な出会いの結果として、私たちは個性的な存在になるのです。
~~~
そうだよね。いまの自分っていうのは、まさに「偶然≒非意味的切断」の産物なんだよ。
5年前から今を目指して努力してきた直線の延長上には自分はないんだよね。
だから、人は「勉強」するし「読書」するんだよね。
生成変化の「過程」にある自分として。
ラストに「読書からはじまる」の最終章から「分ける」と「育てる」、そして「蓄える」というキーワードを。
~~~
今日の暮らしをささえている仕組みというのは、大雑把に言えばモノを生産し、製造する。そして生産され、製造されたモノが物流し、流通していって、日々の土台というべきものをつくっている。その伝で言うと、読書というのは生産・製造に似ています。そして情報というのは物流・流通に似ています。
簡単に言ってしまえば、読書というのは「育てる」文化なのです。対して、情報というのは本質的に「分ける」文化です。
「育てる」文化と「分ける」文化というのは拠って立つものが違います。「育てる」文化の基本は、個性です。「分ける」文化の基本にあるのは平等です。今日の世界に広くゆきわたったのは平等の文化の景色です。
この国が情報社会として「分ける」力をつけるにつれて、逆に、教育社会としての「育てる」力をなくしてきたのは、ある意味では、当然の結果です。
「育てる」文化と「分ける」文化のあいだには、その真ん中のところにもう一つ、繋ぐちから、繋ぐ文化がある。それが「蓄える」文化です。
~~~
このあと、「蓄える」文化の担い手として、いつの時代も図書館があり、図書館をのあり方について問いかけてきます。
この「分ける」と「育てる」、そして「蓄える」は、「産業」だけでなく、いわゆる「教育」や「学び」のジャンルにおいても、「まちづくり」のジャンルにおいても、同じことが言えるのではないでしょうか。
いつのまにか本は「情報」を運ぶ箱に過ぎなくなった。
分けられ、選ばれ、消費されるものになった。
図書館カードは通帳化され、貸出冊数が見える化された。
民間図書館や小さな本屋さん古本屋さんをやる人たちっていうのは、そんなふうに「情報」として、分ける文化としての本ではなくて、育てる文化、蓄える文化の担い手としての場になることの大切さを本能的に感じている人たちなのではないか。
本は「育てる」し読書は「蓄える」。
そして本のある場には、千葉さん的に言えば「偶然≒非意味的切断」がある。
そうやって人は「越境」し、「生成変化」し、新たな自分となる。
その「過程」をただ、歩んでいるだけなのかもしれない。
まず「越境」するために「勉強」という乗り物が必要なんだな。
2021年08月07日
巻き込まれて越境し、ふりかえりで意味と自分を知る
8月26日(木)の愛知フォーラムは残念ながらオンライン開催となってしまいましたが、
https://www.agareimei.com/posts/19710629
昨日はそのフォーラムのリハーサルを兼ねた主に保護者対象のトーク企画でした。小さな離島で「島留学」をしている中3生の保護者の方に、フォーラムのプレゼンの予行練習に付き合ってもらいました。
プロジェクトという「場と機会」に自分を差し出すことで「見つけ合うまなび」をつくっていきたい、と。
その後30分の対話の時間。
彼の暮らす小さな村では地域の団結が強く、行事が多数行われるのだという。それに参加しているうちに、両親が目を見張るほどに変化していったのだという。
あらためて思い出したこと。
「巻き込まれる」から冒険は始まる、ということ。
検索したら過去にこんなブログを書いていた。
「冒険は巻き込まれるところから始まる」(15.2.1)
http://hero.niiblo.jp/e462263.html
世の中のロングセラーと呼ばれる冒険の物語の
スタートの多くは自分の意思とは無関係に
巻き込まれるところから始まっているのだという。
名作RPGと言われる「ドラゴンクエスト」。
生まれ育った町が何者かに襲われる。
王様に呼ばれる。「君は勇者だ。」
え?おれ?勇者?なの?
と言っているあいだに冒険は始まっている。
たぶん、そんなものなのだと思う。
8月1日のブログに、はじめに越境ありきと書いたが、
実はその「越境」とは、巻き込まれることによって起こるのかもしれない。
昨日は「地域学」のまちづくりチームの課外活動で、
新潟の沼垂商店街の見学と、阿賀町の空き家の中の整理をを行っていた。
2年生2名が参加。

おそらくはそういう視点でまちを見たことがなかっただろうな、と。
まちづくりチームを率いる
阿賀まちづくり株式会社の高橋眞也さんの人柄と情熱に「巻き込まれた」んだろうなと。
きっと冒険は、そうやって始まるんだ。
「やりたいことは何か?」とその子の意志を尋ねるのではなく、
まずは「越境」だし、それは巻き込まれることから始まる。
その現場で、心が動く。
ふりかえり心の動きをキャッチして、その活動の意味と自分を知る。
「自分」とは「何をやりたいか」なんかではなくて、「どうありたいか?」「どの方向へ向かうか?」なのだと思う。
「目標」(やりたいことやなりたい自分)などではなく「現在地とベクトル」こそが「自分」だと思う。
それを知るために、まずは巻き込まれて冒険をするんだ。
はじめに「やりたいこと」や「意志」があるのではない。はじめに「巻き込まれての越境」があり、その行動を振り返ることで行動の意味と自分を知るんだ。
世の中は「挑戦」に偏重し過ぎているのではないか。
意志があり、やりたいことがあり、挑戦がある。
しかし。
予測不可能なVUCAの時代(社会)が来ている、ということにはみんな同意をしているはずなのに、なぜ「挑戦」に価値を置くのだろうか。予測不可能な時代において起こっていることは、単純に「目標設定の価値の(相対的な)低下」である。だって、その方向に未来がないのかもしれないからだ。
オリンピックのような競技を見ていると、やりたいこと、なりたいものを決め、その目標に向かって「挑戦」することは美しいとは思うけど、実社会においては、挑戦の延長上に未来がないかもしれないのだ。
例えば、馬車が自動車に置き換わっている時に、「日本最高の馬車馬使いになるぜ」って目標を決めているかもしれないのだ。(美しいけども)
もっと感覚を、身体性を磨いて、ステキな大人(だと自分が感じる人)に心を開き、巻き込まれて、「冒険」を始めてほしい。
「挑戦」ではなく「冒険」なんだ。
「冒険」の途中で振り返りながら自分の現在地とベクトルを知るんだ。
阿賀黎明高校の「地域学」がそんな「冒険」の舞台になったらいいな、と。
https://www.agareimei.com/posts/19710629
昨日はそのフォーラムのリハーサルを兼ねた主に保護者対象のトーク企画でした。小さな離島で「島留学」をしている中3生の保護者の方に、フォーラムのプレゼンの予行練習に付き合ってもらいました。
プロジェクトという「場と機会」に自分を差し出すことで「見つけ合うまなび」をつくっていきたい、と。
その後30分の対話の時間。
彼の暮らす小さな村では地域の団結が強く、行事が多数行われるのだという。それに参加しているうちに、両親が目を見張るほどに変化していったのだという。
あらためて思い出したこと。
「巻き込まれる」から冒険は始まる、ということ。
検索したら過去にこんなブログを書いていた。
「冒険は巻き込まれるところから始まる」(15.2.1)
http://hero.niiblo.jp/e462263.html
世の中のロングセラーと呼ばれる冒険の物語の
スタートの多くは自分の意思とは無関係に
巻き込まれるところから始まっているのだという。
名作RPGと言われる「ドラゴンクエスト」。
生まれ育った町が何者かに襲われる。
王様に呼ばれる。「君は勇者だ。」
え?おれ?勇者?なの?
と言っているあいだに冒険は始まっている。
たぶん、そんなものなのだと思う。
8月1日のブログに、はじめに越境ありきと書いたが、
実はその「越境」とは、巻き込まれることによって起こるのかもしれない。
昨日は「地域学」のまちづくりチームの課外活動で、
新潟の沼垂商店街の見学と、阿賀町の空き家の中の整理をを行っていた。
2年生2名が参加。

おそらくはそういう視点でまちを見たことがなかっただろうな、と。
まちづくりチームを率いる
阿賀まちづくり株式会社の高橋眞也さんの人柄と情熱に「巻き込まれた」んだろうなと。
きっと冒険は、そうやって始まるんだ。
「やりたいことは何か?」とその子の意志を尋ねるのではなく、
まずは「越境」だし、それは巻き込まれることから始まる。
その現場で、心が動く。
ふりかえり心の動きをキャッチして、その活動の意味と自分を知る。
「自分」とは「何をやりたいか」なんかではなくて、「どうありたいか?」「どの方向へ向かうか?」なのだと思う。
「目標」(やりたいことやなりたい自分)などではなく「現在地とベクトル」こそが「自分」だと思う。
それを知るために、まずは巻き込まれて冒険をするんだ。
はじめに「やりたいこと」や「意志」があるのではない。はじめに「巻き込まれての越境」があり、その行動を振り返ることで行動の意味と自分を知るんだ。
世の中は「挑戦」に偏重し過ぎているのではないか。
意志があり、やりたいことがあり、挑戦がある。
しかし。
予測不可能なVUCAの時代(社会)が来ている、ということにはみんな同意をしているはずなのに、なぜ「挑戦」に価値を置くのだろうか。予測不可能な時代において起こっていることは、単純に「目標設定の価値の(相対的な)低下」である。だって、その方向に未来がないのかもしれないからだ。
オリンピックのような競技を見ていると、やりたいこと、なりたいものを決め、その目標に向かって「挑戦」することは美しいとは思うけど、実社会においては、挑戦の延長上に未来がないかもしれないのだ。
例えば、馬車が自動車に置き換わっている時に、「日本最高の馬車馬使いになるぜ」って目標を決めているかもしれないのだ。(美しいけども)
もっと感覚を、身体性を磨いて、ステキな大人(だと自分が感じる人)に心を開き、巻き込まれて、「冒険」を始めてほしい。
「挑戦」ではなく「冒険」なんだ。
「冒険」の途中で振り返りながら自分の現在地とベクトルを知るんだ。
阿賀黎明高校の「地域学」がそんな「冒険」の舞台になったらいいな、と。
2021年08月05日
「個」と「システム」、そして「場」と「余白」

サウナのあるオフィス、はたらクリエイト(ハタクリ)の佐久オフィスにお邪魔してきました。
(サウナ前で井上さんと)
上田オフィスはこんな感じ。

ハタクリサイト
https://hatakuri.jp/
もう、いろいろ圧倒されて「サウナめし」の試食までさせてもらって、ずっとビックリしてました。
「場をつくる」ってこういうことなんじゃないかって。
ハタクリは、サイトに書いてあるように、はたらくをクリエイトすることで仕事を楽しむ人を増やす、というミッションの元、子育て中のお母さん等がスキルを磨いて段階的に再就職していく場などを提供している。
その人と人とのコミュニケーションのデザインも試行錯誤しながらかなり作りこまれていて、これは寮運営にとってもすごく参考になるなあと思った。
ハタクリの人を育てるコミュニケーションシステム(個人の強みや性格を開示したり、フィードバックしたり、〇〇係をつくったり)は、よく「学校みたいですね」と言われるらしい。
たしかにやっていることは、学校みたいなのだけど、そのベースにあるものが「個」なのか「システム」なのかの違いがあると思った。
この前の大城さんの福祉の話ではないけど、「その人に出会う」ことを大切にしたシステムと、組織や会社を「運営・マネジメントする」ことを大切にしたシステムとの違い。いや、もちろん、「個」と「システム」は、相互に関係しあっているから、両方ともの要素が必要なのだけど。
ハタクリはそのあいだに絶妙に「場」をつくっているから、人が育ち、組織も成長していくのだろうと。
「その人に出会う」ことと、「組織を運営・マネジメントする」の動的平衡の絶妙な「場」を作れるか?っていう。
そういうアートに挑んでいるんだなあと。
たぶん「学校」も「寮(地域や家庭)」も同じで、学校はどちらかと言えば、システムを重視して、そこに適応できる人を育てていくことに重きが置かれ、寮はどちらかと言えば、「その人に出会う」ことを重視して、構成員に合わせシステムの方を育てていくことが大切なのだろう。
たぶん、場をつくる意味ってそういうことなのだろうなと思った。
その「場をつくる」ときに、必要となってくるのが、シロウト(素人)の意見なのかも。
「専門家」と呼ばれる人たちは、その世界に長く暮らしているので、当たり前を疑うことが難しくなる。
(超一流の専門家は、それをいとも簡単にやるのだろうけど。)
「私にとって建築は手段でしかない」とある学生が言っていたけど、そういう感覚こそ必要なのではないかと。「建築は手段でしかない」と言われたときに、じゃあ目的は?とかゴールは?とか聞いてしまうことこそが、近代システムの奴隷であるのかもしれないが、VUCAの時代、予測不可能な、答えのない時代において、手段が(感覚的に)分かっているということには大きな意味があるのだと思った。
専門家ではないからこそ、それを手段としていろんな目的地への行き方として使うことができるのではないか。
「では、私はどこに向かっているのだろう?」というのは永遠の問いなのだから、それを早いうちに決めてしまう必要は必ずしもない。(決めることでの安心感はもちろんある)
今回の遠征で出会ってしまった2冊の本

「シェルパ」と道の人類学(古川不可知 亜紀書房)

季刊誌『tattva』vol.2「にほんてき、ってなんだ?」(ブートレグ)
「シェルパ」はヒマラヤの山岳ガイド「シェルパ」について考察した人類学の論文の書籍化。
希望とは、もともとあるとのだともいえぬし、ないものだともいえない。それは、地上の道のようなものである。もともと地上には、道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。(魯迅「故郷」)
いきなり魯迅の言葉がすごくて購入。
希望ってそういうものかと。
「道とは何か?」っていい問いだなあと。
もうひとつのtattvaは、にほんてきってなんだ?のあとに、いとなみ、たのしみ、アイデンティティ」って書いてあり、これはヤバい、と思ったのと、冒頭の黒川雅之さんのところにビビっと来たので。
~~~
西洋文化の市場価値は「知」、日本が大切にするのは「美」
例えば、車のハンドルには「遊び」がちりばめられています。ダイレクトではなく、ちょっと動かしてから反応する。人間の動きに完全にシンクロできてしまったら、すごく運転しにくい車になります。
この「遊び」は、人間がハンドルを操作するという行為とメカニズムとの間をつなぐために設けられています。そう考えると理詰めのものをつなぐあいまいな余白、つまり「間」のようなものを「遊び」と言っているのではないか。そして、余白をあえて埋めない「遊び」の感覚が、ものづくりから日々の暮らしまで隅々にちりばめられていたのが、日本文化の豊かさにつながっていたのではないかと思うのです。
しかし、そうした日本人が持っていたはずの美意識は、「知」を中心に置く西洋的価値観に染まった現代ではかなり失われています。では、どうすれば取り戻すことができるのでしょう?
日本の美意識を支えているのは、肌で感じ、香りを嗅ぎ、触れてわかる身体的な感覚です。細部を重視するので、表面的な形はシンプルになっていきます。ただ同時に「シンプルが至上である」というルールもないので、調和をあえて壊す型破りな側面もあります。ひとつの価値観に固定化されようとすると、そこに居心地の悪さを感じ、創造のために破壊するのです。そのため常に揺れ動き、確固とした思想として捉えることを困難にしています。代わりに日本人が重視するのは、「気」であり「間」であり、つまりは感覚的な調和感です。
~~~
そうか。日本的な美は、調和的なものなのだなあと。
そして調和的なものというのは、「あいだ」というか「余白」が大切なのだと。
はたらクリエイトのオフィスにある「純信州産サウナ」のような。
「個」と「システム」のあいだに「場」があり、その「場」には「余白」が必要なんだ。
その「場」と「余白」があることで、「個」と「システム」はうまくやっていける。
たぶん、そんな「場」と「余白」を作りたいんですよね、となんとなくあいまいに思っています。
2021年08月01日
はじめに「越境」ありき

オンライン劇場ツルハシブックス
昨年5月から毎月1回開催。
なんだろうな。
気軽な哲学対話な時間って感じですかね。
なんとなくやっているのは僕の「問い」仲間をゲストに呼んでのトークセッション
※来月の8月28日はついに細井岳さん登場です!
今回は、デンマーク・フォルケホイスコーレに留学中の大城美空さんとの時差7時間トーク。
あっという間に時間が過ぎて30分も延長しちゃいました。
まずは僕のふりかえりメモから
~~~
はじめに意志ありきではなく、はじめに越境ありき。
「失敗を恐れずに挑戦しろ」ではなくて、「直感で動け、そうすれば失敗しかないのだから。」
直感と好奇心で始めるから面白い。
目的や目標から始めると面白くない。
「予測不可能性」こそがエンターテイメントだから。
相手の分かる言葉で話しているか?
「自由の相互承認」は、言葉で言うのは簡単だけど、実際はすごくスッキリしないあいまいなもので、立場や意見の違いをかみしめてその場の納得解(妥協点)を探っていくことの繰り返しで、「決めたから守る」というのものではなく、永遠にその問いが繰り返される。
僕たちはいつのまにか「効率化」という宗教に飲み込まれてしまっているのではないか。
ひとりひとり「個」のために福祉がある。しかし(この国における)福祉は制度であり、制度とはルールを決めることだ。ルールを決めなくては判断ができない。しかし、そのルールによって人は区分けされ匿名化する。
肉体的背景、精神的背景、社会的背景、文化的背景、すべてがその人を構成している。
「哲学」も「承認」も他者から教えられたり与えられたりするものではなく、思考と実践(試行)のあいだを往復することによって徐々に自分の中に形成されていくものだ。
「人材育成」は効率化できるのかもしれないが「人を育てる」とか「人が育つ場をつくる」っていうのはとてつもなく非効率な営みなのだなあ。
ルールや立場を固定すると「安定」が得られる。
しかし、そこでは1回1回の真剣勝負が失われる。
ルールや立場(肩書き)は人を匿名化し交換可能にする。
「属人的である」ということは、いまこの瞬間の関係性が大切にされ再現可能性が低い。
「誰でもできる」ことは、継続的であり再現可能性が高い。
ルールやマニュアルはなんのためにあるのか?
ルールがないということは自由であるということではなく、思考し続けないといけないということ。
どのくらいのスパンの時間軸で「効率性」「成長」を目指し、測るのか?
「立場」を演じているうちに「自分」を失っていっていないか。
ルールを作っていく、ということはふりかえりが必須である、ということ。
「迷いがある」「悩みがある」ことを肯定する。
ふりかえり⇔反省、愚痴
プロであること:「迷わないこと」ではなく「考え続けること」
~~~
僕たちはいつのまにか「効率化」という宗教に飲み込まれてしまったのではないか。
デンマークのエピソードを聞いて、そんな風に感じた。
決められたルールを守ること。
それを当たり前だと思っていた。
今回、大城さんは新型コロナウイルス危機の最中にデンマークで暮らし、共同生活の中で、外出をどう制限すべきか、について、話し合ったという。毎日酒を飲むようなお酒好きな人たちは、酒を買い出しに行きたいといい、そんなにお酒を飲まない人たちは、リスクが高いからやめたほうがいいと主張する。
自分も意見を言いながら、相手の顔を見ると、「うわ、面倒なことを言って・・・」というような顔をしている。なんらかの結論が出るのだが、なんだかスッキリしない。もやもやしていると、「こういう話がすっきり終わるはずないよね~」と当たり前のように言われる。そしてルールについて守らないヤツがいたりするので、以降も何度も話し合われ、ルールが微妙に変更されたりする。「みんなでルールを決めて、それを守ること」が当たり前だと思っていた自分に気がつく。
苫野一徳さんによれば、公教育の目的は「自由の相互承認」に在るという。
参考:価値観の多様化とは、明確な価値が失われたのと同義語である(15.6.26)
http://hero.niiblo.jp/e469959.html
参考2:「共同探究者」になるということ
http://hero.niiblo.jp/e489119.html
「自由の相互承認」と、言葉で書けば7文字でしかないのだけど、
それはとてつもない「非効率」な営みによって実現されるんだということ。
もうひとつ。フォルケには「先生」と敬称付きで呼ばれる人はいない。校長でさえファーストネームで呼ばれることもある。
そもそもルールとか立場(肩書き、役割)ってなんのためにあるんだろう?って。
ルールや立場を固定化すると、「安定」を得られる。しかし、その「安定」は同時に1回1回の真剣勝負の場を失うことと同義だ。ひとりの生身の人間として一期一会の場に臨んでいるんだという自覚を失う。
「ルールを決めて守ること」
「立場(肩書き、役割)を決めてその責任を果たすこと」
が当たり前だと思っている私たちは、「効率化」という宗教に飲み込まれてしまっているのかもしれない。
VUCAの時代、予測不可能な時代だと言われる。
答えのない時代だ、とも言われる。
社会が大きく変化するときだ、とも言われる。
社会が大きく変化し続けているとしたら、その社会に合わせて、いまのチームの、場の構成員に合わせて、ルールを変化させ続ける必要がある。
だから、考え続けなければならない。
対話し続けなければならない。
ふりかえり続けなければならない。
それはものすごく「非効率」な営みなのだ、と。
デンマークは第二次大戦後、「教育」「福祉」「医療」に力を入れてきた。この3つは別々ではなく、それぞれの仕事に携わる人には共通の哲学を身に付けている必要があるという。
その「哲学」に近いものが、このページに書かれている「デンマーク・スタイル」なのだろう。
http://www.capnochokinbako.jp/denmark/style/
「指導から支援へ」:スタッフは問題を解決するためのサポーターであること。
「上下関係から対等な立場へ」:人としての敬意をはらい、信頼関係を築くこと。
「すべての支援はコミュニケーションから」:言葉だけがコミュニケーションではないことを知り、コミュニケーションスキルを模索すること。
「機会を与えること」:人と交わる機会、社会と交わる機会、自然と交わる機会
ミクさんが言っていた「その人に出会う」という福祉の出発点。
それをひたすらにやっていくことなのだろうと思った。
最後に、あらためて「越境」について。
まずは「越境」してみること、なのだろうと。はじめに「意志」「挑戦」ありきではなく、はじめに「越境」ありきだ。
「直感で動け、そうすれば失敗しかない」これはミクさんの恩師、長岡先生からのメッセージだ。(たぶんこれ。言い方ちがうかも)
参考:「計画できない」という前提で、直感と好奇心で動き続ける(19.7.24)
http://hero.niiblo.jp/e489583.html
「やりたいことは何か?」
じゃなくて、はじめに越境があるんだ。
ミクさんが大学時代から続けてきたように、
越境し、そこにいる人たちと場を共にすること。
違和感をキャッチし、表現し、ともにルールを作っていくこと。
対話し、ふりかえり、次のルールを考えていくこと。
その繰り返しでしか「自らの未来をつくる」ことはできない。
小さな小さな、非効率な営みの先にしか、僕たちの未来はないのかもしれない。
その未来へ、15歳~18歳と一緒に歩んでいくこと。
それが僕にとっての高校魅力化プロジェクトです。
本日も「地域みらい留学合同オンライン説明会」でお待ちしています。
https://c-mirai.jp/schools/18
高校魅力化プロジェクトのページ
https://www.agareimei.com/