2021年12月31日
オープンであること
オープンであること。
他者に対し、オープンであること。
変化に対し、オープンであること。
そのために
感性をオープンな状態にすること。
身体性をオープンな状態にすること。
たぶん、そういうのが大切なのではないかと。
サウナブームとは何か?
・身体の開放(デジタルから離れる)
・体感の共有(非日常空間)
・からのビール(食事)
で、仲良くなれるってことじゃないか。つまり「ごはんいこう」っていうのの延長。
それを東京にいながらできる、っていうことなのではないか。
でも本質的に「ひらく」ためには、東京を脱出する必要があるのかもしれない。
それは、言い換えれば、「評価と適応-脳」の世界と「表現と衝動-体(心)」の世界との行き来をする、ということなのかもしれない。
昨日の話で言えば、「複業」の話。営利・非営利にかかわらず複業が必要なのは、ニーズに応えるというビジネスと自己を表現していくというアートとのバランスを自分の中でとっていくことが必要だから、なのかもしれない。
【PM理論】
三隅二不二(みすみ じゅうじ)が1966年に提唱した。リーダーシップの要素をP:Performance「目標達成能力」M:Maintenance「集団維持能力」の2つの能力要素で構成されるとし、目標設定や計画立案、メンバーへの指示などにより目標を達成する能力(P)と、メンバー間の人間関係を良好に保ち、集団のまとまりを維持する能力(M)の2つの能力の大小によって、4つのリーダーシップタイプ(PM型、Pm型、pM型、pm型)に分けた。
【組織の成功循環モデル】
ダニエルキムが提唱。結果を求めるために行動を刺激し、思考が偏り、関係が悪化するのではなく、まずは関係の質を上げていく。関係の質⇒思考の質⇒行動の質⇒結果の質という好循環をつくる。
聴いていて思いだした本は、「アイデア資本主義」。

フロンティア消滅の時代に、頭の中のアイデアだけがフロンティアがある、と。では、組織のどこにアイデアが生まれるのか。それはグーグルに代表されるように、アイデアを出すのは、Mの能力であり、関係の質である。またPM理論をリーダーひとりで実現する必要なんてない。チームで、というより「場」で実現していけばいい。
だから、M(的チーム)で出たアイデアをP(目標設定・達成の会議)で実現していく、というプロセスを回していくことが、アイデア資本主義の時代には強い組織の条件になっていく。
ocapi(関係性診断ツール)
https://ocapi.jp/
【ふりかえりを起点に言語化練習をする】
企画⇒実行⇒振り返りというサイクルではなく
体験⇒ふりかえり⇒弟子入り⇒ふりかえり⇒企画⇒実行⇒ふりかえりというサイクル。
「ふりかえり」も、感情ふりかえり=選択制で言葉を選ぶものから自由記述まで行えるように。
バリューカード
https://wevox.io/valuescard
【オンライン本屋】
社長から本棚説明動画を必ずもらう⇒ラジオで連動
本を選ぶサービスをリアルまたはオンラインで行う。
「本の処方箋」サービス付き宿泊プラン。
【寮の運営】
「身体性」:打楽器を取り入れられないか?
【アマチュアであること】
気になるお店(宿)リスト。
講 大津百町
https://hotel-koo.com/
あわ居
https://www.awai-itoshiro.com/
Tsuji-que
https://tsuji-que.amebaownd.com/
焚き火ラウンジ
https://www.snowpeak.co.jp/contents/takibilounge/
「場」をともにつくる。たぶんそれがこれからのキーワードになっていく。
アマチュアであることだと思った。完成されない、ということ。
店員(店主)とお客という固定された関係ではないこと。
「関係」にフォーカスすれば、それは瞬間瞬間変化し続ける。
そこに完成というのはない。宮沢賢治さんが言えば、「永久の未完成、これ完成である」だ。
まるで即興演劇のように。
2度とない一回性の高い「場」をつくる。
感情や価値観が揺さぶられるような、そんな「場」をつくる。
そこには季節性と関係性、そして身体性が大切になってくる。
ツルハシブックスという劇場は、「関係性」に特化した「場をともにつくる」だったのかもしれない。
店員とお客の境界を溶かしていくことで、一回性の高い「場」を生み出した。
「ツルハシに行けば、誰かに会えるから」という場を生み出した。
その関係性に、「季節性(感)」と「身体性」をプラスする試み、それが温泉を核とした今回のプロジェクトになっていくのだろう。
さらにそれは、温泉+本屋だけで完結しない。
町へと拡張していく。「季節性」と「身体性」を高め、身体と心をさらに開放するために。
町をあるく。登山をする。焚き火をする。町の人や高校生と話をする。
そのひとつひとつが、一回性の高い、特別なものとなる。
その「機会」を高校生は「発見」と「学び」に変える。いや、高校生だけじゃない。
旅人たちも「発見」と「学び」というお土産をもらう。
心とからだをまず開くこと。ごはんを食べること。対話をすること。そして、本を選ぶこと。
たぶんそういう「場」をともにつくりたいのだなあ。
他者に対し、オープンであること。
変化に対し、オープンであること。
そのために
感性をオープンな状態にすること。
身体性をオープンな状態にすること。
たぶん、そういうのが大切なのではないかと。
サウナブームとは何か?
・身体の開放(デジタルから離れる)
・体感の共有(非日常空間)
・からのビール(食事)
で、仲良くなれるってことじゃないか。つまり「ごはんいこう」っていうのの延長。
それを東京にいながらできる、っていうことなのではないか。
でも本質的に「ひらく」ためには、東京を脱出する必要があるのかもしれない。
それは、言い換えれば、「評価と適応-脳」の世界と「表現と衝動-体(心)」の世界との行き来をする、ということなのかもしれない。
昨日の話で言えば、「複業」の話。営利・非営利にかかわらず複業が必要なのは、ニーズに応えるというビジネスと自己を表現していくというアートとのバランスを自分の中でとっていくことが必要だから、なのかもしれない。
【PM理論】
三隅二不二(みすみ じゅうじ)が1966年に提唱した。リーダーシップの要素をP:Performance「目標達成能力」M:Maintenance「集団維持能力」の2つの能力要素で構成されるとし、目標設定や計画立案、メンバーへの指示などにより目標を達成する能力(P)と、メンバー間の人間関係を良好に保ち、集団のまとまりを維持する能力(M)の2つの能力の大小によって、4つのリーダーシップタイプ(PM型、Pm型、pM型、pm型)に分けた。
【組織の成功循環モデル】
ダニエルキムが提唱。結果を求めるために行動を刺激し、思考が偏り、関係が悪化するのではなく、まずは関係の質を上げていく。関係の質⇒思考の質⇒行動の質⇒結果の質という好循環をつくる。
聴いていて思いだした本は、「アイデア資本主義」。

フロンティア消滅の時代に、頭の中のアイデアだけがフロンティアがある、と。では、組織のどこにアイデアが生まれるのか。それはグーグルに代表されるように、アイデアを出すのは、Mの能力であり、関係の質である。またPM理論をリーダーひとりで実現する必要なんてない。チームで、というより「場」で実現していけばいい。
だから、M(的チーム)で出たアイデアをP(目標設定・達成の会議)で実現していく、というプロセスを回していくことが、アイデア資本主義の時代には強い組織の条件になっていく。
ocapi(関係性診断ツール)
https://ocapi.jp/
【ふりかえりを起点に言語化練習をする】
企画⇒実行⇒振り返りというサイクルではなく
体験⇒ふりかえり⇒弟子入り⇒ふりかえり⇒企画⇒実行⇒ふりかえりというサイクル。
「ふりかえり」も、感情ふりかえり=選択制で言葉を選ぶものから自由記述まで行えるように。
バリューカード
https://wevox.io/valuescard
【オンライン本屋】
社長から本棚説明動画を必ずもらう⇒ラジオで連動
本を選ぶサービスをリアルまたはオンラインで行う。
「本の処方箋」サービス付き宿泊プラン。
【寮の運営】
「身体性」:打楽器を取り入れられないか?
【アマチュアであること】
気になるお店(宿)リスト。
講 大津百町
https://hotel-koo.com/
あわ居
https://www.awai-itoshiro.com/
Tsuji-que
https://tsuji-que.amebaownd.com/
焚き火ラウンジ
https://www.snowpeak.co.jp/contents/takibilounge/
「場」をともにつくる。たぶんそれがこれからのキーワードになっていく。
アマチュアであることだと思った。完成されない、ということ。
店員(店主)とお客という固定された関係ではないこと。
「関係」にフォーカスすれば、それは瞬間瞬間変化し続ける。
そこに完成というのはない。宮沢賢治さんが言えば、「永久の未完成、これ完成である」だ。
まるで即興演劇のように。
2度とない一回性の高い「場」をつくる。
感情や価値観が揺さぶられるような、そんな「場」をつくる。
そこには季節性と関係性、そして身体性が大切になってくる。
ツルハシブックスという劇場は、「関係性」に特化した「場をともにつくる」だったのかもしれない。
店員とお客の境界を溶かしていくことで、一回性の高い「場」を生み出した。
「ツルハシに行けば、誰かに会えるから」という場を生み出した。
その関係性に、「季節性(感)」と「身体性」をプラスする試み、それが温泉を核とした今回のプロジェクトになっていくのだろう。
さらにそれは、温泉+本屋だけで完結しない。
町へと拡張していく。「季節性」と「身体性」を高め、身体と心をさらに開放するために。
町をあるく。登山をする。焚き火をする。町の人や高校生と話をする。
そのひとつひとつが、一回性の高い、特別なものとなる。
その「機会」を高校生は「発見」と「学び」に変える。いや、高校生だけじゃない。
旅人たちも「発見」と「学び」というお土産をもらう。
心とからだをまず開くこと。ごはんを食べること。対話をすること。そして、本を選ぶこと。
たぶんそういう「場」をともにつくりたいのだなあ。
2021年12月29日
「ニーズに応える」と「人生を経営する」のあいだ

TATTVA vol.3
盛岡市のBOOK NARDさんで購入。
年末年始読みたい本がたくさんありすぎて少しずつ読んでいきます。
P20 はたらきがいをめぐる哲学 萱野稔人
「はたらきがい」っていうのは、昨年のえぽっく取材インターン「ひきだし」でもテーマだったのだけど。
ここでは、哲学者ハンナ・アーレントが「人間の条件」で記した「労働」「仕事」「活動」が紹介されている。
本書によれば
「労働:生命維持のための活動」
「仕事:生命維持を超えたレベルで人工物を作ろうとする活動」
「活動:他の人間とのかかわりの中で生じる公共的な問題を解決していく活動」
と大まかに分けられ、アーレントが「活動」を重視したと説明されている。
そして「活動」には言論が必要であるとし、言論による活動こそが人間にとって重要だとした。
~~~以下引用
アーレントは人間のアイデンティティについて、人格的アイデンティティと肉体的アイデンティティに分けて考えました。
肉体的アイデンティティとは、その人に備わった身体的な特徴です。
人種、性別、年齢などにもとづき、その人が「なに(What)であるかを示します。
人格的アイデンティティとは、身体的な特徴とは関係なく、その人が公共的な空間を作り上げるために何を述べているか、どのような「活動」をしているかによって提示されます。つまり、言論活動によって示される、「何者(Who)」であるかを問うアイデンティティのあり方なのです。
~~~
本書で萱野さんは「活動」、つまり言論を重視する社会が、「クリエイティブであれ」という息苦しさを生んでいると説明します。
「労働<仕事<活動」という関係、つまり言論活動を肉体労働よりも上位に置いているニュアンスは「はたらきがい」を考える上で危険であると言います。
~~~ここから引用
アーレントの言う「活動」を上位に置く社会とは、突き詰めると「人間はクリエイティブでなければならない」「コミュニケーション能力が高くなければならない」という別の息苦しさに結びついてしまう社会でもある。
言論をうまく操ることができる人が高い評価を得て、そうでない人たちは取り残されていく。実際、そこの格差は大きな社会問題になっています。
私たちはあらゆる存在が価値あるものとして認識されるには、言論によってその価値が定義され、評価される必要があると考えがちです。
<労働とは行為以外のなにものでもなく、共に働く者は、日々の振る舞いによってのみ相手を評価し、自分を証明する>(佐川光晴 牛を屠る)
言論によってでなく、行為によって存在意義を認められる世界がそこには描かれています。それは「社会に対して何を論じるか」という公共的な側面からの評価ではなく、「仕事ぶりのみによって、その人の価値が証明される」という考え方です。
「はたらきがい」について考えるとき、「行為によって価値が証明される」という考え方は、言論を重視する考え方と同じくらい大切なものだと思います。クリエイティブであること、コミュニケーションに長けていることだけが人間の価値を測る指標ではないからです。
むしろ、これからの働き方をめぐる哲学の問題は、アーレントが光を当てなかった「労働」としての活動について、そこに従事する人たちが、自ずと尊厳を感じられるような社会的な価値を、いかに確立していくかにあるのではないか。人間が生存維持のために行っている原初的な「労働」活動の価値を、いかに社会的に表現していくか。そこにあるのではないかと思います。
~~~ここまで引用
ああ、それだ。
って。
人間の「よろこび」はどこにあるのか?って。
人間の、というか「わたしの」ですね。
「価値は言論によってのみ定義されるものではない」
そうだよ。「価値」は感じるものだったはずだ。
他者から評価されて得られるもの「だけ」じゃない。
高校生の探究的学びや課外活動は
その「よろこび」の発見と検証、そして再現なのではないか。
大切なのは「身体性」だし、「価値」を肌で感じること。
言論、つまり「発見」の言語化(単語・キーワード)がその次にあり、
さらにそのあとに、「気づき、学び」というメタ化された言論がある。
ゴールが決まっている(あるいは課題が明らかである)ものに対しての活動(この場合はアーレントの言う労働も仕事も含む)は、何かが足りないのではないか、と思った。
僕たちは、「他者から評価される人になる」ために学んでいるのだろうか?
「ニーズに応える」というビジネスのための駒として働いているのだろうか?
そういう部分もたしかにあるとして(「社会人である」っていうのはそういうことだと思う)、それよりもずっと大切なのは、「人生の経営者になる」ということだろうと思う。
「人生を経営する」は、起業して新たな会社を立ち上げる、ということを意味しない。サラリーマンであっても、公務員であっても、「人生を経営」しなくては生きていけない。
それは決して「個人戦」ではない。足りないリソース(経営資源)は、補っていくしかない。(えぽっく的に言えば「リソースの拡張」だ)
そして、アーレントの言うように、「言論」だけに価値があるわけではない。「労働」の喜びを感じられる瞬間があるはずだ。それを感じるにはもっと体と心を開放しなければならない。
「経営の神様」ドラッカーが語った、経営に必要な5つの問い。
1 ミッションは何か
2 顧客は誰か
3 顧客にとって価値は何か
4 成果は何か
5 計画は何か
僕が高校生のうちに、いや、一生を通じて、「人生を経営する」ために必要なのは、「顧客は誰か、顧客にとっての価値は何か」だと思う。それを自分の中で問い続けることが大切なのではないか。SDGsを入り口に探究をスタートしてもよいと思うが、そこには「顧客は誰か?顧客にとっての価値は何か?」を考える余地・余白が足りないと思う。
もちろん、どちらかが正しいというわけではない。「ニーズに応える」と「人生を経営する」のあいだを、人は生きていくのだから。
「ニーズに対し最速で、最小のコストで応えること」は長らく価値を生んできた。というよりも、価値のど真ん中だった。しかも、高校生や大学生の場合は、「時間」というコストが少なく考慮されている。
しかし、今は、ニーズそのものが消滅、あるいはニーズが多様化・複雑化されてしまった。その世の中においては、ニーズそのものを探りながら、試作品を出して、反応を見て、同時に、提供している時の自分自身の感情を感じながら、新たな商品・サービスを創っていくことが必要なのではないか。
私は大企業や役所に入って、それは自分ではなくて専門の部署がやりますから、自分は言われたことをやります。っていう人生戦略を取れる人が何%いるのだろうか?
明らかなニーズ、明らかな課題に対してのアプローチをとること、それは教科書的には大切だと思うし、評価する方も評価しやすい。それだけではなく、「人生を経営する」ために自分を知り、世の中を知り、試作版を作り、お客さんと自分の反応を見ること。
「ニーズに応える」と「人生を経営する」のあいだに、自らの「存在」そのものを創っていく必要があるのではないか、と僕は思っている。
2021年12月26日
「暮らし」という当事者たちの舞台

「くらしのアナキズム」(松村圭一郎 ミシマ社)
読み進めています。
年末年始に読みたい本です。
シビれる1冊です。
熱く問いかけられます。
~~~以下メモ
21世紀のアナキストは政府の転覆を謀る必要はない。自助をかかげ、自粛にたよる政府のもとで、ぼくらは現にアナキストとして生きている。
「公」とか「公共」といえば、お上のやることだと信じられてきた。今度はそれを企業など別の誰かにゆだねようとしている。ぼくらはどこかで自分たちには問題に対処する能力も責任もないと思っている。でも、ほんとうにそれはふつうの生活者には手の届かないものなのか。
アナキズムには、国にたよらずとも、自分たちで「公共」をつくり、守ることができるという確信がある。
どんな思想も「主義」が目的化すると、プロセスが犠牲にされ、正しさを競い合うゲームになる。でも、人生はプロセスそのものだ。だれも正しさのために生活しているわけではない。
おそらく、生きているうちに革命やユートピアは実現しない。たとえそうでも、「よりよき」へと向かう道のりを楽しむこと。それが大切なのだと思う。
だが歴史的に見れば、国家は人民を守る仕組みではなかった。人びとから労働力と余剰生産物を搾りとり、戦争や疫病といった災厄をもたらす。国家はむしろ平和な暮らしを脅かす存在だったのだ。
いかに国家から逃れるかが、生存にとって重要だった時代が長く続いた。
保守的アナキストを名乗るオードリー・タンは「保守的である」ことは進歩の名のもとにこれまでの文化を犠牲にすることなく、多様な伝統的価値を大切にすることであり「アナキズム」を「暴力や権力で威圧できる、既得権益などを独占している、ただそれだけの理由で他者を従わせてはならない」と定義する
政治家が主権者によって選ばれ、その同意の範囲で政治的な役割をはたす。それを真の意味で実践していたのは現代の民主主義をかかげる国家ではなく、「未開社会」とされた国家なき社会だった。
グレーバーはいう。ある集団が国家の視界の外でどうにかやっていこうと努力するとき、実践としての民主主義が生まれる。
ぼくらが学校で学ぶ歴史は国家の中心から描かれた「国史」だ。だから、文明化した国家の中心が先進的な優れた場所で、その価値観になじまない周辺の僻地は遅れていて、そこに住む人びとは「野蛮人」として描かれる
山の民は、国家空間にとりこまれないために、あるいは自分たちの内側から国家が生まれないように、あえて平地とは真逆の「国家に抗する社会」をつくりだしてきたのだ。
~~~
今日は第5章アナキストの民主主義論を読んでいたのだけど、うなりましたね。
僕らは「民主主義=多数決」だと思い込んでいて、「政治=政策決定と実行」「政治参加=選挙における投票」だと思っているのだけど、そうではないと。
多数決はコミュニティを分断し、破壊するし、政治とは政策を決定することではなく、対話し続けることなんだと。
かつての村落にあった「寄り合い」のように、議論を出し尽くして(機が来たら)全会一致で決まる。
それこそが政治であり、民主主義ではないのか。
それは分断を生まないための知恵だったのではないか。
同時に、それは当事者を育ててきたのではないか。
僕たちは、「民主主義」という名の下で、投票という「政治参加」できているフリ「政治」から分断されてきた。
何か困ったことがあれば、役所に電話したり、警察に届けるのが賢明なやり方だと思わされてきた。
それは「当事者意識」を圧倒的に下げた。
「こうなっていることは俺の責任じゃない。」そう思っているを増やした。
不満があれば文句を言ったり、匿名でSNSに書き込む行動様式を手に入れた。
この本のタイトルが「くらしのアナキズム」であるように、当事者になるチャンスは「くらし」にある。
暮らしという当事者たちの舞台にたち、五感を開放し、違和感をキャッチする。
みんなが「正しい」というゴールに向かうのではなく、自らが感じた(けどまだうまく言語化できない)顧客と価値に向かっていくこと。
「今しか僕にしかこの場所でしかできないことをする。」
それは勘違いかもしれないのだけど。僕が高校生のプロジェクトを見るなら、それが一番大事。街に社会にゆさぶりと編集という魔法をかける、それが「マイ」の意味だよね。賞金がもらえる社会起業プランコンテストではないから課題解決から出発しなくていい。
暮らしの当事者になり、行動を起こす。行動を振り返り、顧客と顧客にとっての価値を何度も何度もアップデートする。
それこそが当事者を育て、「政治」を取り戻す方法なのだと思いました。
2021年12月25日
パーソナライズ化という劇場

佐藤恒平さん。
2012年の「地域仕事づくりチャレンジ大賞」での東北ブロック代表だったウサヒプロジェクト。
当時の佐藤さんの雰囲気に圧倒された。
当時の僕は、新潟市のヒーローズファームとして地域の八百屋プロジェクトで北信越ブロック代表として出場していた。
あれからすでに10年が過ぎていた。
たまにTwitterで見かけるくらいだったのだけど、佐藤さんの活動には注目していた。
2018年、新潟から車で仙台に向かったときに、朝日町の道の駅で「ウサヒ」を見つけて、ああ、って思った。
今回、来春から宿を始めるための先進地見学として、佐藤さんが手がけている「松本亭一農舎」を訪ねた。
まず驚いたのは「弊社のオフィスに来てください」
と言われて行ったのが朝日中学校。
なんと、稼働中の公立中学校の中にオフィスがあるのだという。


名付けて、スキマクラス2.5組。
今の本棚は冬のファッション特集。朝日町には高校が無く、中学卒業したら町外の高校に通うことになる。だから、今のうちにファッション知っておけよ、っていう感じ。
素敵なサードプレイス作っているなあ。
コミュニケーション・デザインがいちいち面白い。
その後、佐藤さんが手がけるゲストハウス松本亭一農舎へ。

長いようで短い夜を過ごすことになった。
~~~以下メモ
「石の魔力」
人の行動を動かすことができる石の魔力を引き出したかった。
⇒石を加工してアート作品をつくっている
⇒魔法使いとしての自分
町全体がゲームボードであり、自分(ウサヒ)はそのサイコロになりたい。
ゲームとは?
・不確定要素があり、確率があり、絶妙な予測不可能性の下に成り立っている。
ボードゲーム「タイムライン」「カタン」をローカルにつくる⇒高校生でもできる。
自分はどこまでもグレーな存在。
⇒偉い人に白って言ってもらう、ということ。
危機感ではなく未来へのワクワクが求心力になる
カタン:「ヒツジと鉄2枚を交換してください」
は常識的に考えたらあり得ないのだけどタイミングと状況によっては可能。
ブランド化とパーソナライズ化。
この人、今、この場所でしか届かないやり方がある。
「ローカル・リベラルアーツ」:この場で生きていくために必要な知識・技術
中学生・高校生への賞品は図書券ではなく現金5万円で人生が狂うまちづくりを。
「ゲーム探究」と「演劇探究」
・ゲーム探究:ルールの下で、いかに生きていくか。世の中を俯瞰(メタ認知)する。
・演劇探究:役として「場」に溶けだす。「場」との一体化。
⇒どっちも必要。
メタ・アプローチとエモーショナル・アプローチ
英雄譚を読んて、共通点を探す:メタ・アプローチ
英雄譚を読んで、感動ポイントを語る:エモーショナル・アプローチ
探究:穴を掘ること、その上で未来を描くこと。
ロールプレイング・シミュレーション
⇒「自分」と「未来」というフィクションの自覚
「謎の劇団」をつくる⇒複数の劇団に属さないと正気を保てない。
ルールの下(上)で「個人」は「個人」として存在する。
「ハウスマスターと寮生」という関係ではなく、どこまでも1人対1人。
ひとりの生活者としてフラットに対話すること。役割が違うだけ。
何者でもないけどハウスマスターを演じているに過ぎない。
コミュニケーションデザインの工夫:送迎時に音楽、you tubeの話題を教えてもらう。
マイプロジェクト⇒「衝動」を聞きたい。その「瞬間」を知りたい。
反主流ではなく、非主流として生きていくこと。
向かう場所は同じだけど、その道が違う。
世の中の「第2美術室」をつくる。
「今」「瞬間」「衝動」を大事にするマイプロ
~~~
ここまでメモ。
いちばん痛快だったのは、佐藤さんが出場した鯉釣り大会の話。
エサをオブラートに包んで川に投入する、という方法を思いついた佐藤さんは実際にやってみた。
すると毎年出場しているじいちゃんたちから「あれは違反なのではないか」とクレームがついた。
実際はルールに違反しているわけではないので、仲直りして缶コーヒーをもらったのだと。
在野のアーティスト。
僕が目指している世界を、佐藤さんはすでに生きていた。
町全体をゲームボードのように、自ら転がされるサイコロとなって、たくさんの機会と問いを生み出していた。
今回、インスパイアされたのは、
キーワードで言うと、
・パーソナライズ化
・ゲーム探究と演劇探究
・ローカル・リベラルアーツ
あたりかな。「演劇」の話では、僕がかかわってきた探究の授業がエモーショナル・アプローチに偏り過ぎていたことを実感し、反省した。(笑)
「いい大学進学⇒いい就職」という世の中を包む壮大なゲーム。
その前提が覆っている、もしくは機能しなくなっているのが今だ。
だから、ボードゲームを自分でつくるように、予測不可能性をデザインし、お客は誰かを問い、価値だと思うものを提供し、それをやっている自分は何が楽しく、うれしいのかを問いながらも、演者の一員として「場」に溶けだしている。
それを、瞬間瞬間、重ねていくこと。
素敵なプレゼントをありがとう、僕のサンタさん。

2021年12月23日
感じて、楽しむ
趣味はなんですか?と聞かれたら
「各駅停車の中での3冊並行読書」かもしれません。
昨日の3冊は

くらしのアナキズム 松村圭一郎 ミシマ社

アイデア資本主義 大川内直子 実業之日本社

学校の役割ってなんだろう 中澤渉 ちくまプリマー新書
いい3冊を選びましたね。
本質的な問いを投げかけてくる3冊でした。
いちばんアツかったのは「くらしのアナキズム」の
~~~
21世紀のアナキストは政府の転覆を謀る必要はない。自助をかかげ、自粛にたよる政府のもとで、ぼくらは現にアナキストとして生きている。
~~~
ですかね。「国家」とは何か?という根源的な問いを突き付けられる。
そして「アイデア資本主義」からは「時間のフロンティア」という概念をもらいました。
これもすごかった。
かつて「未来」というのは存在しなかったのだ。
いわゆる狩猟採集の「その日暮らし」には未来は存在しない。
農業を始めてから初めて、1年単位で計算できるようになった。
そしてそれは人々の幸せのためではなく、支配者が効率的に支配するためだ。
そもそも「やりたいことは何か?」という問いは「自分」と「未来」という二重のフィクションを信じた者にだけ発することができる問いだ。その両方がフィクションに過ぎないのだとしたら。自分も未来も本当は存在しないとしたら、そんなことを考えてもいい気がする。
さらに、「学校の役割ってなんだろう」からは、そもそも「学校」なるものが何か?と
問いかけてくる。
~~~
近代に入り、効率性や合理性を追求して生まれた組織を、社会学では官僚制組織とよびます。官僚制組織は合理的に構成されていて、組織目標を達成するために各部署で役割分担をしているわけです。ですから行うべき職務は計画的に定められ、ルール化され、それを実行していかなければなりません。
~~~
なるほど。
「効率性」と「合理性」、これが近代であり、近代に発祥した「学校」もそれに倣っているよね。
そして、もうひとつ、機能している学校の教員の関係=協働関係のポイント5つ。
1 自発性に委ねられている
2 行われている実戦に強制性や義務性がない
3 実践が発展志向である
4 同僚間でのコミュニケーションに制限を設けない
5 実践の成果はいつどのように出るかは明らかではないという不透明性があり、そのことを教員たちも理解している
これ「マイプロ」とかでも同じですよね。
つまり、学び続ける教員っていうのと。
これら3つの本から、「これから」が見えてくるような気がする。
先日、オンライン対話でもらったキーワードは「人はみな違っているということ。一方で人はみな同じであるということ」だった。
たぶんこれが対話する意味なのだろうし、創造力の源であると同時に、安心感なのだろう。
それをもっとも簡単に体感できるのは、異文化コミュニケーションであるという。
「国際交流」とはそのためにあるのだ、と。
たぶん、それだ。いちばん大切なこと。同じであることを強制されないこと。
違いこそが価値だ、とまでは言い切らないけど、創造のタネになる。
20日に発表会をしたえぽっく「取材インターンひきだし」の時のハイライト
「違和感の表明」に近い。
きっと言葉にすれば
対ヒトとしては、「違い」を感じて、楽しむこと
対自然としては、「季節」を感じて、楽しむこと
対社会としては、「場」を感じて、楽しむこと
そうやって、人は、自分の「存在」を感じて、楽しむことができるのかもしれない。
そういう「体感」が必要なんだ。

宮沢賢治先生がなぜ、教師を辞め、羅須地人協会をつくり、自ら畑に立ったのか。
「存在」のために、そういう「体感」が必要だったんじゃないか。
おお朋だちよ いっしょに正しい力を併せ
われらのすべての田園とわれらのすべての生活を
一つの巨きな第四次元の芸術に創りあげようでないか
まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう
われらの前途は輝きながら嶮峻である
嶮峻のその度ごとに四次芸術は巨大と深さとを加へる
詩人は苦痛をも享楽する
永久の未完成これ完成である
(農民芸術概論綱要より)
賢治先生の「第四次元の芸術」という問いに、僕たちはまだ応えられていない。
農民芸術概論綱要が書かれた1926年からもうすぐ100年が経つ。
その問いを果たしに、またここから始めようと思う。
「各駅停車の中での3冊並行読書」かもしれません。
昨日の3冊は

くらしのアナキズム 松村圭一郎 ミシマ社

アイデア資本主義 大川内直子 実業之日本社

学校の役割ってなんだろう 中澤渉 ちくまプリマー新書
いい3冊を選びましたね。
本質的な問いを投げかけてくる3冊でした。
いちばんアツかったのは「くらしのアナキズム」の
~~~
21世紀のアナキストは政府の転覆を謀る必要はない。自助をかかげ、自粛にたよる政府のもとで、ぼくらは現にアナキストとして生きている。
~~~
ですかね。「国家」とは何か?という根源的な問いを突き付けられる。
そして「アイデア資本主義」からは「時間のフロンティア」という概念をもらいました。
これもすごかった。
かつて「未来」というのは存在しなかったのだ。
いわゆる狩猟採集の「その日暮らし」には未来は存在しない。
農業を始めてから初めて、1年単位で計算できるようになった。
そしてそれは人々の幸せのためではなく、支配者が効率的に支配するためだ。
そもそも「やりたいことは何か?」という問いは「自分」と「未来」という二重のフィクションを信じた者にだけ発することができる問いだ。その両方がフィクションに過ぎないのだとしたら。自分も未来も本当は存在しないとしたら、そんなことを考えてもいい気がする。
さらに、「学校の役割ってなんだろう」からは、そもそも「学校」なるものが何か?と
問いかけてくる。
~~~
近代に入り、効率性や合理性を追求して生まれた組織を、社会学では官僚制組織とよびます。官僚制組織は合理的に構成されていて、組織目標を達成するために各部署で役割分担をしているわけです。ですから行うべき職務は計画的に定められ、ルール化され、それを実行していかなければなりません。
~~~
なるほど。
「効率性」と「合理性」、これが近代であり、近代に発祥した「学校」もそれに倣っているよね。
そして、もうひとつ、機能している学校の教員の関係=協働関係のポイント5つ。
1 自発性に委ねられている
2 行われている実戦に強制性や義務性がない
3 実践が発展志向である
4 同僚間でのコミュニケーションに制限を設けない
5 実践の成果はいつどのように出るかは明らかではないという不透明性があり、そのことを教員たちも理解している
これ「マイプロ」とかでも同じですよね。
つまり、学び続ける教員っていうのと。
これら3つの本から、「これから」が見えてくるような気がする。
先日、オンライン対話でもらったキーワードは「人はみな違っているということ。一方で人はみな同じであるということ」だった。
たぶんこれが対話する意味なのだろうし、創造力の源であると同時に、安心感なのだろう。
それをもっとも簡単に体感できるのは、異文化コミュニケーションであるという。
「国際交流」とはそのためにあるのだ、と。
たぶん、それだ。いちばん大切なこと。同じであることを強制されないこと。
違いこそが価値だ、とまでは言い切らないけど、創造のタネになる。
20日に発表会をしたえぽっく「取材インターンひきだし」の時のハイライト
「違和感の表明」に近い。
きっと言葉にすれば
対ヒトとしては、「違い」を感じて、楽しむこと
対自然としては、「季節」を感じて、楽しむこと
対社会としては、「場」を感じて、楽しむこと
そうやって、人は、自分の「存在」を感じて、楽しむことができるのかもしれない。
そういう「体感」が必要なんだ。

宮沢賢治先生がなぜ、教師を辞め、羅須地人協会をつくり、自ら畑に立ったのか。
「存在」のために、そういう「体感」が必要だったんじゃないか。
おお朋だちよ いっしょに正しい力を併せ
われらのすべての田園とわれらのすべての生活を
一つの巨きな第四次元の芸術に創りあげようでないか
まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう
われらの前途は輝きながら嶮峻である
嶮峻のその度ごとに四次芸術は巨大と深さとを加へる
詩人は苦痛をも享楽する
永久の未完成これ完成である
(農民芸術概論綱要より)
賢治先生の「第四次元の芸術」という問いに、僕たちはまだ応えられていない。
農民芸術概論綱要が書かれた1926年からもうすぐ100年が経つ。
その問いを果たしに、またここから始めようと思う。
2021年12月15日
不完全な人間としての自分を場に差し出すこと
「ペルソナ・マーケティング」への違和感
ようやく言語化された。いい問いをもらった。
問いフレンドに感謝。
ペルソナ・マーケティングではなくピンホール・マーケティングをやっていく、という感覚がなぜなのか?どう違うのか?
ペルソナって結局統計学でしかなくて、その中の何%が反応するか、っていう話なんだよね。
目指さないといけない地域の小さなお店がとるマーケティング手法としては使えないのではないかと。
それって、相関はあるけど原因と結果ではない、みたいな話だし、そもそも属性ってカタチだから、スピノザ的に言えば、人間の本質じゃないんだよね。もっとコナトゥス(ベクトル)にフォーカスしていくことが必要なのではないかと。
だから、手法としては、ピンホールマーケティングになるし、未来日記的なアプローチになるのではないかと。その人のコナトゥスを想像して、それを実現できる機会(可能性)を差し出すんだよね。それは「機会」に過ぎなくて、その「機会」は意図してつくることもできなくもないけど、不完全なものになっていく。
「不完全で差し出す」これが大切なんだと思った。それは場のチカラを信じることにもなるけど。
それは、マッチングアプリで結婚相手を探すのではなく、ツイッターで気の合いそうな人をフォローして追いかけてみながら会いに行く、みたいなアプローチなのかもしれない。
「プロフェッショナルであること」が良しとされ、「完全版を出せ」と求められる。その時に人は人間ではなく「機能」になってしまうのではないか。
不完全で差し出された「機会」によって、参加性と心理的安全性が増し、「場によって創られる」みたいなことが起こる。いや、そもそも、人の楽しさは、「予測不可能性」にあるのだから、不完全な機会を差し出された場の一員になる、ということそのものが楽しいのではないか。
新型コロナウイルスは、人を「素人」にした。「1か月後の未来さえわからない。」という体感。みんなが素人としてフラットになった。
そして「機能」として仕事をするのではなく「人間」として生きることを欲するようになった。
人間であるということ。不完全であるということ。場の一員にすぎないということ。
でも、参加できて、心理的な安全性があって、役割がはっきりしないということ。
ゴールなき時代に、不完全な人間としての自分を場に「差し出す」こと。
問いを得ること。
問いの旅に出ること。
問い仲間に出会うこと。
今の問いが終わること。
次の問いが始まること。
そのプロセスにいるあなたと、ともにありたい。
ともに場に差し出したい。
それが僕が本屋というメディアに託した「手紙」。
手紙を一通一通届けるような、そんなビジネスをしたいんだ。
何割の客がリピーターになるか、そんなビジネスはやりたくないんだ。
たぶん、そんな感じ。
そんな「場」をつくっていきたいね。
不完全な人間として、ね。
ようやく言語化された。いい問いをもらった。
問いフレンドに感謝。
ペルソナ・マーケティングではなくピンホール・マーケティングをやっていく、という感覚がなぜなのか?どう違うのか?
ペルソナって結局統計学でしかなくて、その中の何%が反応するか、っていう話なんだよね。
目指さないといけない地域の小さなお店がとるマーケティング手法としては使えないのではないかと。
それって、相関はあるけど原因と結果ではない、みたいな話だし、そもそも属性ってカタチだから、スピノザ的に言えば、人間の本質じゃないんだよね。もっとコナトゥス(ベクトル)にフォーカスしていくことが必要なのではないかと。
だから、手法としては、ピンホールマーケティングになるし、未来日記的なアプローチになるのではないかと。その人のコナトゥスを想像して、それを実現できる機会(可能性)を差し出すんだよね。それは「機会」に過ぎなくて、その「機会」は意図してつくることもできなくもないけど、不完全なものになっていく。
「不完全で差し出す」これが大切なんだと思った。それは場のチカラを信じることにもなるけど。
それは、マッチングアプリで結婚相手を探すのではなく、ツイッターで気の合いそうな人をフォローして追いかけてみながら会いに行く、みたいなアプローチなのかもしれない。
「プロフェッショナルであること」が良しとされ、「完全版を出せ」と求められる。その時に人は人間ではなく「機能」になってしまうのではないか。
不完全で差し出された「機会」によって、参加性と心理的安全性が増し、「場によって創られる」みたいなことが起こる。いや、そもそも、人の楽しさは、「予測不可能性」にあるのだから、不完全な機会を差し出された場の一員になる、ということそのものが楽しいのではないか。
新型コロナウイルスは、人を「素人」にした。「1か月後の未来さえわからない。」という体感。みんなが素人としてフラットになった。
そして「機能」として仕事をするのではなく「人間」として生きることを欲するようになった。
人間であるということ。不完全であるということ。場の一員にすぎないということ。
でも、参加できて、心理的な安全性があって、役割がはっきりしないということ。
ゴールなき時代に、不完全な人間としての自分を場に「差し出す」こと。
問いを得ること。
問いの旅に出ること。
問い仲間に出会うこと。
今の問いが終わること。
次の問いが始まること。
そのプロセスにいるあなたと、ともにありたい。
ともに場に差し出したい。
それが僕が本屋というメディアに託した「手紙」。
手紙を一通一通届けるような、そんなビジネスをしたいんだ。
何割の客がリピーターになるか、そんなビジネスはやりたくないんだ。
たぶん、そんな感じ。
そんな「場」をつくっていきたいね。
不完全な人間として、ね。
2021年12月13日
「目標達成」という前提に支配されない場をつくる
あさって水曜日は、月イチ開催の大学生との対話の場「にいがたイナカレッジ」プレゼンツの「とけだすラジオ」です。
全5回の2回目。
前回僕がしゃべりすぎてしまったので今回は井上さんとの対談形式にします。
ということで話すネタを整理していますが、
今回は、50代と20代のギャップについて、

「劣化するオッサン社会の処方箋」(山口周 光文社新書)
から取り上げていこうと思います。
昨日の昼間、風舟で「中動態の世界」とブログを読み直していて、
近代社会システムそのものが揺らいでいるのに、
「目標達成」を前提にいろいろなものが設計されていることが
いちばんつらいのではないかなと。
そしてそれは同時に「評価」に対しての違和感でもあるのだけど。
「評価される」ために、学んでいるわけではないはずなのに、
システムそのものが評価⇐目標達成⇐活動⇐目標設定
みたいに設計しているから、いつのまにかそれを身体化(内部化)してしまう。
「達成と成長」モデルから「発見と変容」モデルへ。それは、OSそのものを変化させることだ。
あるいは、「達成と成長」モデルを内包した「発見と変容」モデルを身につけること。
目標を達成した、しなかった結果、何を見つけたか?
やる前とやる後で、何か変化があったか?
と問い続けること。
それがもしかしたら大学生、もっと言えば高校生のうちに必要なんだ。
上記の「劣化するオッサン社会の処方箋」によれば、
参考:「30年の経験があります。」というウソ
http://hero.niiblo.jp/e489491.html
「わかるということは、それによって自分が変わることだ」(阿部勤也 元一橋大学学長)
同じ仕事を30年続けているという人は「30年の経験がある」と主張したがるかも知れませんが、脳神経科学の文脈で「経験」という言葉を厳密に用いれば、実際には「1年の経験から学び、あとは同じことを29年繰り返した」というべきです。なぜなら「経験」とは常に、新しい気づきへの契機をもたらすものだからです。同じような仕事を同じような仲間と同じようなやり方でやり続ける、というのは、「経験の多様性」を減殺させることになります。いろんな仕事を、いろんな人たちと、いろんなやり方でやったという「経験の多様性」が、良質な体験をもたらし、学習を駆動することになるのです。
「アマゾンは創業以来70以上の事業に新規参入していますがおよそ3分の1は失敗して撤退しています」チャレンジして失敗してその学びを次のチャレンジに活かす、というサイクルを高速で回しているからこそ、新規事業の成功確率をどんどん高めることができるのです。これは個人でも同様に言えることです。セカンドステージにおける失敗の経験が「どうすると失敗するのか」「失敗するときのポイントはなにか」という学びにつながり、これはチャレンジするときの心理的な抵抗感、つまり「失敗してしまうのではないか」という恐れを低減させる要素となります。
~~~
これです。「同じことをひとすじに何年もやること」そのものに価値があるのではなく、やってみたことでふりかえり、新しい気づきを得て、次のプロジェクトへと進んでいくこと。
OSの転換。「発見と変容」モデルの体感。それを20代のうちに、いや10代のうちにできるかどうか。そのためには「目標達成」という前提に支配されない「場」が必要なのだと思う。
それは「学校」とは違う空間にならざるを得ないし、僕に言わせれば、それは「本屋」であり、「地域の生活の現場(営み)」である、ということになる。
評価のための手段として学ぶのではなく、社会と自分を知るために、その接点を考え、つくっていくために、人は学びたくなるはずだ。
全5回の2回目。
前回僕がしゃべりすぎてしまったので今回は井上さんとの対談形式にします。
ということで話すネタを整理していますが、
今回は、50代と20代のギャップについて、

「劣化するオッサン社会の処方箋」(山口周 光文社新書)
から取り上げていこうと思います。
昨日の昼間、風舟で「中動態の世界」とブログを読み直していて、
近代社会システムそのものが揺らいでいるのに、
「目標達成」を前提にいろいろなものが設計されていることが
いちばんつらいのではないかなと。
そしてそれは同時に「評価」に対しての違和感でもあるのだけど。
「評価される」ために、学んでいるわけではないはずなのに、
システムそのものが評価⇐目標達成⇐活動⇐目標設定
みたいに設計しているから、いつのまにかそれを身体化(内部化)してしまう。
「達成と成長」モデルから「発見と変容」モデルへ。それは、OSそのものを変化させることだ。
あるいは、「達成と成長」モデルを内包した「発見と変容」モデルを身につけること。
目標を達成した、しなかった結果、何を見つけたか?
やる前とやる後で、何か変化があったか?
と問い続けること。
それがもしかしたら大学生、もっと言えば高校生のうちに必要なんだ。
上記の「劣化するオッサン社会の処方箋」によれば、
参考:「30年の経験があります。」というウソ
http://hero.niiblo.jp/e489491.html
「わかるということは、それによって自分が変わることだ」(阿部勤也 元一橋大学学長)
同じ仕事を30年続けているという人は「30年の経験がある」と主張したがるかも知れませんが、脳神経科学の文脈で「経験」という言葉を厳密に用いれば、実際には「1年の経験から学び、あとは同じことを29年繰り返した」というべきです。なぜなら「経験」とは常に、新しい気づきへの契機をもたらすものだからです。同じような仕事を同じような仲間と同じようなやり方でやり続ける、というのは、「経験の多様性」を減殺させることになります。いろんな仕事を、いろんな人たちと、いろんなやり方でやったという「経験の多様性」が、良質な体験をもたらし、学習を駆動することになるのです。
「アマゾンは創業以来70以上の事業に新規参入していますがおよそ3分の1は失敗して撤退しています」チャレンジして失敗してその学びを次のチャレンジに活かす、というサイクルを高速で回しているからこそ、新規事業の成功確率をどんどん高めることができるのです。これは個人でも同様に言えることです。セカンドステージにおける失敗の経験が「どうすると失敗するのか」「失敗するときのポイントはなにか」という学びにつながり、これはチャレンジするときの心理的な抵抗感、つまり「失敗してしまうのではないか」という恐れを低減させる要素となります。
~~~
これです。「同じことをひとすじに何年もやること」そのものに価値があるのではなく、やってみたことでふりかえり、新しい気づきを得て、次のプロジェクトへと進んでいくこと。
OSの転換。「発見と変容」モデルの体感。それを20代のうちに、いや10代のうちにできるかどうか。そのためには「目標達成」という前提に支配されない「場」が必要なのだと思う。
それは「学校」とは違う空間にならざるを得ないし、僕に言わせれば、それは「本屋」であり、「地域の生活の現場(営み)」である、ということになる。
評価のための手段として学ぶのではなく、社会と自分を知るために、その接点を考え、つくっていくために、人は学びたくなるはずだ。
2021年12月12日
身体性と中動態

齋藤くんのマイプロPR用動画撮影でした。
鶏肉&豆腐&マイタケの薫製、美味すぎた。
先週、山崎さんと中動態の話で盛り上がったので「中動態の世界」(國分功一郎 医学書院)と過去ブログを読み直していました。
過去ブログ検索したら、なぜ本なのか、なぜ本屋なのか、っていう最近問われた問いに対して2018年に中動態の言葉を借りて、答えていました。
なぜ本なのか、なぜ本屋なのか?(18.8.24)
http://hero.niiblo.jp/e487983.html
なぜ本なのか?
それは、本がもっとも不確実に人に影響を及ぼすからだ。意図しない変化をもたらすから。
なぜ本屋なのか?
それは、本屋空間という場のチカラによって、予測不可能性が高まり、それによって相互の影響しあうから。
先日、とある高校の先生が慶応SFC・加藤文俊ゼミだったということで盛り上がった。
僕が茨城に行ってよかったなあと思ったひとつ、「予測不可能性」というキーワードをくれた人。
予測不可能な未来に対してフラットであること(19.2.7)
http://hero.niiblo.jp/e488852.html
ひとりひとりを「個人」として大事にするんじゃなくて、「存在」として大事にする。
場を主、人を従としてみる。
そして、もうひとつ。
僕がコロナ禍のおかげでふたたび注目したキーワード「身体性」
「風の通り道」のような本屋
http://hero.niiblo.jp/e490609.html
~~~
もし、現代において支配的な産業構造のメタファーを適用するとしたら、「離散的なネットワークの中で、さまざまなアクターが自由に出会うことでそのつど一回的に価値物が創造される」というイメージになるはずなんです。
だから、教育も遠からず、工業製品だけではなく、機能とか情報とか生命力とか、そういう「かたちのないもの」を原イメージとして組織化されるようになります。
だとしたら、これからの教育は学校で斉一的に教育されるのではなく、むしろ自己教育というものになると思います。自分のための教育環境を自分で手作りして、自己教育する。そういうかたちのものになると思います。必ず、なる。
その場合の自己教育の目標は一言で言えば、複雑化ということです、教育環境を選ぶ場合に、子どもたちは「自分がそのプロセスを経由することで、どれだけ複雑になれるか」、それを問う。
いまのこの社会の犯している最大の誤謬は「単純であるのはいいことだ」という信憑です。どんな場合でも、同じように考え、同じようなことを言い、同じようにふるまう首尾一貫したアイデンティティを持った人間でなければならないという強い自己同一化圧がかけられている。
~~~
自己教育かあ。
きっと高校生がやるマイプロってそういうことだよなあと。
そういう意味では「総合型選抜」とか「社会的スキルの向上」という言語化領域をゴールにするのではなくて、身体性(快不快、共感非共感)みたいなところを知っていく旅(過程)なのだろう。
大好きだった釣りを起点にして、好奇心を発動させまくり、薫製つくったり蕎麦打ったりって、なかなかいいセンいってると思うよ。

「中動態の世界」からこの一節を。
~~~
能動では、動詞は主語から出発して、主語の外で完遂する過程を指し示している。これに対立する態である中動では、主語がその座となるような過程を表している。つまり主語は過程の内部にある。
能動と受動の対立においては、するかされるかが問題になるのであった。それに対し、能動と中動の対立においては、主語が過程の外にあるか内にあるかが問題になる。
~~~
過程の外にあるか、内にあるか。
かつてはそれが(常識的に)重要だった。
ところが、いつのまにかその態は失われた。
能動と受動(という区分)の世界だけになってしまった。
(世界の言語には、そうではない言語もたくさんあるらしい)
孤独の始まり。
それは、能動と受動の世界を分けたこと始まっているのではないか。
人は、(偶然にも)場に出会い、場に溶けて、(スピノザ的に)変状していく。
それは身体性であり、中動態な世界だ。
そんな「場」を実践すること。
それが「風舟」という舟だし、この町の環境なのかもしれない。


2021年12月04日
身体としてのヒトと頭脳としてのヒト
仙台のNPO法人ハーベストの山崎さんと勝手にビッグ対談してました。
https://www.heartbest.net/
ラジオ収録したかったな。
オンラインツルハシに今度出てもらいましょう。
~~~以下メモ
トマス・アクィナスと中動態の話から。
トマス・アクィナスについて
https://www.aiko.ed.jp/contents/chuta/?p=24589
中動態について
https://tsukubajinbun.wordpress.com/2018/07/09/
これ、まさに今直面している
探究の授業とかプロジェクト設計における
「自分」と「社会」の接点の話だなあと。
有意義⇔意義なしという軸=社会(理性)の軸と
快⇔不快という軸=自分(感情)の軸
それぞれの「プロジェクト」は、社会にとって、あるいはひとりひとりにとって
意義(理性)軸と快(感性)軸のグラデーションの中にある。
よく言われるように、
他人が苦手、やりたくない、自分は得意、苦にならないことを仕事にしろって
いうのは、まさにそれ。快(感情)軸が自分にとってプラスなのだ。
探究界隈でよく言われる「課題解決」っていうのは
完全に社会=意義=理性軸で考えていて、
課題解決をファーストにしてしまう違和感はそこにある。
しかしながら、自分=快=感情軸での振り返りだけでは、前に進めない。
マトリクスとして見れば、
縦軸を意義として、上に行くほど有意義であるとする
横軸を快として、右へ行くほど快であるとする
この右上を探していくのがキャリア形成のプロセスである。
そのためにはまず、自分の快軸を認識する必要がある。
だから感情を振り返る必要があるんだ。
「課題解決」(世間一般の意義)ではなく、
自分にとっての快(幸せ)を定義しなければならない。
その方法としてリベラルアーツ的な学びがある。
その「学び」が難しいのは、見た目上、変化しないからではないか。
自分にとっての幸福を定義することは、他者からは見えない。(感じることはできる気がする)
「個別最適化」は評価とは相いれない。
そもそも「評価軸」は、瞬間瞬間に陳腐化(時代遅れ)になっているのではないのか。
必要なのは他者からの評価ではなく、その瞬間、価値を仮定する(実感する)ことなのではないか。
だから、周りの大人たちがやるべきは
「機会」の提供であり、問われるのは機会を保証したか?ということだ。
その機会とは、中動態的に場と一体化して対話をしていくこと。
今月どうだった?来月どうする?の会を大人も高校生もやる。
行動の動機=季節性=委ねる=中動態的
プロセスとして生きていくこと
まなび⇒いとなみ=人生をどうやってつくっていくんだ?=哲学=幸せをどう定義するか?
「セクシープロジェクトで差をつけろ」(トム・ピーターズ)
シビれる⇔クソッたれを毎週3つずつ書く
小山薫堂⇒大学生に名刺を50枚渡す=カッコイイ人に会ったら交換する⇒レポート)
「観察」⇒「対話」⇒「メタ認知」⇒感性(愛)=中動態=身体論
「ふりかえりからのトークフォークダンス」⇒毎月やってもいいかも。
焚き火=人間という現象=一瞬たりとも同じではない
お風呂=身体性の解放
本=意味=インプット=機会
焚火⇒風呂⇒本
雲海を見に行く、とかの身体性の解放
~~~以上メモ
なぜ僕はふたたび本屋になろうとしているのか、少し分かった気がした。
機会を提供すること。
達成と成長ではなく、発見と変容。
それは、有意義性という縦軸と、
快⇔不快という横軸の交点をつくること。
横軸への振れ幅を「リベラルアーツ」と言い、縦軸をより上に行くことを「スキルアップ」と言う。
「キャリア形成」とは、自分が追いかけたい縦軸を見つけることだし、それを実現するのは決してひとりではなくて、チームや場の持ち方が大切になること。
身体としてのヒトと頭脳としてのヒトの交点をつくる。
いや、点じゃなくて、ひたすらにグラデーションなんだけどね。
その区分のあいまいな領域に、僕は行きたいのかもしれないなあと。
締めくくりは「ブルーハーツ 街」でした。
https://www.youtube.com/watch?v=WPjrBpmeeSE
いつか会えるよ
同じ涙をこらえきれぬ友達と
きっと会えるよ
右手と左手で何ができるだろう。
命のある限り忘れてはいけない。
今しか僕にしか出来ないことがある
~~~
いいですね。
きっと会えるし、
今しか僕にしか、僕たちでしか、この場所でしか、できないことがあるんだよ。
そんな「まなび」という営みができたらいいな、と思いました。
山崎さん、シビれる夜をありがとうございました。
https://www.heartbest.net/
ラジオ収録したかったな。
オンラインツルハシに今度出てもらいましょう。
~~~以下メモ
トマス・アクィナスと中動態の話から。
トマス・アクィナスについて
https://www.aiko.ed.jp/contents/chuta/?p=24589
中動態について
https://tsukubajinbun.wordpress.com/2018/07/09/
これ、まさに今直面している
探究の授業とかプロジェクト設計における
「自分」と「社会」の接点の話だなあと。
有意義⇔意義なしという軸=社会(理性)の軸と
快⇔不快という軸=自分(感情)の軸
それぞれの「プロジェクト」は、社会にとって、あるいはひとりひとりにとって
意義(理性)軸と快(感性)軸のグラデーションの中にある。
よく言われるように、
他人が苦手、やりたくない、自分は得意、苦にならないことを仕事にしろって
いうのは、まさにそれ。快(感情)軸が自分にとってプラスなのだ。
探究界隈でよく言われる「課題解決」っていうのは
完全に社会=意義=理性軸で考えていて、
課題解決をファーストにしてしまう違和感はそこにある。
しかしながら、自分=快=感情軸での振り返りだけでは、前に進めない。
マトリクスとして見れば、
縦軸を意義として、上に行くほど有意義であるとする
横軸を快として、右へ行くほど快であるとする
この右上を探していくのがキャリア形成のプロセスである。
そのためにはまず、自分の快軸を認識する必要がある。
だから感情を振り返る必要があるんだ。
「課題解決」(世間一般の意義)ではなく、
自分にとっての快(幸せ)を定義しなければならない。
その方法としてリベラルアーツ的な学びがある。
その「学び」が難しいのは、見た目上、変化しないからではないか。
自分にとっての幸福を定義することは、他者からは見えない。(感じることはできる気がする)
「個別最適化」は評価とは相いれない。
そもそも「評価軸」は、瞬間瞬間に陳腐化(時代遅れ)になっているのではないのか。
必要なのは他者からの評価ではなく、その瞬間、価値を仮定する(実感する)ことなのではないか。
だから、周りの大人たちがやるべきは
「機会」の提供であり、問われるのは機会を保証したか?ということだ。
その機会とは、中動態的に場と一体化して対話をしていくこと。
今月どうだった?来月どうする?の会を大人も高校生もやる。
行動の動機=季節性=委ねる=中動態的
プロセスとして生きていくこと
まなび⇒いとなみ=人生をどうやってつくっていくんだ?=哲学=幸せをどう定義するか?
「セクシープロジェクトで差をつけろ」(トム・ピーターズ)
シビれる⇔クソッたれを毎週3つずつ書く
小山薫堂⇒大学生に名刺を50枚渡す=カッコイイ人に会ったら交換する⇒レポート)
「観察」⇒「対話」⇒「メタ認知」⇒感性(愛)=中動態=身体論
「ふりかえりからのトークフォークダンス」⇒毎月やってもいいかも。
焚き火=人間という現象=一瞬たりとも同じではない
お風呂=身体性の解放
本=意味=インプット=機会
焚火⇒風呂⇒本
雲海を見に行く、とかの身体性の解放
~~~以上メモ
なぜ僕はふたたび本屋になろうとしているのか、少し分かった気がした。
機会を提供すること。
達成と成長ではなく、発見と変容。
それは、有意義性という縦軸と、
快⇔不快という横軸の交点をつくること。
横軸への振れ幅を「リベラルアーツ」と言い、縦軸をより上に行くことを「スキルアップ」と言う。
「キャリア形成」とは、自分が追いかけたい縦軸を見つけることだし、それを実現するのは決してひとりではなくて、チームや場の持ち方が大切になること。
身体としてのヒトと頭脳としてのヒトの交点をつくる。
いや、点じゃなくて、ひたすらにグラデーションなんだけどね。
その区分のあいまいな領域に、僕は行きたいのかもしれないなあと。
締めくくりは「ブルーハーツ 街」でした。
https://www.youtube.com/watch?v=WPjrBpmeeSE
いつか会えるよ
同じ涙をこらえきれぬ友達と
きっと会えるよ
右手と左手で何ができるだろう。
命のある限り忘れてはいけない。
今しか僕にしか出来ないことがある
~~~
いいですね。
きっと会えるし、
今しか僕にしか、僕たちでしか、この場所でしか、できないことがあるんだよ。
そんな「まなび」という営みができたらいいな、と思いました。
山崎さん、シビれる夜をありがとうございました。