2022年01月06日
直線的に進まなくなった世の中でどう学ぶか
新型コロナウイルスに覆われた社会が教えてくれたこと。
世界は直線的に進まない、ということ。
それははるか昔からそうだったのだけど、
近代科学と近代工業社会とそれに付随する近代教育は、
その効率性と計画性と再現可能性などのメリットから、
「直線的な発展」に最適化したシステムを構築してきた。
そのメリットが失われた2年間だったと思っている。
「生きることの豊かさを見つけるための哲学」(斉藤孝 トランスビュー)
では、ひたすら「身体性」、特に日本的な身体の使い方の大切さが説かれている。
~~~
二人の人間が出会うということは、息と息が出会うということです。他者と私が関わりあい、その場にある雰囲気が生まれるということは、互いの息が影響を受けあっているのです。
複数人の共同作業が上手くいくことを「息が合う」と言いますが、まさに呼吸のリズムというのは関係性を如実に表すものなのです。逆に、同じ空間にいたとしてもその人たちの息がまるで影響し合っていないとしたら、彼らは深い関係性にあるとは言えません。
身体とは自分のものでありながら、個人に閉じているのではなく、関係性を生きているものです。その身体が変わるということは、関係性が変わるということなのです。
こうして見てくると、すべての芸術や表現が関係性の中で成り立っているようにも思えてきます。考えてみれば、表現はそれを受け取る人がいなければ意味がありませんから、必然的に表現者と受け手との関係が生まれます。
~~~
うんうん。この本はちょっと読みにくかったので、特にオススメはしないのですが、身体性とか関係性の大切さを説明していることはすごく感じました。
あらためて。本屋であり、温泉であり、寮であり、
これからつくっていく「場」というリアルなメディアについて
http://hero.niiblo.jp/e486304.html
メディアの力とは予言の自己実現能力のこと(17.11.17)
メディアをひもとく3つのキーワード
ストックとフロー
権威性と参加性
リニアとノンリニア(線形と非線形)
この絶妙なバランスが問われているのです。
ビジネスで言えば、コロナによって、
フロー客を相手にしてきた大手チェーン居酒屋は勢いを失い、
苦しい時に支えてくれるストック客こそが価値だと知った。
直接的に進まなくなった世の中で何ができるのか?
そして、まなびの場はどう変わるのか?
昨日、とある先生とお話しして盛り上がったのが
「LHR:ロングホームルーム(通称ロング)」の話。
ロング何やってます?って聞きたいのだと。
ロングの時間にやらなきゃいけないこともあるのだけど、時数にして半分くらいは教師に委ねられている。
もしかしたら、地域の人達と協働したほうがいいのは、探究より前にロングかもしれないな、って思った。
昨日思いついたこと
・「まわしよみ新聞」⇒ヤフーニュースの見出しつくり
・ラジオ(音声)による発信・録音
・ふりかえりシートは選択肢つくる
・TikTokなど動画での本紹介を見せる
・探究はゼミ制度でやる
とこんな感じかな。いちばんアツかったのは、ロングという「評価を前提としない場」が学校にも存在している、ということ。高校生のプロジェクト発表で感じていた違和感。実は「探究」がすでに評価対象となっている、ということ。マイプロジェクトアワードは慶応SFCの入試の要件にもすでになっている。
当然、評価されることが目的ではない。課題を発見し、プロジェクトを構築し、実践し、振り返り、また次の探究へと向かう。そのサイクルこそが目的であるはずなのだが、アワード化した瞬間に、そこに「評価」という魔の手が忍び寄る。
アイデンティティ不安から、どうやったら認められるかを追求してきた子どもたちがその舞台に立たされた時に、自分を出発点にすることが本当にできるのだろうか。
僕が感じていた違和感はそこにあるのかもしれない。
評価を前提としない創造的なまなびの「場」をつくらないといけない。それは僕の言葉で言えば、発見と変容の「場」ということになるのだろう。それは学校内でもつくることができて、それがLHRだと思った。
ひとまず、これからやりたいことは、
・高校教員とつくるロングホームルーム研究会
・週1の温泉ゼミ(食、歴史、文化・・・)
そこにいる生徒やお客さんとフラットな関係でおそるおそる差し出すような、そんな時間と空間を作ってみたいなと思います。
直線的に進まなくなった世の中で、「挑戦」するな、「実験」しよう。
世界は直線的に進まない、ということ。
それははるか昔からそうだったのだけど、
近代科学と近代工業社会とそれに付随する近代教育は、
その効率性と計画性と再現可能性などのメリットから、
「直線的な発展」に最適化したシステムを構築してきた。
そのメリットが失われた2年間だったと思っている。
「生きることの豊かさを見つけるための哲学」(斉藤孝 トランスビュー)
では、ひたすら「身体性」、特に日本的な身体の使い方の大切さが説かれている。
~~~
二人の人間が出会うということは、息と息が出会うということです。他者と私が関わりあい、その場にある雰囲気が生まれるということは、互いの息が影響を受けあっているのです。
複数人の共同作業が上手くいくことを「息が合う」と言いますが、まさに呼吸のリズムというのは関係性を如実に表すものなのです。逆に、同じ空間にいたとしてもその人たちの息がまるで影響し合っていないとしたら、彼らは深い関係性にあるとは言えません。
身体とは自分のものでありながら、個人に閉じているのではなく、関係性を生きているものです。その身体が変わるということは、関係性が変わるということなのです。
こうして見てくると、すべての芸術や表現が関係性の中で成り立っているようにも思えてきます。考えてみれば、表現はそれを受け取る人がいなければ意味がありませんから、必然的に表現者と受け手との関係が生まれます。
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うんうん。この本はちょっと読みにくかったので、特にオススメはしないのですが、身体性とか関係性の大切さを説明していることはすごく感じました。
あらためて。本屋であり、温泉であり、寮であり、
これからつくっていく「場」というリアルなメディアについて
http://hero.niiblo.jp/e486304.html
メディアの力とは予言の自己実現能力のこと(17.11.17)
メディアをひもとく3つのキーワード
ストックとフロー
権威性と参加性
リニアとノンリニア(線形と非線形)
この絶妙なバランスが問われているのです。
ビジネスで言えば、コロナによって、
フロー客を相手にしてきた大手チェーン居酒屋は勢いを失い、
苦しい時に支えてくれるストック客こそが価値だと知った。
直接的に進まなくなった世の中で何ができるのか?
そして、まなびの場はどう変わるのか?
昨日、とある先生とお話しして盛り上がったのが
「LHR:ロングホームルーム(通称ロング)」の話。
ロング何やってます?って聞きたいのだと。
ロングの時間にやらなきゃいけないこともあるのだけど、時数にして半分くらいは教師に委ねられている。
もしかしたら、地域の人達と協働したほうがいいのは、探究より前にロングかもしれないな、って思った。
昨日思いついたこと
・「まわしよみ新聞」⇒ヤフーニュースの見出しつくり
・ラジオ(音声)による発信・録音
・ふりかえりシートは選択肢つくる
・TikTokなど動画での本紹介を見せる
・探究はゼミ制度でやる
とこんな感じかな。いちばんアツかったのは、ロングという「評価を前提としない場」が学校にも存在している、ということ。高校生のプロジェクト発表で感じていた違和感。実は「探究」がすでに評価対象となっている、ということ。マイプロジェクトアワードは慶応SFCの入試の要件にもすでになっている。
当然、評価されることが目的ではない。課題を発見し、プロジェクトを構築し、実践し、振り返り、また次の探究へと向かう。そのサイクルこそが目的であるはずなのだが、アワード化した瞬間に、そこに「評価」という魔の手が忍び寄る。
アイデンティティ不安から、どうやったら認められるかを追求してきた子どもたちがその舞台に立たされた時に、自分を出発点にすることが本当にできるのだろうか。
僕が感じていた違和感はそこにあるのかもしれない。
評価を前提としない創造的なまなびの「場」をつくらないといけない。それは僕の言葉で言えば、発見と変容の「場」ということになるのだろう。それは学校内でもつくることができて、それがLHRだと思った。
ひとまず、これからやりたいことは、
・高校教員とつくるロングホームルーム研究会
・週1の温泉ゼミ(食、歴史、文化・・・)
そこにいる生徒やお客さんとフラットな関係でおそるおそる差し出すような、そんな時間と空間を作ってみたいなと思います。
直線的に進まなくなった世の中で、「挑戦」するな、「実験」しよう。