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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2021年10月24日

「見つけた、つくった」に向かう生態系


「役に立たない研究の未来」(初田哲男・大隅良典・隠岐さや香 柏書房)

またしてもタイムリーな本でした。
「探究」をドライブするのはなんなのか?
山崎糀屋・山崎京子さんを突き動かした「好奇心」は
基礎科学の研究者の原動力でもあるようです。

この本でのとても大切なテーマは「役に立つ」と「役に立たない」です。
いわゆる「基礎研究」と呼ばれる分野は有用性が(すぐには)分かりづらいので、
しばしばそのような議論にさらされると言います。

本書44ページには
「役に立つ」知識と「役に立たない」知識との間に、不明瞭で人為的な境界を無理やり引くのはもうやめよう、として、基礎研究の特徴が以下のようにまとめられています。

1 基礎研究はそれ自体が知識を向上させる
2 基礎研究がしばしば予想外のかたちで、新しいツールや技術をもたらす
3 好奇心を原動力とする基礎研究は、世界レベルの学者を惹きつける
4 基礎研究によって得られる知識の大半は公共の財産となる
5 基礎研究の最も具体的な効果はスタートアップ企業というかたちで現れる。
~~~

そうか、基礎研究の原動力は「好奇心」なのか。

この本のラストに隠岐さんが以下のように言っている。

~~~
一般的に「何かに役に立つ研究」の動機は、「Xのために役立つからYを研究したい」といったかたりで表明されます。すると、内容はどうであれ、その人の関心はXとYとに分散していることになります。場合によっては研究対象のYよりXのほうが大事なことすらあるかもしれません。

それに対して「とにかくYを研究したい」という場合、その人は基本的にYのことしか考えていないはずです。すぐには役に立たないとされる研究の多くは、このように研究対象自体への純粋な関心により成り立つものが多いように思います。

自然科学の基礎研究なら、Yのところになんらかの自然現象が入ります。人文社会系の研究の場合、そこには人間社会に存在する対象が当てはまります。
~~~

うわー、これは厳しい指摘。
探究をプロジェクト型学習だとすると、私たちは、隠岐さんの言うXつまり目的を大切にしすぎているのではないか?

SDGsに当てはまるとか、地域の活性化や、空き家の解決だとか。
もしくは顧客は誰で、その人がどうなったら幸せなのか?

それを言語化していくことは、そんなに大切なのだろうか?と。
もっと「好奇心」そのものを出発点にできないだろうかと。

その「好奇心」そのものが学校および学校型社会によって削がれてしまう、
というのなら、それを取り戻すところから始める必要があるのではないか、と。

だからこそ振り返りで「印象に残ったこと、面白いと思ったこと、疑問に思ったこと」を
継続して問い続けないといけないのではないか、と。

僕たちは呪われてしまったのではないか。
「役に立つ(=有用性)」という悪魔に。

しかもこの本で書かれているが、古代ギリシア・ローマ時代の有用性とは、便利、とか実用性という意味とは違い、共同体の繁栄の役に立つ、ということであったのだと。自分とか就職とか短い射程ではなく、共同体とか人類の未来だとか、空間的時間的に広い射程の中で「有用性」を捉えていくことが必要になってきているのだと思う。

なるほどなあ。
そもそも役に立つとか、インセンティブとかそういう考え方が「好奇心」そのものを奪ってきたのかもしれない。

さらにこの本で出てくる「科学」とは何か?というところ。

~~~
1を100にする時には選択と集中は有用だがゼロをイチにする時には使えない。

「科学」というものは、原理や普遍性や法則性を「発見」する過程です。一方の「技術」とは、「発明」という言葉に代表されるものです。

科学の本質は自分で「問い」を見つけることにあります。

科学は「文化」の一つである。陸上で新記録が出たとか、ベートーヴェンの音楽に感動するだとか、儲けにも「役に立つ」にもつながらない感動が、科学にもあるのです。
~~~

これさ、「科学」を「学び」や「探究」に換えても、同様のことが言えるのではないか、と。
高校生や大学生のうちから、「役に立つ」にフォーカスしなくてもいい。
むしろそのフォーカスが、学びを狭くしているのではないかと。

さらにつづきます。

~~~
それが大事な研究課題だったら、いずれどこかで大きな分野に育っていくだろうし、そもそもそんな予測は立てられないし、本人にもわからないのですよ。やってみる以外に解はないのです。

自分ではこうに違いないと信じるのだけど、それが必ずしも100パーセント当たるわけでもない。それがサイエンスという営みなので、そういうものなんだと思うことも、私は同じくらいに大事だと思っています。

一人の天才が急に現れて、すべての理論ができあがったわけではまったくなくて、結局、氷山の一角なんですよね。たまたま機が熟し、そのひとの能力もあいまって、新しい発見や発明が出てきたというだけ。

サイエンスという生態系により、新たな発見が生まれるんだ。科学は堤防を決壊させる地点にいた人だけで進んできたのではなく、アインシュタインでさえその例外ではありません。
~~~

そっか。「営み」の中の「場」の一員として、そこにある、って感覚なのかもしれないな。
つくりたい「まなびの生態系(まなびサイクル)」はきっとそういうイメージだと思いました。

高校生への問いかけは、
この3年間で何を達成したか?と問うのではなく、
この3年間何を発見したか?と問うべきなんだろうな。
顧客も、ミッションも、価値も、自ら「発見」しないとね。

マイプロジェクトで語るべき「君だけのドラマ」は
その「発見」のストーリーなんだよな、きっと。

「変わりたい」「変わった」は目的・目標ではなくて結果なんだよね、きっと。
見つけた、つくった。その先に「変わった」が結果としてある。
フォーカスすべきは見つけた、つくった、なのではないか。

「見つけた、つくった」に向かうとき、高校生と大人のあいだに上下関係も師弟関係もなく、ただただフラットな同志というか仲間というかそういう関係がある。

つくりたいのは、そういう生態系です。  

Posted by ニシダタクジ at 08:56Comments(0)学び日記