2022年01月12日
「課題を発見し、ニーズに応え、期待値を超える」の外側
「課題」を発見し、「ニーズ」に応え、「期待値」を超える。
ビジネスの基本だろうと思う。新入社員によく言われる「120%理論=ニーズを2割上回るパフォーマンスを出せ」も同じ理屈だ。
これを3段階に分解してみる。
1 「課題」の発見
2 「課題解決」(ニーズ)に応える
3 「期待値」を超える
かつて、工業を中心とした製造業は、ひたすらに2をやってきた。
そのためには明らかな「1 課題」があった。
ところが。
時が過ぎ、工業的な明らかな「課題」が解決されてしまった。
隷属子も洗濯機もパソコンも携帯電話も行きわたってしまった。
付与すべき機能はもはやない。
(「アイデア資本主義」的に言えば、フロンティアが喪失した)
サービス業化した社会の中で、
1「課題」の発見と3「期待値」を超えるが大切になった。
リッツカールトンイズムとでも呼ぼうか。
お客様の忘れ物を新幹線に乗って追いかけて届ける、みたいな。
1 「課題」の発見
2 「課題解決」(ニーズ)に応える
3 「期待値」を超える
僕たちは、それが仕事だと信じている世界に生きている。だから、学校でも、課題解決型学習に取り組む。大切なことは自分の頭で考えることで、課題を発見することで、かつそれを「ジブンゴト」として取り組んで解決していくこと、さらにこれまでにないパフォーマンスを見せ、成果を上げるんだ、と。
本当だろうか?
昨年の今頃に読んだ本、「ひとはなぜ「認められたい」のか ―承認不安を生きる知恵」 (山竹伸二 ちくま新書)
http://hero.niiblo.jp/e491364.html
参考:「承認」不安とアイデンティティ(21.1.18)
~~~あらためて引用
近代以前なら、共通の社会規範・価値観によってアイデンティティも明確でしたが、そうした大きな価値観がなくなると、私たちは根無し草のようになり、自分が何者なのかを自分で探し求めなければなりません。しかも、自由な社会であるはずなのに、「自分らしく生きろ」とか「個性が大事だ」などといわれながら、独自のアイデンティティを見出す必要性に迫られています。
哲学者のチャールズ・テイラーも、近代以前は「アイデンティティが、それとした主題化されるに値するほどの疑わしさを持たなかった」が、近代ではアイデンティティが他者との対話的な関係、承認に依存するようになったのだと述べています。「内面において生み出されるアイデンティティの理念の発展が承認に新たな重要性を付与するのは、このゆえである」というのです。
このように現代は自分の固有性・独自性を他者に認めてもらわなければ、自分のアイデンティティがはっきりしない時代です。そのため、他人の目を気にし、周囲の評価に怯えるばかりで、なかなか自由に行動することができなくなっています。もはや私たちは、社会的な価値観に制約されず、社会の評価、承認をさほど怖れてはいないのですが、身の回りにいる人々に対しては、強い承認不安を抱いているのです。
~~~ここまで引用
この「承認」不安、アイデンティティの危機の時代に、
1 「課題」の発見
2 「課題解決」(ニーズ)に応える
3 「期待値」を超える
このモデルを採用し続けていていいのか?
価値が明らかな「社会的課題」を題材にプロジェクト学習を始めていいのか?
先日の「プロセスエコノミー」の話のように、
~~~
家族、ご近所、会社という三大所属先がすべて希薄化し、「どこかのグループに所属したい」という所属欲求を満たすことを消費活動にも求めるようになってきているのです。
人々は商品そのものだけでなく、そのブランドのメッセージに自分の生き方を重ね合わせているのです。そしてそれはアウトプットに至るまでのプロセスの共有においてなされるのです。
変化の時代では、最初に決めた戦略は自分を狭めますが、手の中にいる小さな鳥から始めた冒険の末に見つかったゴールや仲間は自分らしさを広げてくれるのです。
~~~
こういうことを志向していくことが必要なのではないか。
つまり。「自分」を知る、ということ。
昨日の話で言えば、「自分の輪郭」を知るということ。
自分と社会とのあいだにおそるおそる「プロジェクト」を差し出し、参加・参画・実行すること。
「なんのためにやるの?」と問われて答えられないような感覚で動いてみること。
お客と自分を観察すること。
空気感を感じること。
ニーズを喪失した時代に必要なのは、
「ミッションに基づく直感で決める」という経験の繰り返しだ。
参考:17.12.5
http://hero.niiblo.jp/e486453.html
~~~
正しく論理的・理性的に情報処理するということは、「他人と同じ正解を出す」ということでもあるわけですから、必然的に「差別化の消失」という問題を招くことになります。
「科学的に検証できない」ということは、「真偽がはっきりしていない」ということを意味するだけで、その命題が「偽」であることを意味しません。
歴史を振り返ってみれば、過去の優れた意思決定の多くは、意外なことに感性や直感に基づいてなされていることが多いということです。
~~~
たぶん、これ。
「感性や直感で意思決定する」こと。
そのベースとなる価値観、哲学、ミッションを見つけていくこと。
そのミッションを世間が評価する何か(たとえばSDGs)に委ねないこと。
ミッションは何か
顧客は誰か
顧客にとっての価値は何か
をひたすら、ひたすら問い続けていくこと。
「自分を経営する」ってそういうところから始まるのだろう、と思っています。
僕たちが強く身体化(内部化)している、
1 「課題」の発見
2 「課題解決」(ニーズ)に応える
3 「期待値」を超える
のフレームの外側に、プロジェクトをつくれないだろうか。
ビジネスの基本だろうと思う。新入社員によく言われる「120%理論=ニーズを2割上回るパフォーマンスを出せ」も同じ理屈だ。
これを3段階に分解してみる。
1 「課題」の発見
2 「課題解決」(ニーズ)に応える
3 「期待値」を超える
かつて、工業を中心とした製造業は、ひたすらに2をやってきた。
そのためには明らかな「1 課題」があった。
ところが。
時が過ぎ、工業的な明らかな「課題」が解決されてしまった。
隷属子も洗濯機もパソコンも携帯電話も行きわたってしまった。
付与すべき機能はもはやない。
(「アイデア資本主義」的に言えば、フロンティアが喪失した)
サービス業化した社会の中で、
1「課題」の発見と3「期待値」を超えるが大切になった。
リッツカールトンイズムとでも呼ぼうか。
お客様の忘れ物を新幹線に乗って追いかけて届ける、みたいな。
1 「課題」の発見
2 「課題解決」(ニーズ)に応える
3 「期待値」を超える
僕たちは、それが仕事だと信じている世界に生きている。だから、学校でも、課題解決型学習に取り組む。大切なことは自分の頭で考えることで、課題を発見することで、かつそれを「ジブンゴト」として取り組んで解決していくこと、さらにこれまでにないパフォーマンスを見せ、成果を上げるんだ、と。
本当だろうか?
昨年の今頃に読んだ本、「ひとはなぜ「認められたい」のか ―承認不安を生きる知恵」 (山竹伸二 ちくま新書)
http://hero.niiblo.jp/e491364.html
参考:「承認」不安とアイデンティティ(21.1.18)
~~~あらためて引用
近代以前なら、共通の社会規範・価値観によってアイデンティティも明確でしたが、そうした大きな価値観がなくなると、私たちは根無し草のようになり、自分が何者なのかを自分で探し求めなければなりません。しかも、自由な社会であるはずなのに、「自分らしく生きろ」とか「個性が大事だ」などといわれながら、独自のアイデンティティを見出す必要性に迫られています。
哲学者のチャールズ・テイラーも、近代以前は「アイデンティティが、それとした主題化されるに値するほどの疑わしさを持たなかった」が、近代ではアイデンティティが他者との対話的な関係、承認に依存するようになったのだと述べています。「内面において生み出されるアイデンティティの理念の発展が承認に新たな重要性を付与するのは、このゆえである」というのです。
このように現代は自分の固有性・独自性を他者に認めてもらわなければ、自分のアイデンティティがはっきりしない時代です。そのため、他人の目を気にし、周囲の評価に怯えるばかりで、なかなか自由に行動することができなくなっています。もはや私たちは、社会的な価値観に制約されず、社会の評価、承認をさほど怖れてはいないのですが、身の回りにいる人々に対しては、強い承認不安を抱いているのです。
~~~ここまで引用
この「承認」不安、アイデンティティの危機の時代に、
1 「課題」の発見
2 「課題解決」(ニーズ)に応える
3 「期待値」を超える
このモデルを採用し続けていていいのか?
価値が明らかな「社会的課題」を題材にプロジェクト学習を始めていいのか?
先日の「プロセスエコノミー」の話のように、
~~~
家族、ご近所、会社という三大所属先がすべて希薄化し、「どこかのグループに所属したい」という所属欲求を満たすことを消費活動にも求めるようになってきているのです。
人々は商品そのものだけでなく、そのブランドのメッセージに自分の生き方を重ね合わせているのです。そしてそれはアウトプットに至るまでのプロセスの共有においてなされるのです。
変化の時代では、最初に決めた戦略は自分を狭めますが、手の中にいる小さな鳥から始めた冒険の末に見つかったゴールや仲間は自分らしさを広げてくれるのです。
~~~
こういうことを志向していくことが必要なのではないか。
つまり。「自分」を知る、ということ。
昨日の話で言えば、「自分の輪郭」を知るということ。
自分と社会とのあいだにおそるおそる「プロジェクト」を差し出し、参加・参画・実行すること。
「なんのためにやるの?」と問われて答えられないような感覚で動いてみること。
お客と自分を観察すること。
空気感を感じること。
ニーズを喪失した時代に必要なのは、
「ミッションに基づく直感で決める」という経験の繰り返しだ。
参考:17.12.5
http://hero.niiblo.jp/e486453.html
~~~
正しく論理的・理性的に情報処理するということは、「他人と同じ正解を出す」ということでもあるわけですから、必然的に「差別化の消失」という問題を招くことになります。
「科学的に検証できない」ということは、「真偽がはっきりしていない」ということを意味するだけで、その命題が「偽」であることを意味しません。
歴史を振り返ってみれば、過去の優れた意思決定の多くは、意外なことに感性や直感に基づいてなされていることが多いということです。
~~~
たぶん、これ。
「感性や直感で意思決定する」こと。
そのベースとなる価値観、哲学、ミッションを見つけていくこと。
そのミッションを世間が評価する何か(たとえばSDGs)に委ねないこと。
ミッションは何か
顧客は誰か
顧客にとっての価値は何か
をひたすら、ひたすら問い続けていくこと。
「自分を経営する」ってそういうところから始まるのだろう、と思っています。
僕たちが強く身体化(内部化)している、
1 「課題」の発見
2 「課題解決」(ニーズ)に応える
3 「期待値」を超える
のフレームの外側に、プロジェクトをつくれないだろうか。